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ジャパノイド・オートマトン

表徴の準帝国

上野俊哉


今や世界各国で日本人が最初にされるステロタイプ的な質問は、かつてのように「ゼンとは何?」ではなく「オタクとは何か?」という問いになりつつあるし、外国人にとってオタクが社会学や文化研究の対象となるケースも出てきているが、こうした現状にわたしは根本的に懐疑的である。したがって「ジャパニメーション」というかたちで日本のアニメが各国、各都市で評価されている現実についてもわたしは批判的と言わざるをえない。理由はきわめて単純素朴である。

この現象はあくまでもグローバリゼーション、情報資本主義の帰結として位置づけられる。アメリカニゼーションからジャパニゼーションへと資本主義の文化=経済モデルが移っていく際、政治的、軍事的ヘゲモニー以外の領域が積極的に「開発」され、文化は情報資本主義における生活世界の植民地化の優先対象となる。この流れに日本のちっぽけなアニメ産業がのっただけのことであり、今のところ基本的にはそれ以上の現象ではない。

この現象にひそむ戦略は陳光興の洞察力あふれる用語を使って言えば、「準帝国主義」の効果 にほかならない。「準帝国」とは陳によれば帝国主義における「依存的二級帝国」であり、経済と文化によって他の地域や文化に介入するタイプの支配的権力システムを指している。帝国主義が文化の領域において今もなお強力に作動していることは、エドワード・サイードが「文化と帝国主義」において示して見せたとおりだが、「準帝国主義」もまた文化、とりわけ大衆文化やサブカルチャーの領域において大きな力をふるうことになる。準帝国主義はこの意味でサブ(カルチャー)帝国主義でもある。

こうしたごく基本的な反省のないところに、「日本文化」としてのオタクを無批判に肯定するような言説を弄する岡田斗司夫のような輩が現われる。全く体をなしていないとはいえ、岡田の言説は疑似的な社会学を装ってはいる。数年前、佐藤健志のようなうんざりするほど典型的な保守反動のライターがちょうど文壇における福田和也のような反動ぶりっこ"の格好で一連のアニメ作品批評を「戦後民主主義批判」として展開したときも状況は深刻だったのだが、岡田のようにオタクを無条件に称揚し、それをナショナルかつ世界的な文化として立ち上げようとする言説はさらにたちが悪い(言っておくが、わたしには「うんざりするほど典型的な」愚鈍な左翼を演じる用意がある)。

なるほどハリウッド映画と日本のアニメの間の相互引用とパクリ合いは考察に値する。しかし、意味も文脈も欠いたままこの文化的な象徴交換を単に消費し、そればかりかそこに「日本文化」が実体として立ち上げられるのは危険な症候と言わざるをえない。その昔、クラフトワークがライヴにおいてアンドロイドや機械のような身ぶりをしてみせたとき、彼らはデュッセルドルフの日本人サラリーマンをモデルにしていたという。ロボットのようにお辞儀を繰り返し、無表情なくせに意味もなく笑う日本人にアンドロイド的な印象があったとしても不思議ではない。ここには「ジャパニメーション」の秘密、つまり、なぜ日本においてかくもアニメが異常に進歩したのか? という問いの核心がひそんでいる。

デヴィッド・モーレィとケヴィン・ロビンスは「同一性の空間」の第八章「テクノ=オリエンタリズム、ジャパン・パニック」において、西欧の日本人に対するステレオタイプは日本人を亜人間(サブヒューマン)として見ることにあると指摘している。まるで感覚も情念も人間性もないかのように見える日本人は、エイリアン、サイボーグ、レプリカントのような存在として見つめられる。オリエンタリズムやクセノフォビアの基本は、一種の文化的"自惚れ鏡"を通 して異文化、別地域の他者を劣位におくことであった。文明と野蛮、近代と前近代といった二項対立が、西欧と非西欧の地勢的配置に投射され、そこに諸々のステレオタイプが生まれる。劣位 の主体は時間的には過去に、つまりは遅れたものとして投射される。「オリエント」は「西欧」が必要とするために存在させられるが、「テクノ=オリエント」もまた情報資本主義の世界が必要とする幻想である。テクノ=オリエンタリズムにおいて日本は、地勢的にはボードリヤールが述べたように軌道上の「人工衛星」に投射され、時間的には「テクノロジーの未来」として位 置づけられる。モーレィ&ロビンスは言う。

もし未来がテクノロジカルなもので、テクノロジーが日本化しているとすれば、この三段論法でいくと、未来もまた今や日本的なものになっていることになる。ポストモダンの時代は環太平洋の時代となるだろう。日本は未来であり、それは西欧近代をのりこえ、とってかわるように思えるような未来である

ジャパニメーションはこのような未来のイメージとしての日本というステレオタイプに規定されている。「西欧」はこのモデルに魅了され、誘惑されているが、同時にこの羨望は嫉妬を通 り越して差別や蔑視にも結びつく。欧米におけるジャパニメーションの流行とそれへの警戒の複雑な関わりがここにはある。面 倒なことに、ジャパニメーションはアジア諸国においても流行しており、日本は欧米とアジアの両方からコンプレックスの対象となっている。映画『ブレードランナー』の場合のようにアジアと日本が混合されて未来のイメージを形成する場合があるのはこのためである。さらに日本に対するこのコンプレックスはかつての反ユダヤ感情と同じような機制をはらむことをモーレィやジジェクは指摘している。アジアと欧米の間でオリエンタリズムを作動させながら強力に経済進出している日本は、それぞれの地域から羨望と軽蔑の対象となっている。むろん、実体的な意味で日本人とユダヤ人が結びつけられるわけではない。「ユダヤ人」も「日本人」も幻想のフィギュールにすぎない。たとえば、ローマ帝国と争った軍事貿易国家カルタゴが日本になぞらえられることも少なくない。カルタゴがローマのような文化をもたないまま過剰な経済発展をとげたためにこの比喩は使われるが、日本がテクノロジーを輸出する段階からジャパニメーションのような文化を輸出するようになっていくと、さらに別 のフィギュールが当てられることになるだろう(『パトレイバー2』に登場する自衛隊PKO部隊のレイバーにはカルタゴの猛将ハンニバルの名前がついていたはずだ)。

いずれにしても日本人はアンドロイドやロボットとして見つめられ、この「ジャパノイド」のプロパガンダとしてジャパニメーションは機能する。アンドロイドやロボットが蔑視と嘲笑の対象なのか、あるいは笑われる存在がアンドロイド的になるのか? この問題を香港系のアメリカ人フェミニスト文化研究者レイ・チョウは『ライティング・ディアスポラ』の第三章「ポストモダン自動人形」で見事に分析している。チョウは「自動人形化された他者」が笑いの対象となる過程をチャップリンの映画『モダン・タイムス』に言及しながら分析している

チャップリンの組み立て工の場合、視覚の働きは、抑圧された人物の自動化に向けられており、その結果 彼のからだの動きが過剰でコミカルなものとなる。"自動化オートマタイズドされている"ことは、社会的な搾取のもとにあることを意味しており、その搾取の起源は個人のはかり知れないところにある。だが、オートマタイゼーションとは、見世物になることをも意味するのであって、自動化された人物は、滑稽でなすすべなく見えれば見えるほど、その"美学的"な吸引力は増すのだ。(本橋哲哉訳)

モダニズムの産業と文化を促進することは、そのつどのテクノロジーや機械のリズムによって「自動化された他者」を招きよせる。テクノロジーの変化による労働環境の激変を体験するのは労働者、女性、民族的少数派である以上、チョウの言うようにこの自動人形のイメージは搾取されるマイノリティに押しつけられる。同時にこのイメージはテクノロジーの変容に過剰適応した「国民=民族」にも回付される。日本人が「自動化された他者」として見られていることは言うまでもないが、ジャパニメーションはアニメーションという自動化と賦活化(生を与えること)の技術と映像を組織することによって、自動人形文化としての日本を、つまりは情報時代の「ポストモダン・タイムス」のなかでの「日本人=ジャパノイド」を立ち上げている。クラフトワークの直観はある意味で正しかったわけである。

ベルリンでキットラーらと活発な研究を行っている社会学者フォルカー・グラスムックは88年に『アニミズムからアニメーションへ』という刺激的な著作を発表し、情報メディア時代のアニミズム(精霊信仰)の構造を「アニメーション」という概念でおさえている。この著作で彼はまだオタク文化やジャパニメーションにはふれていないが、「アニメーション」がメディア・アートから仮想空間などの先端技術にいたるまで浸透していく過程を重視している。彼によればアニメーションとは「二次的なアニミズム」であり、技術的、人工的手段によって構成された「超自然的なもの」である。もともとメディアの語源が霊媒(メディウム)であることからもわかるように、情報ネットとメディアによって結ばれた空間は見えない存在と通 い合う点で、アニミズム的な世界とも通じる部分をもつ。アニメーションは主体と客体、現実と虚構の境界を操作するそれじたいサイボーグ的な実践である。しかし問題は、この新たなアニミズムに容易に適応できる社会と、そうではない社会が存在するということである。「自動人形化」や「二次的なアニミズム」へのコンプレックスがここに生まれる。経済発展や技術革新に対する憧憬や嫉妬はこの感情と結びつくはずである。

しかしながら、グローバルな情報資本主義における技術体系はまさにこの意味での「アニメーション」的な論理に向かいつつある。「情報機械時代の戦争」でよく知られるマニュエル・デ・ランダは人工生命、デジキャッシュ、カオス理論、軍事や交通 のテクノロジーといった領域を横断的に研究し、非線形論理と創発性emergence、自己組織化の概念が情報機械のパラダイムのカギであることを多面 的に検証している。1993年の「アルス・エレクトロニカ」では講演したデ・ランダと個人的に話す機会があったが、彼自身もCGやアニメーションを製作するアーティストでもあり、彼が今日のネットワーク・テクノロジーに必ずしも満足していないことを確認できた。特に、英語以外の言語やグラフィックがもっと多様に交錯するような電子的な「クレオール」状況があるべきではないか、という点で意見を共有できた。日本のサブカルチャーに彼はそれほど詳しくはなかったが、コミュニケーションとテクノロジーのより創発的な展開にとって大衆文化やサブカルチャーが果 たす役割を彼は強調していた。

先端諸科学や技術においてますます創発性の概念と力学が注目されていることはデ・ランダならずとも指摘している事例だが、非線形プロセスの焦点として彼が「人工生命」と「市場システム」をあつかっていることはここでの考察にヒントになる。この二つは最近のジャパニメーションにおいて頻繁に取り上げられているからである。デ・ランダは「人工生命(アーティフィシャルライフ)」研究への関心が、人工知能研究の挫折と反省から出てきていることに注目する。コンピュータを使った様々なシステムにおいてトップダウン型の決定に代わってボトムアップ型の決定性が重要となる、という認識もこれと重なっている。論文「ヴァーチャル環境と総合的理性の創発」で、彼は「人工生命」が単なるプログラムを超えて生命たりうるためには、それが「不完全な伝達」によって子孫に情報を伝えることができなければならないことを指摘する。コピーと遺伝の違いは、遺伝情報においては「デザイナーの想像をこえた新たな属性が自然発生的に創発する」点にあるからである。「創発性」とはこの場合、ある状態が突然に別 の様相を示すこと、システムの進行や迂回において突然におこる偶発事がシステムにとって不可避にはたらく現象を指している。非線形性にもとづくボトムアップのアプローチは、実はコンピュータのなかではなく、天候をはじめ自然現象のなかに多く見ることができる。同時に最初のデザイナーの意図と無関係であるということは「神の見えざる手」を前提としないということでもあり、市場をはじめ社会的現象もそもそもこうしたアプローチにしたがっていることが明らかにされる。もともと「人工生命」パラダイムの可能性の中心は、実際に生命を人工的に作りだすことにあるのではなく、生命をシミュレートする過程で生命以外の運動を一種の「みなし生命」として考えることができる、という点にある。人工知能研究が盛んであった時点においても「人工市場」のようなアイディアはあったが、今や巨大コーポレーションや複雑な仮想金融システムがすでに「人工生命」(AL)の側から考察可能になっているとデ・ランダは言い切る。

デ・ランダは別の論文「世界経済における市場と反市場」においてはこの視点をさらにおしすすめる。「自らの多様なコピーを生産する複製システム」としての市場も、新しい形態をとるためには「様々な反市場の現われ」を必要としている。これはブローデルやウォーラステインの資本主義論にも合致する。たとえば、階級闘争も反市場の例であるが、今日の資本主義はもっとしたたかに様々な都市、文化、社会の間の「異質な要素の脱中心化する組み合わせ」を流用している。もともと時間差や空間的不均等の網の目によって進んできた資本主義は電子ネットワーク化により、反市場をふくんだ網の目をより複雑に生成させている。このようにデ・ランダの議論ではカント、ヘーゲル以来の哲学、社会理論の決定論をめぐるアポリアがハードサイエンスの先端部分で入念に再考されているのである。同じような意味でバタフライ効果 やストレンジ・アトラクターといった複雑性の概念は、ポール・ギルロイによって文化のディアスポラ的移動を説明する概念としても使われている。ある文化習慣や表現が思いもよらない場所に突然現われること、小さなほとんど取るにたらない力が期待値を無視して急激な変化を起こすことは、物理現象のみならず文化現象においてもありうるし、そのラディカルな偶発性は実は見えない規則性を持っている。決定論的カオスをめぐる諸問題は「社会的乱流」や「文化的流動」といった概念にメタファーを超えた科学的な説得性を与えはじめているのだ。

[ジャパニメーション」もまたそのようなディアスポラの対象であることは言うを待たない。アニメファンやオタクの国境を越える伝達は、ロンドンやニューヨークで日本語の読めない白人のオタクがジャパニメーションの情報収集にいそしむといった具合に予想もつかない文脈で多様に連結を繰り返している。映画『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』には「人形使いパペットマスター」という情報ネットのなかの「人工生命」が登場する。「人形使い」は株価操作、情報収集、政治テロを通 じて国家間の政治、経済に介入する。不特定多数の人間をゴーストハックして人形として使う(アニメートする)ところから、この名前で呼ばれている。「人形使い」はただの人工知能ではなく、自らを「情報の海で発生した生命体」と主張する。「生命とは情報の流れのなかに生まれた結節点のようなものだ」、「記憶が幻の同義語であったとしても人は記憶によって生きるものだ」、そう語る「人形使い」が女のかたちをした義体(サイボーグ体)魂=ゴーストとして入りこんでいた点に、サイボーグ・フェミニズムの問題系が現われている(コンピュータのなかの「人工生命」がいつも女であるという奇妙なルールは、『メガゾーン23』の"バハムート"内部の時祭イヴや、『マクロス・プラス』の仮想アイドル、シャロン・アップルにも共通 する。「命を吹き込まれた(アニメイテッド)女神像」という設定が、ギリシア神話の『ピグマリオン』から続いていることに注意しよう)。この「人形使い」はネット化され、国境を越えはじめた情報資本主義そのもののアレゴリーにほかならない。「人形使い」を追うサイボーグ、草薙素子も自己のゴーストの存在を疑いながら、自分がネットのなかで「命を与えられたアニメイテッド自動人形オートマトン」ではないかと思いつづける。「私の電脳がアクセスできる膨大な情報やネットの広がり、それら全てが<私>の一部であり、<私>という意識そのものを生み出し、そして同時に<私>をある限界に制約しつづける」。ネットの方が自己のゴーストではないか?と草薙は自問する。

[人形使い」は最終的に生命としての最大の条件である「死」を獲得するために素子との融合を提案する。両作品が符丁として聖書のなかの言葉を引用する共通 点は、そもそも生命と自動人形をめぐる思考の共通性に由来すると思われる。こうして一連のジャパニメーションからは、テクノロジー、人工生命、ネットワークに対して自らの「魂」――ゴースト、記憶、情報?――を少数者マイノリティ――女、サイボーグ、子供たち――が「放棄」するという図式がみちびかれる前述の論文においてチョウは「男性的人間主体対女性的自動人形」という二項対立を拒否することをサイボーグ・フェミニスト的主体の戦略として提起している。第一世界のフェミニストたちは

オートマトン、機械化された人形という概念は保持するが、新たな一瞥でそれに命を与えることによって、その運命を変える。この一瞥こそは、フェミニスト批評の視線だ。命をもたらすこの力は、神の言語へと私たちを連れ戻すのだろうか、劣ったものに命を授ける超越者の視線へと? それとも、この力は、自らの脱人間化の歴史を背負い、ほかの女たちのために語る、ひとりの女性のものだろうか?(本橋哲哉訳)

それができるのは半機械、半生物であり境界侵犯的なサイボーグだけである。いや、逆にそのような課題を引き受ける時主体はサイボーグ的になるのである。チョウによると第三世界のフェミニストの位 置はここからさらに複雑になる。

"第三世界"のフェミニストたちが直面する問題は、自分たちの文化のなかの、抑圧された女性たちに"命を与える"ことにとどまらない。彼女らは自分たち自身の声が自動人形化され、命を与えられているという状況を、介入の意識的出発点としなければならないのだ。

すでに見たように、チョウが提起する戦略はごく少数のジャパニメーションにおいてはからずも、そして潜在的なかたちで表現されている。

むろん、これは深読み以外のものではない。しかし文化的テクストはある種の読みによってはじめて積極的な主張をもったテクストとなる。ジャパニメーションにおける無国籍的な日本文化と日本人は、西洋でも東洋でもない場所と人間として「命を与えられているアニメイテッド」。しかし、これはアジアからも欧米からも想像的に切断されている「日本」を無意識のうちに反復している。ことさらにアジア的な風景や、20世紀の日本の都市景観が繰り返し強調されるのは、逆にこの現実を隠蔽する操作なのである。なぜアジア的な猥雑な風景と都市がサイバーパンク的想像力をかきたてるのか? むろん、ことは映画『ブレードランナー』よりはじまっていた。全てはその映像の刷り込みだと整理することはできる(実際それはカッコよかったのだ)。しかし、ジャパニメーションは幻想のアジアを流用してグローバルな資本主義の変容を反映しているのである。すでにわたしは別 稿において「テクノ=オリエンタリズム」を一種の半透明の鏡像として解釈したことがある。それは「日本人」が自らを誤認し、「西欧人」が他者を誤認する文化装置、インターフェースであるが、「アジア(人)」と「アジア的」風景はこの二つの錯視のなかでもうひとつの幻想として生産されている。押井守が原作にない香港を『攻殻機動隊』の舞台として選択し、情報ネットの視覚化を水没した香港の運河と街並みに託し、さらにそこに「日本的」なモノ、身ぶり、音楽、習慣をちりばめる時、そこには情報資本主義による「表徴の準帝国」が浮き彫りにされているのである。こうして半西欧、半アジアのキメラ、サイボーグ的な境界侵犯を逆に固定化し、ナショナルなものとするところに「ジャパノイド・オートマトン」が現われる。しかし、草薙素子が「人形使い」と融合し、シンジがエヴァに自己を溶かし込むとき、本来はこの「ジャパノイド・オートマトン」が拒絶されているはずなのだ。だが、この拒絶の試みはいつも挫折している。むしろこの挫折が「日本的」情報資本主義を一貫させる症候となっているだろう。この症候は風景として空間的に拡張され、アンドルー・ロス言うところの「奇妙な天候=気象ストレンジ・ウェザー」として世界に広がっていく。

すでにダナ・ハラウェイは「サイボーグ宣言」において言っている。

自己確認ならぬ主体分散、それが問題だ。現代のバビロン捕囚すなわち国外離散ディアスポラの状況でいかに生き抜くか、それがわたしたちの務めなのだ。(小谷真里訳)

サイボーグやスーツをまとう身体のイメージが文字どおりディアスポラ的な流通を果たしているなら、それが様々な社会、様々な資本主義のなかに溶け込んでいったり拒否されたりする現象のなかに多様な「自動化された他者」を見いだしていくことは不可能ではない。また、当のジャパニメーション自体において、別 のかたちで自動人形である他者たちに「生を与えるアニメート」するきっかけを掴むことも夢ではない。ここにはないように見えた内戦も階級闘争も人種主義もまさにフィクションのなかに反復されているのだから。かくて「ジャパニメーション」批判は閉じられた情報資本主義の限界を外側に開く回路をもとうとする。むろん、それはオタクたちの課題ではなく、「ニュータイプ」やサイボーグを政治的にシリアスな機知、アレゴリーとして読み、生きることができる者の戦略にほかならない。


(注)

1. 陳光興、「帝国の眼差し」、「思想」1996年、1月号

2. David Morley and Kevin Robins, Spaces of Identity (New York: Routledge, 1995).

3. 前掲書

4. Rey Chow, Writing Diaspora: Tactics of Intervention in Contemporary Cultural Studies (Bloomington: Indiana University Press, 1993).ちなみにこの章は「現代思想」1996年7月号特集「機械の身体」で本橋哲哉によって翻訳されている。

5. Volker Grassmuck, Vom Animismus zur Animation (Sammlug Junius, 1988).

6. Manuel de Landa, War in the Age of Intelligent Machines (New York: Zone Books, 1991).

7. Manuel de Landa, "Virtual Enviroments and the Emergence of Synthetic Reason", Flame Wars, ed. Mark Dery (Durham, N.C.: Duke University Press, 1994).

8. Manuel de Landa, "Markets and Antimarkets in the World Economy", Technoscience and Cyberculture, ed. Stanley Aronowitz et al. (New York: Routledge, 1996).

9. 上野俊也、「ラグタイム」、「現代思想」1996年3月号


上野俊也


批評家、中部大学助教授。メディア、映画などについて幅広く研究し、「日米映画戦」(山形映画祭'91)、「電影七変化」(山形映画祭'95)にも参加。