ヨリス・イヴェンスと
ドキュメンタリーの発展
“映画史における最初のドキュメンタリー”にこだわらないなら、1920年代のドキュメンタリーの開始と成長について幾つかの事柄について論じることができる。そして、とりわけドキュメンタリーの“目的”、例えば知識を与えるだけでなく、教育する、喚起する、心を動かす、現実を解釈するといった目的を考慮するなら、20年代後期について言及したい気になる。ロバート・フラハティとジガ・ヴェルトフはその“目的”に近いところに来ているという点で、彼らをドキュメンタリーの先駆者と呼ぶことができるし、また呼ぶべきであろう。両者とも素材に加えて、確かな創造性を示し、グリアソンのドキュメンタリーの定義を“現実に対する創造的な解釈”へと定義を置き換えた。フラハティは『極北のナヌーク』(1922)や『モアナ』(1926)で、過去の現実をある種創造的に作り出している。ヴェルトフは『キノ・グラース』(1924)で現実を創造的に再構成した。だが、今日の我々が知る創造的なドキュメンタリーの形式は、1920年代後期の社会的な発展への芸術的、政治的な反応として、20年代後期に徐々に発展したのだ。自身、初期のドキュメンタリー監督だったポール・ローサは、その点を手際よく述べている。
我々が“ドキュメンタリー”と呼んでいるものは、映画史のいかなる時にも明確な映画製作方法として現れてこなかった。ある特定の映画が製作され、映画の新しい概念が突然明白になった訳でもなかった。むしろドキュメンタリーは、唯物論的理由のために時を経て発達してきた。アマチュアの努力の結果のためでもあり、プロパガンダ主義者の目的に奉仕するためでもあり、唯美主義のためでもあった。20
この発展が勢いづいたのは、ヨーロッパのアヴァンギャルド運動の最中であり、1929年から1933年の大恐慌とそれに続く1930年代の政治の危機との関わりにおいてである。21 この美学的な運動はハリウッドの支配に対抗するものだったが、その後のドキュメンタリー監督の多くにとっては、社会的、政治的な不満がより大きな焦点となった。これは特にヨリス・イヴェンスに当てはまる。
当初は多くが美学に基づいており、我々のほとんどがハリウッドに強く反発していた。とりわけサウンド映画が始まる前は、ハリウッドは安っぽい物語の感傷的な面と、性的な面を強調している、と考えていた。我々の意見では、それらは現実からあまりに遠く離れていた。ヨーロッパの学生、芸術家と青年は非常に強く、論理的に反発し、そういったものに背を向け現実に基づいて作品を作るべきだと考えた。そして、それがドキュメンタリー映画の始まりだったのだ。22
ウィリアム・アレクサンダーによれば、イヴェンスがアメリカに1936年に行った時携えた彼の映画は、アメリカの映画監督たちに衝撃を与えたという。「これまで当地のいかなるドキュメンタリー映画も、映画の目的を達成するのにこれ程までに、興奮させ、刺激的で、精力的で、強力で、目覚しかったことはなかった」。イヴェンスの映画は「単なる記録を超えた創造、単なるフィクションを超えた興奮と豊かさがある」といった風だ。23 彼の映画は観客に、当時の他の有名なドキュメンタリー監督の作品以上の刺激を与えたが、他の作品の試金石となったか言うのは難しい。ドキュメンタリー監督は相互に影響しあい、ヨリス・イヴェンスの映画は、1930年代に形成され、40年代と50年代にその当時の“偉大なドキュメンタリー監督”によってさらに明確にされていくドキュメンタリーの観念に合っていた。この系譜に連なる監督として、グリアソンの映画ユニット(たとえば『夜行郵便』)、『河』(1937)のペア・ロレンツ、『ルイジアナ物語』(1948)のフラハティ、『英国に聞け』(1942)のハンフリー・ジェニングス、そして勿論、『スペインの大地』(1937)と『動力と大地』(1941)のヨリス・イヴェンスが挙げられる。しかし、この観念の形成と具体化にイヴェンスが重要な役割を果たしたのは、(革新者というより、芸術家として熟練した)1950年代よりも、30年代と40年代である。
実際1950年代以降のヨリス・イヴェンスのドキュメンタリーへの貢献は、もはや新しい表現形態の創造者のそれではなかった。けれでも依然、その他の点では重要な貢献をしていた。軽量の同期録音可能な16mmカメラといった新しい技術の到来で、イヴェンスは先駆者ではなくなったが、(時に他の監督からは軽視された)これらの技術に熟達し、専門的に用いて、素晴らしい映画を作り続けていた。それは、共に作業に当たり、大きく貢献したマルセリーヌ・ロリダンのおかげでもある。当初イヴェンスは、ダイレクト・シネマやシネマ・ヴェリテが見せた新しい技術に対していささか消極的だった。
観察をすばやく行い、機動力が増す可能性と共に、真実の表面にとどまり、現実を見透かす代わりに表面だけを掬い取り、力、勇気、創造力を全く欠いた現実を提示するといった危険があるという事実に、常に留意すべきである。最初に表現しようと企てた真実への道を見失う危険についても、意識的である必要がある。丹念な記録と知的な分析によって真実を表現するために、まず最初に真実を強く求めることが重要なのだ。なぜなら、本当の真実はしばしば隠れているからである。24
マルセリーヌ・ロリダンとヨリス・イヴェンスは、こうした意識を『北緯17度』(1968)で示した。この映画には力強い撮影と、直接現場で入れた音と同期録音された音のすぐれた技術による結合が見られる。このように彼らは、新しい技術のより意識的な使用法を導入したが、これらの技術はかなり一般的になり、扱いが容易になると同時にプロ意識を危うくさせることとなった。他方で、新しい技術は安価でもあった故に、多くの人々が手にすることができた。これが60年代の数々のドキュメンタリーに影響を与え、政治闘争映画の運動では長年の経験のために、再びイヴェンスは(特にフランスで)他の模範となった。この時彼が貢献したのは、革新者としてではなく、啓発者としてだった。クリス・マルケルと共に、彼は政治的、闘争的な映画の代表的人物の1人となる。ロリダンらと一緒に彼は集団を組織し、例えば、ヴェトナムについては、『Le Ciel, la terre (空・大地)』(1966)、『北緯17度』、クリス・マルケルらと共に『ベトナムから遠く離れて』(1967)を、ラオスについては、『Le Peuple et ses fusils (人民とその銃)』(1970)、といった映画による申し立てを行った。
最後の映画『風の物語』(1988)では、事実と虚構の要素を組み合わせ、マルセリーヌ・ロリダンと共にヨリス・イヴェンスは、ドキュメンタリー映画の形式に再度の、しかし最後の貢献を果たした。クリス・マルケルが、特に『サン・ソレイユ』(1984)で、既にこの種の個人映画を実現していたが、『風の物語』は、イヴェンスの死を間近にして、これを限界にまで押し進めた。イヴェンス自身の人生と作品、20世紀の世界における変動の歴史についてだけでなく、ドキュメンタリー、真実とジャンルの境界についても思考が張り巡らされた作品だった。
イヴェンスの“情熱に基づく信念”と“歴史的経験”は、『雨』と共に彼のアヴァンギャルド映画監督としての出発点とされる『橋』から数本後の作品において、明示された。1929年に、彼は(共産党員の)レオ・ファン・ラケルヴェルドと初めて社会に関与した映画『Arm Drenthe (哀れなるドレンテ)』を製作したが、これは(フィルムが紛失したと考えられているので)恐らく、クラカウアーの人類の苦しみを伝える力を持つのは公平な報道であるという主張をよく例証するものであろう。25 「失業がいたるところで発生している。働きながらも、芝、材木、容器、ボール箱でできたあばら屋に住むことを余儀なくされている者もいる。住むための、そして寝るための場所といえば、10人か12人が1つの狭苦しい小部屋に入っている状態だ。最も必要な食料の不足のため、足の不自由な病気や結核が発生している。ここの人間が被っている悲劇は筆舌に尽くし難い」。26
けれどもイヴェンスが政治に関与し、社会主義者で、革命的な映画監督になったことは論理的に見て当然の帰結だったのだろうか。少なくとも彼をこのようにさせたのは、彼が受けた教育ではない。
ケース・イヴェンスとドラ・ムスケンスのカトリックの両親の次男として、ヨリス・イヴェンスは手厚く保護されながらもリベラルな教育を享受していた。イヴェンスの家族はナイメヘンの住民の中でも、またケース・イヴェンスの商売であった写真業界でも、進取の気性に富んでいた。写真の世界の最新の技術的発展は、CAPIの店(ケース・イヴェンスのフルネームであるCornelius Adrian Peter Ivensから頭文字をとった)で見つけることができたし、それは映画においても同様だった。ヨリス(当時はまだジョージと呼ばれていた)が早い段階で、映画メディアに接触したのも驚くべきことではない。13歳で既に最初の映画『ウィグワム―燃える矢』を製作しており、このアメリカの先住民の物語には、イヴェンス一家が総出演している。当時のイヴェンスは、映画監督になろうとは考えていなかった。右肩上がりで繁盛していた父の写真販売の仕事に就くつもりで、そのために必要な教育を受けることになる。ロッテルダム商業大学で経済を、ベルリンで写 真工学を学び、イカ、ツァイス、アーネマンで見習いとして働いた。
ベルリンでヨリス・イヴェンスはゲルメンヌ・クラルと出会い、実験映画の精神と左翼の革命運動に触れるようになる。1920年代のベルリンは左翼アヴァンギャルドの文化的、政治的中心地であった。ヨリス・イヴェンスをその輪に巻き込んだのはゲルメンヌ・クラルだったが、イヴェンスが影響されたのはこの友人のアナーキズムではなく、社会主義の観念だった。彼らが見た映画はと言えば、ドイツ表現主義の映画であり、ワルター・ルットマンの実験映画である。これらの文化的、政治的経験を携え、ヨリス・イヴェンスはオランダに戻り、CAPIのアムステルダム支店で技術部長として、後には総支配人として働いた。
それまでヨリス・イヴェンスが映画作家になることを示すものは、ほとんどなかった。確かに1920年代に彼は既に数本の短いホームムービーを作ったが、全ての写真器材が手に入る家族の一員であっては、驚くに当たらない。この状況が変化したのが1927年で、もっと多くの芸術映画を見ようという運動がアムステルダムに起こった。その年の5月にはフィルム・リガが設立され、イヴェンスはそこで技術面での指導者として、ゲストを招いたり、映画を紹介するのに重要な役割を果たす。同年、最初の映画による実験を開始し、特にヴァルター・ルットマンと彼の映画、『伯林―大都会交響楽』との出会いはイヴェンスがより本格的に映画の計画を立てるのを促すこととなった。古い不完全なカメラでほとんど映画製作の技術を用いなかったルットマンの作品を見て、ヨリス・イヴェンスは「俺にもそれぐらい出来る」と思ったに違いない。
(注)
20. Paul Rotha, Documentary Film (London: Faber and Faber, 1952 (first published in 1936)): p. 75.(ポール・ローサ『ドキュメンタリィ映画』[厚木たか訳、未来社、1976]、51ページ)
21. ホブズボームの前掲書、とりわけ「経済の奈落へ」("Into the Economic Abyss")と「自由主義の没落」("The Fall of Liberalism")の章(上巻127-214ページ、原文では85-141ページ)を参照のこと。
22. Ivens, "Documentary."
23. William Alexander, Film on the Left. American Documentary Film from 1931 to 1942 (Princeton, NJ: Princeton University Press,1981): p. 122で引用された批評家の言。
24. Joris Ivens, "Long Live Cinéma-Vérité" Rosalind Delmar, Joris Ivens: 50 years of film-making (London: British Film Institute, 1979): p. 111.(初出はフランス語で Les Lettres Françaises, March 1963)
25. 6ページと注15を参照。
26. Hans Schoots, Gevaarlijk leven: Een biografie van Joris Ivens (Amsterdam: Jan Mets): p. 66の見出しの1つから引用。英訳は著者。この綿密で啓蒙的な伝記の英訳は準備中であり、アムステルダム大学出版会より刊行の予定である。
*邦訳のあるものについては、そのまま利用させていただいたものと、参考にしながら新たに訳出したものがある。
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