「ドキュメンタリー:フィクション、未来、期待」
ロバート・クレイマー
常識が我々を導いてくれた時代には、ものごとはより単純に見えた。我々の身の回りでは、あるいはこの惑星の上では、あるいはこの宇宙では、固体は散文とは違って見えるはずであり、物理的現象は完全に予測可能であり(ゆえに革命とは科学的な仕事である)、そこには何らかの意味があるはずで、だからすべてを客観的に観察することができる。
すべてが実はより複雑であることが分った。そしてだからこそ、より興味深いことも。そこで「ドキュメンタリー/フィクション」という問いも。あるのは映画だけだ。短かいものもあり、長いものもある。テレビ向けに作られたものもある。70mmで作られたものもあれば、8mm・ビデオで撮られたものもある。なかには、本来の目的が喜ばれ、楽しまれることであるため、人気を集める。そうでないものもある。なかには、映像/音響の使用によって、映画であることを示す。他のものはフォト・ロマン(写真小説)のようだ。突き詰めれば、そこにはいい映画と悪い映画があるだけだ。
我々を取り囲む世界についての本物の好奇心は常に、真剣に生きていることなのだ。真剣に? つまり意味のある先見や生き延びること、消費すること、キャリアを作ること、意外な道筋に向かう経験、過程や冒険、継続する発見や我々がどのように生きれば一番いいかという人間を惑わし続ける質問のまわりを旋回するダンス。我々ひとりひとりを定義付けるそれぞれが具体的に必要としていることとは離れて、我々の限界を変化させ続けていくことへの決意こそは賞讃すべきである。なぜならそれが真の人間的な行為だからであり、我々の集合的経験全体を再肯定していっそう豊かにすることだからだ。
真のなすべきことが発見と探究であるとき、現実の世界は決して遠いものにはならない。もし仕事が嘘をつくこと、隠蔽すること、ごまかすこと、騙すこと、あるいはただ単に何かを――考え方であるか、製品であるかを――売り付けることであるなら、本当の経験からは必然的に距離が生まれる。それは編集され、整理され、単純化され、理想化されるものだ。最後に頼りになる形はいつだって宣伝広告とメロドラマだ。
「ドキュメンタリー」がそのいい意味での擁護者たちにとって持って来た意味の将来は、探究する、自分の誤りに直面しても諦めないという人間の本能の生き残りと、妥協しがたい政治的・経済的・エコロジー的な圧力の連鎖にかかっている。危機的状況にあるのは「ドキュメンタリー」や映画や、それを言うなら文化そのものではない。危機に直面しているのは現実の、あるいは想定される限界の狭量さを超えて考え行動する我々の能力そのものなのだ。
期待? 山形国際ドキュメンタリー映画祭? これだけ限定された闘技場にこれだけの映画作家がいることは、普通ならあり得ない。もしこの決定的な集合が映画作家たち自身の意志を強めるのに役立つのなら、そしてそのエネルギーが参加する人々全員に伝えるのなら、それだけでこの映画祭は大成功だ。
様々な不足が存在するなかでも、開放的に、自由に、そしてさらに躊躇せずに「映像的芸術に加えて感情的約束と人間の精神への追求」を育っている状況で出会う機会は次第に少なくなってきている。
1989年10月10日山形市グランドホテルにて
(YIDFF '89 Daily Bulletin より再翻訳にて再掲載)