南アジアにおける
ドキュメンタリー映画
―ネパール、インド、そして南アジア映画祭―
ディーパック・タパ
1994年のフィルム・ヒマラヤ'94が原型となって始まった南アジア映画祭(フィルム・サウス・アジア)は、南アジアに地域を絞った初めてのドキュメンタリー映画祭です。インド、パキスタン、バングラデシュ、ネパール、スリランカ、チベットなどの国々を対象とするこの映画祭は、南アジアの社会評論誌『Himal』によって運営されています。 第1回の映画祭は1997年9月にネパールのカトマンズで開催され、55本の作品が上映されました。審査員により3つの賞が授与され、ネパールのツェン・リータル監督による97年作品『祈祷師』(YIDFF '99「アジア千波万波」にて上映予定)がグランプリに輝きました。さらに15本が「南アジア映画祭巡回上映」に選ばれ、98年の春から夏にかけてインド、パキスタン、バングラデシュ、スリランカ、米国、英国、ドイツそしてオランダの各地で、大学や映画関連の機関で上映されました。 今秋には、再びカトマンズにて南アジア映画祭'99が4日間の日程で開催され、コンペティション部門では40のドキュメンタリー作品が上映されました(詳細は、URL: http://www.himalmag.com/fsa/を参照のこと)。『Himal』のジャーナリストで、南アジア映画祭の運営にも携わるディーパック・タパ氏が、南アジア地域のドキュメンタリー製作についての歴史と将来について語ります。
――編集部
1999年9月30日から4日間、南アジア映画祭'99というひとつの映画祭がカトマンズで開催され、南アジアのいたるところから、あるいは、それ以外の地域から、映画とその監督たちが集結した。南アジアの雑誌『Himal』によって組織される南アジア映画祭'99は、その雑誌が主催する3度目の映画祭であり、南アジアの映画を対象とするのは今回で2度目となる。その雑誌が主催した最初の映画祭はヒマラヤ映画祭'94であり、ヒマラヤ地域のドキュメンタリー映画や劇映画が一堂に会するのはそれが初めてのことだった。1996年に、『Himal』がその対象とする範囲を南アジア全体へと拡大することで、南アジア映画祭が誕生した。
『Far East Economic Review』や『Asiaweek』のような東アジアのニュース雑誌とは異なり、『Himal』は表面下に潜む問題を取り上げ、それを分析する雑誌だ。ドキュメンタリーの映画監督のように、メディアの主流からは一般的に言って無視されている問題を、その雑誌は照らしだす。ドキュメンタリーは、おそらく、社会変革を推し進めるもっとも強力なメディアといえる。だから、ドキュメンタリー映画祭を組織することは、何らかの点で、雑誌がその記事を通してやってきたことを、単に、拡張するだけだった。
皮肉なことに、その雑誌が本拠地を置くと同時に、南アジアのドキュメンタリーを対象とする唯一の映画祭の開催地であるネパールには、一般的な意味でのドキュメンタリー映画をつくるという伝統がない。ネパールにおけるドキュメンタリー映画製作の歴史は、1990年まで30年にわたってこの国を支配した、パンチャヤット体制期* に作られた、プロパガンダのようなニューズリールまで溯ることができる。基本的に、これらの映画はその当時の政府が“達成したこと”を強調する映画や、当時全権を握っていた君主政体を理想化するような映画であり、劇映画の定期的な上映の前に映画館で見せられるために作られたものだった。
1985年にテレビがやってくると、新しい種類の映画とその製作がネパールにもたらされた。比較的安いコストで、扱うのにも融通が利く媒体であるというテレビの利点を生かせるということで、多くの映画監督がこの状況へ加わり、国営の放送網であるネパール・テレヴィジョンで放映されるドキュメンタリーを大量に生産し始めた。
初期に作られた映画は、ネパールの自然の素晴らしさを描くためにその視覚メディアを用いようとしたものだったが、映画監督たちはやがて、“開発/発展映画”(development films)を作り始めた。“開発/発展映画”とは、様々な開発機関が自分たちの目標を促進するために製作を委託したドキュメンタリー映画のことである。テレビ放送が始まった頃は、国営テレビ局はこうした映画を放送時間の埋め合わせに使っていたのだが、次第に放映しなくなっていった。これらのドキュメンタリー映画の質については目を見張るようなものは何もなく、それが消えていったことも、とりわけ、悲しまれるべきことではなかった。だが、これらのドキュメンタリー映画が、その芸術的な側面にもかかわらず、特に開発について、そして、一般的には統治について反抗的な問題を提起しがちであったことも明らかだった。
とはいうものの、ここにひとつのスタートが切られ、若い映画作家の世代はこのジャンルの映画の要求を満たすべく、映画を作り始めた。ネパール・テレヴィジョンでは差し障りのない、説明的なドキュメンタリー映画を製作し始めたが、能力のある若い映画監督たちの大部分が“開発/発展映画”を作ることに留まった。“開発/発展映画”を撮っていればネパール・テレヴィジョンの官僚主義的な干渉なしに自分たちのしたいことをする機会が与えられているからであるが、さらに重要な理由は金銭的なものだった。クライアントの指図がネパール・テレヴィジョンと同様に厄介だと思うことも、作られた映画が、はるか遠くの欧米の都市のある場所で、ほんの少しの人々にしか観られないということも気にかけない。こうした映画を作っている監督たちは、たいてい、自分たちが利益のために映画を作っていることを率直に認める。そして、ここから抜け出して“意味のある”映画を作ろうと望んでいるのだが、今までのところ、脱出できたものは誰一人としていない。南アジア映画祭'97に選ばれたネパールのエントリー作品のなかで、“開発/発展映画”を作っていた監督の作品は1本もなかった。
また、ネパールのドキュメンタリー映画の状況の行き詰まりがさらに目立ってしまうのは、隣国のインドのことを考えるときである。インドでは、ドキュメンタリーというメディアが、はるか以前にひとつの試みだと考えられており、それが、実際、南アジアのドキュメンタリーの力と南アジア映画祭の存在理由を論じる際に関連してくることになる。
1896年7月7日、リュミエール兄弟がパリのサロン・インディアンで映画を上映してから1年後、ハリーシチャンドラ・サクハラム・バトワデカルはボンベイのワトソンホテルで行われたインドで初めての映画上映で、彼らの映画の何本かを目にした。バトワデカルはサウェ・ダーダーとしても知られるが、(このことがきっかけとなって)インドで最初のドキュメンタリー映画を作ることになる。その2本の映画は、1本がレスリングの試合を撮ったものであり、もう1本は猿回しの調教の模様を撮ったものだった。これらの映画は1898年にボンベイの野外劇場で上映された。バトワデカルはインドの王たちの戴冠式や、その他の儀式をフィルムにおさめ、これらの映画はインドで初めてのニューズリールとして知られている。
1910年、ボンベイの映画館で『La vie et la passion de Jésus-Christ(イエス・キリストの生涯と受難)』(1898)を観たドゥンディラージ・ゴーヴィンド・ファールケは映画を撮ることを決意する。彼の最初の作品、『The Growth of a Pea Plant(えんどう豆の誕生)』(1912)は撮影を6週間を行い、“コマ抜き(低速度撮影)”技術は強い印象を与え、彼は製作資金を手にすることになる。ダーダーサーヘブ・ファールケとして一般に知られていた彼は、続いてインドの映画産業の基盤を用意する。彼は数多くの劇映画を作ったが、短編映画とドキュメンタリーも作り続けた。『A Game of Matchsticks(マッチ棒のゲーム)』(編集者注:インド初のアニメーション作品)や『How Films Are Made(いかにして映画は作られるか)』を作ったが、後者は、映画について国民を教育しようと試みたものだった。
インドのドキュメンタリーはニューズリールとともに発展し続けた。例えば、クエッタ(現在パキスタンにある)で起こった1930年代半ばの地震を撮ったものがそのひとつであり、被災地の実情を解説し、救済資金を集めるのに使われた。しかし第二次世界大戦が起こると、映画産業はフル稼働するようになる。イギリスの植民地政府は映画のプロパガンダとしての価値を認めており、映画諮問委員会(Film Advisory Board)を設立して人的資源や物資がどうしても必要とされると映画を利用した。その一方で、委員会の議長、J. B. H. ワーディアは教育に対する映画の潜在的な可能性を認識し、戦争とは関係のない、一連のドキュメンタリー映画をつくった。
イギリス政府は、また、映画館での各上映の前に政府が認めた映画を強制的にかけるようにした。この規則はインド独立後も存続し、その直接の受益者は政府の政治機関である映画局だった。映画館は映画局の映画を上映しなければならないだけでなく、特別税を払わねばならなかった。映画局による映画空間の私物化に対して、インディペンデント系の映画監督たちは団結して自分たちの足場を強固なものにしなければならないと感じていた。この動きの組織化に貢献したのがポール・ジルスであり、ヒトラー政権下のドイツから逃げてきたこの人物は、独立後、インドの指導的なドキュメンタリー作家のひとりになる。ジルスは短編映画組合を率いて映画局とインディペンデント映画監督たちとの間でいくつかの共同製作を試みた。彼は、また、ボンベイとデリーの映画祭を立ち上げ、インド・ドキュメンタリー・プロデューサー協会も設立した。
映画局の方でも何本かの印象的なドキュメンタリー映画を製作したが、その真の意味での開花は1960年になって経営が新しくなってからである。ニューズリールに加えてたくさんの意義ある映画がこの時期に作られ、ジルスのかつてのアシスタントだったS. スクデーヴを含めた本当に多くの映画作家がそのシーンへと入っていった。1958年、スクデーヴは『The Saint and the Peasant(聖者と小作人)』という、ヴィノーバー・バーヴェ師に指導された土地改良運動についての映画を撮ってデビューしたが、彼は活動家としての映画作家という概念を持ちこんで、多くの政治的な映画を作った。
43才というスクデーヴの早すぎる死の後で、タパン・ボースはその活動を引き継ぎ、同じように政治的な性質を帯びた映画を作った。ボースの映画の多くは上映を禁止されたが、このことは、インドの政治体制がこうした政治的な主張をどのように見ていたかを悲しく物語っている。『インディアン・ストーリー』は、ビハール地方で裁判を待つ拘留中の人々が警察の拷問によって失明するという映画で、インド政府によって優秀な映画作品に送られる、インド国家賞を受賞したにもかかわらず、上映するのに裁判で争わなければならなかった。
ちょうど同じ頃、アナンド・パトワルダンはドキュメンタリー映画をひとつの運動へと変え、そうした映画が尊重されるべき環境を生みだそうとしていた。それでもなお、インドの非常事態期**に作られた『Waves of Revolution(革命の波)』や『Prisoners of Conscience(良心の囚人たち)』といったパトワルダンの映画は上映を禁止された。ウトゥパレーンドゥ・チャクラヨティやゴータム・ゴーシュのような映画監督たちもまた、同じようなかたちで映画を作っていた。
インドのドキュメンタリー映画は、こうした革新者たちが被ってきた試練によって定義されてきたし、活動家的でないインドのドキュメンタリー映画を考えることはほとんど無理だ。稀に、鋭い言及を避ける映画があるかもしれないが、概して、(インドの)ドキュメンタリーは、自らのなすべきこととして、社会的なコメントを行なってきた。
インドの多くのドキュメンタリー映画作家はその作品に対して評価を受けてきたが、映画を観ることの側には問題が残されている。インドのような経済の中では、映画製作は費用のかかるものだが、この分野への政府の援助がないのだ。加えて、映画監督たちは検閲と配給の問題と闘わなければならない。国営電波ではドキュメンタリーを上映することはまずあり得ない。非体制的なメッセージを含んだものはなおさらだ。国営放送局がこういったドキュメンタリー映画を放映する前には、裁判所の許可が必要となる場合もあった。公共サービスを提供する義務のない(民営の)衛星テレビ局を相手にしては、この状況はより差し迫ったものとなっている。というのも、大政府に対してはっきりとした立場を取る活動家のドキュメンタリー映画は、大企業に対しても対立することになりがちなのである。(民営の衛星放送では、公共放送に対して裁判所の強制的な権限も適用されないので、政治的なコメントを持つ映画を上映するために、裁判所に訴えても無駄なのだ―訳者)
にもかかわらず、映画監督たちは映画を作り続け、それを上映するために様々な手段をとっている。自分のフィルムとともに旅をし、設備があればどこでも上映を行なうといった監督もいれば、映画上映サークルのルートに作品をのせる者もいる。だが、そうはいってもドキュメンタリー映画は限られた地点までにしか到達していないままだ。映画に対する観客の鑑賞力やそのインフラストラクチュアという点で、最も優れた南アジアの中心地となっているインドがこうだとすれば、この地域の他の国々の状況を想像することは難しくない。
だからこそ南アジア映画祭のようなイベントが必要なのだ。ドキュメンタリー映画に国内的にひとつの販路を供給するための映画祭もいくつかあるのだが、南アジア映画祭だけが地域全体から映画監督を集め、それぞれの作品を見せ合い、意見を共有する機会を持つ。それは、また、彼らの作品を潜在的なバイヤー、とりわけ、南アジアや他の地域の放送局に見せるための舞台として考え出されたものだ。このことについて言えば、1997年の映画祭は特に成功を収めたというわけではなかった。しかし、ドキュメンタリー映画製作という点で、南アジアがひとつの地域であることを人々に認識させ、映画監督の存在を社会全般にあまねく知らしめることには、映画祭は本当に成功したのだった。映画祭の審査委員会によって南アジア映画祭'97から選ばれた15本の優秀作品からなる「南アジア映画祭巡回上映」は、南アジアと欧米のおよそ50の都市を巡回した。
1999年の映画祭が終われば別の優秀作品が選ばれることになるが、ドキュメンタリー映画を南アジアの地図上に広げてゆく試みは('99の)映画祭の間に始まると言ってよい。「南アジアにおける公共放送」と題されたワークショップでは、メディア研究者や地域のメディア・ビジネスのトップが集まることになる。主催者側が望むのは、ワークショップの席上で、衛星放送でのドキュメンタリー映画の放映時間を今以上に増やすことにまで議論が及ぶことである。南アジアの国境を越えた様々な経験や状況がひとかたまりになり、いまや、ドキュメンタリー映画は最も強力なメディアとなっているのだから、これは実現可能な提案である。映画監督の経験が示してきたように、観客とは必ずしもその地方のエリートに限られたものではない。むしろ、観衆はこの提案に同じように理解を示している。映画館で劇映画の前に上映された、飽き飽きするようなニューズリールが上映されてから、ドキュメンタリー映画は進歩してきた。テクノロジーの変化により、ドキュメンタリー映画の製作と放送に対する潜在的な可能性が豊かになる中で、ドキュメンタリー映画の夜明けが、いよいよ始まるのかもしれない。
(訳:土田 環)
(訳注)
* パンチャヤット体制 ネパールの立法制度。1990年4月廃止。5人の村落の長老による協議制度で、国王の専制を制度的に保証した。
** インドの非常事態期 1975年6月から1977年まで続いた、ガンジー首相による非常事態宣言を介しての強権政治の展開のこと。
■ ブラウザによっては正しく表示されない欧文文字があります。