映画・ビデオにおける
太平洋諸島の人々
ヴィルソニ・ヘレニコ
過去100年にわたり、ハリウッド映画は、太平洋諸島の人々を紋切り型のイメージで描き続けてきた。『南海の劫火』(1932、1951)以来、『南太平洋』(1958)、そして『シン・レッド・ライン』(1998)に至るまで、太平洋人―特にポリネシア人―は、複雑な性格や知性や野望を欠いた素朴な人々として登場する。映画の中で走り、釣りをし、食べ、遊ぶこれらの人々は、常に集団で行動し、ひとりひとりに固有の個性の違いはほとんどみられない。ハリウッド映画においてめったに主役になることのない彼らは、気候の寒冷な産業国からエデンの園や楽園と同じような場所だとみなされている南の島々を彩るための背景にしかならないのだ。笑ったり、踊ったり、のんびりした平和な風景のなかで晩餐をしていたりというのでなければ、彼らは、危険な、悪魔的な人種として、ひどい場合には食人種族として描かれもする。そのような描写も複雑性を欠いたものであることに変わりはない。太平洋諸島の人々は、高貴な野蛮人か、でなければ聖書に登場するエデンの園の蛇か、どちらかでしかないのだ。このような描写―ハリウッド映画における、また他の諸々の帝国主義的試み、たとえば多くのキリスト教的説話、文化人類学的文献、ペーパーバックの小説などにおける―は、長年にわたって人々の想像力に影響を与えてきた。その影響力は非常に大きく、太平洋諸島からの旅行者が、いまだに人の肉を食べているのかとヨーロッパで尋ねられることもめずらしくないほどなのである。『青い珊瑚礁』(1980)や『Rapa Nui(ラパ・ヌイ)』(1994)など、フィジーで撮られた映画のいくつかにこうした食人種としての太平洋人のイメージが見られるのも、このことと無関係ではないだろう。
※事務局注:『Rapa Nui』は、フィジーで撮られたとありますが、正しくはラパヌイ(イースター島)を舞台にされたものです。
太平洋人によって製作され、太平洋人を主題にした劇場用映画は非常に少ない。そうしたなかで唯一太平洋の外にもインパクトを与えたのは、いくつかのニュージーランド/アオテアロアの映画であろう。『ワンス・ウォリヤーズ』(1994/リー・タマホリ監督)『Te Rua』(1990/バリー・バークレイ監督)『Utu』(1982/ジェフ・マーフィー監督)『Flying Fox in a Freedom Tree』(1989/マーティン・サンダーソン監督)などの映画は、植民地化に深刻に悩まされるポリネシア人の姿を描いている。地位や財産を奪われ、メインストリームから外れた周辺に生きる彼らにとって、家庭とは「楽園」などではなく、抑圧者たちに状況の改善を求めたり、復讐をもくろんだりするための場所なのである。こうしたイメージは植民地化に対抗して創り出されたもので、たしかに太平洋諸島の生活における真実の1側面を描き出しているものの、劇場用映画が現代の太平洋諸島での複雑で多様な経験を捉えるためには、もっとさまざまな場面設定、主題、生活様式、人物設定が必要とされている。この点において、ドキュメンタリーは非常に大きな可能性を孕んでいるのである。
今日ドキュメンタリー製作に携わる太平洋人が直面している課題は、世界中に蔓延した太平洋人の紋切り型イメージのばかばかしさを暴露し、払拭することだ。太平洋諸島に生きる人々を普通の人間として描くこと。われわれはいつものんびりと気楽で、従順で、他の世界に対して無頓着なわけではない。われわれの中の多くは複数の言語をしゃべり、世界を旅行し、人生の大半を海外で過ごす。毎日インターネットにアクセスし、自分たちのことを世界市民だと思っている。われわれの多くは、教育者、芸術家、弁護士、医者、パイロットである。つまりわれわれのアイデンティティは複雑多様で、重複し、変化しているのだ。世界が太平洋諸島に対してもっと正確な観点を獲得するためには、この複雑さが映画やビデオに反映されなければならない。しかし、たとえば、複数のアイデンティティを保持し、伝統的世界と近代的世界の両方を行き来するような太平洋人は、いまだかつて映画やビデオに現れたためしがないのである。
1970年代初頭から、ビデオや映画製作―特にドキュメンタリー製作―に携わる太平洋人が目に見えて増加してきた。主にビデオで撮られるこれらのドキュメンタリーは、広範囲にわたる文化的アイデンティティや経験、様々な関心を扱うことで、従来の太平洋諸島に対する先入観を打ち壊し、そのイメージを複雑化してきている。そのなかにもいくつかの作品、特に初期のものに、従来の紋切り型イメージをさらにいっそう普及させてしまうような傾向があったのはたしかである。ちょうど太平洋諸島が脱植民地化や独立をゆっくりと進めてきたのと同じように、太平洋人の尊厳を高め、しかも感傷的にならないドキュメンタリー作品もまた、時々思い出したようにしか製作されない。とはいうものの、この20世紀の終わりまでに、特にニュージーランド、ハワイ、パプア・ニューギニアのドキュメンタリーは、非常に洗練された、高い芸術的水準を獲得してきたのである。
ニュージーランドでは、ニュージーランド映画協会(New Zealand Film Commission)が、比較的コストのかかる映画という媒体を目指す人たちを助けてきた。都市に住むポリネシア人の人口が世界一多いオークランドでは、映画・ビデオ製作に携わるマオリ人、サモア人、トンガ人、ニウエ人の数も多い。そのなかで最も貴重なマオリのドキュメンタリー作家は、おそらく、『Bastion Point: Day 507』(1980)や『Patu』(1983)のメラタ・ミタであろう。近年ニュージーランドでは、ドキュメンタリーよりも短編の物語映画のほうが好まれる傾向にある。
1996年度ヴェネチア国際映画祭では、ニュージーランド在住の若いサモア人女性による映画が最優秀短編映画賞を受賞した。このシマ・ウラル脚本・監督の『O Tamaiti』は、他を圧倒する出来映えであった。忙しさのあまり子供の面倒もろくに見ることのできない都市サモア人を臆することなく描いたこの白黒作品は、社会全体がその子供たちを慈しみながら育てる共同社会という、われわれが漠然と抱いていたポリネシア社会への先入観を打ち壊してしまう。この映画の受賞後、シマ・ウラルは、『ベルベット・ドリームス』(1997)と題されたドキュメンタリーを手がけ、ポリネシア女性性を神秘化し誇張する男性ベルベット画家たちの姿を皮肉たっぷりに描きだした。
パプア・ニューギニアで過去10年間に製作された数多くのドキュメンタリー作品は海外の映画祭や太平洋の島々に好意的に受け容れられてきた。そのなかでもよく知られているのは、『Joe Leahy's Neighbours(ジョー・リーの隣人たち)』(1988/ボブ・コノリー&ロビン・アンダーソン監督)と『黒い収穫』(1992/同監督、YIDFF '93コンペティション部門にて上映)だ。これらのドキュメンタリーは、伝統と近代化の板挟みに悩む混血の地元実業家を扱いながら、過渡期にある社会、そしてその社会で多様な価値観や野心を抱いて生きる個々人のはかない夢へと視線を投げかける。アンドリュー・パイク、ハンス・ネルソン、ギャヴィン・ドーズによる『Angels of War(戦争の天使)』(1983)や、デニス・オロークの『Cannibal Tours(カーニバル・ツアーズ)』(1987)―前者は太平洋における戦争、後者は現地人と旅行者が出会ったときに、お互いが「他者」としていかに相手を受け止めるか、その両者の違いを題材にしている―など他の作品にも見られるように、パプア・ニューギニアを描いたドキュメンタリーは、文化的遺産は豊富だが、望まれる近代化が非常に困難な国の状況を浮き彫りにしている。
ハワイでは、政治運動や文化保護運動において、ドキュメンタリーが常に変化への武器であり続けている。1981年に始まったハワイ国際映画祭は、この土地に住むアジア人(アジア系住民を含む)、太平洋人による最も優秀な作品を集め、地元の映画製作者たちを励ましてきた。ハワイ現地人は、この映画祭で初めて、自分たちの作品を地域内外の多くの人々に紹介する場を得たのだ。この映画祭では、ドキュメンタリー映画の上映は、しばしば文化の紹介やディスカッションなどとともに行われる。ハワイ歌謡、花のレイ、ハワイアン音楽、フラダンスなども上映会を彩る。ドキュメンタリーの新作がどのように紹介され、上映されるかということが、作品そのものと同じくらいに重要な場合もある。
ハワイで最も重要な映画作家といえばエディ・カマエだろう。ハワイ国際映画祭が彼のつくり出すあらゆる作品を熱狂的に支持することもあって、妻でプロデューサーのミルナと共に、カマエは何年もの間、映画祭に質の高い世界初公開作品を提供してきた。原ハワイ文化、特に音楽、歌、ダンス、自然環境、老人や先祖に焦点を絞るカマエは、一見政治的に無関心であるかのように見られる。しかしその見かけとは裏腹に、このような主題の選択と、直線的でない物語進行自体が、政治的な意味を孕んでいるである。老人の知恵を強調したり、ハワイアン音楽やダンス、語り部によるお話、食べ物や飲み物と共に供される映画上映会にこだわることで、カマエは、製作過程よりも出来上がった作品に重きを置く西洋主義に疑問を投げかける。カマエ作品の中でも最も重要なものには、『Listen to the Forest』(1991)『The Hawaiian Way』(1993)『Words, Earth and Aloha』(1995)『Li'a, The Legacy of a Hawaiian Man』(1988)などがある。おそらく今後もエディとミルナのカマエ夫婦は、地元共同体や基金組織からの支援を受けながら、原ハワイの生活様式を永久に保存するため、失われつつある文化を記録し続けることだろう。
プヒパウとジョーン・ランダーによるドキュメンタリー、『戦争の爪―ハワイの崩壊』(YIDFF '93「世界先住民映像祭」にて上映)については特筆を要するだろう。1993年製作の、非常に鮮明なこの白黒ビデオは、反アメリカ、ハワイ独立支援作品である。綿密な取材によって丁寧に録りあげられたこの作品は、アメリカ政府による植民地主義政策、ハワイとアメリカ本土における人種差別と偏見を暴き出し、ハワイ現地人の独立の必要性を訴えかける。この作品が上映される先々で成功するのは、学術的にも信頼のおける言説に支えられた要求や証言を引き出した数多くの原住民へのインタヴューと、現代ハワイの最も感情的な問題に取り組むにあたってとられたその知的なアプローチによるものであろう。
公共放送会社(Corporation for Public Broadcasting)によって、1991年、国民による、国民に関する放送プログラムを強化する目的で設立された非営利団体、「パシフィック・アイランダーズ・イン・コミュニケーション」は、原ハワイ人及び太平洋諸島在住の人々に固有の様々な問題―土地と水への権利、言語の保存、伝統的な航海技術、重要な史実や人物、土着の信仰や価値観、アメリカによる植民地主義など―を探求する作品の製作を促した。この組織に一部製作資金を受けた映画作家たちには、デヴィッド・カラマ、ルース・トゥイテレレアパガ、メレアナ・マイヤー、エリザベス・リンジー等の名前が挙げられる。
ここに挙げられた映画製作者たちはすべて、ハワイ国際映画祭で作品を発表してきた作家たちである。ほとんどの作家たちにとって、この映画祭は、国際舞台へ作品を紹介するための足がかりであり、映画製作のドアを開いて踏み込む最初の第1歩だ。1981年から1995年にかけて、ハワイ国際映画祭は、太平洋諸島で製作された太平洋諸島に関する作品のなかから、芸術的、文化的に重要なものを発見し、太平洋諸島の映画作家たちに、他の国の映画製作者や映画産業界の人々と出会う機会を提供し、表象と文化に関するセミナーやディスカッションを開催し、太平洋諸島製作の映画やビデオに関する論文を出版し、太平洋諸島の人たちを映画祭の審査に招いたりしてきた。こうした映画祭からの支援は、新人映画作家が国際市場に踏み出すことを助けるだけでなく、他の世界からの視点で自分たちの作品を見なおすことをも可能にしてきたのである。
20世紀の終わりには、映画やビデオに描かれる太平洋諸島の人々は非常に複雑で多様になってきた。これは多くの現地人たちが映画やビデオ製作に取り組むようになったためだ。太平洋人は、自分たち自身のイメージや物語をコントロールすることで、特にドキュメンタリーというジャンルによって、ハリウッド映画が定着させた紋切り型イメージを打破してきた。製作される作品数は年々増加し、また作品の質も向上してきている。さらに多くの太平洋人がドキュメンタリーや劇場用映画の脚本、監督、プロデュースを手がけることで、太平洋諸島の映画やビデオはいっそう大きな国際的評価を得られるようになることだろう。
附記:リサーチに協力してくれた、妻、ジャネット・ポールソン・ヘレニコに感謝する。
(訳:椋代千春)
フィジーのロトゥマ島に生まれる。ハワイ大学の太平洋諸島研究センターにて、準教授として太平洋諸島の映画、文学、演劇について教鞭をとる。劇作家、映画作家としても活躍中で、彼の劇の数々はフィジー、ハワイ、ニュージーランド、イギリスで公演された。映画製作に関しては、89年脚本・監督のロトゥマ島の戴冠式の慣習を描いたドキュメンタリーのほか、短編劇映画『Just Dancing』(1998)が釜山国際映画祭、ハワイ国際映画祭などに公式参加。現在は、2001年にロトゥマ島で撮影予定の劇映画を準備中。