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日本のドキュメンタリー作家 No. 9

松本俊夫


今回の日本のドキュメンタリー作家のインタビューは、戦後日本の映像作家たちに大きな影響を与えた松本俊夫さんにお話を伺いました。これまで山形国際ドキュメンタリー映画祭の日本ドキュメンタリー回顧上映でもいくつかの作品が上映されています。松本さんはドキュメンタリー映画や実験映画の分野、あるいは映像理論、映像教育の方面 でも精力的にご活躍を続けていらっしゃいます。聞き手は編集部のアーロン・ジェローです。


ジェロー 松本さんは最初は画家になりたかったそうですが、結局映画界に入られましたね。そういう美術から映画への転換とか、そもそも何故映画界に入ったかという話をしていただけないでしょうか。

松本 絵は好きでしたね。中学の頃から油絵をやってましたけども、大学に入ろうとした頃は、1950年代初めでしたからね。日本はとても貧しかった。絵かきになるってことは食べられないということだね。それでも僕はなりたかったんだけども、親が美術の学校に行くことには大反対でね。受験料も授業料も出さないと言われた。当時は、今みたいなアルバイトもないからね、それじゃやっていけない。で、美術の学校に行くのは断念して医学のコースに入った。東大のね。精神分裂病とか脳の問題に関心があったんです。しかし、それ自体が嫌いになったわけじゃないけれど、一生は一回だし、やっぱり芸術の道でいきたいと考えてね、親には黙って途中で文学部の美学美術史に移ってしまった。しかし東大には実際に絵を描くような授業はないから、学校にいる間は芸術の理論と歴史を勉強して、実作は独学で続けました。で、勉強をしてる内にね、映像で現代美術と深く関連したアヴァンギャルド・シネマというのが20年代のヨーロッパにあったということを初めて知って、青天の霹靂の思いがしたわけ。日本では全然見れなかったんだけれども、外国の本や文献なんかに非常に刺激を受けてね。美術の問題と映画の問題が一つにぴったり重なってね、これこそ探していたものだって思ったんです。

 無論、映画も好きでね、もう中学・高校の頃から映画はよく観に行ってて、不良扱いされてました。新宿の警察に二度くらい捕まってね。学校さぼって来てるというわけでね。まあ、それぐらい映画好きで、お父さんが興業関係の株主の券を持っている友達がいたんで、お前が観る時はすぐ返すから僕に貸しとけとか言って借りてて、学校は昼までで、そのあと新宿にすぐ移って、はしごで映画観るわけね。だから新宿の封切映画館全部に入るんですよ。それをもう片っ端から観てましたから、当時封切られた映画は、ほとんど観てたっていうことだね。

ジェロー 邦画でも洋画でも関係なく?

松本 そう、どっちも。それから名画座の古いものも。一年に数百本くらいは観てた。そのくらい映画好きだったわけ。ただね、自分が映画を作りたいって思うようになってきたのは、どっちかっていうと、今言ったようなエクスペリメンタルな世界に出会ってからなんです。それまでは観客として映画が大好きだったけれども、自分でも作ってみたいと思うようになったのはそこからなんです。それと、ちょうど、高校の終わりから大学にかけてかな、イタリアン・リアリズムが日本に入ってきて、その影響も非常に大きかった。それまでになかったような衝撃を受けて、何て言うのかな、現実と表現をまるごと一緒にして、人の心にぐいぐい食い込んでくる、そんな映画ってものをもうちょっと本気で考えたいと思った。だからイタリアン・リアリズムとエクスペリメンタリズム、アヴァンギャルドとドキュメンタリーなわけ、出発点がね。どっちにもものすごく魅かれた。そこから問題が始まったわけですね。アヴァンギャルドフィルムっていうのは、奔放な想像力の世界の予測を超えた自由さが非常に魅力的ではあるけれども、反面 、現実との関係がしばしば希薄になって、いわば閉じた世界になりがちなわけ。一方、ドキュメンタリーは、現実との関係はアクチュアルで強烈だけれども、今ひとつ心の内側に深く入り込めないところがあって、時代背景に甘えた作品は時代が変わったりすると何か古ぼけてしまう。この両方の魅力と限界をもっとぶつけ合わせた所に新しい映画課題があるんじゃないかと思ったんです。そういう幻みたいな映画の可能性を、アラン・レネの『ゲルニカ』を手がかりに探究してゆこうとしたのが、僕の出発点です。

 しかし何と言っても一番基本には映画というメディアの記録性とか現実感という本質的な特性をきちんと踏まえていかなきゃいけない。まあ今の時代はね、カメラを使わない映像っていうのもたくさんあるけど、基本的にはカメラで撮る以上、カメラの前にあった現実ってのがあるわけですね。その客観的現実と作家の主観的操作と表現の世界の三つの関係ね、これをどう捉えるかっていうのが、まあ出発点の一番の問題だった。僕は大学の時には実技を勉強してませんから、ともかく大学を出たらばね、映画の学校で四年間みんなが勉強してくることを、現場の一年間で追いついてしまおうと目標を立てました。そのためには分業が成り立ってなくて、もう映画づくりの始めから終わりまで全部付きあって仕事するような中規模の映画会社に入ってね、実技の基礎はマスターしてしまおうともくろんだわけです。そう思って入ったのが新理研映画というプロダクションでした。別 に何の魅力もない会社だったけれど、ある程度実技の基礎を修得するのにはちょうどいいくらいの規模でしたね。実際に全部、企画の始めからフィルムの完成まであらゆる部門にわたってつきあえた。仕事外でもいろんなフィルムを借りてきてはね、どんな風に作られているかフィルムをほどいて勉強したりですね、いろいろ聞いたり読んだり見たりしました。

 それでほぼ一年間で、日大の映画演出コースで勉強する程度のことは大体覚えて、次の年にはもう作品を作りだしました。それは、この前亡くなったまだ無名時代の武満徹や山口勝弘なんかと一緒になって企画して作った『銀輪』っていう作品なんです。これはまあ一種のPR映画ですが、わりとアヴァンギャルドな映画です。一部アートの世界で高く評価されていたこともあって、確か十年くらい前に50年代の日本のアヴァンギャルドのレトロスペクティヴがパリのポンピドゥーであった時ね、コミッショナーから出品の依頼があったんですよ。で、当時の関係者が手分けして探したんだけれども、もうそれを作った会社もつぶれていて、全く所在がわからなくなっていました。貴重だったんですよね。武満さんが作ったミュージック・コンクレート(具体音楽)なんかも、映画に使ったのは日本では最初だったと思う。そういう意味でも非常に貴重だったんで、ネガが紛失したのはとても残念です。

 その次に作ったのは『潜函』というドキュメンタリーでね、青森県の八戸っていう所の海岸に、潜函っていってね、海水が上がってくるのを高い気圧で抑えながらビルの土台を作ってゆく工事があったんです。その潜函の中で工事をしている人達はものすごく高い気圧の中で仕事するんで、もう心臓とかいろんな病気になりがちなわけ。その苛酷な労働を朝鮮人とか、仕事がなくて出稼ぎに来てる東北の農民がやってるんです。そういうところに焦点を当てた作品でした。

 次もやはり『春を呼ぶ子ら』というドキュメンタリー(YIDFF '91で上映)で、撮影現場は岩手県の山村と東京の下町でした。岩手県っていうのは日本のチベットって言われていた所ね。都会の底辺では労働力がないんで、岩手県あたりの子供たちが中学出るとそこに連れて来られて一番辛い仕事に就く。もっと辛い生活やってきてたから耐えられるってわけ。当時そういう農村と都会の底辺をつなぐ関係を象徴する集団就職を切り口にしてドキュメンタリーで撮ったんです。

 そういうのを撮っていながらね、ぶつかってきた問題があった。その問題は何かというと、その頃良いドキュメンタリーと言われるものは、まず第一に素材自体が感動的で、そして何かしら社会的・政治的に話題になるものだった。つまり映画を撮る前から情報価値があるんですよ。じゃあ映画はそれに対してどれだけ映画としての固有な価値を生んでるのか。そういうことになんか引っかかってきたわけ。そういう現実との照合関係にもたれかかるのではなくね、映画自体が映画としての表現力やリアリティといった価値を確立するのはどこなのかと。映画が現実の再現的伝達の手段や道具にとどまっている限り、それは報道やプロパガンダではあっても芸術にはならない。映画に芸術的感動を求める限り、その映画の自立的な価値をもうちょっとはっきりもう一つの現実として立ち上げるべきだ。そうしないと、社会的な事件とか政治的な闘争とかが時代の表面 に見えにくくなるとドキュメンタリーも衰退してしまう。そしてまた社会的・政治的な問題が顕在化してくるとまた盛んになる。そこがどうしても気になったわけ。

 例えば戦後映画の出発点としてね、イタリアン・リアリズムに僕らはものすごく感激したわけだけども、間もなくイタリアも含めて戦後世界が経済的に復興してきた時にイタリアン・リアリズムは行き詰まったわけ。戦争中のレジスタンスの時代には人間が人間として生きようとして殺されるとか、逆に生き延びようとして仲間を裏切るといったような、いわば限界状況のドラマがむきだしで社会の表面 に顕在化していた。それからまた戦争直後は目で見て直ちにわかるような貧困とか飢えですよね。そういう問題が世界が抱えてる一番切実な問題だった時代はね、そういうむき出しのアクチュアリティを捉えることが、直ちに世界の共同体験としてのリアリティにつながっていた。ところが、いわゆる経済的な復興が始まって、そういう貧困とか限界状況みたいなものがストレートな形では見えにくくなってくると、イタリアン・リアリズムも新しい現実を捉えきれなくなってきて、いいものができなくなってきた。そうすると、あくまでアクチュアルな視覚的現象に固執する人は、貧困が表面 に目立つ、辺境とか過去のそういう時代にさかのぼって、社会的な矛盾を外から捉えやすい所を探して取り上げる。

 しかし、そういうことでしか社会的矛盾に対処できない状態っていうのは、なんかどっかがやっぱりおかしい。事実、経済復興で矛盾がなくなったかというとそんなことはなくて、矛盾はいっぱいあるわけ。食べ物も食べられるようになった、着るものも着れるようになった、街も復興されてきたって言うけれども、なんか人間の心の空洞感とか貧しさとか、もうちょっと目に見えない内面 の矛盾を捉えていかないと、新しい時代に対応できなくなるんじゃないだろうか。そういうことを当時しきりに考えこまされたわけですよ。そのあたりから、もっと目に見えないインビジブルなものを、目に見えるものにしてゆくような主観性がドキュメンタリーに持ち込まれる必要があるんじゃないか、その意味でドキュメンタリーとアヴァンギャルドっていうのは、相互否定の契機をはらみながら結びつかなきゃなんないって考えた感じだね。

ジェロー もちろんそういう問題意識にぶつかった時に、それを自分の作品の中で解決するという方法があるんですが、でも松本さんはそれだけではなくて、執筆活動でそういう問題点を取り上げるといった活動をなさったわけですね。その当時に、例えば大島渚さんといった松竹ヌーヴェルヴァーグの人たちも雑誌で論争に参加するような、作家でありながら批評家でもあるという立場をとる例がしばしばあったような印象がしますね。

松本 映画の世界で時代を見通せる評論家がいなかったし、作家も黙ってはいられないくらい、映画の世界にはこれではだめだってことがいっぱいあったわけ。特に日本の場合は戦争責任の問題があった。文学にしても美術にしても、戦争中に国家の言いなりになってね。まあ、戦争に協力する国策的な作品を作ってきた人たちが、戦後アメリカがやって来ると、くるっと掌を返したように民主主義的な作品を作りはじめた。そういうことをね、作家自らの戦争責任をえぐりだす内面 的葛藤を通してやらないからおかしくなる。戦争中もそうだし戦後もそうだけれど、作家は自分の主体をつきつめずに、権力や社会の趨勢に従って作る。そこがすごくダメなところじゃないか。映画の世界では特に、自分達自身の戦争責任を自分達で追及するってことはなかった。そこに頬かむりしたまますぐ民主主義映画を作れるという体質がね、日本の戦後映画をダメにしてる。だからリアリズムの問題にしても、軍国主義的な戦意昂揚映画のリアリズムと戦後民主主義映画のリアリズムと何にも変わってない。テーマとか素材が変わってるだけなんです。そのごまかしをはっきりさせて、意識と表現の根本の枠組みから日本映画の変革を問題にするには言葉が必要だったんです。でもそういうことやってくれる人がいないから、しょうがなく批評もやった。作ることも批評も理論も、それから運動もオーガナイズも全部やるわけね。上映活動なんかもなかったからそれもやった。もう全部です。

 ドキュメンタリーなんかでもですね、それまでは共産党の組織や労働組合の組織をバックにして作るっていうのがほとんどだった。それから外れて違ったこと考えようとしても、映画を作る基盤も上映の基盤もなかったから、全く新しい体質のものを作っていかなきゃならなかった。そういうところから始めざるをえなかったんですね。ちょうどその頃、60年安保の挫折の直後でしたが、僕は『西陣』っていうドキュメンタリーを撮ったんだけど(YIDFF '93で上映)、これは京都記録映画を観る会っていう観客組織をバックグラウンドにして作ったんです。意識の上では左翼的ではあるんだけれども、いわゆる政治的な組織ではない。そういう新しい観客が育ち始めてて、自分達が観たい映画を自分達の力で作ろうっていうようなことが始まった最初だと思うんです。そこで、初めての試みとして今さっき僕が言ったようなことを言って、もっと状況の内面 の底に沈んでる、形にしにくい歪みみたいなものを形にしようという主旨に合意を得て、京都の西陣を取り上げることにした。しかし、西陣って場所を描写 するわけでもないし、織物を見せようとするわけでもなくて、西陣って場所にうずくもってるね、声にならない分厚い沈黙の声を形にしようとした。いわゆる特殊な非日常的な素材や決定的瞬間のいただきショットを排して、いわば固執するイメージを執拗に積み重ねてゆくシネポエムっていう形式をとったんですけれどもね。結果 は賛否両論でしたが、こちらもまだ若かったので、ヴェネツィアの国際記録映画祭で銀獅子賞になったことは、次の展開をしやすくしてくれました。

 次は『石の詩』っていう作品だったんだけれど(YIDFF '93で上映)、これもわざわざ素材の情報価値を切り捨てる所から始めてるわけ。素材は石でしょ。石は何も語らない。しかもそれをいったん写 真にしたものを更に映画で撮って再構成した作品。だから二重に映画から遠いわけですね。大体、石っていうとそこに死をイメージしちゃうんだけれども、この四国の石切り場の石工たちは石を切り出して磨いてね、「石がだんだんできあがってきました。」なんて言わないで、「だんだん石が生きてきましたね。」って言うわけ。それ聞いて映画を作る時の映画の在り方と同じじゃないかと思ったわけね。映画が映画から最も遠い所、つまり映画の死から始めて、そこに映画が息づいてきだしたらば、映画はそこに「生きてきた」って言えるんじゃないか。そういう意味じゃ、メタフォリックな表現としてね、時代の挫折感や空洞感を石の分厚い沈黙や映画の沈黙と重ね合せて、そこに生命の息吹きを甦らせようとするのがこの作品のテーマだったわけですね。

 この作品はね、フランスのトゥールの映画祭でやった時に賛否両論に分かれて、結構弥次られたんだけれど、その時、あの『世界映画全史』を書いたサドゥールがレットル・フランセーズに批評を書いてくれてね。えーと、『悪魔が夜来る』っていう題のマルセル・カルネの映画、知ってるかな。戦争が終わる頃作られた作品で、そこに出てくる悪魔がナチスに例えられているわけ。その悪魔があらゆるものを石にして世界の支配者になる。主人公も恋人と二人で抱き合ってるところを石にされちゃうんだけども、悪魔がふっと耳を傾けるとね、抱き合ったまま石にされてしまった恋人たちの方から音が聞こえてくる。近づくと心臓の鼓動がしてるわけ。つまり心は石にすることはできなかったという終わり方をしてるんです。その映画のラストシーンを思い出さないだろうかとサドゥールは言うわけね。そして死の象徴としての石の沈黙から、生命が鼓動を打ち出すに至る表現も含めて、『石の詩』をこの映画祭の中で最も新しい作品の一つと評価して自分は支持すると書いてくれたんだよね。映画の中に石工たちの「石が生きてきましたね。」という言葉を入れてますけれど、なんかあんまり説明しないでもわかってくれる人はわかってくれるんだなと思ったわけですよ。でもその時にね、映画全体で表現された世界っていうのは、必ずしも元の写 真の個々の要素にはないんですよ。作品世界は素材をどう切り取ってどう構成していくかという作家の主体的な手続きの中にしか姿を現わさない。その点をはっきりさせないと映画の独自の価値を見出せないということと、指で差し示すことのできない現実の内向しているリアリティに事実信仰を超えて迫る表現としての切り口を、この『石の詩』を通 して何か見いだすことができたかなっていう気がしたわけ。ですから、僕にとってのドキュメンタリーっていうのは非常にそういう意味で屈折した形の出発点があったんです。

ジェロー 松本さんの著書『映像の発見』の中に、ドキュメンタリーの問題は方法の問題であると、書かれていましたね。それを読んでから『西陣』とか『石の詩』を見ると、映画様式に注目して、すごく良くできた作品という印象を受けました。『西陣』でも織物を作るシーンの繰り返しとか、モンタージュの使い方は非常にうまいと思います。映像のモンタージュだけでなく、サウンドの使い方にしても非常に感動しました。方法についての話、特にモンタージュとか、映像と音の問題に関して、当時何を目指していたかということについてお話していただけないでしょうか。

松本 本でも書いたことですけどもね、ジャンルとしてドキュメンタリーとフィクションを対立させあうような風潮がありまして、評論家の岩崎昶と今村太平がそれぞれ虚構と事実の優位 性をめぐって論争したことがありました。しかし僕はね、虚構か事実かっていう論争はあまり実りが豊かでないと思ったわけです。重要なのは、表現者と現実世界と映画の三角関係をどんな風につきつめようとするかであって、映画のきわめて魅力的な特色は、事実と虚構、客観と主観の二元的構図がむしろ溶解して区別 がつきにくくなることにあるんじゃないのか。だいいち僕に言わせると、何らかの対象を何らかの視点で切り取ったり配列したりして作り上げられる秩序は本質的にフィクションだし、その意味で虚構性は創作に必ずつきまとうものだけれど、その秩序を開いたものにしようとする上で、ドキュメンタリーの方法がアクチュアルな意味をもってくると思うんです。古典的なジャンルっていうのは、とりあえず認識を整理する上での目安にはなるけど、やっぱりそれ自体が揺さぶられて変わっていくっていうふうに思ったわけですよ。そういう意味ではね、映画をジャンルで全然ちがう世界に振り分けるというのは、僕は反対だったんです。

 そういう点でね、60年代の頭に松竹ヌーヴェルヴァーグなんか出てくるんだけれども、これはジャンルを超えた共通 の問題なんだと思いました。変革の必要性はジャンルによって別々にあるんじゃなくて、大きな時代の変化の中での映画自体が抱えた時代課題であるという共通 認識がありましたね。50年代の終わり頃『映画批評』という雑誌が出まして、そこにまだ助監督時代の大島(渚)や吉田喜重や篠田(正浩)たちと羽仁進や私なんかのドキュメンタリーの新人たちが、一緒に同人を作ってジャンルを超えた批評運動を進めたこともそんな時代の動向を物語っています。ですからどこに所属してどんなジャンルの映画を作っているかっていうようなことは、もう二の次、三の次だったわけね。

ジェロー 『石の詩』の次の作品である『母たち』(YIDFF '93で上映)は、手法からすると、その前の作品ほどラディカルな作品ではないようですね。

松本 そうです。実は『石の詩』の頃、僕は既に映画界から干されて映画が作れなくなっていたんです。そこで60年代の頭にテレビを何本かやったわけです。当時はまだテレビ局が独自のテレビ的な文化コードを確立していなかったんで、寺山修司とか谷川俊太郎とか、亡くなった安部公房とか、井上光晴とか、テレビ界の外部の作家達が単発の番組を作れるチャンスがあった。しかし、『石の詩』もそうなんですが、とかく表現のあり方をめぐって局とトラブルになっちゃう。それで、もう出入り禁止というふうなことになったりしてですね、僕は映画もテレビも作れないという状態が三年半も続きました。その時はしょうがなくて、劇団青俳で演劇をやってたわけね。

 だから『母たち』というのは久し振りに映画を撮るチャンスだった。ここでトラブルを起こしたら、たぶんもう映画を作れないという状況だったわけです。まあ、そういうことだから、あんまり無茶なことをしないということがある意味で前提にあった。それとスポンサーがね、外国の映画祭で賞を取れるようなものを作って欲しいと言ってきたわけですよ。賞をくれるかくれないかは相手の問題でね、必ず賞を取りますとは約束できないけれども、賞を取れそうなものであればあんまりスポンサー臭い映画ではだめだから、内容に余計な口出しをしないで欲しい、とりあえず任してくれるなら賞を取るような一般 性のある良い映画にしますということで始めたわけですよ。ここで無理して表現をラディカルにしたら、逆に賞を取りにくいだろうしね。そういう意味では、あんまりあせらないで、まずは映画の世界に復帰しなきゃいけないということを自分に言い聞かせて、作ったのはシネポエムの形式で抒情的でわかりやすい作品でした。しかし時代としてはヴェトナム戦争だの黒人差別 の問題だのを扱ってですね、世界の母親と子供という視点から見て、東と西、北と南の矛盾が立ち上がってくるような映画を作ったわけですよ。結果 は幸いと言おうか何と言おうか、67年のヴェネツィア国際記録映画祭のグランプリを取ったわけですね。ですから一応は約束は果 したし、事実それがきっかけでまた映画を作る機会がもう一度やって来た。68年製作の『薔薇の葬列』とかですね。山形映画祭でも上映したと思うんですが、三台の映写 機を使った『つぶれかかった右眼のために』(YIDFF '93で上映)とかね。まあ、『母たち』の受賞がなかったら、そういう方向にも展開できなかったわけです。

ジェロー その先程言及なさった『つぶれかかった右眼のために』を山形映画祭で拝見した時に、その方法の挑戦的な様子を含めてすごく感動しました。何か対象を描くということではなく、時代を描いたものという意味でも。松本さんにとって、1968年、あるいは60年代とはどういうものだったんでしょうか。そして、作品の中でどんなふうに描こうとしましたか。

松本 そうですね、60年代って大きく振り返ると、20世紀の中でやっぱり20年代と並ぶ大きな転換期だったと思うんですね。それは何よりも物の見方、考え方、感性、価値観などのパラダイム・シフトだったと思います。芸術もドキュメンタリーも何もかもそうなんだけども、古い物差しが全部通 用しなくなっていた。そして新しく枠組を変えないことには窒息してしまうという抑圧感は日本だけじゃなくて世界的に共通 してたと思うんです。だから68年にパリ大学ナンテール校を一つの口火にして学園紛争が起きるや、乾いてた草が一気にあちこちで燃え上がるようにそれが世界中に飛火した。連動してそういう現象が国際的に拡がったっていうのはやっぱり同時代的な本質を反映していると思うわけ。そこでは、結局それまでの戦中・戦後体制の枠組では、もうくくりきれない新しい状況が、いろんな所で摩擦を起こしながら顕在化しつつあったんだけれど、その構造的な地殻変動の時代こそ60年代だったと思うんですよ。これはもう、社会的政治的な大変化があっただけじゃなくてね、やっぱり価値観の問題がものすごく大きかったんですね。そして文化、芸術の全分野に及んだと思うんです。

 その中で最大の収穫は、あらゆるものが制度であるっていう問題が初めて非常にはっきりしてきたってことですね。だから、物の見え方は見方によって変わるんであって、はじめから決まってるものじゃない。例えば絵画の中の遠近法といったような一つのパースペクティブの在り方にしても、これは西洋における、ある特定の歴史的社会的な転換期に確立したものの見方が作り出した空間の知覚形式で、それもまた制度だってことが明らかにされていったわけ。そういう意味では、映画も含めてですね、芸術の表現方法や表現形式にしてもね、結局は制度的に作られてきて、実は制度が惰性化するとそれは自然化される。習慣とか惰性が規範化されて固まってしまうと逆に自然らしくなるというのが制度ですね。

 とまあそう考えるようになったわけね。そして制度をいかにむさぼるか。だから片方で政治の問題として権力は弾圧してこうやってくる、そこだけが制度じゃない、目に見える政治的弾圧という形だけじゃなく、権力っていうのは目に見えない形で僕らの思考や感性や文化や芸術も制度化している。これを自覚して揺さぶらないとね、本当の意味で権力の構造は揺るがないんです。だから戦後直後の権力と反権力の直接的な政治的力学のぶつかりあいで物事が大きく動いていたような時代から、もっと目に見えない人間の意識、感性、ものの見方や価値観など、いろんなものを含めて僕らは支配されている。そこをどう自覚して習慣的な惰性態としての制度をどう揺さぶるかということが、芸術の非常に大事な課題だっていうふうに考えたわけですね。ですからそのあたりの内面 の歪みに自覚をかきたてる方向でハッと思わせる、そういう映画っていうのかな、それを通 して映画自体の体質そのものも変えていくことがね、芸術としての権力に対する戦いだと思うんです。そういう意味では映画に限らずですけれども、60年代の前衛的な芸術運動っていうのが、最初に問題にした戦争責任を全く自覚しないでやってきちゃった体質も含めて、芸術表現、芸術家、それを見る層、見る文化システムなど全部ひっくるめて脱制度化を迫ったことの意義は測り知れないものがあります。まあその制度的体質は根深いからね、そう簡単に解決しないで現在に至ってるんだけれども。(笑)

ジェロー そうですね。その後、松本さんはいわゆる劇映画、長編映画の方に移ったわけですね。その当時に黒木和雄とか東陽一といった岩波映画出身の監督たちもけっこう劇映画に入ってきたわけですね。先日『薔薇の葬列』を拝見したんですが、松本さんはドキュメンタリー映画とか実験映画の経験を踏まえて劇映画を撮る際に、どういう問題にぶつかったかをお聞きしたいと思いますが。

松本 そうですね、一番最初が『薔薇の葬列』で、これは69年の封切でしたが、その時に僕自身は劇映画の方に転向するとか、いわゆる商業映画界で仕事ができるようになりたいとか、そんなこと考えたわけじゃないんですよ。むしろ商品としての一般 的な劇映画はそれこそ習慣と惰性で作る紋切り型の世界を押しつけられるので、そんな職能的監督になりたいと思ったことはありません。しかし、今までになかった実験的な劇形式の映画は作りたかったので、僕の場合はいわばゲリラとして劇映画界に挑発的に殴り込みをかけるといったような意味合いのほうが強かったんです。ですからそこでは虚構と事実とか、男と女とか、客観と主観はもちろん、精神と肉体、素顔と仮面 、悲劇と喜劇といった二元論的な世界の認識の図式を掻き乱すということが創作の動機にありました。もちろん扱ってるものとしてはね、ゲイの世界であるとか学生運動とか、まあ『つぶれかかった右眼のために』と同じ時代に作ってますから、素材は似てるかも知れない。しかし表現としては継起的でクロノロジカルな叙述構成を解体して、現実と想念、現在と過去を時間軸に立体派の絵のように構成して、しかも古今東西の文学、演劇、絵画、音楽からの引用による断片のコラージュという形をとった。これはその当時、はっきりそこまで意識していたわけではないけれども、その後浮上してくるポスト・モダンの考えにつながってるわけね。そういう意味では、今言ったような二元論的な遠近法の整合された秩序世界の否定はやっぱり近代の懐疑から始まるんですね。ですからそういう方向で、僕の場合は近代を突き詰めたところで一つのフィクションのレベルで近代が破綻させていく。前近代をふまえて近代を批判するってよりも、近代を前方に突き詰めて近代を破綻させるというコンセプトが『薔薇の葬列』には強かったんです。

 当時は70年安保の激しい政治の季節でしたから、なんでそんなもの作るのかって随分非難されました。非難はされたんだけれども、僕の考え方の中には70年安保に対するメッセージといったような射程ではなくて、もっと大きく、近代そのものを揺さぶっていくような、世界の認識の仕方や価値観のはるかに大きな地殻変動の予感を投げかけたかったわけです。

ジェロー ポスト・モダンの問題を考えると、もし60年代にそこまでの左翼系の作品の中で、あまりにも外部の世界に集中して自分の主体性を問題化しないというような問題があるとしたら、それ以降ポスト・モダンの時代になると、日本では日記映画とか、パーソナルフィルムはかなり多くなりましたね。まるで問題提起そのものが変わっていったようでね。時々うかがう批判の一つは、松本さんが目指された外部の世界と内部の世界の統一よりも、今のパーソナルフィルムはあまりにも内部の世界に集中しがちだということですか…。

松本 そうですね。ですから、僕はそういうプライベートな日記映画は一つの主観的なドキュメンタリーとしてそれなりに評価するけれど、僕自身はそういうものを作らないんですよ。一つは日本の伝統的な私小説っていうのがありますね。その自閉的な私性と結び付きはしないだろうかという危険性があるわけ。それが一番悪く結び付くとそれこそオタクみたいな、他者を欠いた閉じた世界に入り浸たってしまうことになる。その傾向はいま一つの限界に来てるんじゃないかと思うんですよ。もちろん本来、私性っていうのが重要だったのは、「私」をさっき言った制度的にコード化された「パブリック」に対立させる意味においてなんです。その画一的なパブリックを壊すためにね、私性を対峙させるのは僕は支持するわけ。だけどもその私性がオタクになっちゃうと困るわけ。それが一つ。それからいま一つはデカルトの言う「我思う、ゆえに我あり。」という我ね。世界と対峙しあって自立した自己を確立させる近代的なコギトとしての「私」。その「私」を疑ってない「私」はまたちょっと問題があるんだけども、いわゆる私映画にもそういうところがある。全然自分を疑わない。外部の世界との関係においてね、自分自身を相対化しようとしないから、だんだん予定調和的で自己完結的になる。その自己同一的な自分への忠実さは、近代の個性の神話みたいなものと結び付いてるわけ。そういう意味ですごく楽天的過ぎる。その傾向ももう何年も安定しちゃって一つの制度になってきちゃっている。

ジェロー もし60年代以降の松本さん自身の作品を60年代以前の作品と比較すると、どういう変化があったと思いますか。例えばテクノロジーの問題がありますよね、ビデオとか新しい技術が入ってきたり…。

松本 僕は、まだあんまりそういうテクノロジーが盛んに使われてない頃にテクノロジーに目を向けたんです。それは今言ったような「私」の外部だったんですよ。人間の意識に染まってないわけ。その未知の外部が近代的な自我世界を破っていくマン−マシンのインタラクティヴな動的契機に魅力を感じたんです。でも本来映画自体もそうだったんですよね。小説なんかは一字一句原稿を何度も何度も読んでね、すべて意識が支配する。ところが映画、特にドキュメンタリーっていうのは、意識の向こうから情報が偶発的に入ってくる契機が強い。それに対してこちらがとっさに反応するという緊張関係。そのプロセスで自我の枠が揺れ動いたり、拡がったりするんだけども、テクノロジーにもそんな関係があった。ところがこの十年くらいの間に映像テクノロジーが急速に発達して、猫も杓子もエフェクト・シンドロームに熱中するようになったので、僕はその画一化現象に今では背を向けています。

 じゃ、一体何やるかっていうとですね、例えば『ドグラマグラ』が挙げられるんだけれども、文脈の実験に力点を移行しています。人間が世界を意味づけ、世界を解釈する文脈の制度を脱構築する実験です。人間が世界像を自分の中に作り上げる時に、その在り方は一つの物語になるんですよ。世界を必ず物語にしていくんです。それこそ、何々は何々であるというかたちで認識が構成されてゆくんだけれど、その叙述形式っていうのは物語なんですよ、結局はね。これは人間が言語を持っている限りずっと変わらない。だけど、問題なのはその文脈形成のあり方が紋切り型になって、世界と自分の関係を安定した遠近法のパースペクティヴの中にうまく収めちゃう。例えば二つ以上の情報が与えられると、人間ってその間の関係を連想的に物語にする。テレビのクイズなんかでも、画像を部分的に開いていって、それが何かを当てさせるのがありますね。それが東京タワーとか凱旋門の写 真だったり。その場合、人は部分の情報を自分の知ってる物語に照合して解釈しようとする。そのやり方が型にはまって、惰性化した水脈に沿ってしか水が流れなくなる。そんな具合に自動化したものの認識の仕方、ものの考え方、感性の在り方をね、意地悪く揺さぶって撹乱するということをもっとやらなきゃいけない。

 視覚的な面での脱自動化の実験は70年代から80年代にかけていろいろやってきたわけ。でも画像技術が進んでどんな像も作れるようになると、視覚的に慣れちゃう。だから新鮮な衝撃力がいまやあまりないわけ。その点、世界を意味づけ解釈する文脈のあり方、それを物語る叙述の構造っていうのは、まるでそれ以外は考えられないかのようにしっかり制度化されていて、一番手付かずだよね。これを脱制度化しなきゃいけない。『ドグラマグラ』では観客がこうかなと思うとそれをはぐらかし、ああわかった、こうなんだと見方を変えるとそれもひっくりかえしちゃうんです。で、ああでもない、こうでもない、と次から次へと振り回してゆく。人があるものを何かとして判断する基準ていうのは、その人の経験、知識、記憶なんですね。その記憶があの映画の主人公には失われてるから、アイデンティティを確立できない。観客も主人公の意識の流れに沿って感情移入してゆくから、一緒に振り回される。その振り回される経験を通 して、自分が物事をどう認識しているかに気がついて欲しいんだね。

ジェロー そういう手法によって、人の認識は『映像の発見』に書かれたような「裸型の現実」をぶつかるんですね。つまり論理的な固定概念が覆えされたことによって、裸の現実を認識できるという方法です。それはシュールレアリスムの影響を受けるものではないでしょうか。

松本 その影響大きかったんじゃないでしょうか。青春時代に大きな影響を受けましたから。

ジェロー もう一つの影響は、初期のロシアのフォルマリズムではないでしょうか? つまりシュロフスキの論説では、芸術こそは世界への常識を覆えして、私たちは普通 に見えない現実を発見できる手法でということですね。

松本 確かにそうで、異化の手法で物の見方を脱自動化するという命題はロシア・アヴァンギャルドから学んだものです。無論その後さまざまな20世紀後半の思想や芸術の、経験、知識、記憶が総合されてゆくわけですが、初期の自己形成の原点だったシュールレアリスムとロシア・アヴァンギャルドの精神は、未だに深い痕跡を残していると思います。

 


松本俊夫


1955年東京大学卒業。日本の前衛的記録映画、実験映画、マルチ映像、ビデオアートの草分け。『石の詩』(1963)から『記憶痕跡』(1987)に至る実験的短篇映画、『新陳代謝』(1971)から『偽装』(1992)に至るビデオアート、『薔薇の葬列』(1969)から『ドグラマグラ』(1988)に至る実験的劇映画等を国内外で発表。受賞多数。『映像の発見』(1963)から『映像の探究』(1991)まで著作も多数。現在京都造形芸術大学教授・芸術学部長。日本映像学会会長。