フィリピンにおける90年に及ぶドキュメンタリーの歴史は、二つの革命にはさまれていると言えるかもしれない。
今世紀初め、スペインに対してフィリピン人たちが革命闘争を起こしていたとき、ホセ・リサールの死は植民地への圧政に対する戦いのシンボルとなった。当時、国で一番の知識人であった彼が射殺されたその数日後に、フィリピン人は映画というものに初めて遭遇することになる。スペインの後でフィリピンを植民地にしようとやって来たアメリカの到着と同時に、映画装置が主要な娯楽の道具として、国の文化の形成に深く関わることになったのだ。世界の市場を独占するハリウッドは、結局、フィリピンの島々が植民地化されていくのと時を同じくして隆盛していく。
90年後、また別の男が射殺され、別の革命の火が燃えていた。今回は、独裁者を追い出すための戦いだった。ベニグノ・“ニノイ”・アキノ・ジュニアは、フェルディナンド・マルコスの独裁政府からの解放を求める人々のシンボルとなっていた。ビデオの技術により、映像装置はあの4日間の一連の事件をくまなく記録し、人々の自由への戦いをとらえていた。
フィリピンでは、このように映画と革命は分かちがたい形で生まれたのである。
射殺から射殺へ
それは長く苦い戦いだった。
歴史というものが一つの完全な円としてやって来るものだとしたら――射殺から射殺へ、革命から革命へと、フィリピンのドキュメンタリーの歴史は社会で起こる出来事の証人として位 置づけられるといえるかも知れない。
その初期の頃は、フィリピンの国土と国民を映像により記録することについては、完全に外国の映画作家に依存していたらしい。エリック・バーナウ教授の著作「世界ドキュメンタリー史」に、フィリピンとアメリカの戦争を描いた初期の作品は、トマス・アルバ・エジソンのスタジオによって撮影されたという記述がある。それは、アメリカ人兵士と戦ったフィリピン人を描いたものだったが、ニュージャージー州のウェストオレンジで、フィリピン人の役を黒人に演じさせて撮影したものだった。
また、アメリカや他の国の映画作家の中には、自分たちの国の観客に見せるための<実写 映画>をフィリピンで撮影していった者もいた。たまたま革命に遭遇したことを利用し、アメリカ映画は戦争を撮ることで金もうけをした。それらの映画は<視覚的な新聞>として知られ、芝居小屋などで上映されることもよくあった。
ところで、彼ら初期の映画作家たちというのは、サイレント映画の中で、どのような映像でフィリピン人とその国土をとらまえていたのだろうか。エジソンのスタジオで製作されたフィルムの一連の場面 を見ていると、――それらは実際には後で<再構成>されたものであり、個々の場面は実際に出来事が起こった場所で撮影されたのではなくカメラの前に作られた偽の場面 なのだが――アメリカが植民地政策を強めようとしている時に、映画のいろいろな装置がどのように使われていたのかがわかる。
これらの映画のタイトルを見ただけでも、植民地化する側の白人が植民地化される側に対して感じている優越の感覚がわかる。「フィリピン人の大敗走」「フィリピン人塹壕からの退却」「カンダバ塹壕の俘虜」そして「カルコーカンにおけるカンザス志願兵の前進」。これらのタイトルはフィリピン人戦士の“敗北”や”俘虜”について言及しており、つまりはフィリピン人に対するアメリカの勝利を語っているのである。バーナウ教授の言葉を借りれば、これらの映画は「当時の帝国主義的な感情を煽った」のであった。
フィリピン人自身によるドキュメンタリー映画の製作は、彼らが製作技術の方法を獲得した1920年代の初めごろに始まった。ホセ・ネポムセノとヘスス・ネポムセノは、アメリカ政府の委任を受けて、国の地場産業についてのドキュメンタリー映画を撮った。また、彼らはパテやパラマウント等、外国のプロデューサーのための通 信員ともなったのだった。
1930年代、40年代になると、フィリピン国内の映画スタジオの中で、タイムリーな題材、例えば天災、大災害、特別 な出来事、紀行映画等を撮れるところが出てきた。これらの映画は、映画館で劇映画を上映する時に、おまけとして上映されるようなこともあった。だが、これらのドキュメンタリー映画は、観客を引きつけてやまないフィクション映画の敵では全くなかったのだった。
第二次世界大戦が勃発したとき、国内の映画製作会社は閉鎖に追い込まれた。さらに悪いことに、戦争中に戦前のドキュメンタリー映画の多くが損傷したり紛失したりした。
その4年にわたるフィリピンへの侵攻中に、日本軍はプロパガンダ映画を製作した。それらは利己的な映像で構成されており、例えばアメリカ軍に対する日本軍の強大さを誇示するものであるとか、フィリピン人の協力者を政治的に優遇することであるとか、人々の生活の表面 的な変化といったものや、その他、似たようなプロパガンダを題材としていたのだった。
フィリピンが解放され、再建の時代が始まった。映画産業が自分自身の足で立つには、大ヒットを記録するような映画を製作する必要があった。ドキュメンタリーが大ヒットを飛ばすような種類の映画でないことは明白ではあったが、戦争が終わって、時機が到来したというのに、誰一人としてこのジャンルにトライしようとする者がいないことは、悲しいことであった。
戦後の状況を記録する映画の製作は、合衆国情報局(USIS)を通じて、再びアメリカの手に委ねられることになった。戦後は、コミュニケーション・メディアというものは、技術や社会福祉、農業における新しい進歩を普及させる道具としての役割を演じたのだ。そして、資金と技術をアメリカがスポンサーとして提供することにより、USISは、フィリピン映画産業から多くの経験豊かな監督たちを引きつけたのだった。そうして作られたドキュメンタリーは、フィリピン人の生活を確かに扱ってはいたが、しかし、新植民地主義的な状況に対しては、何の批判的分析も含んではいなかった。
幾つか違った形態のドキュメンタリーが製作された。ストーリーが展開していったり映画俳優を使ったりする、劇映画の特性をふんだんに取り入れた作品もあったし、紀行映画や教育映画、国の文化的な側面 を取り上げた作品もあった。そして、それからは、ある一人の男がこの瀕死の映画の状況を活性化していこうと試みるのに、それほど時間はかからなかった。
ベネディクト・G・ピンガは、軍の将校で、1950年代の初期にニューヨークで映画作りを学んだが、フィリピンでドキュメンタリー映画の製作とプロモーションに力を注ぐべく帰国した。ロバート・フラハティやジョン・グリアソンをはじめ、他の外国のドキュメンタリーを勉強した彼は、国産のドキュメンタリー作品を製作することや作品を正しく評価することを、映画祭や映画学校、彼が設立した映画協会、出版活動等を通 じて奨励してきたが、中でもっとも重要だったのは外国の映画祭への参加であった。様々な国際的なコンペティションで賞を獲得することにより、フィリピンはドキュメンタリー映画の製作において、アジアの中では指導的な役割を果 たす国の一つとなった。これらの動きは60年代に起こったものだ。この時期を私は第一次ドキュメンタリー運動の時期だと考えている。
数は少ないが、いくつかドキュメンタリー作品の中で素晴らしいものを挙げるとすると、ピンガの、反戦をうたった実験ドキュメンタリー「ある要塞の魂」(“Soul of a Fortress,” 1964)がある。アメリカとフィリピンの兵士が日本軍に対して激しい戦いに従事したという、戦争の傷痕が残るコレヒドール島を撮った作品だ。ランベルト・アベアナの、フィリピンとスペインの関係を描いた歴史的ドキュメンタリー(賞を取ったことがある)には「エル・リガド」や「ラ・カムパナ・デ・バレル」、また他の人の作品では、フィリピンの習俗を題材にしたものもある。
しかしながら、ドキュメンタリーに対する意識を高めようというピンガのたゆみない努力にもかかわらず、振り返ってみると、これらの映画の多くは(映画的な未熟さは言うに及ばず)その質、観点において高度なものを提示できてはいなかったが、それらの多くは政府のプロパガンダであったり、企業のビジネスのための企業イメージの確立や、外国の多国籍企業を普及させるためのPR映画や、また、組織や個人の特質や業績、フィリピン文化の側面 といったものに焦点を当てた特別な映画であったりしたのだった。小作農民の社会不安、貧困や堕落というような国内の社会的現実を真摯に扱ったドキュメンタリー作品は稀であった。
そして政治の変化により、最終的に、ドキュメンタリーは、無害で素朴なだけの手段からプロパガンダ一辺倒へと変化していった。荒れ狂う70年代には、世に出始めていたドキュメンタリーの運動がフェルディナンド・マルコスによる戒厳令の押しつけで、芽を摘まれていったのだった。
1972年9月21日にマルコスが戒厳令を宣言したとき、全てのコミュニケーションの手段が抑圧され、軍の統制下に置かれた。異を唱えるものすべてが厳しく抑えられた。ドキュメンタリーも例外ではなかった。
映画、テレビ、ラジオ、出版等のメディアを統制することにより、独裁体制は人々に向かってより良いイメージを創出するためのプロパガンダの材料を楽に生み出すことができた。間もなく、国立メディア・プロダクション・センター(National Media Production Center)なるものができて、政府のプロパガンダを国家的に独占したのだった。製作されたのは、“新しい社会”と独裁者のイデオロギー的な思いつきを歓呼して迎えるという映画や、またファースト・レディーであるイメルダ・マルコスの世界観光旅行や、軍のファシズムの威力等を題材にしたものであった。
ドキュメンタリーというメディアの低下しつつあるモラルを回復させるために、学生たちの行動主義の拠点となる、学生運動の基盤である高等教育が結局、大きな役割を果 たすことになる。80年代に体制の脅威をものともしない大胆さを持っていたのは、地下で活動していた若いドキュメンタリー映画作家たちであった。彼らは、専制的な体制下で、禁じられた映像をフィルムの上に焼き付けた。そして、ワークショップや映画講座、セミナー、講義に加え、世界の重要なドキュメンタリー作品を上映すること等により、ドキュメンタリーは、フィリピン人たちが政府に対して幻滅していく様を記録する、より重要なメディアとなっていったのであった。
ドキュメンタリーは、地下でではあったが、また、傍流ではあったが、再起を果 たした。集団的な貧困や政治への異議、女性と子供に対する抑圧、少数民族の虐待、都市と農村の貧困層の搾取、売春等、他の重要なテーマも含め、他の主流のメディアであったら伏せられてしまったであろうテーマに関して、生きた証拠を記録していったのである。
地下で映画を製作することによって、映画作家の若い世代は新しい映画に到達するべく奮闘努力を続けてきていた。彼らは来たるフィリピンのインディペンデント映画の黄金時代を開拓し、ドキュメンタリー、実験映画、アニメーション等、映画の形態の多様性を紹介することにより、道を開いてきた。そして、この時期に第二次ドキュメンタリー運動が起こったのである。
この新しい運動は、映画を意識しているとか映画的な様式とか社会の中での映画の機能という点で、進歩を見せた。映画作家たちは、より政治的な意識を持つようになったし、社会的な動機づけも持つようになった。そして、60年代に活躍した彼らの先輩よりも映画的様式美という点でもより知識を得て進歩していったのであった。
若い映画作家は、フィリピン映画の主流を、その起源である実写映画へと引き戻した。商業主義に溺れたプロフェッショナルな長編映画ではなく、社会的現実に勇敢に取り組む、これらのアマチュア・ドキュメンタリーや実験的個人映画の中に、人は新しい映画を見つけることができる。
商業映画の陰で
フィリピンのドキュメンタリー映画の発展の背景には、世界有数の商業映画生産国であるフィリピンにおける、商業映画の優勢的な存在がある。毎年、150本近くの商業映画が製作されている。
この巨大な商業映画産業の陰で、ドキュメンタリー映画が少しずつ成長しているのを見ることができる。現存しているドキュメンタリー映画の幾つかの作品を見てみると、それらは、商業映画が描ききれない歴史的な出来事の目撃者としての位 置にあって社会的良心を保ち続けている。
産業映画というものの枠の外で製作されているドキュメンタリー映画は、着実に作品を製作できる位 置にはなく、観客からのコンスタントな支援というものも望めない。このことは、私が一般 大衆映画というたった一つの映画形態にほかのすべてが圧迫されているのではないかという調査を初めて開始したときに気づいた、危機であった。
批評家も学者も全く助けにはならなかった。なぜなら、当時彼らの中に、実験映画やアニメーション、教育映画やプロパガンダと同じように、ドキュメンタリーという映画の形式について執筆していた人はほとんどいなかったからである。彼らはもっぱら産業映画の発展について調査していたのだった。
ほんのわずか残された記録や、ほんのわずか残存し、保存されていたドキュメンタリー映画が、私の調査の出発点となった。そして、私は最終的に、今までの様々な社会的・政治的・経済的な決定が、商業映画の発展を助け、その反面 いかにドキュメンタリーという映像の一形態を消し去ることに役立ってしまったかということを悟らされたのであった。エンターテインメント映画は、人々の創造力を専制的に決定づけてしまうほどの影響力を持ち続けてきた。そのため、様々な社会的危機に応えるために社会が新しい映画表現を欲していたとしても、そのような作品が作られることはなかったのだった。ドキュメンタリー映画は、歴史的事件が起こっている、まさにその瞬間を保存するために、また変化が求められている時に、それを支持する手段として、非常に重要なメディアなのだが、残念ながら横に押しやられ、社会の現実にはほとんど目を向けずに大量生産されているフィクション映画の方が隆盛なのである。
結果として、フィクション映画への傾倒が、人々の嗜好を均質化していった。もしも反乱が起きたり、大量 虐殺やレイプが起きようと、映画プロデューサーや観客たちはこれらの暴力的な出来事を、単にスクリーン上で利用できるエンターテインメント映画の材料くらいにしか考えないであろう。社会的な良心でなく、利益こそが彼らの映画製作の動機なのだ。
しかし、この文脈には反するが、喜ばしいことに、ドキュメンタリー映画精神というべきものを持ち続けるべく努力している映画作家の仲間たちもいる。私自身、社会的現実を反映させるという映画の能力を曇らせるこの幻想により抑圧された映像を作る立場にあったことに気がついた。しかし、つけ加えると、私はドキュメンタリー映画の着実な供給を行うべく、ワークショップを組織した。私にとって、執筆活動と調査活動の全てが、国内での映画製作の大きな領域の中にドキュメンタリー映画が居場所を獲得するための正当な要求をなしていくことを主張する、仕事の一環なのである。
ドキュメンタリー映画がフィリピン映画界において、困難な状況にあるのは極めて悲しいことである。むしろ、皮肉にもTV放映用のビデオ・ドキュメンタリーの方が、社会的出来事を見せるショーやニュース、ルポルタージュ、犯罪等の実際の出来事をドラマ仕立てに再現するなどして映像を提供するということでは、はるかによく役割を果 たしているといえるだろう。
もしも、学校で学生たちが学ぶビデオ製作のコースがなかったら、ドキュメンタリーそのものが近々絶滅の危機に瀕するであろうことも考えられる。
個人のビジョン 社会的映画
ドキュメンタリーの新しいムーブメントに到達しようとする努力は、独裁体制の下で醸し出された、政治的に意識の高まった状況への反応であった。あのときは、すべてのことが1986年の革命をもたらし、ついにマルコス体制を転覆させたのだった。
そのころ製作された注目すべき映画の中には、映画の講習会で撮影されたもの、動機を同じくする人々の集団の中で製作されたもの、個人の映画作家によるものなどがある。例えば、ゲーテ・インスティテュートとアジア・コミュニケーション・ファウンデーションの開いたワークショップに参加した学生たちのグループによる「勇気のきらめき」("A Spark of Courage")や、アジア・ビジョンによる「嘆いている時間はない」("No Time for Crying")、そして私の、貧困・売春・社会的変化をテーマとした三部作「オリバー」 「体制の子供たち」("Children of the Regime")「革命は歌の繰り返しのように」 ("Revolutions Happen Like a Refrain in a Song")。これは1987年にベルギーで開催された映画祭で、グラン・プリを受賞した。
ドキュメンタリーの数々の貴重な受賞作品を所有しているデ・ラ・サル大学が、ビデオのドキュメンタリー製作に関してマニラの映画教育機関の中ではリーダーシップを取っていることは異義のないところである。また、たまたまモウェルファンド・インスティテュートもワークショップを組織して、16ミリ形式のドキュメンタリーを製作を始めている。
独立系映画の中でも、猛烈にインディペンデントな映画と言えば、キドラット・タヒミックの個人的なドキュメンタリーという形式を取り、冗談めいているが実はまじめだという「虹のアルバム」("Why is Yellow the Middle of the Rainbow?")だろう。これは、彼の三人の息子の成長の記録だが、彼らが生きている時代を決定づけた出来事の数々や、政治状況をよく映し出している作品だ。この映画は1991年に開かれた山形国際ドキュメンタリー映画祭で、初めて上映した私の長編映画「イナン・バヤン――女であることは戦いに生きること」("Ynang Bayan: To Be a Woman is to Live in a Time of War")と共に上映された。(「虹のアルバム」は、山形国際ドキュメンタリー映画祭'89、'91、'93年にて、その都度新しいバージョンで上映。)
最近のドキュメンタリー作品で注目すべき点は、熱心な映画作家が社会の中の特定の事柄に向けての個人的なビジョンを表現していることである。これは、タヒミックや私の作品を見れば明らかなことである。映画というものは歴史と対話しており、個人的であるということは、政治的にあるスタンスをとるということでもある。
最近、ドキュメンタリーは、テレビやマス・メディアによって単純に客観的に記録されてきた出来事に、顔や声を与えるような努力をしてきたと言える。個人的なドキュメンタリーは、多くの人の関心を集めるような題材について、とくにメディアによって抑制されてしまうような明確な問題について、主観的な位置から発言できる特権を持っているのだ。
政治的なものの中に個を見つけることが、とりわけ戒厳令下においては、集団恐怖政治に支配されたり匿名性に隠されている生活を調査するための一つの手段であった。彼ら映画作家たちの自己肯定によれば、これらの映画は、集団に比べ個人がしばしば犠牲となっていた社会に希望を与えるということらしい。また、ドキュメンタリー運動でもっと大切なことは、これらの映画が、その時代に生き、映画というメディアを通 して自分たちを表現した人々の希望や心情の保管場所になっていることで、社会的・歴史的な価値を獲得した、ということである。
1959年生まれ。フィリピンのインディペンデント映画運動の先頭に立つ人物で、その短篇とドキュメンタリー映画は各地の映画祭で上映され、様々な国際的な映画賞を受賞している。またディオカンポは単に映画作家であることに留まらず、作家であり、映画祭などで映画キュレーターを勤め、教鞭も取っている。現在はフィリピンのインディペンデント映画運動をリードするモウェルファンド・フィルム・インスティチュートのディレクターである。