映画に(反)対して
ギー・ドゥボール特集
スペクタクルを盲目にする 木下誠
共催:東京日仏学院 助成:笹川日仏財団 協力:在日フランス大使館
「上映が始まろうとしていた時に、ギー=エルネスト・ドゥボールは舞台の上にあがり、導入の言葉をいくつか発さなければならなかった。彼なら、ごく簡単にこう言っていただろう。フィルムは存在しない。映画は死んだ。もはやいかなるフィルムもあり得ないのだ。お望みならば、議論へと移ろう」(『サドのための絶叫』、1952)
ドゥボールが自身の第一作に込めた挑発的な言葉を、私たちはどのように受けとめれば良いのだろうか。苛立ちを隠さずにはいられない人もいれば、諦念とともに嘆息する人もいるだろう。一部の好事家のオブジェとなる以外は、映画はすでにその社会的機能を失い、単なる商品と化してしまった。物語を新たに編み出す力もなければ、現実を批判的に凝視する力もない。イメージによって媒介された個人と社会との関係がスペクタクルと化すとき、映画は物神崇拝(フェティッシュ)の象徴となり、ステレオタイプの映像も言葉もすぐさまに消費されてしまう。「新しさ」を生むことができない以上、映画史は終焉を迎えたのだ。
映画を志す人々、あるいは、映画祭に集う私たちにとって、居心地の悪いものでしかないドゥボールの言葉は、映画を通して現実の社会を見つめ、映画を撮り続けようとする私たちの前に屹立する。それが虚構にせよ現実にせよ、「映画の死」を乗り越えるためにドゥボールはすべてを否定した。あらゆるイメージを拒み、表象そのものの廃棄を主張すること。映画によってスペクタクルを批判しながらも、自らスペクタクルとなることを禁じること。一見すれば、矛盾しているかのように思われるその実験は、メディアとしての映画の臨界点を指し示している。白と黒の画面は、イメージのゼロ地点の光景なのだ。
「映画に(反)対して」と題された、アジア初の全作品上映となる今回の特集では、ドゥボールの思考とともに、映画史なき後の映画の存在そのものに対して、問いを投げかけてみたい。イズー(『涎と永遠についての概論』)、ヴォルマン(『アンチコンセプト』)、ヴィエネ(『カマレの娘たち』)といったドゥボールと活動を共にしたアヴァンギャルド映画作家たち。フォード(『リオ・グランデの砦』)、ウォルシュ(『壮烈第七騎兵隊』)、鈴木則文(『恐怖女子高校 暴行リンチ教室』)、ウォーホル(『ロンサム・カウボーイ』)、ゴダール(『中国女』)。ドゥボールの映画によって想起される映画を、彼の思考において「反映画」的とするだけでは十分ではない。ともに、映画でありながら「映画に(反)対する」こと。つまり、制度としての映画を根底から揺さぶることについて、思考してみたいのだ。閉塞した歴史にドゥボールは否定形で答えた。荒野を前にして、私たちは映像と思考の可能性をいまだに信じることができるのだろうか。
土田 環
※ 本文中で使用したドゥボールの引用に関しては、木下誠氏の邦訳を随時参照し、訳文を適宜変更させていただいた。