English

6つの眼差しと〈倫理マシーン〉


事例討論:フェアユース運動の画期的な成功
対談:映画監督と倫理/ディスカッション:6つの眼差しと倫理/ディスカッション:震災映画と倫理


倫理という道具箱

 映画作家がカメラの前の人々に同意を求める義務が生じるのは、どんな時だろうか。被写体となる人々は、自分たちが同意している事柄がいかなる性質のものかについて、どの程度知る必要があるだろう。自分の顔、自分の語る言葉、あるいは創作物に対し、彼らはどんな権利を有するのか。言い換えれば、映画作家が被写体に対して持つ責任とは、いかなるものなのか。観客に対する責任は? 製作元や配給元に対しては? こうした事柄について、映画祭が観客や招聘作家に対して果たすべき責任とは何だろうか。

眼差しの政治と倫理

 本年の映画祭では世界から監督や研究者が集い、あらゆるドキュメンタリー作家が目の当たりにしている倫理的な課題、にわかには解きがたい難問を探求する。期間中、幅広い観点から検討していくなかでキーワードとなりそうなものを以下に列挙しておこう。

 法的な、あるいはそうでないものも含めた責任、仕込み、再現演出、やらせ、インフォームド・コンセント、権力、安全、賠償、文化的差異への配慮、検閲、フェアユース、管理、権利、決定権の共有、などがそれである。おそらくは映画祭期間を通じて、会場でのディスカッション、さらにまた夜の香味庵クラブで議論が深められることで、より多くの問題が浮上してくるだろう。

 もちろん、こうした問題群はフィクション映画の世界でも俎上に載せられるものである。とはいえここでは、ドキュメンタリーに独自の問題があると考えたい。フィクションの物語を作ることと、生きられた現実に足を踏み入れ、そこで相対する人間(あるいは他の生物)と交わりながら集めた映像と音を、のちにドキュメンタリー映画の時間と空間のなかに再−現前させることとは、全くの別物である。肝要なのは、私たちがともに分かち合う世界のなかで映画作家がいかに振舞うのか、ということだ。ノンフィクション映画を観る私たちは、ビル・ニコルズがその忘れがたい文章で語ったように、作品を作った人間がこの歴史世界といかなる態度で関わっているのかと問わざるを得ない。ニコルズ曰く、「観る者はあるイメージのなかに、眼差しの政治と倫理を意識せずにはいられない。イメージには、それを作り出した倫理観を指し示すような繋がりが存在する」。

 つまりこういうことだ。作り手が考えていようがいまいが、その倫理観は、カメラのアングル、被写体に向けられた質問、素材にどう手を入れるかの一つひとつ――撮影、編集、発表の仕方に至るまで、その複雑きわまるプロセスにあって彼らが下すあらゆる決定のなかに書き込まれている。これは別の見方をすれば、ドキュメンタリーには客観性があるとする単純な主張を退けるものである。あらゆるドキュメンタリーは、まさにその時間と空間のなかに、ある倫理的な――非倫理的であることもあるが――スタンスが示されている、というのはそうした意味においてなのだ。

 私たちはこれからヤマガタに集い、数本の範例的な作品をじっくりと鑑賞しつつ、これらの作品やその作り手が、映画を作ること、観ることの両面について何を訴えかけているのかを議論していくことになる。このプログラムの中心をなすディスカッションは、ビル・ニコルズとヴィヴィアン・ソブチャックの著作に想を得、ドキュメンタリーの時空を構成する建築に組み込まれている6つの「眼差し」をめぐって行われる。

6つの眼差し

●世界に向かっていく眼差し
〈介入する眼差し〉
 何らかの危機にある人々の撮影で、映画作家が身を乗り出し、カメラの前の現実と能動的に関係を結ぼうとする場合。その行動が無責任だと、ときに観る者から厳しい批判をされることもある。
〈人道的な眼差し〉
 被写体への感情移入、世のためを思う動機に支えられている撮影。身を守るために、映画作家は被写体との関係に一定の距離を置くこともある。
〈プロフェッショナルな眼差し〉
 客観性を標榜し、世界から一歩引いた曖昧な立場の撮影。医療、警察、軍などの持つ倫理コードと結びついていることもある。

●関係性の眼差し
〈偶発的な眼差し〉
 探究意欲に導かれ、偶然撮れてしまった映像。ときに病的な好奇心やサディスティックな窃視の欲望といったものまで含む。
〈無力な眼差し〉
 カメラを向けた先の事象に対して直接的には無力だが、共感の倫理に基づいているため、映したものを公開することで暴力や不正に対する批判となる。
〈危機にさらされた眼差し〉
 作家はリスクを冒し、世界をより安全なものにするために勇を鼓し撮影を敢行する。

 言うまでもなく、これらの眼差しは、実際には多様に組み合わされたかたちで表れてくる。単一の眼差しが優位に表れる作品もあれば、ある眼差しから別の眼差しへと移行していく作品もある。映画祭中のディスカッションは、世界の映画や歴史的瞬間を記録した映像から抜粋したクリップを使い進められる予定だ。

 加えて、さらに3つのイベントを予定している。ドキュメンタリー映画の活性化と健全な民主主義にとって重要な倫理的課題たる「フェアユース(著作物の公正な使用)」を考察するセッション。様々な倫理の問題をはらむ2人の監督の対談(ジョシュア・オッペンハイマーと原一男)。そして、「ともにあるCinema with Us 2013」の監督たちとともに、2011年3月11日より今なお続く3つの災害を扱う映画製作への、個々の取り組みについて話し合う会が予定されている。

 最後に、今回上映される作品について触れておきたい。数は少ないが、ここで私たちが取り上げ、その複雑な様相をあるがままに評価する7つの作品は、私たちがドキュメンタリーの倫理について思考するきっかけを与えてくれたものである。ここには、バッシングを招くような作品は扱わない。この企画は、口喧しい批判が飛び交い、独善的な態度が横行するようなものではない。むしろここで扱う作品は、ドキュメンタリーという芸術を強く印象づける力作であり、観る者である私たちに問いを発し、ドキュメンタリーの倫理が一筋縄ではいかないことを、その複雑な様相のままに評価するよう促してくれるものなのである。したがって、企画者たる私たちのスタンスは、倫理とは、作り手に道具を提供する道具箱だ、というものである。自らの実践にある倫理的な次元に取り組むことで、作家はより力に溢れ、より複雑な、より満足のいく映画を生み出してくれるだろう。

阿部マーク・ノーネス、藤岡朝子(プログラム・コーディネーター)