日本のドキュメンタリー作家 No. 5
プロキノ
映画誕生100周年を記念するために、「日本のドキュメンタリー作家・インタビュー」シリーズは、これからの4号にわたり現在の日本のドキュメンタリー映画の基盤を作った作家たちに目を向けることにしました。今回は、プロキノという日本の最初の独立左翼映画運動に参加なさったお二人、小森静男氏と能登節雄氏に自分の青春期の映画体験について語っていただきました。聞き手は映画史研究家の牧野守氏と山形国際ドキュメンタリー映画祭のコーディネーターのアーロン・ジェローの二人です。なお1989年の第1回山形国際ドキュメンタリー映画祭の「日本ドキュメンタリー映画の黎明」の中で、プロキノ映画を数本上映しています。
牧野 戦前における日本のプロレタリア映画運動というのが、だいたいまあ、67〜8年ぐらい前にあったわけなんですけれども、とくにその日本のプロレタリア映画運動の中で組織だった中心になったのが、日本プロレタリア映画同盟と言われていまして、まあ、略してプロキノと言って、ちょうど今考えてみますと、昭和4年にその設立の大会を開いていますから、それは今から65年前、ということなんです。それから4、5年にわたって組織的な活動があるんですね。ところが、この事実は、なかなか戦前はおろか戦後もあまり知られていなくて、とくに日本の映画の歴史家だとか、映画の歴史の中にはほとんど登場してこない。しいて言えば、当時の委員長だった岩崎昶さん等のお書きになったものにちょっと出ているという感じです。それで、その点では戦後もほとんど僕の立場と言われれば映画史の中からも抹殺されるような活動でした。ところが60年代になってから、とくに当時の若い運動家あるいは映画作家、今はもう有名な人たちになっていますけれども、そういう人たちの中からプロキノの運動を継承しようというふうな動きが起こっていろいろ調べ始めたのです。そういう状況の中で、映画史としてもプロキノをきちんと位置づけようというようなことで、たとえば冨士田元彦さんだとか、あるいは僕などが関わって、そのあたりの方々がぼつぼつ調べ始めました。そういう状況と、もう一つ、当時のフィルムを断片でも見て活動を総括的にきちんと捉えようという動きがあいまって、プロキノを記録する会というのが発足して、当時同盟員だった方々などの生存者の方々も参加していろいろ調査しました。そんな中から並木晋作さんの「プロキノ全史」という歴史の本も出たというところまでが、今までのプロキノに関するおおまかな経緯なんですね。残念ながら御高齢になられたり、あるいは病気で病床に伏されているというふうな方々もいらしゃって、当時の証言をなかなか生の声で聞くことが難しくなってきました。それでこの機会に、山形映画祭が、昔の日本映画のドキュメンタリーの初期の形態の中におけるそのようなユニークな運動を取り上げようということで、今回はいろんな御無理をお願いして小森静男さんと能登節雄さんのお二人にお話しを伺って、生きた証言を得たいということなんですね。
ジェロー プロキノがどこから影響を受けたのか、また、後の運動にどういう影響を与えたのかというようなことに関してお聞かせ願いたいと思っています。例えば、ソ連にはジガ・ヴェルトフの「キノ・グラース」というような作品がありましたから、左翼映画、ドキュメンタリーみたいなものがあったわけです。それらを見る機会はありましたか?あるいは、雑誌でそういう活動について書かれたものを読んで、何らかの影響を受けたりしましたか?
小森 それは、我々の方には、特別なものは何にもなかったんですよ。一般的にはモンタージュ論とかいった意味で、ソビエト映画に映画の研究者はみんな夢中になりましたよね。私がプロキノに参加する以前では、プロキノの前身である左翼劇場映画部とか、ナップ1 映画部としての小型映画製作活動がありました。そういう経験はありましたが、とくにそれがソビエト映画や欧米の映画運動等に関係があったわけではないので、とくに影響はないですね。
能登 今の感想をお聞きして思ったのですが、ソビエトの映画の技術を紹介する本なんてずいぶん出たんです。佐々木能理男さんやいろんな人が、モンタージュ論とか各国の向こうの資料を翻訳されてずいぶん出ました。当時はソビエトというのは左翼ということになっているでしょう、だからそんなソビエトを良く言うことはできない時代でした。その時代は日本の天皇制の時代だったわけですからね。その時に、ソビエトとか、今、小森さんもおっしゃったようなシンパサイザーとか、あるいはそういうことを研究している人とか、左翼的な運動というのがあったんですから。その芸術的な現れとして、演劇、音楽、それから漫画、絵ですね、それから、文学等があって、演劇も盛んで、まあ最初のナップの映画班というのができるでしょう。
小森 あれはナップのというよりも左翼劇場映画部の後を受けついだ前期のナップですよ。
能登 左翼劇場の映画班というのは、たぶん初期においては演劇の中からの映画が好きな人とか、あるいは映画を知っている人がいたんですが、先輩の佐々元十の魅力的な言葉に、「おもちゃも使えば武器になる」というのがあります。プロキノ全体が、左翼運動だったんですからね、簡単に言いますと。政治的な左翼運動があって、それで、経済活動から文化活動などもあって、私はその文化活動の内の一端である映画に参加した。その以前に演劇等があって、それから、文学者では、どんどん発展して大きくやった、有名な小林多喜二だとか、貴司山治とかが出て活躍した。その頃の日本の体制は天皇制であって、そしてそれに対して反対活動をやった文化運動があったわけです。
映画というのは、他の運動と違って撮影して上映をするといった機能的な点があったでしょ。映画は写すものですから。その頃、9.5mmのフィルムで、当時のドキュメンタリー、時代の事件を写した人がいた。そういった中で、今思うと、佐々元十という先輩が、「おもちゃはわれわれの武器になる」と言ったんです。「おもちゃ」の意味するものは、今のおもちゃとは違って高級玩具を指していて、現在は写真機が普及してるけれども、昔は、写真機なんていうものはお金がある人だけが持っていました。佐々元十さんは、おもちゃを武器にして闘うべきだと言ったのです。そういう意味で、当時は、それが映像を持って歩けるというメディアとしては最上のものだったわけですね。映画を見て、東京はどうとか、外国はどうとか、映画でみんな勉強もしました。楽しみもしました。一方、商業用もありました。その映画を今度は左翼運動に使うべきだということで、団体ができてきた。
映画が他に遅れるのは、機能の点で、カメラとか現像しなければならないからでしょう。プロキノは、自分で撮ったフィルムを現像所に出しても現像してもらえなかったんです。警察に見つかったら大事件になる時代だったからです。運動すると、当時はすぐに捕まる時代だったんです。基本的には16mmのフィルムで運動をした方がいいという考えが、僕らの先輩にも、プロキノ実行委員が機関誌の中で理論的に解明した結果としてもあったので、僕らも一応その理論に基づいて、「おもちゃ」を左翼運動の武器にしました。そこから発展していったんです。
16mmが一番初めで、この16mmの機械も映写機も全部アメリカ製でした。シネコダックというカメラとか。それから映写機はビクター(アメリカ)、映写機も日本製はなかった時代です。だから、まず武器を獲得するだけでも大変なことでした。運動している我々には金はありませんでしたが、日本の映画界の中に、心ある人や進歩的な人がいたんです。その人たちの協力もあったし、それに、市民、労働者の中にもプロキノをわかってくれる支持者がいたんです。
その頃、大変な弾圧を受けてメーデーが行われたんです。メーデーを最初に撮ったわけです、記録としては。撮るといっても、堂々と撮ってはいられなくて、隠れて盗み撮りみたいにして撮る苦しい中で製作しました。プロキノも、上映をしなければならないから、検閲を受けるんです。そして、試写をして、フィルムに許可印が押される。ハンコが押されたものでないと、表向きに合法的に上映することはできないんです。許可のないものは上映できない、すなわちアマチュアが勝手なことをやってはいけなかったんです。フィルムを撮影して現像場に持っていっても、現像の方もアカい仕事に手を貸したくはないし怖いこともいやでしょうから断られました。フィルムを作るのは、左翼運動の中の映画として一つの大仕事です。やむなくプロキノでは、私の先輩にあたる中島信という技術を持った人が、東中野の家の中の風呂場を暗室現像場にして、そこで反転現像をやりました。そのころフィルムは反転フィルムで、ネガで撮ってネガをひっくり返してポジにします。ネガを撮ってプリントを焼くことはたいへんです。反転現像といって、もう一度ネガからポジにかえす現像をするとすぐプリントができたんです。プリントができたら、内務省で検閲を受ける、そして皇室や天皇や政府に都合の悪いところはカットされました。
切られて残ったプリントだけを持って、映画サークル運動とかあるいは労働者の文化運動とかいろんなところに持っていって、映画の好きな人に集まってもらって見せました。もう一つは、映画でアジテーションをやりました。アジテーションをやるにはメーデーの現状を見せることが何といっても最高でした。労働者が相当ものものしい警官に取り巻かれても堂々と決められたコースを歩くんです。それを、地方の労働者なり、普通の市民の人なりに見せました。映画の役割というのが、今のテレビとかラジオとかに代わるものとして、絵が動いていくものとして、やっぱり武器になったんだと思うんです。フィルムを作って、劇映画じゃなくてドキュメンタリーというか生々しい現状を見せるというのは重要なことですからね。労働者は闘っている。農民は闘っている。それから、都会の電車のストライキとか山本宣冶が亡くなったその葬式なども、貴重な記録として、それを持って全国の人に見せて歩き広めていった。そうしてフィルムを持って左翼運動をやってきたということになります。
小森 ドキュメンタリーという言葉はなかったですね。一般映画界にもドキュメンタリーはなかったし、ニュース映画もなかったですよ。どこから始まったかというと、ニュース映画というのは、戦争時分に行軍する兵隊にくっついて撮影し、それを、新聞社が、戦意の昂揚のため学校の校庭かなんかで夜スクリーンを張って見せたんですよ。それが受けてね。あ、自分の息子がいる、俺の倅も映っているなどと大騒ぎになり、全国的にそれが有名になって、それから独立したニュース映画館なんてものができたんですよ。それはずいぶんできましたよ。あんなに盛んになったニュースを最初に製作したのはプロキノなんですよね。
能登 プロキノ・ニュースですね。
小森 プロキノ・ニュースっていうのは、「1927年東京メーデー」をはじめ「プロキノ・ニュース」などを9.5mmの小型カメラで、また、あれは昭和4年(1929年)かな、(暗殺された左翼政治家の)山本宣治の葬式記録映画が、ドキュメンタリーとしては一番古いものでしょうね。そういうところと、それから、可笑しいのは…。
能登 漫画。
小森 アニメーションとは言わなかったですよね。今はセルを使うでしょう。セルを2枚合わせてやるでしょう。そういう物なんか、何にもなかったですよ。それを、切ってね、ひとコマひとコマ動かしてね、ピンセットで。そうやってやったんですね。それはずいぶんありますよ。それがまあ、おそらく、「アジ太プロ吉消費組合の巻」といった日本の最初のアニメーションじゃないですか。
ジェロー それはプロキノの一つの興味深い点ですね。ドキュメンタリー映画だけじゃなくて、劇映画も漫画もお作りになったし。
小森 その点は面白いんだけれど、プロキノはあんなちっぽけなスケールでいろんなジャンルに手を出しています。ニュース映画があったり、ドキュメンタリーがあったり、劇映画があったり、アニメーションがあったり、それから、連鎖劇みたいなものもよくやりました。
能登 築地小劇場で毎回プロ新劇芝居があるでしょう。芝居にはさむフィルム、それを作ったんですね。連鎖劇にして。お芝居があって、その中の一部の逃げて追っかけっこになるところを映画ロケで撮ったんです。芝居の中で玄関から俳優が飛び出すと、パッと暗くなって、スクリーンがおりて、映画になる。追っかけ、逃げて、公園のところまで追っかけて捕まえようとすると、また暗くなり、スクリーンが巻き上がり、それでまた明るくなると、そこに公園のセットが作ってあって逮捕、という連鎖劇です。村山知義さんみたいな演出家は、芝居の中で見せる気球が出るフィルムをプロキノに製作させました。それは僕が劇場で映写した「ラフ1号」という芝居です。ドイツに留学していろいろやった方だから、やることが奇抜で、奇抜というか、さっき言ったアニメもね、アジ太プロ吉というシリーズもののアニメもね、作ってるんですよ。
牧野 研究者のレベルで歴史的に今、見ていきますと、冒頭でジェローさんが質問した、国際的な影響を受けてプロキノが発足したかということに関しては、今のお二人の話にもあるように、当時のプロレタリア芸術あるいは文化運動は、たとえば文学とか、あるいは演劇とか音楽などではいろんな国際的な刺激の下にできているけれども、映画の方はない。むしろ独自のものだと。初期の段階の理論的な指導者であった岩崎昶は、むしろドイツの表現主義みたいなものだし、佐々元十は、フランスの実験的なところから始まってるし、あまりソビエト、ロシア等の映画も来なかったし、理論的には来たけれども、さほどプロキノ自身の参考にはならなかった。だから、当初の段階ではプロキノは実は評論活動が主体であって、雑誌を発行していて、撮影所でできている、左翼系といってもむしろ傾向映画2みたいなものについてのの批評活動が中心だったのが、昭和5年、1930年の第2回大会でのコペルニクス的転回だったと言われている、小型映画を使って実践的に製作をするという方針を打ち出してから、今までの書斎的な傾向ががらりと変わった。今いらっしゃるお二人は、例えば能登節男さんの場合は、日本全国のいろんなところまで、作ったフィルムを持って上映活動をなさった。それも単に映写をするというよりも、地域の農民運動とか工場労働者などの運動を支援するとか、あるいは組織するということで。それから小森さんの場合は、むしろ運動も後期になるけれども、東京の支部長にもなったり、教育部長になったり、あるいは組織部長になったり。解体のぎりぎりまで、小森さんが組織をやっていたということで。そういうお二人の活動状況であったわけですね。
能登 先ほどおっしゃった、演劇とか音楽とかは、国際的連帯感があったんですよ。映画の方は、とにかく連帯したかったんですけれど、一番遅いんですよ。ソビエトの映画はすごかったんですよ。当時は運動家の祖国だなんていう言葉もあったくらいです。プドフキンとかエイゼンシュテインの理論的な研究はしましたが、実践するというところまでにモンタージュはしなかった。さっき牧野君が言った通りなんだけれども、書斎的なところから実践活動へと移行したということがあった。自主製作する、映画を作ることが必要になった。それで、16mmで。撮影機や映写機だけは自分で作るわけにはいかないから、レンタル屋さんから借りてやっていました。しかし撮影機は武器であり、必要だということで、多くの支持者や、パトロンとか、シンパサイザーとかからカンパしてもらって買いました。
上映も、公開上映と、非合法上映をやっていたわけですが、東京の読売講堂という立派な講堂で上映した時にも相当弾圧されて、観客の身体検査など、いやがらせを受けました。入場料を払ってもらうにあたっては、労働者の映画だからということで、市民は高く、労働者は安くしました。そのお金を集めて、それを製作資金にしたんです。自分で作って、自分で配給して、自分で地方へ行って。地方へ行ったらいろいろな集会へ行ったり、地方の映画の運動や政治運動や経済運動をやっているような団体を基盤にして上映しました。これは今もやっていることですが。地元の農民組合とか労働組合が中心になって条件を作り、そこで映画を上映しました。僕らはそこで映画の料金をもらって帰ってきて、それを貯めて、また次の計画をしていく。そういうふうに自分たちの手で観客と作るものとの接点を探りながらやるということが、非常に大きなことだと自分でも誇りに思っていたので、あの頃はもうやむにやまれぬ思いでやっていたけれども、ちょっとでも活動すれば、警察へ引っぱっていかれました。堂々と公になる上映では、警察は手を出さないけれども、例えば、運動をやったりストライキをやっているということを聞いてすぐ映写機を持って飛んで行き、ストライキを頑張りなさいと、農民闘争、メーデー、プロキノ・ニュースを見せて鼓舞し元気をつける。こういったことは内緒でやらなくてはいけなくて、見つかると大変なんです。捕まって警察に持っていかれるので。その当時の治安維持法というのは非常に過酷な法律で、人が3人いればもう、集会だ届けろと言われるんです。うろうろしていると、不審尋問と言って、おまえはどこに行くのだと聞かれ、まごまごすると、挙動不審ということで捕まるんです。
プロキノは表向き興行もやりましたが、内緒での非合法活動が本道でした。東京、大阪、札幌という大都会ではもちろん上映活動をやりましたが、地方で上映するために一人で映写機からフィルムからスクリーンから全てのものを持って出かけていくのは大変なことなんです。カメラマンと上映する人の二人がコンビになって、地方を回って行ったこともあります。カメラマンは、労働者や農民の闘争を写してプロキノ・ニュースの材料にしたのです。
小森 たとえば「戰旗」の宣伝映画「俺達の広告」などは内務省の検閲で却下されましたが、地方へ行く場合はこれも持っていきまして。大きな会場で公然と上映する場合はこれは使用せず、小規模の場所では見せました。今考えると、地方で巡業して稼いだんですよね。小さいところでも200人、300人集めて、カンパを集めて。食いぶちは向こうで食わせてもらったし、足代はプロキノから北海道まで行くだけの汽車賃しか貰わなかった。
牧野 みなさんは、事務所で寝泊りしていたわけですよね。
能登 そうそう、専従者がね。普通だったら寝泊り費ぐらい出るわけでしょう。自分でいわゆるシンパサイザーを作ってカンパしてもらって、生活をした。だから警察の豚箱に放りこまれても食費はいらなかった。笑っちゃうんだけれど、助かったんです。
ジェロー ところで、他の仕事もなさいましたか?
能登 いやいや、全然。専従者である僕らはこれ専門でした。そうでない人もいたわけですが、学生が多かったですね。僕らも学生あがりですし。家からお金を送ってもらったこともあります。
ジェロー ところで、学生の話が出ましたが、もちろんプロキノは講習会もやりましたよね。それはだいたいどういうものでしたか?
能登 1週間、毎日講座があって、理論もあるし、映写技術も1週間のうちに1回だけ教えてもらうんです。操作は単純ですから。講習会は3回、4回ぐらいでやめになったでしょうか。僕らは2回生でした。先輩が教えるわけです。1週間通ったら、もう次の日から同盟員でした。
小森 そんなことはないですよ。僕の場合、同盟員になったのは半年くらい経ってからだったかな。それが、1930年に方針が変わったわけですよ。つまり左翼芸術活動のボルシェビキ化ということで。それで方針が変わって、入りたい人は誰でも入れるということになりました。
能登 自分の年月を振り返ると、31年から32年の2年間なんです。その2年間を振り返ってみると、北海道から岡山、高知と、映写機を担いで歩きました。その間に、豚箱に入れられたりもして。その頃東京にはメザマシ隊というのがあって、それは、諸文化運動が全部集まった、まあ、行動隊なんですが、演劇、美術家同盟、それから音楽家同盟、プロキノ、これらが集まって、映写したり音楽を歌ったりするんです。それでチームを作って、ストライキなどにすぐ激励に行くわけです。その行動隊を本職にしていたのが僕らのプロキノなんです。気を使うので上映会はなかなか大変なんです。
もともと僕はプロキノへ入ろうと思って、札幌から上京して入ったんじゃないんですよね。プロレタリア映画同盟募集皆集まれという映画のポスターが貼ってあって、それを見て、あ、これは映画人になれると思って入ったんです。その前に、多少、左翼系の友だちに感化されて、東大の新人会の学生にアジられた。映画だと思って行ってみたら、それは大変なプロレタリア映画だったんです。でも、行ってみたらまあ嫌いじゃないし、面白いし、飛び込んだ。映写機を担いで、北海道に行っても、私は家に顔出せないわけなんです。家に顔出しすると、あの家からアカいのが出てるって言われて家族に迷惑をかけると思い我慢しました。
小森 プロレタリア文化運動のボルシェビキ化っていうのは、小説を書き、映画を作り、絵を描くということだけじゃなくて、映画の好きな人、例えば、林長二郎(長谷川一夫)から栗島スミ子までのファンをサークルにまとめて、もっと人々を教育してプロレタリア戦線の力にしようというわけでしょう。それを僕はやっていたんです。だけど、林長二郎を好きな奴が、それだけが集まっても、今考えれば机上の空論ですね。できっこないじゃないですか。あたし好きだからってそれっきりなんだもの。僕は主として東京の下町の工場地帯でそれを続けて、石鹸工場の女工さんたちを集めましたが、組織としてはできないわけですよ。小説ならいいですよ。小説を書こうとしているのは、集まってちゃんと小説の勉強会を作ってやるでしょう。だけど映画はできませんよ、そんなことは。
能登 今、小森さんがおっしゃったようなことですが、地方の上映の後、観客を残して座談会をやるわけなんです。それで、話しているうちに、この人は、昔の言葉でいうと傾向がいい、まあ、わりに左翼に近いんじゃないかという人を見つけて、目星をつけておいて、それを地元の人に伝えてあげる。東京都内は大きいですからね、学生のサークルとか労働者のサークルとかあるけれども、地方に行ったら同じような左翼化させる運動を、映画を通じてやらなきゃならないんです。そうすることによって日本は良くなるんだと思っていて、僕らの楽しみというか、誇りというのは、やっぱり、日本を良くしたいという思いだったんです。飲まず食わずでやって、何が楽しいのか、何でそんなに苦労したのっていうけれど、それは今、申し上げたようなわけで、23歳から24〜5歳ぐらいまで、このままじゃいけないんじゃないかと思ってやっていました。どんな苦労をしても、入った人は映画も基本的には好きだというところもあるからね。映画の運動がやれるということとマッチして、辞めていく人もあまりいなかった。その中で、我々や小森さんなどの専門的に動く人は、“専従者”っていうことになりますね。
牧野 小森さんは、いわゆる製作活動とか、組織活動というふうなことでは、製作活動にはあまり手をつけなかったんですか?
小森 いや、ぜんぜんやっていない。組織活動しかやっていない。それから、組織防衛ですよね。何をやっていたかというと、いつの間にか出てこなくなった同盟員に、組織のどこかで働いてもらえるように毎日毎日連絡をとっては話し合っていたような次第ですよ。
牧野 まして終わりの方ですからね。大変だったでしょう?
能登 弾圧に、徹底的に壊滅させられたものなあ。
小森 ひっぱり出しに行くという、そればっかりです、毎日やっていたのは。それでも、電話はないでしょう。当時はそれに活動家の一人ひとりが様々な問題を抱えていましたから、なかなか説得は成功しませんでした。
牧野 でも、もうその頃は製作活動とか上映活動とかはストップですか?
小森 いや、上映活動は最期までやっていました。一番最期まで残りました。それから製作活動は、「プロキノ・ニュース」と「労農団結餅」、あれがたしか最期ですね。
能登 生活共同組合の宣伝映画で、労働者と農民が一致団結するという内容なんです。餅つきをやるわけね。それで「団結餅」っていう題になるんですが。
小森 あれはなんのことはない、餅つき機械の宣伝で、労農はとってつけたような題名です。
能登 僕は、ちょうど小森さんが残って頑張っている間、途中から、傾向映画を作っている方へ、プロキノから派遣されるわけね。同伴者のプロダクション、初めて35mm劇映画の独立したプロダクションができるわけです。音画芸術研究所3という。そこは同伴者だから、プロキノから、僕と篠勝三君という同志が一緒に派遣されてそっちのスタッフになっちゃうわけなんです。それで、35mmの劇映画を作るところへ行っちゃってる間にプロキノの本部は全部壊滅させられちゃう。結果的には、今思うと得したのかもしれない。
牧野 小森さんは、最期になって検挙されちゃうんですか?
小森 僕は、東京支部の書記長でしょう。当時コップ4の中央もほとんど検挙されました。こりゃあ危ない、次は我々だということで、当分は事務所などにも近づかないでできる限りの仕事をしていました。すると僕の家へ数人の特高が飛び込んできて、まず、ピストルはないかなどと言うので、妙なことを言うなと思ったら、この特高たちは今まで全く誰も拘留されたことのない麻布駐在所の連中だったんです。
牧野 小森さんが検挙されたことで、ほぼ事実上プロキノは壊滅しちゃったんでしょう?
小森 そうですね。僕が駐在所へ行くと落合の合宿の連中が何人かいたんですが、さらにどんどん検挙されてきて、まるで東京支部総会が豚箱で開けるようなアンバイになってしまった。
牧野 歴史的に言いましても、あの当時はもうナップからコップへ変わっているんですよね。だいたい演劇も、音楽も、みんな壊滅したんでしょう?
能登 運動ばかりではなく全体に、ものすごい大弾圧が来たんです。もちろん文化団体の方が一番末端で、その文化運動自体が伝播力を持っているから、これを潰さなきゃいかんということで。僕らも、さっき言ったように、音画芸術研究所へ行っていて、傾向映画だった「河向ふの青春」を検閲でズタズタに切られた。だけど、大劇場で上映するということをやったのが初めてだったんです。そういう傾向映画でアカい映画だというのに東和商事の川喜多長政さんが配給して下さって、それで、今のマリオン、昔の邦楽座で上映されたんです。堂々と封切られて、それで、話題になりました。
牧野 監督は木村荘十二です。
ジェロー 彼も同盟に入っていましたよね?
能登 入っていました。だけど、監督だし、有名人だしということで、活動はあまりできなかったんですよ。基金カンパなんて。月形龍之介とか、伊藤大輔とか、京都の撮影所のいろんな人が、割合に、カンパしてくれました。
ジェロー 最後の質問に移りますけれども、プロキノが壊滅したとはいっても、もちろん、プロキノの精神はある程度戦後にも生き続けたんじゃないかと思うんです。プロキノは、その後の映画史にどんな影響を与えたんだと思いますか?
小森 プロキノの残党が今の日本の映画界にどうこうといったことはあまりないんですよ。残念ながら。だけどほとんどプロキノの同伴者であった今井正や、山本薩夫など、まあ、いろんな人がプロキノなんですよ。今井正は水戸高校から東大へ行って、それで左翼系の学生映画連盟を作ろうということで。今井正は東大で、僕は早稲田で、それに、元社会党委員長の飛鳥田一雄、明治ですね、彼が明治の映画委員長だったんです。それで、三人が集まったことがあるんです。1回か2回集まったんですが、僕が何度かパクられたのでそれっきりになっちゃいましたが。僕が刑務所から出て、それから何年も経ってからやっと京都の撮影所に入ったらそこに今井正がいたわけですよ。そういう意味では、今井正なんかはプロキノで活動しませんでしたね。それから山本薩夫は、能登さんはよくご存じですが、早稲田の「スポーツ」という映画を作ったときのメンバーでした。だからそういう意味で、まあ二人が残りました。僕はプロキノに入って、今井正はJ.O.スタジオに入り、山本薩夫は松竹の蒲田撮影所に入ったんです。僕はね、当時、左翼の映画青年としてはプロキノへ入るのが本道だと思い、そうしたんです。
牧野 あれから60何年経って振り返ってみると、周りの人に影響を与えたり、ある一時期はずいぶんいろんなバックアップもありました。今、例えばここにいらっしゃるお二人を例にとってみても、それ以降一貫して映画の世界を歩んで、それなりの成果というか、実績を作り上げられた。しかもその原点にプロキノがあった。そういうことで振り返ってみて、「プロキノ全史」その他でも総括してはいますけれども、個別に、それぞれ自分自身の人生とだぶらせてみた場合にも、プロキノっていうのは何だったんでしょうか?
小森 難しい問題ですね。僕なんか、期待に反してプロキノでは組織運動のオルグとしてむしろ映画から遠去かっていたようなわけで、以後、シナリオ作家としてはぜんぜん無駄だったとも思うし、反対に、社会や人間を見る眼が養われたとも思うし…。しかし刑務所はね、その後の軍隊生活と何度かの病院生活と並んで、妙な度胸をつけるのに役だったと思っています。
能登 僕はまあ良かったし、ちょうど独立プロで、東宝に入ってそれからずっと映画で。
小森 たまたま、そういうところに派遣されたんだな。
能登 音画芸術研究所に行って、置き去りにされて、帰るにも帰れない。なくなってきちゃって。向こう行ってから、PCL、それで東宝で、後はずっと普通の映画人。青春時代の自分のプロキノ時代は、やっぱり良かったと思うわけなんですよ。
小森 それはね、あなたの場合はね、全く、今日あるのは、プロキノのおかげみたいなもので。
能登 まあ、それは、基本的には、そういう運動をやったでしょう。東宝を辞めてから近代映画協会で。40年というものは、自主製作、自主上映、同じことをやっている。だから、自分ではね、良かったんじゃないかと思っているんですよね。人はそれぞれあると思いますね。
小森 今振り返って見ると、俺なんかはこの3年間か4年間自分なりにもっと映画製作でやるべきだったことがあったのではないかという反省もあります。
牧野 最後の質問にしようかと思っていますけれども、例えば山形映画祭などは、世界的に若いドキュメンタリーの作家の長編のドキュメンタリーを募集しているわけです。ある面では似たような、まあ状況は違いますけれども、プロキノ当時と同じように自分たちで資金を集めたり、仲間内でやったりというようないろんな苦労もありますけれど、まあ、社会的な状況は違います。60年前の日本の歴史的な運動というものは、今の若い人たちにどんなふうに役立つということが言えるのでしょうか?
能登 僕は思うんですが、やっぱり映画っていうものには基本的に若いも古いも年もない、映画っていうものには、僕は、素晴らしいところがあると思うんですね。それしかないですね。僕の一生は結局、映画の一生だったしね。
小森 今にして見るとね、ドキュメンタリーの方が面白いですね。ドラマっていうのはしょせん作りもので、作りものの面白さはあるけれどもね。しかし発展しないですよ。ちっとも発展しない。ドキュメンタリーはすごく発展したね。
能登 まあ、原点なんですよ。ドキュメンタリーというのはね。原点でずっと行った者と、産業的ないろんなことで劇映画という構図・範疇に入って行った者とがあるけれども、どちらにせよやっぱり映画というものは、僕の人生でやったこと自体、実際にどこかで独立プロを興してやっていくという上では全く同じことだったわけです。それに、ひどい悪条件の中で左翼映画がかつてやったけれども、今の若い人も悪い条件の中にいるはずですよね。経済的な条件とか、いろいろな条件とか、やりたいことがやれないということは、やりたいことをやるためには、やらせないでいるものに対して抵抗していかなきゃならないと思うんですよね。やっぱり映画が持っている強さっていうか、素晴らしさというものでみんなに訴えたいと思って。だから映写機担いででも。
牧野 当時の社会批判とか、あるいは若い人なりの正義感だとか、そういうものが一つの大きなモーティベーションというか、駆り立てていく動機になっているんですよね。
能登 自分たちがやらねばだめだというように思っていたと思いますよ。損得ではとってもやれないですよね。さっきのコミューンの中で勉強もさせられてね、弁証法だとか、本なんか読んでもあまり分からないけれども、読んだりなんかして。活動もするし、理論的なものもしなければいけないというふうに教えられていました。
小森 今ざっと計算してみて、プロキノ同盟員は200人ぐらい、いたでしょうね。出たり入ったり、全国でね。
能登 やっぱり今考えてみると、先ほども言いましたけれども、映画っていうものはすごい。いながらにして勉強ができるという特典ね。アメリカが見えるとか、北海道の人間が東京で働いている人を目の当たりに見れるとか。写真はあったけれども、動くということはそれにしかなかったんですから。その魅力がね、ちゃちで幼稚であったかもしれないけれども、基本的なところで、小森さんがおっしゃる通り、ドキュメンタリーって言うのはやっぱり映画の発生の時の基本だものね。劇になっていくというのなら、要素を変えていく。いつもいろんな映画論でいろいろあるから分からないけれども、ドキュメンタリーは実際は基本ですよね。
牧野 そういう意味ではね、それこそ今で言えばテレビのない時代に、新聞ネタで、東京で市電のストライキがあったとか簡単に書かれているものが、現実のフィルムとして見られていますよね。
能登 北海道へ行ったときに、村へ行って、それで、上映しようと思ったら、交番の駐在所があって、お巡りさんがいてね、夜、宿に訪ねてきて、これは女房が作った食べものだとかね、ご馳走ですけど食べてくれといって持ってきてくれたわけです。なぜそんなに俺に親切にするのかなと思ったんです。わからないけれどもご馳走になって、せっかくお巡りさん来たから、映写機あるから、映画見たらどう、と東京のメーデーを見せてあげた。それでお巡りさんは、いわゆる東京のお巡りさんを目の当たりに見たわけね。これは珍しいと。この村では騒ぎを大きくしないでくれと言われました。なぜ僕らに親切にしてくれたかというのは、東京から地方へ行くと、大物扱いさせられちゃうわけなんです。
そういうものを持っていって上映すると、演説するよりは映画を見せる方が立証されるから、観客が興奮して騒ぎを大きくしてしまった。インターナショナルのレコードをかけたり、メーデーの歌のレコードをかけたり、それでレコード伴奏をするわけですよ。メーデーをやったら、みんなが走っていってワーワー言って、紅潮して、盛り上がっちゃって、最後にはその盛り上がりが警察に捕まっている同志を弾圧している警察から取り返しに行こうって、俺たちもびっくりしました。フィルムが、映画が動かしてるっていうのがね、すごいですね。ちゃちであろうが、幼稚であろうが、映画自体にはすごい力があったっていうことですね。当時、なぜ僕らのあの時の人数で、敵を徹底的にやらなきゃいかんというあんな運動が。映像というものの伝播力はすごい。演劇とも違うし、音楽とも違うし、ばっと見せればわかるというものですからね。その辺がね、僕らの運動の映画っていうのはすごかったんじゃないかと思いますね。今から思うと、ちゃちな、その辺でごそごそやっているような感じだけれども、現像もし、アニメーションも作り、自分たちで上映して、そんなことを全部やったってことは他の映画の歴史にはあまりないんじゃないかなと思いますね。
ジェロー 本日はお忙しいなかお越しいただきまして、どうもありがとうございました。
(1994年9月8日)
(注)
1. ナップ 全日本無産者芸術連盟(Nippona Artista Proleta Federacio=NAPF)。後に改組された全日本無産者芸術団体協議会の略称。当連盟は1928年日本プロレタリア芸術連盟と前衛芸術家同盟が合同して創立、文学、美術、映画、音楽、出版の専門部を設けたが、改組とともにジャンル別 の独立した同盟となり、プロレタリア映画同盟も発足して、ナップに所属した。
2. 傾向映画 1920年代後半から左翼イデオロギーに影響された社会的テーマを主題として撮影所で製作された作品。
3. 音画芸術研究所 1932年初冬、大村英之助を中心に、木村荘十二監督で進歩的な映画製作を目指して設立された。のちにプロキノは当研究所を同伴者映画団体として承認。やがて研究所はPCLを経て東宝の傘下に入った。
4. コップ 日本プロレタリア文化連盟(Federacio de Proletaj Kultur Organizoj Japanaj=KOPF)の略称。ナップ加盟の6団体に6団体を加えて、プロレタリア文化運動の指導部として1931年に結成された。
1911年徳島県の田舎生まれ、幼稚園から東京育ち。1931年左翼運動のため、第二早稲田高等学院を放校され、日本プロレタリア映画同盟(プロキノ)に加盟、創設された組織部に配属され、たった一人で江東地区の映画サークル作りとその運営を担当する。先輩の助手として埼玉 県を数ヵ所移動映写して廻る。冬には、長野県を数ヵ所、移動映写する。翌年、組織部に選出され、東京支部書記長、続いて中央教育部長、中央組織部長等をつとめる。1934年1月、鳥居坂警察署に検挙、拘留され、5月、市ヶ谷刑務所に抛り込まれる。翌年、釈放され、懲役2年執行猶予4年の判決を受ける。出獄後は劇映画、文化映画を初めラジオ・テレビ等の脚本を数千本余書くが、残念ながら、誇れるものは1本も存在しない。(自筆) |
1908年札幌生まれ。1930年日大芸術学部中退、1931〜2年プロキノ運動参加、1932年音画芸術研究所へ参加、1933年PCL入社。後に社名東宝映画から東宝となる。製作部所属後1948年退社、1952年近代映画協会に入社、取締役を経て製作者として現在に至る。 作品歴 「青い山脈」(1948/東宝)、「真空地帯」(1950/新星)、「原爆の子」(1952/近代映画協会)以下同じ、「夜明け前」(1953)、「足摺岬」(1954)、「第五福竜丸」(1958)、「人間」(1962)、「鬼婆」(1964)、「薮の中の黒猫」(1968)、「裸の19才」(1970)、「鯉のいる村」(1971)、「竹山ひとり旅」(1977)、「看護婦のオヤジがんばる」(1980)、「三本足のアロー」(1950)、「はしれリュー」(1985)、「さくら隊散る」(1987)他26本。 |