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映画のドキュメンタリー性の変遷 第3回

新しい主観性

シネマヴェリテ以降の時代における
ドキュメンタリーと自己表現

マイケル・レノフ


映画誕生100周年をふまえ、「Documentary Box」は映画と“現実”の関係の歴史を探る4回の連載を掲載しています。毎回異なる映画史研究家によるエッセイでは、ジャンルとしてのドキュメンタリー映画に関してのみならず、映画そのものの現実性はこの1世紀にどのように変わってきたかということについても取り上げてもらいます。第1回の小松弘氏、第2回のビル・ニコルズ氏に続きまして、第3回では南カリフォルニア大学のマイケル・レノフ教授に、最近のドキュメンタリーにおいて新たに出現してきた個人的な表現形態について考察していただきます。

――編集者

ドキュメンタリーの実践家や批評家の共同体のなかでは、「主観性」は今までは往々にして一種の汚れたものであって、必ずやってくるが、最小限にくい止めるべきものとされてきた

映画そして神聖なものの俗化

 ドキュメンタリー映画は長い間科学的問題と密接に結びついてきた。マイブリッジらによって行われた人体や動物の動作に関する映画の原型ともいえる実験以来、映画は人間や社会/歴史現象に関する観察と研究の可能性を実践してきたのである。1930年代に、著名な前衛映画作家ハンス・リヒターはこの可能性についてせきたてられるように書いている。

時間と空間を乗り越える科学技術が地上のすべての生命の距離を近づけた結果 、もっとも手近かにあるのと同様、最も遠くにある「事実」も個々人の生活にとって重要となった。理性により神聖なものが俗化されてしまったのだ。地上の出来事はすべてかつてなかったほど興味を増し、意義を強めた。われわれの時代はドキュメントされた事実を求めている…。シネマトグラフという現代の再生産技術は、事実という必需品の要求に独特な形で反応した…。カメラは考えうるもっとも簡単なやり方で、人間観察の貯蔵庫を作り出したのだ1

「再生産技術」の道具である映画には世界をリアルタイムで保存、再提示する能力があると判断された。「光学が(外見上は)人を欺かないということが『絶対的真実』を保証した」とリヒターは書いている2

 しかし、映画の真実性についてのリヒターの括弧つきの評価(「光学が(外見上は)人を欺かないということ」)が示すように、無条件に映画を信頼する者はまずいなかったが、もしいたとしたら、その信頼にもっとも答えたのはドキュメンタリー映画だった。若きヨリス・イヴェンスにとって、スプリング駆動方式のキナモカメラは自然の世界を探求する道具だった。「この実用的で小さな機材の発明家であるゴールドバーグ博士から、その長所のすべてと、またその欠点を」学んだイヴェンスは、1928年にロッテルダムのマース川にかかる鉄橋についての映画の製作にとりかかる。

私にとって、その橋は、動きや、画調、型、コントラスト、リズム、そして、それらすべてのものの関連の実験室であった。何千というバリエーションが可能であり、ここに、これらのバリエーションにおける基礎的な要素をあきらかにする機会があると私はみたのである。…私が求めているものは、動きのつながりのなんらかの概括的な規則であり法則であった。音楽には、調子、メロディ、ハーモニー、そして対位 法の法則や文法がある。画家は、ある色彩や明暗の度やコントラストによって何をなすことができるかを知っている。もし、誰かがスクリーン上の動作の関係について知っているとしても、その人はそれを自分のものにしているので、私は私で自分のためにそれを見つけださねばならないだろう3

 イヴェンスは映画的な世界の表現の特徴を探求していたが、光学や化学の法則だけでは何の保証にもならないことはすでに知っていた。彼が「橋」の製作時に発見するように、工学的驚異から映画への適切な変換の可能性は現実に存在するにしても、いかにして映画というメディアが、たとえば橋の堂々たる大きさを犠牲にすることなく、その機械的な動きの力動感を完璧に呼び起こすことができるかということについては、多くの課題が残っていた。この映画の製作は一種の実験作業だった。

 もちろん、イヴェンスが熱狂した、映画表現の可能性に関する組織だった理解の仕方は、ある意味では歴史的なものであり、モダニズムの副産物だった。こうした文脈でジガ・ヴェルトフの著作に目を向けてみよう。ヴェルトフは「われわれ:ある宣言の異文」(1922)の中で、人間が「機械と親族になりたいと望んでいる」ことや「われわれの道は不器用な市民が完璧な電子人間になる方へと機械の詩を通 して向かっている」ことについて嬉々とした説明を行った4。医学を学んだヴェルトフは映画の仕事を「複雑な実験」と記述し、映画作品そのものを「フィルム上に記録された諸事実の総和、または、お望みなら単なる総和でなく、諸事実の『高等数学』という生産物」5と記述した。

 初期の映画実践家たちによって明らかにされたこうした欲望――事実という必需品、映画的な動きの法則の発見、知覚の完璧化の可能性、に対する――はすべて科学的な企てに深く関わっている。科学へのあこがれをもっとも明白に表明したのはノンフィクションの分野だった。またそこでは証拠、客観性、知識をめぐって論争が集中的に行われた。したがってノンフィクション映画と科学的な企てが歴史的に結びついていると主張することはできるだろう。多くの学者の論文はこの点についてさらに進んだ証拠を提出してくれる6。またこの二つのものの間に認められる(すなわち実践家、批評家、学者の共同体によって認められる)関係は長い年月にわたって、重要ないくつもの変化を遂げてきたと主張することもできる。第二次世界大戦後、ドキュメンタリー/科学の二対関係の地位 については、とりわけ客観性という、特にいらだたしい問題を中心に頻繁に議論が行われた。

 ヨーロッパの精神史の中では、主観的知と客観的知の区別をめぐるやっかいな問題は古代までさかぼるが、レイモンド・ウィリアムズは18世紀後期以降のドイツ古典哲学の発展が現在の理解にとってきわめて重要であると指摘している。特に美学の分野では、明確な二元論が19世紀半ばまでに形成されつつあった。だが、重要な変化の兆しが見えていた。それ以前の世紀においては、主観についての通 常の学問的見解は、「(実体としての主体という意味から)それ自体のなかにあるもの」で、一方客観は「(心の『前に投げ出された』という意味で)意識に提示されたもの」というものだったが、19世紀後期の実証主義の出現は根底から意味付けの方向修正を迫った。いまや客観は「事実に基づき公平な(中立的な)ゆえに信頼できるもので、事実ではなく印象に基づくゆえに個人的感情に左右されあまり信頼できないものとしての主観という意味とは異なったもの」と解釈されるようになった7。知的概念のなかに含まれる、意味の「歴史的形層」にいつものように注意しながら、ウィリアムズは、次第に支配的になってくる実証主義のイデオロギーと観念論的伝統の残留物との共存が深刻な誤解を生みだしたのだと指摘する。

判断や報告においては客観的であることが積極的に求められている。事実だけを見よ、個人の好みや興味は脇に置けというわけだ。こうした文脈では、恥ずべきもの、少なくとも弱々しいものという意味が主観にはまとわりついている。とはいえ主観的要因というものはそれ相応に片付けられなければならないのだということは誰しも認めるであろう…。結局、そうであるにもかかわらず主観と客観のような少なくとも避けられない言葉の、非常に論争の余地ある用法と見なさざるをえないものが、確かさと、時には饒舌とをもって一般 に提示されていて、単に混乱を広めているだけなのである8

科学的な企てや観察方法、さらにジャーナリスティックなルポルタージュの取り決めに対するノンフィクションの歴史的関連性は示されているので、ドキュメンタリーの実践家や批評家の共同体のなかでは、「主観性」は今までは往々にして一種の汚れたものであって、必ずやってくるが、最小限にくい止めるべきものとされてきたという事実を指摘しても誰も驚く者はいないだろう。主観的/客観的というヒエラルキー(好まれるのは後者)がずらされ、逆転さえ生じ始めたのはつい最近のことにすぎない9


観察の時代

 ビル・ニコルズはドキュメンタリー映画の4つの提示様式の説明のなかで、観察的様式を、ダイレクトシネマとしばしばよばれるドキュメンタリー映画づくりへの接近方法と記述した。ダイレクトシネマの特徴は、間接的な応対形式の普及、長回しと同時録音の使用にあり、モンタージュより時空間の連続性を重視し、「今起こっている」という感覚を呼び寄せる10。1960年代、そして1970年代に入っても、この映画様式は合衆国とカナダで支配的立場にあったが、同時期のフランスではジャン・ルーシュの指導のもとで発達した方法があり、これはダイレクトシネマと関連を持つが、思想的には対立していた。(ニコルズはこの様式を相互作用的様式と呼ぶ。)ブライアン・ウィンストンの論じるところでは、リチャード・リーコック(物理学を学んでいる)やアルバート・メイズルスのようなアメリカの実践家たちはたいてい自然科学の影響下にあって、非干渉主義、時には芸術家の個性までも排するという言明をその初期に行った。たとえば、ある批評家の記述がある――「それは、たいていのドキュメンタリーのように映画のために再創造された生でななく、カメラによって観察された生である。」あるいはロバート・ドリューの主張――「映画の作り手の個性は決して直接的に行為を方向づけることには関わらない。」11ウィンストンが示唆するところによれば、人類学者ルーシュと時折彼とパートナーを組んだ社会学者エドガー・モランは、「参与観察によって生じた問題を」アメリカの仲間たちよりも「洗練された概念に構築した点で勝って」いた12

 しかし、ダイレクトシネマの全盛期においても、主観性という亡霊を完全に消し去ることはできなかった。スティーヴン・マンバーの説明によれば、『ジェーン』(1962)の撮影中、プロデューサーのロバート・ドリューとD.A.ペネベイカーの間に意見の不一致が起こった。それは、ジェーン・フォンダが化粧室の鏡の前に一人で座っている長いシークェンスで、カメラの音がカットされるべきかという問題に関してであった。「ペネベイカーは雑音は残すべきだと考えた。なぜなら、そのことで、観客が見ているのは、化粧室に一人で座っているジェーン・フォンダではなく、カメラが観察する中で、化粧室に一人で座っているジェーン・フォンダなのだということが明らかになるからだ。」13『あるアメリカの家族』(1971年カリフォルニア州サンタバーバラのウィリアム・C・ラウド一家を撮影した12部からなるドキュメンタリーの連作。1973年、公共放送網を通 じて放映された。)が製作される頃には、映画製作者の個性が作品の最終的な仕上がりに色濃く関わっていることを疑うことはほとんどなくなるだろう。

 5人のラウド兄弟姉妹の中でもっとも活躍する「演技者」であるランスとグラントが出てくるいくつかのシーンでは、共犯者的視線が、目撃者としての役割を十分に認識したカメラとの間で交わされる。4番目のエピソードでは、パット・ラウドは母親の誕生日の手伝いのためオレゴン州のユージーンを訪問する。パットと母親がカクテルグラスを手に落ちついた気分でいるとき、娘は年老いた母親に向かって「たくさんの誕生日に乾杯」と叫ぶ。乾杯の意味を明らかに誤解したラッセル夫人は(彼女は自分の健康が末永く続くことを願ってのものではなく、誕生日を祝うすべての人たちに対する乾杯と受け取っている。)、「ほかに誕生日の人は誰?」と聞く。カメラの外からパットが抑揚のない声で「スーザンが誕生日よ。」と答える。ラッセル夫人の視線は娘から、画面 外へ向かい、右側を見る。「もちろんですとも。他に何かあることは分かっていましたよ。誕生日を持っているのは私だけじゃないんですもの。」この混乱したやりとりの意味がやっと明らかになるのは、この場面 には母親と娘と共に映画製作者のアランとスーザン(彼女が問題のスーザンなのだ。)のレイモンド夫妻が同伴していることがわかったときである。実際レイモンド夫妻はラウド家と7ヶ月ともに生活したのである。もっともカメラの外の彼らの存在や7人の主要人物に与える彼らの個性の影響についてはほとんど認められないが。レイモンド夫妻の『続・あるアメリカの家族』(1983年放映、1990年に再編集版が放映された。)の時代になると、不可視の第4の壁はその残骸だけが残った。ラウド家の人々はそれぞれ時折画面 に現れる映画製作者に話しかけ、カメラの存在が自分たちの行動に及ぼす効果についてばかりか、彼らの生活にこの連作映画が与えた影響力についても語っている。(特に興味深いのは、いつも冷静なビル・ラウドが、9番目のエピソードで離婚申請を準備中だとパットがカメラの前で言ったことに対する自分の答え方を、「80か90パーセントは自然に振る舞っていたが、10パーセントだけはカメラを意識していた。」と自己分析するところだ。)

 レイモンド夫妻は、世界の注視の中で数年前に崩壊したこのアメリカの一家族の運命を追いかけた作品の再編集版を終わらせるにあたり次のような方法をとる。すなわち、彼ら自身のことについて言及し「私たちの結婚はまだ続いています。1988年にスーザンは息子ジェームズを出産しました。」と告げるのである。20年近く追いかけた、再編集版『あるアメリカの家族』の物語は、自意識過剰な観察的手法からより相互作用的で、再帰的とさえいえる様式への劇的な移行の証明となった。ここでもまた、ヴェルトフ、イヴェンス、リヒターらモダニストたちの願いがそうであったように、この転換は歴史に付随するものである。


自己を演じる

それまで、情報は与えるがあくまで客観的態度を保つことで価値を持った記録するという姿勢が、ここに至ってより私的な視点を打ち出す方向に変わり、作り手の関心やテーマへの関わり方が全面 に出てくるようになりつつあった

現在のドキュメンタリーの自己記述がアイデンティティ――流動化し、多重化し、矛盾を含んでさえいる――を、公的ディスクールを巻き添えにしつつ、舞台にのせられるか

 1990年までの時点で、ドキュメンタリーについて書く映画史家は誰でもこう記すであろう。様々な文化的背景を持つ女性や男性の作品の優勢が強まり、歴史的世界の表現が自己記述と解きほぐせないほどに絡み合うようになった、と。こうしたフィルムやビデオによる作品(増えているのは後者だ)では、主観性はもはや「恥ずかしいもの」とはみなされない。主観性とは、作品を知識の具体化という目標へ導く経験という羅針盤であると同時に、現実的なものがディスクールに進入する際のフィルターでもある。この新しい傾向は民族誌学につきものの批判に対するいくらかの答えになっている。民族誌学では、「そこ」つまり、遠隔の地にある、危機に瀕した本物を保存しようという探索に疑問が投げかけられているのだ。1983年に出版された『ローカル・ノレッジ 解釈人類学論集』の序文で、クリフォード・ギアーツは、社会科学における一般 理論への偏愛は「いくつもの枠組みへの分散」に道を譲ったと述べた。このことは、「普遍主義的気分」から、ギアーツのいう「どこから見ているか、何によって見ているかに見られるものが依存するということを鋭く意識した感覚」14への移行を意味する。1960年代の観察映画が、ギアーツが軽蔑気味に言及する社会科学的方法の映画版であるとみなすことは困難ではない。この方法では、諸制度や人間行動に関する一般 化可能な真実が、小さくともごく親密に観察された事例研究に基づいて推定可能だとされるからだ。(たとえば『プライマリー』(1960)、『ハイスクール』(1969)、『あるアメリカの家族』)。

 フィルムやビデオによるドキュメンタリーという分野において、社会領域を組織化してきた分散化した枠組みは、個々に違った作り手たちの文化的アイデン ティティにますます決定されるようになっていった。それまで、情報は与えるがあくまで客観的態度を保つことで価値を持った記録するという姿勢が、ここに 至ってより私的な視点を打ち出す方向に変わり、作り手の関心やテーマへの関わり方が全面 に出てくるようになりつつあった。いったい1970年から1990年の間にどんな事態が生じて、ドキュメンタリー映画の主観性があふれ出るのに貢献したのだろうか?

 この時期の文化的風潮の特徴は、少なくとも西洋においては、社会運動による政治(たとえば、反戦、市民権運動、学生運動)が「アイデンティティ」による政治に置き換わったことである。この筋書きによれば、団結した集団行動を呼びかける明朗な響きは人間的差違を唱えるささやき声によって一掃される運命にあった。この変化の大海で大活躍したのがフェミニズム運動であり、先行する政治構造の代替案に対してフェミニズムが行った評価の見直しにより、社会的不公正がそれらの運動の内部に根強く残っていたことが示された。若い男たちは国の政治を立て直すために父親の権威に挑戦したが、性差別 的身分秩序は手つかずのまま残されていたのだった。女性および女性に関わる問題――個人間の率直なコミュニケーション、生産されたものと同程度に生産過程の大切さを重視すること、意思決定に誰もが自由に参加できるシステム、家庭内や家族の問題に関する共通 の責任――には、わずかな注意が払われていたにすぎない。女性運動はこれらすべてを変化させ、一連の「私的な」問題、すなわち、人種、性、民族的出自の問題が意識的に政治化される時代の先導役をつとめた。(このことは、人種や民族に基づく政治的主導権の強まりとともに、ストーンウォール事件以降のゲイの権利を認める運動が強まったことでも証明される。)いずれの場合においても、主観性は私的なものや経験的なものの土台として、政治行動の火付け役となった。中には「アイデンティティの政治学」の出現を、連帯の腐食化であり、意義ある社会的介入からの撤退であるとみなす者もいたが、他方ではその有効性を声高にかつ説得力を持って主張する文化批評家も現れた。スタンリー・アロノヴィッツの示唆するところによれば、現在行われている、多重化し流動化するアイデンティティの重視(および社会集団をつなぎ止める「本質的な」アイデンティティに対する批判)は、ニュートン以後の物理学の世界と完全に一致する。

社会学の理論によれば、個人は固定した文化システムによって決定され、このシステムは「個人」とその外的環境との様々な相互作用を通 して内在化した普遍的価値を内包していることになっている。しかしこの理論はいまや徹底的な修正を迫られている。いま個人は、家族、学校、法律のような社会化のための制度ばかりではなく、動いているもの、つまりたえず変化を続けているすべての重要な他者との複合的かつ特殊な関係によって構成された過程であると考えられる。各個人およびそれらの個人が成す集団が一世代ほど前に形成されたやり方は今では時代遅れのものとなっている。新しいアイデンティティが生まれ、(少なくとも一時的には)古いアイデンティティは消え去っていく15

 実際今われわれが生きているのが、強められ、移り変わっていく心理社会的アイデンティティの時代だとすれば、こうした時代の文化の記録は必然的に様々な主観性の振る舞いでおおいつくされると主張しても誰も驚きはしないだろう。

 伝統的ドキュメンタリーの本流に属するものとは全く考えられないが、ビデオアーティストのウェンディ・クラークは過去の重要な発見の影響を受けつつ、同時にその時々の流れにも無関心ではない作品を生み出してきた。1977年にクラークはビデオ日記をつけるというかたちで実験を始めた。これはカメラを道具にして彼女自身の内奥を探ろうとしたものだ。このコンセプトはプロジェクト『愛のテープ』に発展した。この作品は、あらゆる年齢や背景をもつ人々が3分のテープ時間を与えられ、自分にとって愛とは何なのかを話すというものだ。「愛のテープ」はどれも長さとテーマは同一だが、音と映像のレベルで違いを表明する。クラークは、背景の映像と伴奏音楽を選択することにより各主体を自分自身のディスクールによる演出家にさせる。各人は小部屋に座り、自動制御式のカメラとモニター、それと行為刺激剤として「愛」というコンセプトだけを同伴する。相互作用的な方式では、インタビューの相手であったかもしれない人たちが、どの場合にも発話行為の原因と主体になる。つまり、経験や所属やアイデンティティの違いが、一人ひとりの欲望の様々な形や予見不可能性と合流し、各自の語りをユニークなものにするのである。「愛のテープ」は何千本も作成され、やがてこのプロジェクトは、歴史的主体の絶対的異質性を示す証言となる。

 それより数年前、ジャン・ルーシュは、主観性の展開を引き起こすカメラの能力を探求する試みを開始した。彼は映画製作者と被写 体との遭遇を外的な観察より優先させる相互作用的な様式の第一人者である。ルーシュは1950年代後半からは、カメラがその対象となる被写 体に与える潜在的な影響を避けるのでも、否認するのでもなく、それどころか、映画機材を一種の加速器、「まことに奇妙な告白」のための刺激剤として使用した16。1969年にカメラの影響について尋ねる質問者の問いに、ルーシュはこう答えている。「そうです。カメラは変形させるのです。しかしこの変形はカメラが共犯者となるときに始まるのではありません。カメラがなければ不可能だったことの何かを、その時点でカメラが成し得る可能性があるのです。カメラはそれがなければ行わなかったであろう行為を人に行わせる、精神分析で用いる興奮剤のようなものなのです。」17『ある夏の記録』(1961)でのマリルーとマルセリーヌの有名なシークェンスでは、カメラがあるにもかかわらずではなく、カメラのために記憶と感情を徹底調査するという方法を取っており、これはルーシュのコンセプトの適切な解説となっている。

 『愛のテープ』とルーシュ作品は1980年代、1990年代のフィルムやビデオによるドキュメンタリー作品で展開される新しい主観性のほんの前兆だった。これから触れる作品は、記憶を再稼働させたり宣言文めいた言明を行ったりするだろう。自我、なかでも深く社会化した自我はほとんど必然的にこの過程の中で構築されるからだ。とはいえ、この「新しい主観性」の新しさとは何なのだろうか?おそらくその答えの一部は、どの程度まで現在のドキュメンタリーの自己記述がアイデンティティ――流動化し、多重化し、矛盾を含んでさえいる――を、公的ディスクールを巻き添えにしつつ、舞台にのせられるかにかかっている。こうして作品は唯我論や自己陶酔の告発を逃れることになる。『家庭の秘密:記憶と想像力の行為』というタイトルの最新の本の中で、アネット・クーンは個人的で大衆的な記憶作業のための事例研究として、自分の家族写 真数枚を使用したことの理由を巧みに説明する。個人的なものはすなわち政治的であるという、フェミニズムの指針を反映した言葉を使いながら、クーンは記憶という作業の正確な意味は、公的な面 と私的な面をお互いに重ねあっていくことだと主張する。

映像は「私的」(家族写真)であると同時に、「公的」(映画、報道写真、絵画)である。もっとも、少なくとも記憶に関する限り、私的なものと公的なものは、実際上は慣習的知識が信じこませようとするほど容易には分離できないことがわかってくるのだが…。たとえ記憶が個人の所有物だとしても、記憶から連想されるものは私的なものを越えて拡がる。それは拡張された意味のネットワークへと拡がり、私的なものと家族、文化、経済、社会、歴史を結合させる。記憶という作業は「公的な」歴史上の出来事、感覚の構造、家庭劇、階級関係、国家的アイデンティティとジェンダーといったものと「私的な」記憶の関連性を探求することを可能にする。こうした場合では、外的な歴史と内的な歴史、社会的なものと私的なもの、歴史的なものと心理的なものが合体する。そして、これらを相互に結ぶ関係の網目は目に見えるものとなる18

 外的歴史と内的歴史の合体というクーンの記述は、これから触れる最近のドキュメンタリー作品の特徴を正しくとらえている。

 多くの場合、作り手の主観性は明らかにその社会的な所属と密接に関連する。クーンの記述にあるように、家族、文化、経済、心理にかかわる諸力のネットワークは収束し、歴史の自己記述という行為の中に表現の場を見い出す。とはいえ、このうち自伝的ディスクールの場合は条件つきであり、明確な社会的基盤の内部にそれが占める場所に限定されてしまう。この現象が見られるとりわけ豊かな例は、亡命者のアイデンティティを探求する次のような作品である。すなわち、ジョナス・メカスの『ロスト、ロスト、ロスト』(1975)、シャンタル・アケルマンの『家庭通 信』(1975)、ラウール・ルイスの『偉大な出来事と平凡な人々について』(1978)、マリル・マレの『未完の日記』(1982)、ミーナ・ナンジの『朝の声』(1991)、レア・タジリの『歴史と追憶』(1991)、ディック・ヘブディッジの『放浪者』(1994)。移住と文化的感覚の混乱についての探求は、自己と血縁関係が明記された他者との隔たりをつなぐかけ橋となる。6巻からなる『ロスト、ロスト、ロスト』の最初の2巻で、メカスはブルックリンを中心としたリトアニア人社会に焦点を当てる。この難民の人々は第二次大戦直後にソビエトの迫害を逃れる際、土地、気候、習慣、言語、文化的背景に関して深い喪失感を味わった。リトアニアの詩人や政治家たちは、この地には精神のよりどころがないことに気づく。その土地の大きさや世界における地位 はソビエト連邦のそれの倍になっており、「大国」によって、彼らの抑圧感は強められる。メカスの偉大な作品は、通 常きまってアメリカの前衛作家の自伝的作品に分類されるが、実際にはこの作品は14年間(1949〜1963)にわたる少なくとも3つの歴史を語っていくのである。すなわち、リトアニアの亡命者たちの歴史、1950年代後期/1960年代初期の「原爆禁止」の社会的抗議運動の歴史、そして同時期に勃興したアンダーグラウンド映画界の歴史である。映画的記録の軸としてメカス自身の歴史と体験が取り上げられるが、それは幾重にもわたる歴史記録の層のなかへ包みこまれる。メカスの主観性は、現実に経過した数十年の期間や3時間という上映時間枠を超えて、自由に動き回るが、この主観性はアロノヴィッツが言ったように、たえず流動する諸制度や重要な他者との特殊な複合的関係によって構成されたアイデンティティなのである19

 1970〜1995年の「シネマヴェリテ以降」の時期には、ゲイやレズビアンのアイデンティティを探求するドキュメンタリーが独特の迫力と活力を示した。私がこの分類項目に入ると考えているのは次のような作品である。『領土』(サンコファ・フィルム・ヴィデオ集団、1984)、『解放のリズム』(マーロン・リッグス、1989)、グリンダー・チャダの『私はイギリス人ですが…』(1989)、スー・フレドリックの『シンク・オア・スウィム』(1990)、ディ・ベニングの1988年から1992年にかけての豊かな作品群――その中には、『もし、少女がみんな日記をつけたら』(1988)、『ジョリーズ』(1990)、『それは愛ではなかった』(1992)を含む――、『ありがとうそしておやすみなさい』(ジャン・オクセンバーグ、1991)、サンディ・ドゥボスキの『トムボイチック』(1994)、デボラ・ホフマンの『孝行娘の不満』(1994)。これらの作品を共通 に分類する鋳型は存在しない。せいぜいこのうちの2、3の作品が共通に「カミング・アウト」のシナリオを持っている程度だが、「カミング・アウト」を行う者は(たとえば『解放のリズム』)形態を徹底的に作り替える方法をしばしば発見している。リッグスの論争を呼ぶ作品は、冒頭の呪文のようなことばの繰り返し(「兄弟から兄弟へ、兄弟から兄弟へ、…兄弟から兄弟へ、兄弟から兄弟へ…」)から、「黒人が黒人を愛することこそは革命的行為である」という偶像破壊的な声明文にいたるまで、この作品群の中でもっとも遠慮会釈なく政治化された作品である。最初からリッグスは、自分自身とその肉体をさらけ出す。冒頭のシークェンスでは、リッグスは裸体をうねらせながら、黒い無表情の壁をバックにリズミカルに動き回る。そして凶暴な眼差しと劇的な語りでわれわれを釘付けにする。しかし、このビデオを全くの1人称によるディスクールとして読もうという誘惑は徐々にしぼんでいく。黒人グループがたびたび現れてギリシャ古典劇のコロスのように、ラップを歌ったり、指をならしたりするからである。黒人のゲイたち(マーロンはその一人にすぎない)のこの集団性こそが、『解放のリズム』の政治的倫理的均衡を支えているのだ。私的なことと社会的なことの融合に成功した『解放のリズム』は、その時代の根源的政治宣言であると同時に、ドキュメンタリーの新しい主観性の範例ともなった。

 ほかのゲイやレズビアンの作者による作品は作り手の性をこれほどあからさまには取り上げていない。これらの作品が頻繁に取り上げようとするのは、芸術家という主体の家族的秩序の中での位 置についてであり、ゲイの感性や生活方法の選択に対して、厳格な家族構造を適応させるのは難しいという証言や説明である。これらの作品の場合、アイデンティティが構築されるのは、いくぶん抽象的に設定された家族との関係ではなく、作り手が愛情を注ぐ特定の家族のメンバーに対する関係に対してである。(作り手はそれでもなお、そのメンバーとの関係を清算しなければならないのだが。)これらの親族は(ホフマンのビデオでは母親、ドゥボスキとオクセンバーグ作品では祖母)死んでいるか、瀕死である場合が多い。性とその諸原因すなわち病因論がこうした作品であからさまなテーマになることは非常に限られているが、そのかわりこれらのフィルムとビデオでは、製作者の(ゲイという)アイデンティティがどの程度まで、ある特別 な(しかし「ゲイ・レズビアンでない」)家族の誰かのアイデンティティと結びついているのかを確認する。ここに出てくる母親や祖母たちは、異性愛者であるが、間違いなく変っており、芸術家たちの現在の姿を創造するのに貢献してきたのである。これらの作品は喪失を悼み、記念しようとしているのだが、同じ持続力をもって、主観性の非妥協的態度を立証している。そしてこの態度は生活と記憶の中にある重要な他者との接触によって満たされ、甦ったのである。これらの作品は、おそらくフィルムとビデオにおける、次世代の新しいゲイとしての主観性に属するだろう。二つの顔を持ち、前ばかりでなく後ろも見つめながら、私的でかつ一般 の家族生活に組み込まれたこれらの作品は、人間的差違の多くの溝――世代、ジェンダー、セクシュアリティの溝――に橋をかけるのである。

 今世紀の終わりが近づくなかで出現した、フィルムとビデオにおける新しい主観性の劇的で、爆発的でさえある様相をどう説明したらいいのだろうか。ジュリア・ワトソンは女性が自伝的なディスクールを通 じて「語れない差違」に言及するようになった歴史的条件について書いている。「移民すなわち、複合的な文化的背景を持つ娘にとって、語れないものに名前をつける行為は、一方では逸脱した振る舞いであり、文化的知識の構築物が依存する境界を故意に見つけ出してあげつらうことになるが、他方では言説的な戦略であって、立証が困難であっても自分自身の差違の複数性について生き生きとした「意味了解」を可能にするのである。」20こうした説明は、ドキュメンタリー表現の最新局面 が生じた状況をよくまとめている。ダイレクトシネマの時代には、自己言及性は遠ざけられていた。しかしながら、これは控えめな態度を表しているのでは決してなく、自己弁護や自己顕示の場を求めなかった権力ある者という存在に象徴される沈黙であった。彼らには必要なかったのだろう。かつての白人男性の強者たちは生得権のたやすさと自信をもったうえで映画的表現行為という衣装をまとっていたのだが、現在のパフォーマンス的なドキュメンタリストたちはそうではない。いくつもの方法をとって彼らは自ら逸脱的行為を行う。(社会的)自我の探求を通 して、彼らは、「文化的知識の境界」の外に生き続けてきた多数の者の生と欲望を語り始めているのである。

翻訳:高橋直

 


(注)

1. Hans Richter, The Struggle for the Film, trans. Ben Brewster (New York: St. Martin's Press, 1986): pp. 42〜44.

2. Richter, p. 43.

3. Joris Ivens, The Camera and I (New York: International Publishers, 1969): p. 26 (ヨリス・イヴェンス、記録映画作家協会訳、「カメラと私」、未来社、30頁)

4. Dziga Vertov, Kino-Eye: The Writings of Dziga Vertov, ed. Annette Michelson (Berkeley: University of California Press, 1984): pp. 7-8.

5. Vertov, p. 84.

6. 特に、Brian Winston, “The Documentary Film as Scientific Inscription,” Theorizing Documentary, ed. Michael Renov (New York: Routledge, 1993): pp. 37-57; and Lisa Cartwright, Screening the Body (Minneapolis: University of Minnesota Press, 1995)を参照のこと。

7. Raymond Williams, “Subjective,” Keywords: A Vocabulary of Culture and Society (London: Flamingo, 1976): pp. 308-312.(レイモンド・ウィリアムズ、岡崎康一訳、「キイワード辞典:文化と社会に関する語彙集」、晶文社、378頁)

8. Williams, p. 312. (ウィリアムズ、379頁)

9. ドキュメンタリー映画に関する客観性の問題をめぐる論争をより綿密に扱ったものとしては、Noel Carroll, “From Real to Reel: Entangled in Nonfiction Film,” Philosophic Exchange (Brockport, NY: State University of New York, Brockport, 1983): pp. 5-45; and Bill Nichols, “The Fact of Realism and the Fiction of Objectivity,” Representing Reality: Issues and Concepts in Documentary (Bloomington: Indiana University Press, 1991): pp. 165-198も参照のこと。

10. Nichols, pp. 38-44. ニコルズは4つの類型を最近の本で刷新し、5番目のカテゴリーとして行為遂行的様式を追加する方法を取った。この様式は私がフィルムやビデオのドキュメンタリー作品における「新しい主観性」と呼ぶものに非常によく照応している。特に“Embodied Knowledge and the Politics of Location−An Evocation” と “Performing Documentary” (in Bill Nichols, Blurred Boundaries: Questions of Meaning in Contemporary Culture (Bloomington: Indiana University Press, 1994): pp. 92-106)と題された章を参照のこと。

11. Winston, p. 43.

12. Winston, pp. 51-52.

13. Stephen Mamber, Cinema Verite in America: Studies in Uncontrolled Documentary (Cambridge, MA: MIT Press, 1974): p. 95.

14. Clifford Geertz, Local Knowledge: Further Essays in Interpretive Anthropology (New York: Basic Books, 1983): p. 4. (クリフォード・ギアーツ、梶原景昭他訳、「ローカル・ノレッジ:解釈人類学論集」、岩波書店、4頁)

15. Stanley Aronowitz, “Reflections on Identity,” Dead Artists, Live Theories and Other Cultural Problems (New York: Routledge, 1994): pp. 197-198.

16. Mick Eaton, “The Production of Cinematic Reality,” Anthropology−Reality−Cinema: The Films of Jean Rouch, ed. Mick Eaton (London: BFI, 1979): p. 51より引用。

17. G. Roy Levin, “Jean Rouch,” Documentary Explorations: 15 Interviews with Film-makers (Garden City, NY: Doubleday & Co., Inc., 1971): p. 137.

18. Annette Kuhn, Family Secrets: Acts of Memory and Imagination (London: Verso, 1995): p. 4.

19. ドキュメンタリーの伝統におけるメカスの位置のより進んだ分析としては、Michael Renov, “Lost, Lost, Lost: Mekas as Essayist,” To Free the Cinema: Jonas Mekas & the New York Underground, ed. David E. James (Princeton, NJ: Princeton University Press, 1992): pp. 215-239を参照のこと。

20. Julia Watson, “Unspeakable Differences: The Politics of Gender in Lesbian and Heterosexual Womenユs Autobiographies,” De/Colonizing the Subject: The Politics of Gender in Women's Autobiography (Minneapolis: University of Minnesota Press, 1992): p. 140.

*邦訳のあるものは邦訳を用いたが、一部文脈に合わせ変更した箇所がある。
*subjectivityの訳として、主に「主観性」を用いた。


マイケル・レノフ


南カリフォルニア大学映画・テレビ部門の批評理論教授。著書に『Hollywood's Wartime Woman: Representation and Ideology』(1988)、編著に『Theorizing Documentary』(1993)、共編に『Resolutions: Contemporary Video Practices』(1995)がある。