数多くのすばらしい劇映画・ドキュメンタリー映画を創られ、また山形映画祭'91に審査員として参加してくださったクシシュトフ・キェシロフスキ氏の死に対し深い喪失の思いを込めて今回ポーランド特集を組むことにいたしました。
――編集部
キェシロフスキ監督のフィルモグラフィを振り返り、興味深く読むと、その大部分がドキュメンタリーであると分かる
(インターネットの討論グループ「スクリーンL」における手紙の断片)
クシシュトフ・キェシロフスキといえば海外で最も有名なポーランドの劇映画監督だが、彼が自分の芸術生活の大部分をドキュメンタリー映画に捧げたのをアメリカ人が驚くのはドキュメンタリー映画の今日的な概念にとって非常に特徴的なことだと思われる。
この稿で私は、1990年代、つまり東ヨーロッパにおける1989年の「民主主義の春」以後の時期だが、その時代のポーランドのドキュメンタリー映画を洞察してみたい。とはいえ、それは製作年、映画名、人名の羅列に終始し、最も重要で特徴的な事柄がよく抜け落ちている映画評論の伝統的な見解とは違ったものになるだろう。私の試みはそれとは逆に、記述よりもむしろ分析に終始するつもりである。私は読者にポーランドのドキュメンタリーの現状に対するある私的な見解を伝えたいのだが、しかしこれが包括的な研究になるとは約束できない。解答よりも、むしろ問いかけこそが大切なのだと思うからである。
ドキュメンタリー映画の製作に関するひとつの例としてソル・ワース、ジョン・アデアー共著『ナバホ人の眼で--映画コミュニケーションと人類学の探究』(1972年刊)の引用から始めてみよう。アデアーは、ナバホ人に映画の撮影術を教え、その結果 を分析する実験を行うためにアリゾナ州パイン・スプリング市にあるナバホ人特別居留地を訪れた。友人のシャーマンに訪問の目的を伝えると、ナバホ人のヤッジは「映画を撮影すると俺たちの羊に害があるんじゃないか」と尋ねた。「そんなことはない」アデアーは当然のこととして答えた。ヤッジはその答えに考え込み、もう一度、「映画を撮影すると羊に何か良いことがあるのか」と聞いた。ソル・ワースは自分の知る限りにおいてそんなことは何も起こらないと答えざるを得なかった。そしてヤッジはこの答えをさらに考え込み「それじゃあ、何のために撮影するんだ」と思ったのである。
要するに、今日のポーランドでは大勢の人々が、これに良く似た問いを自分自身に投げかけ、それが時と共に増えているということである。当然のことながら、なぜ人々にとって更にポーランド問題か、という疑念も起きる。答えはこうだ。もし人々と分かり合いたいのなら(つまり、人は様々な方法で、お互いに意見を交換し合っているわけだが)、他民族文化におけるメディアの姿勢に興味を持つべきである。それは常に自分自身の状況をより良く理解するのに役立つのだから、ポーランドや中・東欧の他の国々は社会的・政治的な状況がマス・メディアの地位 にいかなる影響を及ぼすかという大変興味深く、熟考を促す例になっている。一方、ポーランドの状況は(もし発達した市場経済を他の国々と比べるなら)例外であり、しかしながら他方においては、この地域の他の国々との対照において典型的だとも言える。
まず、現在のポーランド情勢の評価はよく誤解されてる。なぜか?ごく普通の西ヨーロッパ人は衝撃をおぼえるかもしれないが、多民族的で民主的な社会で生きるのは、ずっと大変であるということだ。以前の体制では確かに内圧や外圧で抑圧され苦しめられてはいたが、ある意味では安定しており、単純であった。しかし、最近ますます言われるようになってきた“古き秩序”へのノスタルジアはもちろん幻想であり、誤りだ。そしていまだに多くの人々は古い体制をなつかしみ、「ああだった、こうだった、いやこうだった、どうなんだ。こうなんだ、いやちがう」などと思っている。社会を組織するのに大変影響力の強いカトリック教会にとって、そして多くの組織、社会にとって、「共産主義は倒れた。圧制者は敗れた。しかし今誰が私たちを治めてくれるのか」という問題が起きている。別 の言い方をすると「今誰が我々の敵なんだ。敵はとにかく持つべきだ。」ということだ。
ドキュメンタリー映画の話をすぐにでも始めたいところだが、しかしポーランドの現在の社会問題を熟考することから始めなければならない。ポーランドではあらゆるタイプの映画が社会的に大きな役割を果 たすが、それを見逃すのは誤りである。これは基本的なことだと思われる。そこで、私はポーランドのドキュメンタリーの中にある傾向が生まれ、発展し、そして衰退していることを示したい。私の考えを如実に表わしているのはマルツェル・ウォジンスキのいくつかの最新作で述べられている思想である。
より一般的なアウトラインから始めよう。1955年、いわゆる社会主義リアリズムの時代に「黒いドキュメント」が出現した。つまり、公式には存在しない社会問題に注目した映画群である。ボロヴィク、ホフマン、スクジェフスキの映画は、売春、未成年の犯罪、アルコール中毒の問題を提起した。フランク・ブレンは自著『ポーランド映画史』の中で、「これらの記録は現実を動くものとして写 すという製作者の信念を放棄させた。映画の製作はむしろ主観的な現象を納得させるべきだった」と言う1。
「ポーランドのドキュメンタリーの黒いシリーズ」が、観客にこうした種類の映画へ大きな関心と感受性をもたらしたのは大変重要だと思われる。ドキュメンタリー映画はマスコミやシネ・クラブの集いで大いに議論された(この思想はフランスから伝わったもので、ポーランドでは1980年代まで非常に盛んだった)。そして、今最も大切だと思われていることだが、これらの映画は映画館で劇映画の上映前、あるいは記録映画専門館で上映されたのである(後者のような映画館はポーランドでは10数年前から機能しなくなった)。
観客がドキュメンタリー映画に大変興味を持ち、同時に映画作家が社会的な重要な探究活動に参加している、つまり、「真実」を発見させるとの確信を持っているこの伝統は1970年代の終りまで生きていた。特に、この時代、写 実的な“真”のドキュメントと偽りのドキュメントの境は顕著だった。通常のニュース映画は、もっぱら刺激的なプロパガンダの目的に使われる。この事実をよく納得させてくれたのが『鉄の男』(アンジェイ・ワイダ、1974)の構成である。ワイダは映画メディアの信頼性を描写 するため、四つのレベルを使った。1950年代の本物のニュース映画(白黒)、70年代に再構成され、製作されたニュース映画(白黒)、主役たちが「実際はどうであったか」を話すシーン(カラー)、そして基本的なプロット、つまりビルクトについての映画を製作する話(カラー)である。これら四手法の緊張感のある関係、ドキュメントとプロットの間の対立を利用したワイダの背景の創造がことのほか重要だと思う2。
1970年代に、ウッチ映画大学を卒業した人々のグループは、ジョン・グリアソンの思想を発展させたイェジー・ボサック派に代表されるドキュメンタリー映画の伝統を一新した。クシシュトフ・キェシロフスキ、マルツェル・ウォジンスキ、マレク・ピヴォフスキらは、ドキュメンタリー映画は彼ら以降の劇映画に「写 実主義」を保証する形式になると信じていた。彼らはその当時政治的な検閲ゆえに十数年後に一般 に公開され、そして彼らのその後の劇映画も影がうすくなるほどのたくさんの短編ドキュメンタリー映画を撮っていた。彼らは(クラクフ・グループの有名な宣言の中などで)ドキュメンタリー映画の製作過程で得られた体験は、劇映画の製作で生かされるべきだと考えた。この確信はいわゆるポーランド映画界のモラルの不安派のほとんどの映画の基本に基づいていた。ドキュメンタリー映画は真実をより近く伝え、より信頼すべき形式であると確信するのは、モラルの不安派以前の観客の習慣に基づいていることが多かった。ドキュメンタリー映画はメインの映画の前に併映されていたが、そのため、観客はメインの上映前に行き、ドキュメンタリーを見て、数十分後には静かに帰ったのである。というのは、その後上映される映画では、ポーランドの現実について何ら真実は語れなかったためである。ドキュメンタリー映画の当時の役割を理解するためにもうひとつのよく似た例がある。1976年製作の映画『アマチュア』の中で、アマチュア映画作家が語るセリフだが、「君は要するに実際あったことを見せるんだ」というのである。この形式はその当時ドキュメンタリー作家と劇映画作家にとって共通 であるべきものだった。
自主管理労組「連帯」が誕生した1980年には、ドキュメンタリー映画の社会的な重みと「地位 」が考え得る最高の所まで高まったと敢えて断言することができる。特にグダンスク造船所のストライキの感激的で超リアルなルポルタージュ『労働者81年』は「真実そのもの」とみられ、この事件のテレビ放送とはまさに対照的なものだった。これらの「熱いドキュメント」の特徴はこの事件が「路傍のごく一般 の人々」の見地から解釈されたことだろう。さらにそこには、ふつう劇映画製作に見られる、例えば、登場人物のドラマ、姿勢、小さなできごとから大きな世界が広がるなどといった要素が見られるのである。
これら歴史的な事件に参加した者として、また、ストのドキュメンタリー映画を製作中、他の観客と共にまるで「国民のミサ」のような全く信じられない雰囲気を体験し、この「感情の共同体」を通 して、他の観客と連帯を持ったポーランド人として、私は「連帯の第一期」(1980年8月から81年12月まで)の最初の数ヵ月間のドキュメンタリー映画が観客に「真実、真実そのもの、真実のみ」と考えられたと思っている。しかしながら、年月を過ぎてこの稀有な現象を振り返ると、かの感情的な作用は映画の真実を感じとる最も重要で大切な要素だったと思われる。時が経過したのちに分析され、感情的な背景を奪われると、今の若い世代にとっては神話となり、真実性を失うのである。
ここで思い出されるのは、ヤドヴィガ・グウォーヴァの博士論文3で、著者はその中で1980年代のポーランドのドキュメンタリー映画を題材とし、それらの作品に対する自分の解釈を述べている。神話的な構成上に構築され、作品には神話が含まれている。最も力強いのは、ポーランド民族の歴史的な例外についての確信と自由を闘った過程でのその敗北と不成功を含む「メッセージと普通 の人」の神話である。一方、「普通の人」の神話は、映画人はことに貧乏人の被害に対し敏感になるべきだということを示している。さらに、グウォーヴァは「群衆の映画」を分析した。重要な式典や例えばストライキなど劇的な事件における人間集団を描写 する特別な種類のドキュメンタリーである。ポーランドのドキュメンタリーについて非常に考えを新たにしてくれるのは、これら映画から(同じく映画製作者や評論家の発言からも)ドキュメンタリー映画製作者たちの地位 に関する指標を引き出そうとする試みだと思われる。(特徴的なのは用語である。ポーランド語ではドキュメンタリー映画のフィルムメーカーは監督あるいは芸術家という意味が内包しており、いわゆる英語で表現されるプロデューサーや製作者とは違う)。そういうわけでドキュメンタリー映画の「監督」は以下のような特徴を持たなければならない。
- a) 芸術家であるだけではなく、社会活動家であり、教育者でなければなならない。
- b) その状況に、全感情を注ぎ込み、貧しき者や被害者の側に立たなければならない(つまりその側で意見を述べなければならない)。
- c) ドキュメンタリー映画監督は、かなりの程度、国民の想像力のクリエーターで、観客の「魂と知性の職人」である。
- d) そして最後に、世界を描写しようとするだけではなく、それを変えようとする人である。
この要求に対処するため、ドキュメンタリーの製作者は神であるか、さもなければ…要するにロマンチストでなければならないだろう。エリック・バーナウの著作『世界ドキュメンタリー史』では有名な良く似た概念が述べられている。バーナウは、ドキュメンタリストはどうあるべきかについて、次のように言うのである。
時々恨みを買おうとも、ドキュメンタリー作家は主張し、生き残り、増えて行く。彼らには提示された事実の見方を変えるような困難な使命が与えられている。ドキュメンタリー作家は、混沌とした闘いや複雑な人間性が渦巻く世界を見る。毎日、作家はドキュメンタリーを創る旅へ船出する4。
ポーランドのドキュメンタリー映画の問題点は、かの「何かを記録するための巡礼」が国民的・宗教的な神話により既に定められていて、歪められたフィルターを通 して見られているために現実を紹介するのが大変に難しいということである。
ヤドヴィガ・グウォーヴァが「80年代のポーランドのドキュメンタリー映画は、アナーキーで、激情的というより、むしろ神話創作的であり、生活自体を描写 するというよりもむしろ映像をビジョンやイデオロギーで満たすことに集中した」と述べているが私は賛成である。その映像は世の中を描くこと、意味あるものは全て描写 することを課したキェシロフスキ、ウォジンスキなどの理念とはかけ離れている。この概念を理解するのに西側の民主主義が犯した根本的な誤ちは、民主主義社会は大きな障害もなく描写 されており、ないしは描写される可能性があることに関係がある。情報の流入を制限される環境では、この問題は危険なようだ。1970年代の最も優れたドキュメンタリー作家たちの方法は、カメラを通 して現れた現実を慎重に研究すること、偏見のない目でそれを見ることである。従って、それは出来あいではない、分類されていないもの、これから解釈されるもの、通 常検閲に出会うだろうものであり、またひとつきりのテーゼではない。ドキュメンタリー作家は証明すべきテーゼを持っていないか、またはその唯一のテーゼは世界はかなり複雑だという確信だと言える。マルツェル・ウォジンスキの最近作をいくつか例にとり、この思想がどう発展してきたかを見てみよう。
マルツェル・ウォジンスキは、彼と同世代のほとんどの監督がその初期にドキュメンタリーを作り始め、その後に「まっとうな」劇映画に移行するというポーランド映画の伝統からみれば、きわめて稀なドキュメンタリー映画の監督である。あるインタヴューで監督は「ドキュメンタリーの創作」に、つまり現実を操ることに関心があり、また既に存在する要素を描きながらもその背後にある真実を示すことに興味があると言っている。
監督はきっとそのような操作について1972年製作の『ハッピー・エンド』で考えたに違いない。これは生産計画の実現というテーマで工場長と労働者が実際に交渉するところを見せた映画である。あらかじめ脚本が準備されているのではないドキュメンタリー映画が結果 的には心理劇となり、工場長と労働者の潜在的な思想方法を発見するものになった。一方、『マイクの試験』(1981年)だが、化粧品工場の地方放送室の活動を記録する。放送された内容について管理部長と放送室長が話し合うところはこれまた心理劇さながら、つまりここではものごとの本質がどうかではなく、彼らの隠された考えや動機付けが問題なのである。
『練習工房』(1987年)はこの時期の最も重要なポーランドのドキュメンタリー映画の一本である。これは映画評論家としてだけではなく、クラクフの短編映画祭に参加した者として、またポーランド映画人協会の審査員のひとりとしての意見である。この映画はメイン・コンペ部門に参加を許可されなかったにもかかわらず、映画評論家集団の独立審査員たちがその年の最も重要な映画だと認めたのである。その際、「賞の対象は、その年に上映された映画に限る」という規則が利用された。事実、映画祭の開催中にそのような上映がヤギェウォ大学の映写 室で数人(!)のためにあったのだから、規則の条件は確かに満たしていたのである。
『練習工房』は第二次世界大戦後、ポーランド社会で最も暗い時代の一つ、大衆運動「連帯」の敗北後に撮られたものである。ポーランド人は希望のない、全く展望の持てない雰囲気の中で生きていた。この状況では、ルポルタージュが若い世代のポーランド人について意見を求めている時の街頭の反応をこう描くより他はなかった。共産党に支配された国家の公式なイデオロギーへの不満が紹介され、若者の閉塞感、時には絶望感と結び付いたシニシズムが写 しだされたのである。このような映像は映画の半分を占めるだけである。あとの半分はトリックやショット・サイズである。カメラは円を描き、観客へ向かい、反対の方向から写 しだす。次に同じ話し手を写すが、別の声を入れ、答えの一部は別の場所に移行、他のものは省略し、さらにモンタージュをしている。効果 は雷のごとしである。1987年のポーランドは、若い人々が共産主義国家と党の政策を盲信し熱狂する喜びに満ちた国なのだ。
この映画の総体的な意味は、当時のポーランドの政治的、社会的事件のコンテクストを通 じて、定められている「明白で、瞬時の」意味をかなり超えていると、私は思う。したがって三つの形態の意味に関連する。
- 1) 1980年代の観客にとって「明白」なのは、共産主義の宣伝により歪曲されたものへの弾劾である。
- 2) 同時に、おそらく少し後になってもそうだろうが、この映画は一種の「懺悔」と後悔の行為であり、メディアとしての映画のリハビリの試みになった(劇映画における同様の試みはA・ワイダ『大理石の男』で行なわれた)。
- 3) 数十年後(今からみると)、この映画はドキュメンタリー作家が確かに現実を記録できることに対して根本的な疑問を抱いている。
特に3の解釈では、現実の介添人としての映画作家の使命におけるウォジンスキの疑いをより確認することができると思う。彼は1989年に製作し、オーベルハウゼンの記録映画祭での受賞作で、ブジェシチでの国境通 過を描いたドキュメンタリー映画『ヨーロッパから89ミリメートル』において、列車の車軸の幅を変更している労働者たちの厳しい世界を紹介した(タイトルの「89ミリメートル」はヨーロッパとソ連の軌道の幅の相違である)。二つのヨーロッパ(正しくは二つの世界)についてのこの映画の製作後、監督はあるインタビューで、今のポーランドについては映画が撮れないと言った。根本的な問題は、彼の主張によればポーランド社会がすでにこれ以上は“我々”と“彼ら”に分けられないことにある。それはもはや明確ではない。ポーランド社会はより複雑で、不明瞭であり、明白な指標を奪われた。このような状況では、監督は変わらなければならない。観客へのウインクは十分な意味を持たないので、新しい言語を学ぶべきなのだ。
実際、そのような新しい言葉と観客に対する新しい関係がウォジンスキの最新作『全てが起こりうる』(1995年)にはあるようだ。この映画のアイディアは大きな危険性をもつ賭けである。6歳になる監督の息子が、ワルシャワの公園でベンチに座っている70〜80歳くらいの年金受給者たちに人生の意義、一番大切な行為や敗北など色々な問題、人生の意義と宗教に対する彼らの関係も聞く。その上、彼は単に素朴な聞き手ではなく、子供であるのにもかかわらず、この会話の話し相手なのである。
この映画を分析したポーランドの評論家たちは、たいていこれは世代戦争とどこの文化にもある異なった目的の原則、そして世代間の価値のヒエラルヒーの実例であると指摘した。しかしながら、私はこの特異な映画に関して、さらに別 の分析的な展望を投入する必要があると思う。
この映画は対話、会話、インタビューで構成されている。ビル・ニコルズの著作『リアリティを表象して―ドキュメンタリーでの問題と概念』(1991年)に書かれた、彼のドキュメンタリー映画の理論的視点からすると、この映画はドキュメンタリーの相互作用的様式、すなわち、映画人が目に映った世界と共に、実際の反作用に入る状況の興味ある一例のように思われる。この場合、相互作用は特殊である。つまりそれは私たちが決して見ることも聞くこともできない映画作家が現実に取り込むのではなくて、全く希有な媒体、6歳の息子を仲立ちとして行うのである。ニコルズの意見によると、映画作家は、
映画的、あるいは記録された目である必要はない。彼または彼女は人間の感覚中枢により完全に接近するに違いない。見たり、聴いたり、話したりしながら、その中枢は出来事を認識し、そして反応を受け入れていく。作家は映画に登場する普通 の人々に対して指導者、関係者、告発者、挑発者となる可能性を持っている5。
これはまさにウォジンスキの映画の場合である。しかしここで最も重要なことは、固有の社会的意義であろう。ニコルズの概念(以前はミシェル・フーコーが使った言葉)から借りたもうひとつの理論的な用語―“知の技術”を用いて、社会的に主観化された知識の古い基準(権力の概念に近い)とその新しい変化形の間の断絶を描き出していると言うことができる。古い模範はポーランドのカトリック主義に規定された伝統的な価値、社会における家父長制度による抑圧された女性たち、戦争の記憶を保持することなどによって特徴づけられている。ところが、少年に代表される若い世代は、前述の価値を強い侵略者が領土をいつも征服するようには敵対しないものの、それを退け、拒否する。その際、「古い」価値にどのような「新しい」ものが、対置したかを述べるのは難しい。古いものは無用であり、非論理的で、そして単に…古いだけである。このことは、知識人が大いに将来の社会の形成を考える理由になると思われる。
相互作用的様式間の相違を分析して、ビル・ニコルズはそれはいかようにも多様な形で現れうると言う。それら全ては、出演者とインタヴュアーとの直接的な出会いに基づいている。インタヴュアーの質問は観客ではなく出演者に向けられているからだ。ニコルズはインタビュー形式の違いを分析して、次のように述べている。
インタヴューは表現の解説的様式の表象形式に活用されるならばそれは大体映画作家やテクストの議論の実証として登場するだろう。しかしインタヴューが相互作用的様式の表象形式に活用されるならば作家とその対象の相互関係の成果 における議論の実証として登場するだろう6。
ウォジンスキの場合は、少し違った状況がある。製作者の声と映像は存在しないが、彼の代替の媒体がある。子供はおそらくどう質問するかを教えられ、誘導されただろうが、それ以上に確かなのはそれを教えてくれる人に素朴な質問をしたことだろう。そして他人の言葉というよりはむしろ自分の言葉で言っている。こうして、媒体のために計画された創作者の意識はかなり制限され、実は媒体の意識になる。まさにこの見地において、ニコルズの理論的な様式はぐっと拡大する。映画で紹介されたテーゼと両者の言い分が部分的にネゴシエーションに供されるのも当然である。しかしながら、ネゴシエーションはインタヴューする子供の年齢のため、完全なものにはならないだろう。結論として、ある種の心理劇、そして媒体、登場人物との接点において、大きな緊張になる。子供がご自分の人生を評価して下さいと言ったとき、年老いた女性は感情を露わにして泣き出し、何も言わず、子供に懇願するのである。
この映画の場合、観客はこの概念の三つの意味の境界に立つ感覚を体験する。
- 1) 映画は、従来までの価値基準と古い世界の終焉を提示するが、それに代わる新しい提案も示さない。
- 2) インタヴューをした相手に心理劇への参加を強制しながら、ドキュメンタリー映画の相互作用的手法をいかにも簡単に、密かに提示してもいる。
- 3) 映画は、その上、もう一つの古い秩序との、つまり映画のポーランドの伝統の世界、言うなれば、ポーランド派のイコノグラフィーとの皮肉な別 れになっている(観客はきっと孔雀のようなけばけばしい装飾や伝統的な文化上の意味を色濃く留めたシュトラウスが音楽に皮肉にも使われていることに気づくだろう)。
そんなわけで、『全てが起こりうる』は従来のドキュメンタリー作家の使命、そしてドキュメンタリー映画の伝統的な社会的役割への別 れなのであろうか? 確かにそうだと私は思う。その上、これは監督の手法、イコノグラフィア、彼の役割についての思想的なバックボーンとともに、ポーランドのドキュメンタリー映画の全ての様式上における伝統の脱構築の試み(デリダ的ではなく、文字どおりの)である。
これは多くの映画人が感じることで、そのうちの何人かはこの様な考えを述べる勇気を持っている。以下はマチェイ・シュモフスキが1996年に映画祭新聞で述べていることである。
ポーランドのドキュメンタリー映画は開花したと言う人たちがいるし、それはまたポーランドにおける全ての映画祭の復活がその証拠だと言うわけだ。しかし、ほとんどの映画は自身の映像世界を押しつけるか、あるいはそれを考えているテレビの注文で生まれている。映画祭の開催だけではマルツェル・ウォジンスキやクシシュトフ・キェシロフスキ映画で知るようなドキュメンタリー映画を再び開花させることはできないだろう。そのようなドキュメンタリー映画は、もはや存在しない。
それがたとえ存在しないとしても、将来は存在しうるのか、そしてポーランドのドキュメンタリー作家たちは西ヨーロッパの彼らの仲間が活動している、次第に激しくポーランドの体験にもなっている状況に対してどのように関わるべきなのかという問いが生まれるのである。
いかなる歴史をみても、これほど速く、しかもこれほど広範囲に文化的変化が生じたことはないだろう。なによりもまず、ポーランドのドキュメンタリー映画の状況を理解するために、そのような大変革を体験した社会を語っているのだという確信に気づかなければならない。七年前には、まだ広告も、広告会社もなかった社会である(広告に値する物もサービスもさほどなかった)。今日では、広告と消費イデオロギーによって生きる社会と言えよう。ここ数年の最も興味深いことはドキュメンタリー映画の領域でもあるショービジネス(風俗産業、セックス・ショップなどの風俗産業も)を生んだことである。ピォトル・シュルキン、マリア・ズマシュ=コチャノヴィチ監督などがこのすばらしいテーマを扱っている。
今日のポーランド・ドキュメンタリー映画で欠けているものと言えば疑いもなく政治的テーマである。映画作家たちはこれを恐らく『練習工房』の話し手の一人のように、話すことは全て「賛成または反対の論拠とされてしまう」と思い、取り上げることに消極的である。しかし観客は深い不満足を感じる権利を持っていると思う。大統領の極めて注目すべき仲間が数人いるし、国会選挙があったにもかかわらず、このテーマのドキュメンタリー映画は生れなかった。
最後に配給の問題がある。野心的なドキュメンタリーを製作した(ここではテレビ作品ではないものを意味する)ウォジンスキや多くの監督たちは、テレビのルポルタージュはドキュメンタリーを駄 目にしたという意見で一致する。テレビが嫌であっても、しかしテレビが現在最も重要なスポンサーであり、ドキュメンタリーを配給する唯一の方法(映画祭は別 にして)だということには変わりがない。しかしながら、ドキュメンタリー映画を観客に送り届ける第二の方法については絶えず考えていなければならない。テレビは決して映画にはなりえないのだから。
この論文のタイトルで、私は「割れた鏡」というメタファーを用いた。ご覧になれば分かるように、要するにドキュメンタリー映画は、プロパガンダ的なニュース映画とテレビのルポルタージュに対して、真実を紹介するものだという、ポーランドではつい最近まで一般 的だった前提が消えたのである。現実を映し出す鏡であるドキュメンタリー映画がこなごなに割れてしまった。ロマンチックな観念―ポーランドの国民的イデオロギー―は廃墟と化し、もはや誰も90年代にはこのような観念を持たないのである。
ここで語るべき事の本質とは、つまり映画様式における送り手と受け手のコミュニケーションの欠如であろう。伝達のプロセスで一番大事な部分、つまり共有の価値を基礎としたコミュニケーションのことである。もし作り手と受け手が違う価値観を持っていたり、あるいは別 のヒエラルヒーでそれを「なんとか」捉えるというなら、映画のサブカルチャー全体にとっての敗北だろう。
中央・東ヨーロッパの各社会(映画人及びその他)は共産主義政府とそれに結び付いたイデオロギーの相当の部分が崩壊したのち、自国の歴史的な荷物のかなりの部分、民族的な伝統、神話、新たにやってくる「侵略者」との闘いにおける社会習慣をどうやら断念するつもりであるらしい。この消費文化は資本主義の自由市場経済により促進されるだろう。社会はそれが価値と思想の間の交渉過程において起こるべきだと考える。さらに、あらゆる新しい、共通 の思想のテーマで論争をしたり、あるいはこれらの新しい思想をなんとか考えてみるのも自由である。問題なのはかつての「鉄のカーテン」の向こう側が、幾百万のポーランド人、チェコ人、スロヴァキア人、ハンガリー人の渇望を満たしうるかということである。
翻訳:鈴木覚、翻訳協力:安達和子、文責:編集部
(注)
1. Frank Bren, World Cinema 1: Poland (London: Flicks Books, 1986): p. 47.
2. Wieslaw Godzic, Some Remarks on Aesopean Communication in Film, Semiotic Theory and Practice: Proceedings of the Third International Congress of the IASS, ed. M. Herzfeld and L. Melazzo (New York, Berlin: Mouton de Gruyter, 1988)を参照。
3. Jadwiga Glowa, "Polski film dokumentalny lat 80-tych" (Polish Documentary Film of the Eighties) (Ph.D. diss., Jagiellonian University, 1995).
4. Eric Barnouw, Documentary: A History of Non-Fiction Film (New York: Oxford University Press, 1993): p. 346.
5. Bill Nichols, Representing Reality: Issues and Concepts in Documentary (Bloomington: Indiana University Press, 1991): p. 44.
6. Nichols, p. 48.
シレジア大学にて映画・芸術学の博士号を取得した後、現在クラクフにあるヤギェウォ大学の映画・放送学科の学部長及び助教授を務める。著作に『映画と精神分析:観客の問題』(1991年)、『大衆文化における見ること、その他の快楽』(1996年)があり、その他にも映画や大衆文化について数多くの執筆活動をおこなっている。また、スカラーシップなどの助成を受けて、アメリカ、東ヨーロッパ、ノルウェーにてメディア、映画の研究など幅広く活躍している。