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映画のドキュメンタリー性の変遷 第2回

ドキュメンタリーとサウンドの到来

ビル・ニコルズ


映画誕生100周年をふまえ、「Documentary Box」は映画と“現実”の関係の歴史を探る4回の連載を掲載することにしています。毎回異なる映画史研究家によるエッセイでは、ジャンルとしてのドキュメンタリー映画に関してのみならず、映画そのものの現実性はこの1世紀にどのように変わってきたかということについても取り上げてもらいます。小松弘氏による初期映画史におけるノンフィクションについての第1回に続き、この第2回では、ドキュメンタリーの主流を形成することにトーキーの到来がいかに影響を与えたかについて、サンフランシスコ州立大学のビル・ニコルズ教授に考察していただきます。

――編集者

長篇劇映画におけるサウンドの到来はだいたい1926年から1928年にかけて起こったが、この時期にドキュメンタリー映画にぴったり対応するような形でサウンドが登場したところは世界のどこにもなかった。シネマスコープやカラー、そしてその他の視覚的な効果 装置と同様に、サウンド・フィルムは技術的に可能になるずっと前からいつかは実現するものと考えられていた。もしトーキー映画が登場した時期を決めたのが技術的、資金的、また美学的問題や観客の期待の問題だったとするならば、解決方法は違ったものの、ドキュメンタリー映画にとっても同じような問題を検討することは重要な課題であった。(カラハリ砂漠のブッシュマンを撮ったジョン・マーシャルの作品や、ホームビデオ・レコーダーが登場するまでは一般 的に使われていた8ミリやスーパー8のホーム・ムーヴィーの例でも分かるように、1960年代半ば過ぎまでドキュメンタリーを無声で製作しても十分に通 用した。)

 1920年代後半のサウンドの到来が、映画業界に数々の物議(シンクロにするかしないかとか、キャラクターや映像に比べてサウンドを強調するかバックグラウンドにするかなどの問題)を醸し出したことはよく知られているが、ドキュメンタリー映画もまたサウンド導入に伴ういろいろな選択の可能性があった。例えば、詩的な表現をとるか詳細な人物描写に徹底するか、またスタジオ録音されたコメンタリーを使用するか人々の生活の生の声を使うか、などである。こうした中でどのような選択がとられたかを理解するには、ドキュメンタリー映画において解説的な形式が主流となり、それがいわばハリウッド映画でいう古典的製作様式となるに至った1920年代後半から1930年代後半にかけて、ドキュメンタリー映画そのものの性質と機能がどのようなものだったかという文脈で考えなくてはならない。

 歴史の様々な事象についての考え方を差し出す表象形式としてのドキュメンタリーは、ある制度的な枠組みとそれを実践する作り手の集団の存在に支えられ、また観客の特定の期待に対応するための特殊な慣習があってこそ成り立ったが、当然サイレント時代にはまだ存在しなかった。今日私たちが書く初期のドキュメンタリー映画の歴史は、歴史を振り返ることで得られる可能な範囲のある遡及的な知識に基づいて書かれていることは避けられないが、しかしそれでもその遡及的に得られた知識をその知識自体が存在していなかった過去にまで遡って投影させるわけにはいかない。初期の映画にとっては、今の私たちにとって自然な、または不可欠な学問的分類などはまったく無関係のものだった。そのころの映画は、演出されたものとそうでないもの、俳優と素人、事実と虚構などが無頓着に混ぜ合わさっていた。長篇劇映画が主流になった時に初めて、それ以外の形式が付随的なあるいはマージナルな位 置へと追いやられたが、それでも、必ずしもこうしたその他の形式がきちんと個別に差別 化されていたわけではなかった。初期の映画には多くの可能性が存在していたが、幾つかは記憶に残り多くは忘れられ、幾つかは採択され多くは無視され、また幾つかは賞賛を浴び多くはもの笑いに終わった。新しい時代は、このように記憶に残ったり賞賛されたような一連の事柄の再構築と、それまでの様々な歴史の脱構築により始まっていく。状況のなかで生き残ったものが新しい時代を開いていくというのは必然であると言わざるを得ないのだろうか。というのも何事も偶然には生き残らないからだ。

 劇映画の歴史の中で生き残り賞賛を得た作品資料の多さに比べると、1930年以前には、現在私たちがドキュメンタリーと分類する作品は驚くべきほど少ない。例えばエリスによる教科書的なドキュメンタリー映画の歴史には、1920年代のアメリカ、ヨーロッパ、旧ソヴィエトでの重要な作品として26作品が挙げられているのみで1、またジェイコブスは同じく20年代の重要な作品として22作品をリストしているに過ぎない2。このリストのなかで、アルベルト・カヴァルカンティの「時のほか何物もなし」(1926)などは十分に初期の実験映画としても分類できるが、長篇劇映画以外の映画全体が置かれていた当時の曖昧な状況を考えると、当然のことながらドキュメンタリーの初期の例とも十分に考えられるのである。このリストで分かるのが、この時代のドキュメンタリーの作品資料として挙げられるものが、今ではいかに限定されたものになってきてしまったかということだ。またここに挙げられた20年代の作品のなかに、一本としてサウンドを使ったものがなかったということも特筆しておくべきであろう。


 1895年の3月にルイ・リュミエールが彼の新発明であるシネマトグラフで「リュミエール工場の出口」を非公開に実演したとき、まるで生きている現実そのものがスクリーン上に現れたような衝撃を与えた。エリック・バーナウはこのショックを次のように記している。「見慣れた情景もこんなふうにあらためて見せられると、驚異の念を喚び起こされた」3。リュミエールが撮影の題材に自分の工場から仕事を終えて帰ろうとしている工場労働者を選んだのは、偶然とも卓見ともいえる。シネマトグラフを見た人は、たった今画面 で見たことはもう既に実際に見たことがあるかもしれないと証言することができた。もしトリックがあったとするならば、それはシネマトグラフが現実をそっくりそのまま写 しだしたかのように見せることだった。シネマトグラフの驚異的な迫力はなんといっても、見慣れた日常がまったくの非日常として、なおかつ驚くほどありふれたものとして再現されるのを見せることではなかっただろうか。

 明らかに、映画の初期の魅力の中心といえばそれは見慣れた世界を写しだせることにあった。息を飲むようなシネマトグラフの連続した映像の動きで運動が再現されると、そこに相乗効果 的に、現実の一部を取りだし枠組みのなかで時間を止めてしまう写真カメラの凍りついた不動のイメージに命が蘇り、並外れた力が浮上してきた。フィルムのコマのなかではミイラ化してしまったような人間が突然生き返り、再び動き始め、その上、それまでは決して取りかえしのつかなかったできごと、つまり過去の歴史、さえ復元してしまった。

 映画はそれまではまったく考えられなかった形での現実の資料館というものを可能にした。観客が認識できるというのがこの資料館の魅力だった。映像を見た観客は様々なレベルで認識する。例えば、まず全体レベルではいろいろな歴史的時代やその時代の人々を認識するかもしれないし、また別 のレベルでは、歴史上の有名な人物(ルーズヴェルト大統領やレーニン、ヒットラーなど)から、未だ映画に写 っているのを見たことがなかった個人的な友人などまで認識できたかもしれない4。映画によって伝わる現実の印象は、こうした観客の認識行為なしでは成り立たなかったし、そのことが初期の映画にある種の特別 な映画らしさを授けた。この映画らしさはその後、ドキュメンタリー・ジャンルの核心となってずっと残ることになる。

 1895年の12月にリュミエール兄弟が初めてシネマトグラフを公開実演してから15年ほど経ってから、やっと劇映画は歴史的認識という形に相当するような機能をものにした。すなわちスターの誕生である。劇映画がある強力な認識(それに加えて演技スタイル、物語構造、アイライン・マッチ、視点ショットなどの編集による同一化)のレベルを作り出すためにスターを使いはじめると、映像そのものが身体、個人(あるいは役者)、キャラクターという3つの要素から成り立つ複雑な形象とスターの発する魅力に集中し始めた。同時にスターの使用は、可能性として同様の将来性を持ちえた社会的な空間、特別 な集団や共同体、文化やその変容を表した形象から映像が離れていくきっかけにもなった。おそらく何の考えもなしにリュミエールが始めた、労働者を映像に表わすということは、旧ソヴィエト連邦の社会主義的な伝統表現には欠かせなかったが、それ以外のところではほとんど忘れ去られた。エスフィル・シューブ(「ロマノフ王朝の崩壊」(1927)、「偉大なる道」(1927)など)やジガ・ヴェルトフ(「キノプラウダ」(1922〜5)、「カメラを持った男」(1929)など)の驚くべきほど多岐にわたった作品、また劇的な状況に頼りすぎていると批判されたもののエイゼンシュテインの「ストライキ」(1925)や「戦艦ポチョムキン」(1926)などはすべて、いろいろな映画の可能性を示していたが、だんだんと主流のドキュメンタリーに追われ、その可能性の芽は潰されてしまった。

 1928年から1939年に多くの国で製作された労働者のためのニュース映画が辿った運命ほど、この抑圧を如実に表わした例はないだろう。アメリカ、ヨーロッパ、日本でもジガ・ヴェルトフのニュース映画と同じようなニュース映画が製作されたが(米国労働者映画=写 真連盟、オランダの大衆文化協会、ドイツの映画芸術のための人民協会、日本のプロレタリア映画連盟(プロキノ)などの製作による)、こうした史実がドキュメンタリー史から除外されているのは極めて通 例のことだ5。旧ソヴィエトの先駆者たちが他の国ではほとんど知られていなかったので、労働者ニュース映画は自分たちを、米国でいえば「マーチ・オブ・タイム」やオランダのポリグーン社で製作されたような商業的なニュース映画に対抗する別の可能性(オルタナティヴ)として位置づけた。商業用ニュース映画を編集し直して(時には新しい字幕タイトルを加えることもあった)別 の視点を作り出すか、あるいは特別に労働者階級の問題や話題に関する映像を見せたりするのが労働者ニュース映画の基本的な戦略だった。こうした運動は通 常国際的には共産党の新革命や人民戦線路線(1929〜1939)に関係していた。したがって、このような政治的なニュース映画やドキュメンタリーはたいてい、時事的な情報をリポートすることと根本的な矛盾を分析するという2つの相容れない使命のバランスをうまく取らなければならなかった。この困難な選択のために映画の活動家たちはしばしば2つの別 の映画作りへと進んだ。一つは政治的な組織作りを第一に目指した方向であり、もう一つは映画作りの形式そのものを苦心して作り上げていくという方向だ。ヨリス・イヴェンスといった映画作家や、後にナイキノ(1934)、フロンティア映画社(1937)を設立することになるアメリカ映画=写 真同盟のメンバーはいずれ後者の方向を取ることになる。一般的にはこれらの後者に属するグループが、ペア・ロレンツ、ジョン・グリアソンといった人々のドキュメンタリー作りに特徴的な政府の援助と管轄などとは無縁に、様々な集団、過程や課題に向けられたドキュメンタリーの映画形式を発展させていった重要な運動を代表している。


 ドキュメンタリーはまず、歴史的な世界を再現した、もしくはそこに最終的に立ち戻る映像を観客が認識することから始まる。これに映画作家はいろいろな方法で自分たちの生の声や見方を加える。ドキュメンタリーは、観察し、反応し、耳を傾けるという行為が、形を作り上げ、解釈し、議論をするという行為に結びつけられなくてはならないという複雑な表象の場をもたらす。ドキュメンタリーを見ているときにスクリーン上に見えるものが、歴史的な現実と言説的な構築とが(その半分だけしか見えないことも多いが)複雑に混ぜ合わさって出来上がっているものだということを、観客もだんだん分かってきた。認識がもたらす喜びだけでなく、他にも、倫理的な規範、政治的な勧告、精神的な警告、注意を促すような逸話、ロマン主義的な憧れ、魅惑的な田園詩などが新たに要素として加えられていった。作家の明確な主張を伴って歴史的な世界が再提示されると、政治家から詩人、冒険家に至る人々の注目をひくある利用価値がドキュメンタリーの世界に与えられた。こうして、現実を科学的ともいえる正確さで再現するだけでなく、観客に以前とは違った形で世界を見せることが可能になったのだ。

 このような流れのなかで、ノンフィクション映画は徐々にドキュメンタリーとアヴァンギャルドという主に2つの支流へと分岐していった。エリスやジェイコブスが挙げたドキュメンタリーのリストが示唆しているように、もちろん初期にはこの2つの様式がはっきりと分別 されていたわけではない。冒険心をもって回りの世界を探索し、それを認識できるような形で再現しようとした者は、同時に映画的な技術を駆使することによりその世界を作り直す方法を発見することにも興味を示したのだ。

 必ずしも両立しないわけではないドキュメンタリーとアヴァンギャルドという2つの傾向は、別 の見方をすると、私たちの文化状況のなかで見慣れた認識可能な世界を広げようとする20世紀における人類学的な衝動と、見慣れた認識可能な世界についていま在る仮定をゆさぶり、はっと驚かすことを目指したシュールレアリスム的な衝動をそれぞれ映画的に翻訳したものとも取れるかも知れない6。エリスとジェイコブスが、奇妙な組み合わせを狙ったシュールレアリスム的な衝動がもっとも鮮やかに表れている例として挙げているのが、ポール・ストランドとチャールズ・シーラーの「マンナハッタ」(1921)、ラルフ・スタイナーの「H2O」(1929)、「時のほか何物もなし」、ヨリス・イヴェンスの「橋」(1927)、ディミトリィ・キルサノフの「メニルモンタン」(1926)などの作品だ。逆に、「極北のナヌーク」(以下「ナヌーク」と略、1922)は奇妙なものがありふれたものに変わった例として最もよく知られた作品だろう。

 

 この、作り手の立場や、またその立場がほとんど気にならないか、あるいは非常に目立つかという点が、フィクション/ノンフィクションという区別 以上に重要な問題であることが多かった。例えば、ロバート・フラハティの「ナヌーク」が非常な成功を収めた大きな理由は、彼が、現存する世界をそのまま提示しようとするドキュメンタリー的な態度と控え目な表現(あまりにもあきらかに人道主義的だったがために)を目指した物語的戦略という2つを巧妙に組み合わせたことによる。フラハティのロマンティックな声で、ナヌークはドキュメンタリー映画の初めての「スター」となり、そして彼の自然との闘いは、ヒーローが障害や敵に立ち向かう古典的なハリウッド的おとぎ話のドキュメンタリー版ともいえるものになった。

 「ナヌーク」を劇場公開までこぎつけるのに成功したことが、フラハティがドキュメンタリーを創設したパイオニアとして名を成すようになった重要な鍵だ。そしてその成功は明らかに、劇映画の手法に見られる物語構造や、人間とその回りの世界の関係についての魅力的な(いわゆる人道主義的な)ものの見方をうまく利用することができた彼の才能による。中心的存在の「ナヌーク」に対照的なのが、ポール・ストランドの「波」(1936)の周縁性だ。「波」では「ナヌーク」と同じように劇映画的テクニックと物語構造が使われているが、フラハティの人道主義の替わりに、映画=写 真同盟の精神に近い広義での社会主義がとって代わっている。

 フラハティはそれぞれ独立したできごとを半ばつながったように見せかけるように編集するのを好まなかった。フラハティほど商業的に成功しなかったが、「ナヌーク」以前にエドワード・S・カーティスが「首狩り族の土地で」(1914)でこれを試みている。この作品は後に復元されタイトルが「カヌー戦争の土地」(1972)に変わったが、太平洋北西地方のクワキウトル族を舞台にしたノンフィクション物語で、明らかにフラハティのイヌイット族と北極のお話に精神的に通 じるものがある。カーティスは1シーン1ショットというタブロー的なカメラ・スタイルを使うに留まったが、フラハティはその一歩先を行き、クローズ・アップ、コンティニュイティ編集などの劇映画の編集技術を多く採用しながらも、実際の時間経過が重要だった場合には長廻しも非常に尊重して使った。またカーティスの物語は性的嫉妬、首狩りといったうさん臭い儀式や、概してメロドラマ的な過剰さが目立ち悪趣味だったが、フラハティはその代わりとしてある核家族(ナヌークの)についてのごくありふれた、その上心暖まる物語を用意した。

 フラハティは物語を語り、そして人々の生活を記録することを望んだ。「ナヌーク」以来多くのドキュメンタリー作家や理論家が、この物語を語ることと記録することが互いに相容れないものであるか、また作り手の声に頼りながらも、どのようにして特別 の効果を生み出すためにこの2つの目的を組み合わせることができるかといった問題に悩まされ続けたが、おそらくフラハティ自身は彼等ほどにこのような問題を気にすることはなかっただろう。

 最初はまやかしと論じられたが、物語を語ることがいかに歴史的世界に立ち入ってくるかという問題は、その後非常に広がって、本物であるかの実証、事実に即しているかの立証、また物語自体の効果 なども論争点となった7。初めは問題はもっと単純に見えた。論議は作り手の意図をめぐって展開された。もし過去の映像が得られなかったり(例えば、テディ・ルーズヴェルトがライオンを撃っているところとか、米西戦争におけるサンフアン・ヒルの戦いの迫力ある詳細など)、またカメラがアクセスできなかったり(イヌイット族のイグルーの内部など)した場合に、必要なできごとを再現したり、セットを使って再現したりするのは作家の一存にかかっていた。そこで、別 のライオンのフッテージをルーズヴェルトが実際に射撃している写真に取り替えてみたり、サンフアンの戦いをミニチュアを使って撮影し、爆発する船と葉巻の煙で最後の仕上げをするとか、実際「ナヌーク」では拡大したサイズのイグルーを半分だけ作ったというわけだ8。もしできごとそのものが周到な用意と大掛かりなステージ的な動きのアレンジを必要とした場合、カメラの位 置や動きまで事前にすべて計画されることも有り得た。レニ・リーフェンシュタールの「意志の勝利」(1935)が良い例だ。

 カメラで撮影する以前に起こったできごとをいかに効果的に記録するかという点で、ドキュメンタリー作家はそれをどうやって映画にすることができるかという矛盾した困った状況に遭遇することがしばしばあった。そこで過去のできごとを再現する、もしくは再構築するというのは、この袋小路を打開するのに自然な解決策だった。このようにリアルなものを作り上げるということを実践したのは、もちろん「ナヌーク」が最初というわけではなかった。少なくともカーティスが「首狩り族の土地で」で“文明社会と接触していない真の姿を撮ろうとして、苦心して(セットを)作り上げて”9以来、映画作家、人類学者、そして物語の語り手がそれぞれに狙った目標はまったく違和感なく共存しているように思われた。

 作家の意図が高貴なものであり、また観客がその意図をよしとした限りは、現実に創造的な手を加えることは躊躇なく受け入れられた。事実、こうした既にあるフッテージを創造的に再編集するという方法は、エスフィル・シューブや労働者のニュース映画の仕事にとっても基本原理となった。また同様にこの方法は、1930年代にジョン・グリアソンの下で作られた英国映画を見ていた観客のほとんどにもなんの問題もなく受け入れられた。(例えば「夜行郵便」(1936)や「ビル・ブルウィットの救出」(1936)などの作品にはかなりの演出と再現が行われていたが、それにもかかわらずである。)米国政府がスポンサーとなったペア・ロレンツの「平原を耕す鋤」(1936)や「河」(1937)でも、再構築や再形成によって作ったものを現実として差し出す似たような戦略が要となった。(この2本の作品はアメリカのドキュメンタリーに効果 的な音の使い方を導入したこともつけ加えておこう。)とにかく、フラハティのイグルーは批判されることはなかった。なぜならフラハティは「オリジナルな事柄に意図的に忠実であった10」 からだ。フラハティほど堅実でなかった作家でさえ同じことを信条としていたかもしれないが、フラハティほど意図が善意に満ちていたわけではなかった。このような場合、その善意のなさがいったんばれてしまうと、もはや手段を正当化するわけにはいかなくなった。初期のドキュメンタリー史では、歴史的な現実とある特別 な関係を保っていたのは個々のショットだったが、しかしそれでもショットを組み合わせる編集は、いわゆるごく普通 の経験的な意味合いで使われる本物らしさとか事実に忠実であることに、簡単に繋がっていたわけではなかった。このことはエイゼンシュテインやヴェルトフの作品、またエリスやジェイコブスが挙げた実験映画の例を思い起こすと非常によく分かる。大きなレベルでいうと、モダニズム的なコラージュに密接に関わっていたいろいろなモノと断片を繋ぎ合わせるというテクニックは、サウンドが導入されるまでは好奇心旺盛に使われた。しかし一度音が入り込んでくると、リアリズムに押されてすっかり遊び心がなくなっておとなしくなってしまった。

 それでも歴史的な本物らしさに対する観客の感覚と、創造上で自由裁量を行う作家の感覚が食い違わなければなんら問題は起こらなかった。その意味で模造とか歪曲といった非難は明らかに主観的な判断によっていたといえる。あるドキュメンタリーがそれ自身本物であるとかねつ造であるとかいう議論はほとんど有り得なかった。それは外的な状況判断と推測なしでは決められないことだったからだ。まさにこれゆえに、初期のアクチュアリテ、あるいはニュース映画は論争を極力避けた。それでもニュース映画でできごとが再演あるいは再現される場合は、それはもう既に観客のなかに存在していると思われた感情を一層高めるためであった。(米西戦争中に米国国民の感情としてあった反スペイン感情などが良い例だ。)反対に、自然が原因とは限らない理由で起きた悲惨な状況を映画があまりに正直に露呈してしまったときに、今度はその行き過ぎの正直さや真実らしさに対してねつ造という批判が使われるような場合も出てきた。例えばバーナウは、エディソン社の無名のカメラマンが西インド諸島で撮った初期の作品「汽船に石炭を供給し、金を奪い合う原住民の女たち」について言及しているが、この作品が「不安を与えたにちがいない11」とコメントしている。


 1920年代のアメリカのドキュメンタリーといえば、何といっても「ナヌーク」に代表されるだろう。それに同じくフラハティの「モアナ」(1926)を加える場合もあるかもしれない。このフラハティに代表される20年代のアメリカ・ドキュメンタリーの大きな文脈については既にある程度は触れてきたが、新たにここで労働者のニュース映画、アヴァンギャルド実験映画、そしてヨーロッパや旧ソヴィエトの作品に加えて、メリアン・クーパーとアーネスト・シュードゥサックの「草」(1925)と「チャング」(1927)、レオン・ポワリエの「黒い踏査」(1926)、先に挙げた「首狩り族の土地で」、またマルク・アレグレとアンドレ・ジイドの「コンゴへの旅」といった旅行映画や人類学映画を加えなくてはならない。

 また別の流れもある。これは物語を語りながらも本物であろうとした点でフラハティに近いものがあるが、古くはメリエスの「マオリ族の女酋長に愛されて」のようなドキュメンタリー・ロマンスまで遡るが、それにもっとセンセーショナルなものを狙ったマーチン・ジョンソン夫妻の「コンゴの驚異」(1931)や“大猿と小人”12 についての「コンゴリア」(1929)、フランク・バックの「奴等を生け捕りにしろ」(1932)、またこうした一連の作品を徹底的に嘲笑したルイス・ブニュエルの「糧なき土地」(1932)といった作品が挙げられる。中には商業的に成功した例もあるが、これらの作品はフラハティが享受したような賞賛はもちろんのこと、理にかなった批評などさえ受けることはまったくなかった。

 フラハティにとってもっぱら関心があったのは、ドキュメンタリーのシュールレアリスム的な側面 ではなく人類学的な側面だった。おそらく劇映画におけるフラハティともいえるチャールズ・チャップリンのように、フラハティの感性と姿勢はいつも過去に向かっていた。サウンドに頼ることなく(チャップリンもフラハティも決してサウンド映画を完全に受け入れることなく、1940年代半ば位 まで無声映画のスタイルと構造を好んでいた)、説教や説明をする誘惑も避けながら、フラハティは、それぞれまったく異なる人々の間の共通 性を伝えるために個々のヒーローについての物語を語るという方法に頼った。ロマン主義者で、またエリスが示唆するようにおそらく「古典的」13だったでもあろうフラハティを理解するには、彼をチャップリンやルノワールのようにヒューマニストだった考えるのがベストだろう。しかしヒューマニズム自体は、私たち自身の文化を別 の文化の親族関係や社会的価値に投影することを必要とした。それはとりわけ核家族構造に、強い父親、それを支える母親と成人する息子というパターンに顕著に現れている。フラハティの作品に出てくる家族は、撮影のために入念に配役され集められた。だが、ここでの文化的投影はその限界にもかかわらず並外れた説得力を持っていた。もちろんこのことは、フラハティが撮影した文化について何が本物で何が投影にすぎないかを判断するに十分な知識を持っていた者がほとんどいなかったというせいでもあるのだが。

 本物と投影が入り混じっているというこの事実が明らかに分かる例の一つが、「ナヌーク」の物語の中心である、ナヌークと厳しく近づきがたい自然との闘いだが、この話は後に「アラン」でも、もう一度繰り返されることになる。いずれのケースでも狩猟に対する意気込みそのものはとっくに過去のものとなっており、その本物らしさを作り出すためにフラハティは、時には役者の命を危険に晒し、また時には役者の肉体的あるいは心的苦痛を撮るためにわざと一切の手助けもしないという犠牲まで払わなくてはならなかった。ここに有名な逸話がある。「モアナ」を撮るためにフラハティはサモア諸島まで出かけていったが、そこには人間と自然との闘いなどなかった。サモアでは自然は優しく、食べるためには木から落ちたココナッツを拾えば済んだのだ。困ったフラハティに按配よく見つかったのが刺青という昔からの習慣で、これでやっと苦難の物語を撮ることができるようになったというわけだ。

 この時点で、狩猟や刺青といった習慣を自分自身の文化的伝統のなかに置くことができなかったフラハティ自身にとって、どの程度まで自然との闘いがロマン主義的ヒューマニズムの投影の産物であったかということがいっそう明らかになってきた。十分な食べ物があって苦しい刺青の儀式が存在しないからといっても、決して太平洋諸島が田園的な社会などでなかったのは、マーガレット・ミード以来人類学者が教えてきたことだ。部族間の関係、親族構造、性的欲望、自己評価また社会的地位 といった様々な複雑な事情が、人間=自然といった基本的な形の葛藤以外にもまして問題となった。しかしこうした複雑な事情は、非凡で、尊敬の念に溢れ、寛容でありながらも非常にノスタルジックであり、文化的には限定されたフラハティの世界観や理解を越えていた。

 皮肉なことに、フラハティはアメリカ・ドキュメンタリーの最初の著名な歴史文献家(ヒストリオグラファー)であると考えられるもしれないし、政府のスポンサーで洪水と干ばつについての詩的な「河」や「平原を耕す鋤」といった作品を作ったペア・ロレンツを、最初に賞賛を浴びた民族誌学者として考えられるかもしれない。ここでいう歴史学や民族誌学というのは歴史家や人類学者によって定義された意味で使われてはいない。むしろ、過去(フラハティやカーティスの場合)と現在(ロレンツとグリアソンの場合)を表象しようとする別 々だが両立可能な、2つの衝動を示している。この文脈で考えるとロレンツもまた、サウンドの到来を導き、そのまま1960年代半ばまで(それ以後までかもしれない)主流の表象様式となったドキュメンタリー形式に、きわめて接近していることになる。ドキュメンタリーの主流となるトーンが、それまでの憧れ、魅惑、田園詩的な物語から徐々に熱心な勧告、警戒、それに提案へと取って替わっていった。それは、映像だけでは決して完全には作り得ない、サウンドあってのトーンだった。

 アメリカ中西部から選り集められたありとあらゆるイメージをカタログ的に満載したロレンツの映画は、ヒーローとその闘いというそれまでのパターンをはるかに越えていた。ここでは人間対自然ははるかに広大なスケールで起こった(それでも政府の手に負えない範囲ではなかったが)。明らかに違う時代や場所からのイメージを組み合わせて映像を作っていくやり方は、モダニズムの伝統であるコラージュにまだ属していたが、アメリカでロレンツが、またイギリスでグリアソンがこのやり方を採用したときには、コラージュが元来持っていた過激な辛辣味は完全に消滅しかけていた。エスフィル・シューブや労働者ニュース映画が成し遂げたコラージュによる意味の完全な逆転は、もっと統合された論争スタイルのせいで姿を消すことになった。

 コラージュが生んだショックというのはまったく前例がないものだった。第一次世界大戦の頃になって、ピカソの「ヴァイオリン」(1913)からジョイスの「ユリシーズ」(「ナヌーク」と同じ年の1922)、プルーストの「失われた時を求めて」(1919〜25)、タトリンの「絵画レリーフ」の初展示(1914)からアポリネールの「カリグラム」(1918)にいたるまで、コラージュはいたる所で見られるようになった。後に「バレエ・メカニック」(1925)を製作したフェルナン・レジェは1923年にこう記している。「戦争が私を一兵士として機械的な雰囲気の真只中へと突き落とした。ここで私は断片の美を発見した。」 14

 混乱、疎外、断片化といった現象の究極と日常のフォルムである、戦争と都市にコラージュは属していた。フラハティはコラージュを使わずに済ませたが、ヨーロッパや旧ソヴィエトの芸術家たちはそれを避けて通 るわけにはいかなかった。コラージュは支離滅裂な社会体験に見合った美学的原理となった。不意をついたような組み合わせと不気味な連想が生む不協和音効果 は、ロシア形式主義の基本的な方針となった。

 異化(オストラネーニェ)、ダダイズム、構成主義、エイゼンシュテインのアトラクションのモンタージュ、あるいはブレヒトの異化効果 (ヴェルフレムドゥングゼフェクト)などのように、コラージュ原理は時間、空間、そして世界そのものをシステム変換して、断片へと変えてしまう。もちろんこの断片は、われわれを恐怖へと陥れるかもしれないし、反対にワルター・ベンヤミン的に言えば、伝統のもつ絶対的権力からわれわれを解放するものとなるかもしれないが。

 一般的に言って、ノンフィクション映画はコラージュの可能性を限り無く広げることができる格好の場だった。ノンフィクション映画はキャラクター中心の劇映画、特に古典的ハリウッド映画とは違って、時間と空間のコンティニュイティを作っていくためのしきたりに縛られていなかった。論点を作ったり裏書きするために、どんなイメージを一緒にしても問題はなかった。劇映画の場合、キャラクターの世界から逸脱したことを見せるわけにはいかなかったし、視覚的モンタージュを精一杯活用するにしても、せいぜい夢、フラッシュバック、ファンタジー、また抽象的に物語の要点を見せるための場面 しかなかったが、ノンフィクションにはまるでそんな制限はなかった。ドキュメンタリーでは、結果 に形と意味を与える作家の声と観客の側の解釈行為さえきちんとあれば、どんな組み合わせも可能だった。

 映画におけるアヴァンギャルドとドキュメンタリーという2つの傾向に共通して、この世界の断片をアレンジし直すという機会があった。だが、ノンフィクション映画にサウンドが導入されると、この2つの傾向はだんだんにはっきりと別 れるようになってきた。一方、このプロセスは非常にゆっくりしたもので、長篇劇映画のサウンド到来の時期と重なることはなかった。1930年代前半を通 じてたくさんのサウンドの使い方がでてきたが、多くは対位法やノン・シンクロサウンドを使って、音のコラージュともいえる方法を追及した。実例を挙げてみると、「セイロンの歌」(1934)、「夜行郵便」、ヴェルトフの「熱狂――ドンバス交響曲」(1931)、ポール・ローサの「ペットとポット」(1934)、ジョン・グリアソンがプロデュースしたフラハティの「産業の英国」(1933)といった作品がある。ドキュメンタリーをハリウッドの別 の可能性(オルタナティヴ)として定義し、一般にもっと広めようと努力していたグリアソンは、その結果 、1930年代初期にサウンドの実験をかなり行なった。ラヴェルとヒリアーが特に言及したように、グリアソンの下でドキュメンタリー運動は「音を自然にではなく使う方法を実験する演習室になった。」15

 しかし、ついには支配的な様式が英国のドキュメンタリー運動内部から起こり、アメリカにも広まった。その様式では音の使い方はスピーチに集中し、そのうえスピーチも修辞的な断言に限られてしまった。そのスピーチは神の声として知られるようになり、その断定的な主張は啓蒙主義、さもなければプロパガンダと称されるようになった。ペア・ロレンツが彼の2つの代表作を作ったのは、まさに、英国の「住宅問題」(1935)、「喫煙の害」(1937)に加えて「マーチ・オブ・タイム」のようなサウンド・ニュース映画に代表されるこうした流儀がますます支配的になってきた最中であった。民族誌学的な衝動は観察に基づいたというよりは、論争的なものになった。ただし、それは文化人類学、また後のシネマ・ヴェリテあるいは、ダイレクト・シネマにおいては観察的な衝動としてそのまま残ったのだが。コラージュは、解説的な論理に無理やり押しつけられ無味乾燥なものになってしまった。というのもこの論理では、映像が寄せ集められた断片となったときに発揮される潜在能力を最大限に活かすためではなく、基本的に、問題解決を狙った解説の声が言葉巧みに主張する意見を証明するための挿絵として映像が使われているからだ。コラージュ、サウンド、そしてドキュメンタリーはスポンサーに用立てるために、いわば飼い慣らされた。スポンサーは、それこそスターリニズムからニューディールまで、政治的にもその望みとするゴールは極端に違っていたが、このスポンサーの影響力は避けがたく、ドキュメンタリーの主流となる形式を与え、同時にドキュメンタリーのより複雑な多様性と潜在的な破壊力を奪っていった。1930年代も終わりに近づく頃には、必ずしも大手を広げて受け入れられたわけではないが、ドキュメンタリーのサウンド導入もほぼ完成した。そしてドキュメンタリーは、豊かになった(潜在的に)とも、貧しくなった(多くの実践において)とも言えるのである。

(訳:斉藤綾子)


(注)

1. Jack C. Ellis, The Documentary Idea: A Critical History of English-Language Documentary Film and Video (Englewood Cliffs, N.J.: Prentice Hall, 1989): pp. 27〜28, 44, 56〜57.

2. Lewis Jacobs, ed., The Documentary Tradition, 2nd. ed . (N.Y.: Norton, 1979): p. 70.

3. Eric Barnouw, A Documentary History of the Non-Fiction Film (New York: Oxford UP, 1974): p. 7 (エリック・バーナウ、近藤耕人訳、佐々木基一、牛島純一監修「世界ドキュメンタリー史」(日本映像記録センター、1978、4頁)。

4. Bill Nichols, Representing Reality: Issues and Concepts in Documentary (Bloomington: Indiana UP, 1991): pp. 160〜164.

5. 以下の文献を参照。William Alexander, Film on the Left: American Documentary Film from 1931 to 1941 (Princeton: Princeton UP, 1981); Bert Hogenkamp, "Workers' Newsreels in Germany, the Netherlands, and Japan During the Twenties and Thirties," " Show Us Life": Toward a History and Aesthetics of the Committed Documentary , ed.Thomas Waugh (Metuchen, N.J.: Scarecrow Press, 1984); Bill Nichols, "American Documentary Film History," Screen 13.4 (Winter 1972-1973): pp. 108〜115.

6. James Clifford, The Predicament of Culture: Twentieth-Century Ethnography, Literature and Art (Cambridge: Harvard UP, 1988): p. 145.

7. Michael Renov, ed., Theorizing Documentary (New York: Routledge, 1993)とHayden White, The Content of the Form (Baltimore: Johns Hopkins Press, 1987)を参照。

8. Barnouw, pp. 24〜26, 38 (バーナウ、31〜33頁、44〜45頁)。

9. Emilie de Brigard, "The History of Ethnographic Film," Principles of Visual Antholopology , ed., Paul Hockings (The Hague: Mouton, 1975): p. 19 (エミリー・ド・ブリガード、谷田貝常夫訳、"民族誌フィルムの歴史"、P・ホッキングス、牛山純一編、石川栄吉監修「映像人類学」(日本映像記録センター、1979)、21頁、(訳は若干変更した)。

10. Barnouw, p. 38 (バーナウ、45頁)。

11. Barnouw, p. 23 (バーナウ、31頁)。

12. Barnouw, p. 50 (バーナウ、57頁)に引用。

13. Ellis, p. 25.

14. Susan Sontag, On Photography (New York: Delta-Dell, 1973): p. 204 (スーザン・ソンタグ、近藤耕人訳、「写真論」、昌文社、1979、211頁)に引用。

15. Alan Lovell and Jim Hillier, Studies in Documentary (London: Secker and Warburg, 1972): p. 28.

*このエッセイのオリジナル・バージョンはスペイン語で「Historia General del cine」(Manuel Palacio共編、Catedra Publishers発行)に掲載された。


ビル・ニコルズ


サンフランシスコ州立大学の映画学の教授。世界中に利用される「Movies and Methods」第1・2巻というアンソロジーを編集のほか、「Ideology and the Image」、「Representing Reality」を執筆。近著「Blurred Boundaries」。