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日本のドキュメンタリー作家インタビュー No. 24

呉徳洙(オ・ドクス)

聞き手:門間貴志


1. 映画館がオアシス

門間貴志(以下、門間まずは生い立ちから、そしてどのようなきっかけで映画を手がけるようになったのかをおうかがいしたいのですが。

呉徳洙(以下、私の生まれた秋田県鹿角郡(現・鹿角市)尾去沢は、当時三菱資本が入っていた結構古い銅山町でした。そこに協和館という厚生施設がありましてね、そこでいつも映画をやっていたんです。尾去沢銅山は十数年前から廃鉱になって、今はマインランド尾去沢という見学施設になっています。三菱資本ですから中央とのパイプが結構あったのか、他の映画館は東京のひと月遅れっていうのが普通だったのが、協和館には封切りから間もなく入ってきて、洋画だとか、時代劇華やかかりし頃の映画を貪るように見ていたのが映画体験ですね。高校生になりますと、ちょうど1950年代の後半から60年代の初頭なんだけれども、日活の(石原)裕次郎や(小林)旭の映画が流行ってて、そのあたりから親の金をくすねては映画館通い。今になって、あの頃を思うと、在日であるがための晴れ晴れとしない思いが日常の中であるわけですよ。学校生活とか地域の友だちづき合いの中でもね。差別という言葉はあまり好きじゃないのだけれども、どうしてもヨソ者という感じがあって。でもとにかく映画館に行けば、それを癒してくれる。決着をつけてくれる。映画館の中が自分のオアシスみたいな感じだったんじゃないかと思うんです。私の『ニュー・シネマ・パラダイス』(ジュゼッペ・トルナトーレ、1989)といったところかな? そういう思いで過ごしたというのが私の在日という問題と映画館とのつき合いの始まり。今は4万人ほどの市になってますけど、当時は2万ぐらいしかない隣町の花輪町には、映画館が3つもあったんですよね。今はひとつもないけれど。花輪劇場と第一劇場と中央劇場。中央劇場では大映と新東宝、第一劇場が日活、花輪劇場が東宝と松竹という完全な棲みわけがあってね。1950年代から60年代は、尾去沢の協和館と花輪町の3つの映画館で毎日のように映画を観ていたのが少年時代の思い出でね。

門間:当時の尾去沢には、在日の方はどのくらいいらっしゃったんでしょうか。

呉:そうですねぇ、戦後間もなく祖国に帰っていった人がたくさんいたものですから、朝鮮戦争のあたりで、花輪町もふくめ120〜130くらいという感じでしょうか。

門間:学校の同級生には?

呉:私のクラスにはいなかったけれども、私の入った花輪町立花輪小学校というところには、一学年で3、4人くらいはいましたね。

門間:それですと、あまりコミュニティという感じではないですね?

呉:そういう感じはなくてね。大阪だとか関西地域のことを後から知るんだけれども、東京でいえば三河島とか枝川町とか、ああいったコミュニティにはなってないですよ。現在は国籍保有者では秋田県の在日は1000人を切っているんですよね。秋田県は在日の“過疎”かな。ですけども同じ鹿角郡(当時)の小坂鉱山というのは、五味川純平原作の『人間の条件』(小林正樹、1959)の満州炭鉱に見立てて、新珠三千代さんと仲代達矢さんがロケーションに来てウチの町が大騒ぎしたという…。

門間:あの満州の鉱山の場面のロケはあそこなんですか!

呉:あそこなんです。それで監督の小林正樹さんが来てね。私も見に行きましたよ。新珠三千代さんが見たくてね。花輪の旅館に泊まっていたものですから。小坂鉱山だとか尾去沢鉱山だとか、例の中国人虐殺があった花岡鉱山にしても、奥羽山脈の秋田県側は結構鉱山が多くて、在日の人たちも仕事があったから来たんでね。そしてそこに飯場を形成する。そういう意味では戦前はある程度のコミュニティはあったんですよ。話が飛ぶけれども、この人たちは慶尚南道の蔚山(ウルサン)周辺の人たちですよ。だから同じ村、ないしは隣村出身の誰それさんがあそこにいるから訪ねていこうということで玄界灘を渡って…。

門間:同郷の人がいるから…。

呉:そう。そこではサトリ(方言)が通ずると。食文化が似てたりとか、そんなことで、奥羽三県には慶尚南道の蔚山あたりの人たちがけっこう多いんです。

門間:では呉監督のご両親も?

呉:蔚山です。例えば大阪では済州島出身がほとんどだというでしょう。だからビートたけし主演の『血と骨』(崔洋一、2004)でも、梁石日(ヤン・ソギル)はほとんど済州島のことを描いているでしょう。だから結構同郷のよしみで訪ねてきてそこで仕事をもらうということで、私どもの父親たちもそこで居を構えて生活して来たということなんでしょうね。

門間:蔚山は今は大工業地帯ですね。

呉:大変なものですよ。完全に現代グループの城下町になったことがひとつ。それから広域で市区町村を広大に合併しちゃったこと。今は120〜130万の都市になったんじゃないですか。

門間:昔はもっと少なかった?

呉:そうですよ。私が35年前にはじめて行った時には8万の町でした。母の母、つまりハルモニ(祖母)を訪ねたのが私の29歳の体験でしたけどね。今、齢63になりますとね、(尾去沢に)友人や恩師を訪ねていろいろ昔語りをするんだけれども、友を呼んで意趣返しの日々でね。ここは秋田弁で話させてもらいたいけれども「おめだぢの文字はミミズ這ったみでな文字で、丸とか三角とか四角ではホントに笑わさるな。」とこう学校で囃し立てられるわけでしょう。後から考えたらハングルには丸と四角はあるけど、三角はないんだね(笑)。だからみんな呼んで「おめぇ、あの時は何て言った! 三角はねぇんでねが!」って。「いや、申し訳ない。」(笑)まあ、トラウマというと大仰だけれども、やはり人間というのは後々引きずるものですよ。だから子どものイジメはダメですね。(笑)

門間:高校までは花輪ですね。東京の大学に進んだのは映画がやりたかったからでしょうか?

呉:もちろんそうです。日本大学芸術学部の映画学科に入ろうとか色々考えたんですけどね。初年度は見事に全部滑ってしまって。それで早稲田の演劇科に映画やるつもりで入ったんですけど。高校時代、けっこう硬派を気どっていて合唱クラブとか演劇クラブなんかに男が行くってことは、言語道断だって感じだったのね。ところが大学に入って実際に俳優座とか文学座とか民芸を観て、俳優小劇場でちょっと手伝ったことがあったんだけど、こんなにもハードな業界はないなということが改めてわかって、今までの演劇に対する誤解を改めまして、それから演劇の虫になるんですよ。大学時代にテネシー・ウイリアムズの『欲望という名の電車』の芝居をかけてね。あのアメリカ南部の気質を19、20歳の我々にわかるはずもないのにね。結構評判は良かったんですけど、今だったら赤面して1分と見られないだろうね。

門間:舞台に立たれたんですか?

呉:いや、とんでもない! 私は舞台監督の方ですけどね。それで3年生になってモリエールの『タルチュフ』というのをやって、これは意外と面白くやらせてもらったんですけどね。今仲間がプロで活躍していますよ。赤座美代子はひとつ下で、同期の有名どころで言えば、高麗屋の松本幸四郎、文学座の小林勝也、それと演劇には進まなかったけれどもマンガの『釣りバカ日誌』の原作を書いている山崎十三は大のポン友ですよ。でも大学出る時になって、やはり演劇ではなかなかキビシいということで、まあ映画でもメシは食えないんだけれど、ちょうど東京オリンピック以降ですよ、65〜66年頃から大手5社は定期採用しなくなったんですよ。私もツテで日活なんか受けさせてもらったんですけど、倍率が30〜40倍くらいで、まあことごとくフラれて。それから日々生業を立てるために土木工事の仕事をしたりしました。

2. 大島渚の助監督時代に学んだこと

門間:大島渚監督の助監督になられたのはどういうきっかけですか?

呉:早稲田の先輩で小川さんという方がおられて、この方が俳優小劇場の制作をやってらっしゃったんです。それでたまに公演の時に声をかけてくれて制作のバイトをさせてもらっていました。その俳優小劇場で映画やテレビ関係のマネージャーをやっていた織田さんという方に映画の現場につきたいという希望を述べていました。この方が大島さんの妹の瑛子さんに声をかけてくれたみたいです。その時に武田泰淳原作の『白昼の通り魔』(1966)、短編ですが非常に面白い小説で、それを大島さんが『悦楽』(1965)の後の作品として撮るということになって。そこで織田さんがどう言ったか知りませんけれども、「素敵な青年がいるから」と言ったのか(笑)、営業してくれたんですよ。それまでは『愛と希望の街(原題:鳩を売る少年)』(1959)に始まって、『青春残酷物語』(1960)、『太陽の墓場』(1960)、『日本の夜と霧』(1960)、そして『悦楽』につながる一連の作品で完全にいちファンとして大島には参ってましたよ。その大島渚から声がかかった。まぁ実際には瑛子さんでしょうけど、いまだに大島瑛子には頭が上がらないのね(笑)。それではじめて赤坂の創造社に訪ねて行きましたよ。非常に胸が高ぶってね、今でも鮮明に覚えています。当時私にとっては天下の大島だったですから。弁がたち、よく怒鳴り、そして乱暴で、でもきちっとした映画を我々に提供してくれるという、在日の問題にも問題意識を持って色んなところで喋ったり書いたり描いたりしてくれてる方でしたからね。部屋に入るとその大島さんがすっくと立ってね、きちっとお辞儀して「大島です」って。本当に恐れ入りました。もうこっちはどうしていいのか。後で考えたらそれもひとつの演技なのかもしれないけれども…。でもこれは私が知っている、例えばテレビで大橋巨泉と大バトルをやるとか、飲んだくれの暴れん坊とは全然違う、礼儀正しい大島渚と会ったのは初めての体験だったものですから、非常に感動しました。まぁ実は裏話はいっぱいあるんですけどね。ギャランティなんてのはホントに雀の涙で、こんなことが許されていいものかと。でも私としては天下の大島の『白昼の通り魔』につけるってことだけで本当に舞い上がってましたね。撮影日程の半分くらいは長野県の佐久郡でやってるんですよ。その時大島さんから学んだことと言えば、なんといっても映画現場の凄まじさですかね。もうひとつはね、笑われるけど映画にはサイズがあるっていうのは大島組で初めて知ったんですよ。『白昼の通り魔』で戸浦六宏さんが首つり自殺をするシーンがあって、山の奥に一本の木がありましてね、戸田重昌さんという美術監督がおられまして、この木じゃないと首つりのシーンは成立しないと。見るとなかなかいい枝ぶりなんだね。それはずーっと山の奥なんですよ。首つり自殺をする時には落下傘の縛帯を両脇につけて首にダミーの縄を巻いてそれで上からドーンと落ちるんですよ。そういうシーンを撮っている時に、戸浦さんの「繋がり」のゴム草履を忘れていっちゃったんですよ。サード助監督が当時小道具を担当していたんですよね。そして山の奥まで行って、いよいよ首つりのシーンになって、「徳さん、草履!!」「はいよッ!」って探したところが、実は宿に置いたままロケバスに乗っちゃってそのまま来てしまったんですね。「バカたれー! 草履が繋がらなくてどうすンだ!」って話になっちゃってもうお手上げ。当時は初めての映画界、初めての大島組、初めてのロケでしょう? もう何もわからなくて「すみません!!」って言ってね、もうドンドンドンドン山を下るんですよ。ロケバスの運転手にちょっと行ってくれないかと言えばいいのに、そんな機転もきかんのですよ(笑)。ちょうど6月ですよ。梅雨時期に夏のシーンを撮るわけですから。ですから蒸し蒸ししててね。田のあぜ道を走り、もう涙は出てくる、そして草履を抱えながら今度は山登り。とにかく情けないやらなにやら。芥川(龍之介)の短編に『トロッコ』ってあるでしょう? 良平少年が最後に家に帰る時に泣きながら走って行くじゃない(笑)。あれの青年版ですよ。現場に着いたら別のところで別のシーンを撮ってる。「おまちどうさまーッ! すみませーんッ!」って戻って来て。そしたら大島さんが、烈火の如く怒るかと思ったら「徳さん、あれ終わったよ」って言うんだよ。ガーンって落ちるところはもうシルエットだからわからない、で、ブラーンとしているところは下からパンしたかったらしいんだけど、足切って撮っちゃったって。それでおしまい。「ああ、そうか。映画にはサイズってものがあるのか!」とわかってね。アホみたい!(笑)。大島さんからは本当にいろんなことを学びましたけど、現場の凄まじさとサイズを教えてもらったっていうことですね。大島さんと瑛子さんに「徳さん、あんたバカか」ってね(笑)いまだに笑われますけどね。同じような体験を大和屋(竺)も何かの雑誌に書いてたね。劇映画の助監督をやった連中はみんなそういうエピソードのひとつやふたつは持ってますね。私の場合はそんな情けないエピソードだったですけどね。

門間:大島さんの助監督をしたのは『白昼の通り魔』と『日本春歌考』(1967)。

呉:そうですね、この2本ですね。

門間:『日本春歌考』というのは、朝鮮の問題を非常にクローズアップした作品でしたね。

呉:そう。ところがこれはね、何故か知らないけどほとんど相談も受けませんでしたし、意見も聞かれませんでしたね。そういう意味では尹隆道(ユン・ユンド)君の『絞死刑』(1968)とはちょっと違ってて、『絞死刑』の場合は尹隆道君とどういう話をして作り上げたかっていうのは聞いてないんですけど、在日か何かの問題ということではなくて、“在日”という素材、と言っちゃうと貶めかもしれないけれど、それを借りて大島ワールドというか、大島さんの描きたい世界を作り上げたってことなんでしょうね。そういう意味では『戦場のメリークリスマス』(1983)でもジョニー・大倉が朝鮮人軍属の役で出てきますけど、その在日に対するこだわりっていうのは一体何なのかということについては、じっくり大島さんと話したことはないです。ただ最近大島さんは自分のスタッフの中には必ず在日がいたという書き出しでちょっと短い文章を書いているみたいで。彼はそうは言わないんだけれども、「だんご三兄弟」ならぬ「大島組在日三兄弟」っていまして、長男が私で、次男が尹隆道、三男が崔洋一。そのほかにもいたらしいですけれども。

門間:朴炳陽さんという方が『愛のコリーダ』(1976)で助監督をなさってますね。李三郎という役者名でクレジットされてますが。

呉:李三郎もいたね。文章では、呉徳洙という『在日』を撮った監督も私の助監督だったんだという、あの人なりの独特な書き方でしたけれども。大島さんが一体“在日”という問題を『忘れられた皇軍』(1963)も含めてね、何を表現したかったのかということを明確に大島さんから言葉としては聞いたことはないです。だから『日本春歌考』でもちょっと水くさいなと感じたのは、吉田日出子にチョゴリを着せる時に「徳さんちょっと、このチョゴリどう?」っていう一言ぐらいね、私に聞きに来ても良かったのになって。でも、そういうことで意見を聞くということはなかったですね。

3. 東映制作所時代でのテレビ制作

門間:その後で東映に入られたんですね。

呉:大島さんの作品をやるようになってから、撮影そのものというのは1ヶ月から2ヶ月で終わってしまうわけですよ。そうなりますとフリーの悲しさで、仕事がなければバイトで繋ぐとか何かすればいいんでしょうけれども、するとまた仕事がダブってうまく渡れないんじゃないかということで、下宿で仕事の電話を待つという、そういう意味では精神的にいい状況じゃなかったんですよね。その時に東映に行く前に大映テレビ室の方から声がかかって、『ザ・ガードマン』(1965-1971)の助監督をやらないかと。大映はテレビ映画に手をつけたのは結構早かったでしたから。『ザ・ガードマン』の助監督を数本やって、これも非常に面白かったですけどね、そうしている間に早稲田の先輩から声がかかって、東映で助監督をやらないかと。で、応援を頼まれて行ったのが天知茂主演の『ローンウルフ一匹狼』(1967)という作品だったんですよ。テレビです。その助監督として1本だけという約束で行ったんですけれども、大映の合理化されたテレビ室とはまた違っていて、社員、つまり企業で定期的に採用された人たちで演出部を作っていて、演出部室があってそこで集まっていろいろ議論しているという、そこでシナリオを書いたり、映画評をやったりとか。「ああ、いい雰囲気だな」と。大島さんの個人的なプロダクションと、大映テレビ室という合理化されたテレビだけを作っている別会社と、その2つしか体験してなかった私にとっては非常にそこはフレッシュに感じられて。老舗の松竹あたりで助監督部会とか演出部会があるように、東映のそれに初めて招き入れられたんですよ。そして自己紹介させられて、何でおまえはこの東映に来たんだとかね。伊藤俊也さんがエラそうにしていたなぁ。いまだに伊藤さんには頭が上がらないけどね(笑)。大映テレビ室にはそのまま帰らずに結局東映東京制作所(ここそのものがテレビ映画を作る、東映内で合理化された会社ではあるんですよ)に入所するという形になって、それ以降は完全に東映の人間になっちゃって、争議で辞めるまでずっと東映でした。

門間:『キイハンター』(1968-1973)や『プレイガール』(1969-1974)ですね。

呉:そうです。ほとんどチーフ(助監督)です。一緒に脚本を共同で書いたりもしましたけれども。あと作品としては、桜木健一主演の『柔道一直線』(1969-1971)、『刑事くん』(1971-1972/第1-2部)とか『怪盗ラレロ』(1968)とかね。『ジャイアントロボ』(1967-1968)とか。それと『プレイガール』ね。やっぱりメインは『キイハンター』でしたね。毎日(同年代の)千葉真一とはああでもないこうでもないと現場でケンカばかりしてましたよ。だからテレビ映画制作という制約のなかで、毎週オンエアに間に合うか間に合わないかで、やっぱりスポンサー付きの現場っていうのはちょっと違うんですよね。決してテレビ映画がダメだというのではなくて、どうしても合理化されてしまう。もう雨が降ろうが槍が降ろうがとにかく富士山の裾野のロケーションに行ったならば廻さないで帰ってくるなんてあり得ないですもんね。それはやっぱり大島さんのところでやっていた劇映画の現場とは全く違ってましたね。当時、そういう意味では比較対象という非常に面白い体験をさせてもらいましたけれどもね。

門間:東映では監督はなさらなかった?

呉:監督はしていません。争議で監督どころではなかった。

門間:東映を争議で辞めたとおっしゃってましたが?

呉:東映は入所という形なんですけれども、あくまでもフリーの契約者でしかないわけで、社員採用では無いわけですよね。だから雇用に関しては、完全に企業が防衛に回っているわけですよね。そういうわけで、仕事がある時だけスタッフを呼ぶって形になる。でも、テレビですから、連続してスタッフが続かなきゃならないわけですよね。そうしますと、当時はクール契約というのがありまして、13本1クールで契約するんですよ。例えば『刑事くん』の13本を、あなたは何ヶ月かかって幾らですよっていう契約書を交わすんですよね。もちろん中には1本ごとの契約の人もいましたけれどね。そういう雇用システムを、少なくとも作品契約ではなくて、年間契約、つまり1年間の身分、ギャランティは保証するという要求に、どちらかと言えばより社員に近い形への要求ですね。それで私たちも組合を結成して自分たちの身分を守るために闘うんだということで、映画をやりたくて入ったはずだったのが、だんだん労働者権利獲得要求の労働組合の方に走って行っちゃって。もちろん作品そのものにはついていましたけど。そしてついに年間契約を勝ち取ることができたんですよ。社長・岡田茂の体制でね。そういう意味ではこれは契約労働者にとって画期的なことで、東制労(東映制作所労組)闘争と呼んでいるんですけれども。

 しかし、やはり資本というのは必ず牙を剥く時が来ますね。私たちとしてはここまで要求を勝ち取れば、次はできるだけ社員に近づくような、時間外手当を出せとか、退職金とまではいかないけれども、そういうことが出てくるわけですよ。そうしますと企業にとっては安全弁として契約者という臨時工を雇ったのに、そういうところまで要求されると、結局資本としてのうまみが無くなるではないかと。そしてある時、1970年の初頭でした。突然解雇通知ですよ。一切次の契約を更新しないと。それが組合員全員に。これは日曜日の朝に配達証明で届くんですよ。もう愕然として。資本は外部での制作体制など、もう用意周到に根回ししていましたね。それから約5〜6年の闘争、つまり無期限のストライキに入りましてね、闘うんですけれども、その間に自分でシナリオを書いたり、漫画の原作を書いたり、襖張りをやったりうどん屋をやったり、まあ様々にね。

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呉徳洙(オ・ドクス) Oh Deok-soo

1941年、秋田県鹿角市生まれ。1965年、早稲田大学卒業。1966年、『白昼の通り魔』(1966)の助監督を務め、その後も数本の大島渚監督作品に助監督として携わる。1968年、東映東京制作所に入所。『キイハンター』(1968-1973)、『プレイガール』(1964-1974)などのテレビ作品を手がける。1979年、東映を労働組合闘争をきっかけに退社し、闘争の解決金の一部をあてて雑誌『ちゃんそり(小言)』を在日仲間と発行し、評判を呼ぶ。制作プロダクションOH企画を設立し、1984年には、在日外国人に対する差別と管理の象徴である外国人登録法の指紋押捺制度に対する運動を描いた『指紋押捺拒否』を発表。以後、在日を多面的に捉えていく膨大な作業に着手し、戦後在日50年を記念して作られた『在日』は在日史のみならず、戦後日本史とも評される作品である。現在は『在日パート2』を構想計画中。

 

作品歴


1976  『熱と光をこの子らに』

1983  『車イスの道』

1984  『指紋押捺拒否』

1985  『いま、学校給食があぶない』

1986  『ナウ! ウーマン―女が社会を変える時』

1987  『指紋押捺拒否パート2』

1988  『まさあきの詩(うた)

1989  『祭祀(チェサ)

1990  『炭鉱(やま)の男たちは今』

1997  『戦後在日五〇年史 在日』

2003  『時代(とき)』*劇映画
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