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    みなまた日記 ― 甦える魂を訪ねて

    Minamata Diary: Visiting Resurrected Souls

    - 日本/2004/日本語/カラー/ビデオ/100分

    記録・編集:土本典昭
    助手:土本基子
    整音:久保田幸雄
    映像調整:小島義孝(S・Mサービス)
    音楽、演奏:喜納昌吉&チャンプルーズ
    製作、提供:映画同人シネ・アソシエ www2.ocn.ne.jp/~tutimoto/

    日本のドキュメンタリー界を代表する土本典昭監督が2008年6月24日に逝去された。1960年代から代表作の「水俣」シリーズを含む多くの映画作品と著作を通して、世界を考える姿勢を示してきた。遺作となった『みなまた日記』は、自らビデオカメラを回し撮影したパーソナル・ドキュメンタリー。「撮影は深呼吸できる気がして、気分転換にとてもいい」と言いながら、お連れ合いの基子さんと軽やかに作った若々しい作品である。


    - 土本典昭(1928−2008)

    1928年12月8日、岐阜県土岐市生まれ。1956年岩波製作所に入る。『ある機関助士』(1963)の演出の後、フリーになる。『ドキュメント路上』(1964)、『パルチザン前史』(1969)などを経て70年代より水俣映画の連作を製作し続ける。1977年には「不知火海・巡海映画班」 として100日間、133集落、99箇所で上映会を開く。2003年6月ニューヨークで開催の第49回フラハティ・セミナーの特別招待監督となる。2008年6月24日、肺ガンで死去。最期の作品は2004年の『みなまた日記 ― 甦える魂を訪ねて』。著作に『映画は生きものの仕事である』『逆境のなかの記録』などがある。2009年6月より2ヶ月間、東京国立近代美術館フィルムセンターにて、作品の上映と展覧会が開催された。


    「みなまた日記」ものがたり

     1994年11月から1年間、土本典昭と私は水俣に逗留していました。

     映画の為ではなく、「水俣・東京展」(1996)の「水俣病の死者群像」製作の為でした。私たちは遺族を訪ね、遺影写真をカメラで複写することに専心していましたが、実は、遺影集めは苦戦を強いられていたのです。

     私たちは、水俣病の悲劇を繰り返さないために、遺影とお名前を「記憶」に残したいとお願いしていたのですが、遺族の中には「もう忘れたい」と思う人がいたのでした。遺族と私たちの気持の乖離が、ストレスとなり、その疲れが滓のようにたまっていきました。土本典昭の文書を引用します。

    「その日々の中で、いわば逃れる思いでビデオカメラを手にした。この撮影のひとときは癒しであり、明日への深呼吸でもあった。だがやはり、人々の四季の移ろい、その出来事や患者さんの振る舞いを撮るのは楽しかった。見慣れたつもりの風景にも微細な発見や驚きがあった。その遊びにたすけられて、辛うじて、1年に500柱の遺影を集め得た。」

     ビデオカメラはハンディカムプロとハンディカムを使ってHi8で土本典昭が撮影しました。マイクはゼンハイザーを使い基子が録音し、20数時間のビデオ映像が残されました。

     それを2時間に編集して、土本典昭の活弁で、「水俣・東京展」の会場で公開したのです。

     この1回きりの公開は、評判を呼び、土本の活弁の音声が残されました。

     土本典昭の言葉を引用します。

    「数年後、改めて仮編集のままのビデオを見た。再発見があった。風化に抗して動く、水俣のスピリット(魂)が沈着していた。それは受難ゆえに到達したミナマタの精神の水位とでも言うべきか。未来を暗示する方向も秘められていた。カメラのこわさというべきか。同時に、仕上げの仕事は予期せざる私たち自身の“甦えり”ともなったようだ。」

     土本典昭と私の水俣での1年の記録を、ご覧頂ければ幸いです。

    (土本基子)