アラブの3人の
女性ドキュメンタリー作家たち
マグダ・ワセフ
アラブの女性監督が生まれたのは確かに1970年代のことである。放送時から神話的な作品となった『Le cheval de boue(泥馬)』(1971)はアッテーヤ・アル・アブヌーディというエジプト人の女性監督による短篇映画で、カイロの映画協会によって非常に低予算で撮られた。この衝撃的な映画の新しいトーンが人々を眠りから覚ましたのだった。アラブのドキュメンタリー映画界に新時代を告げる、社会に対するまなざし。さらには、この映画でデビュー作を撮った監督が女性であるということ。ドキュメンタリー映画は1920年代にはエジプトに、60年代はその他の国々に、といったようにアラブ社会に十分定着したものとなってはいたが、それらのドキュメンタリーの役割は限定的なものであった。観客に対して情報を伝達し、教育を行い、そして場合によっては啓蒙するという機能である。
したがって、個人的な視点で表現したり、自分の立場を取ったりする自由を持ち合わせた映画はほとんどなかった。あったとしても、映画作家は出資者に依っているものであった。ドキュメンタリーは確固とした市場がないし、あえてリスクを犯してまでこうしたドキュメンタリー映画を製作するフリーのプロデューサーは稀であった。結果として、エジプトのスタジオミスルのような大きな製作会社やさまざまな政府の省庁が代わりにドキュメンタリー映画の製作の発注者となっていた。ドキュメンタリー映画の実用性を重視したテレビ局が1960年代初頭生まれるよりも前のことであるが、政府によって製作された作品の方向は、啓蒙的、教育的、情報伝達的で、それがドキュメンタリー映画としての役割を決定するようになったのである。
監督が男性であれ女性であれ、ドキュメンタリー映画というものは表現手段として、また映画的な創造形式として看做されていなかった。現在ではそのような見解は変じたものの、アラブ諸国の大半の国々においてクリエイティヴなドキュメンタリーは依然として少数派に留まっている。
ドキュメンタリー映画の領域における女性による製作に関してはそれぞれ異なった傾向をもつ3人の女性映画作家を例として語ることができるだろう。社会的なテーマを扱うエジプト人のアッテーヤ・アル・アブヌーディはなかでも傑出した存在であり、内戦の戦火の中でレバノン人ジョセリーヌ・サアブが作り出したのは政治活動的な傾向をもつ作品、そして移民問題から生じるアイデンティティの問題を初めて扱ったのがアルジェリア人のヤミナ・ベンギギである。
1. アッテーヤ・アル・アブヌーディ
最も貧しい人々の日常を映したアッテーヤ・アル・アブヌーディは、イメージの持つ衝撃とその強さを世間に開眼させた。『Le cheval de boue(泥馬)』は、1971年に撮られたモノクロの12分の短編映画だが、そのなかでは、ナイル川沿いに広がる煉瓦職人たちの小さな工房のうちの1つを彼女は対象に選んだ。男たちや女たち、子どもや馬にいたるまで皆で一生懸命に働き、夜が来ればナイルで体を洗い、休息する人々に彼女は密着して取材を行った。この映画は彼女が後にエジプトのあちこちで撮ることになる一連の映画諸作品の幕を開けるものであり、その間に自身の映像によって彼女は新たなエジプト像をフィルムに収めていく。カイロ映像学院、次にロンドンのブリティッシュ・フィルム・インスティテュートで教育を受けた後、アル・アブヌーディはドキュメンタリー映画製作に完全に専念した。彼女はこの30年の間に約16本の長短篇作品を監督し、最新のものは『Le Caire 1000, le Caire 2000(1000年のカイロ、2000年のカイロ)』という作品がある。
人間としての存在、特に女性としての存在に関心を抱き、アル・アブヌーディは映画、続いてビデオ作品を自分の思想や信念のために制作してきた。
1971年にカイロ映像学院の宣伝のために撮られた映画『Le triste chanson de Touha(トゥーハの悲しき唄)』では、彼女は自分でカメラを持ってサーカス一座を追った。そこでは若きトゥーハと彼の仲間であるヴィロやボルボル、エル・ガマルが各地を転々と流浪しつつ、舞台に出てはわずかばかりのお金を手に入れる姿が写されている。『Sandwich(サンドウィッチ)』(1975)では、ナイル川上流のアブヌードという小さな村で、彼女はカメラを持って動き回り、彼らの日常的に求めているものや、素朴ではかない幸福のいくつかの瞬間を撮った。たとえば、硬くなったパン切れの上に搾った山羊のミルクをかけて“スペシャル・サンドウィッチ”を作った子どものような、わたしたちが考えもつかないような瞬間。なんという平穏で、素朴に幸福な瞬間が、子どもたちの表情に注がれるクローズアップと、思いやりに溢れた明快なカメラワークを通してここではもたらされているのだろう。カイロから600キロメートル離れたアブヌード村の忘れられた子どもたちは、愛と敬意を持って撮られたこれらの映像によって、永遠に存在しつづけるだろう。
『Une avancée dans l'Égypte(深遠なるエジプトの進展)』(1978)は、ナイル川上流のいくつかの村に設置されたカトリックの教育施設の要請によって製作された映画だが、彼女の人間的な側面が映画を直接的なプロパガンダとなることを回避させている。教育と労働を通してこそ男も女も子どもたちも自分たちの尊厳を守ることができ、キリスト教徒もイスラム教徒も互いに繁栄と同様に世の無情というものも共有しあうのだという人間的なメッセージ。しばしば無視される現実を説明するのがこの映画の真のメッセージなのである。 その後アル・アブヌーディは最南の地域から北エジプトの1地方に移り、カメラを回した。地中海とアル・ブルッルス湖(塩海)の河口に位置するブルグ・アル・ブルッルス村である。周りをすべて水で囲まれたこの小さな漁村の住民は、生きていくのに必要な飲み水を獲得するために、1980年に立ち上がった。『Les mers de la soif(渇きの海)』(1981)と題された映画では、その場所の美しさに魅了されず、本来の目的、すなわち耐えがたい生活状況の告発を行った。このような人間的な側面が常にアル・アブヌーディの映画にその真の価値を与えている。彼女のカメラによってもたらされた目撃は、進むにしたがって展開していく。自然の富に恵まれていない小さな漁村で、私たちは人間が生きていくのに最も必要な要素である水を得るという、真の意味での“日々の狩猟”というものを目の当たりにする。作品の後半部分では、水の日常的な供給がある意味で存在に関わる強迫観念になるという、一連のシーンによって構成されている。女たちも子どもたちも数リットルの飲料水を器のなかに汲み集めるために遠くまで出かけるのだ。『Les mers de la soif(渇きの海)』というこのタイトルは少々アイロニックであり、美しくも胸が張り裂けそうな映像をさらに痛ましいものにする。
『Les rêves possibles(ありうるかもしれない夢)』(1998)の舞台となるのはスエズの街であり、その中心人物はウンム・サイードである。全ての農民を具現化したようなこの年老いた農民の女性はアル・アブヌーディの温かい、共にそこにいようとするかのようなカメラのまなざしの元でフィルムに収められている。彼女の日常は自分の家族がその欲求を満たすために、耐えざる労働とさまざまな問題に取り組むことに費やされている。若くして結婚し、自分の父親の家庭を離れた彼女は、夫との家庭のなかで、まったく同じ図式を再生産するのである。おそらく、アル・アブヌーディのフェミニストとしての選択が明確になるのはとりわけ他の映画よりもこの映画だろう。しかしながら、この女性であることをもとにした選択は善悪二元論的なものではない。アル・アブヌーディは男性に対して反抗しているのではなく、女性やしばしば社会が女性を押し込めている劣悪な状態に対して反抗しているのである。ウンム・サイードは自らの心を開き、誠実さと確信をもってカメラに語りかけながら行動し、自分のやり方で、そして単純な言葉を用いて非常に進歩的な思想を説明する。勉強を続けたい娘への支えや、自分の方針に対する明晰さは、その立場にまったく特別な厚みと堅固さを与えている。
若い女性や中年の女性を中心に追った一連の作品がその後に続く。例えば『De femmes responsables(責任を負わねばならない女性)』(1992)では、カイロの街で男たちがいなくなり、次第に1人きりになっていく女性たちが働くことによって家族の生活を保障する。また、『Rawya(ラウヤ)』(1995)では、ファイユームのチュニスという都市の若い農民の女性が9人もの弟や妹の欲求を満たすために手作業で陶磁器を作るさまが描かれている。同様に『Les rêves des filles(娘たちの夢)』(1995)では、監督は早婚という女性にとって重要な問題について調査し、考察をしている。実際、エジプトでは10歳から19歳の女性700万人のうち、26%の女性が、法律的に結婚が認められる16歳よりも前に結婚しているのである。田舎のある地域では、この割合が44%までに達する。映画はこれらの娘たちが抱いているより良い生活を求める夢について語る。また『Les journées de la démocratie(民主主義の道のり)』(1996)では、監督が1995年に行われた議員選挙の立候補者たちをアレキサンドリアからカイロ、アシュート、シナイ経由でアスワンまで移動しながら追っている。このルポルタージュは、地方の政治活動に積極的に参加しようと思っている女性たちが直面する困難を観客たちに明らかにしている。
大部分がエジプトあるいはその他の地域の私的な機関の援助によって撮られたこれらの映画にドキュメンタリー映画を豊かにした成果を認めることができる。しかしながら、エジプト及び世界各地で認められ、評価されながらも、アッテーヤ・アル・アブヌーディはエジプトのメディアによってその名にふさわしい放送が行われるという恩恵には浴していないのである。
2. ジョセリーヌ・サアブ
フランスで教育を受けたレバノン人女性ジョセリーヌ・サアブは、1970年代初頭にフランスのテレビ局のレポーターやジャーナリストとして活躍してきた。彼女はFR3局のMagazine52という番組で、中東の紛争について取材を行い、1973年には10月戦争に関する一連のルポルタージュ作品を作る。そして、クルジスタンについての映画(『Le Kurdistan(クルジスタン)』)や、シリアについての映画『Le Syrie: Le grain de sable(砂の粒)』、『Les palestiniens continuent(パレスチナ人は続ける)』、カダフィの肖像についての映画(『Kaddafi(カダフィ)』)などを制作した。その後、『Les femmes palestiniennes(パレスチナ人女性)』(1974)、『Le Liban dans la tourmente(動乱の中のレバノン)』『Portrait d'un mercenaire francais(あるフランス人傭兵の肖像)』(1975)、『Les enfants de la guerre(戦争の子どもたち)』『Beyrouth, jamais plus(ベイルート、もはや、決して)』『Sud-Liban: Histoire d'un village assiegé(南レバノン、包囲されたある村の物語)』(1976)、『Pour quelques vies(いくつかの命のために)』『Le Sahara n'est pas à vendre(サハラは売り物ではない)』(1977)、『Égypte: La cité des morts(エジプト、死の都市)』(1978)、『Lettre de Beyrouth(ベイルートからの手紙)』(1979)、『Iran: L'utopie en marche(イラン、辺境のユートピア)』(1980)『Beyrouth ma ville(わが街、ベイルート)』(1982)などの作品を作ってきた。1984年以降、彼女は劇映画の領域に進出したが、ドキュメンタリー映画も時には製作している。
サアブの作品の本質は中東紛争、とりわけ、レバノン内戦によって決定づけられている。彼女は、怪しげな政治状況の渦巻く1960年代初頭にデビューした新世代のレバノンの映画作家の 一翼を担っている。1967年の敗戦、1973年の10月戦争、1975年のレバノン内戦の勃発とそれに続くもろもろの事件という15年以上に渡る間の全ての出来事は、レバノンの映画製作を特徴づけてきたものだった。ジョセリーヌ・サアブ、マルーン・バグダディ、ボルハネ・アラウイエ、ジャン・ハリール・シャムーン、ランダ・シャハル・サッバークらは皆、ドキュメンタリー映画だけでなく劇映画の主題までも血に染まった数々の紛争のなかから拾い挙げている。ところでその紛争は彼らのほとんどを自国を離れ、フランスで生活することを余儀なくさせた。
パリへの移住ということが映画の資金的な体制や、スタイル、または配給方法を決定した。ジャーナリスティックなルポルタージュがサアブの作品の初期作品を占めるが、その後は、『ベイルートからの手紙』や『わが街ベイルート』などに見られるように、“私”という存在が前面に置かれたプライベート・ドキュメンタリー作品がその位置を占めるようになる。そして、彼女のパレスチナ寄りの視点やレバノン内戦に巻き込まれて死んでいった全ての犠牲者のことを思って撮られているという部分も彼女の映画の核を成すものである。戦争のレポーターとしての監督に必然的に付きまとう数々の生命の危険によって、彼女はこの職業を選び、世界各地で起こる戦争の恐怖を映像によって証言する最初の女性たちの1人として数えられる。
ジョセリーヌ・サアブの映画は西洋のルポルタージュやドキュメンタリーの学校で学んだ影響が大きい。効果的な映像に維持されたリズムと経済的な作り方によって、彼女のドキュメンタリー映画は個性的なものとなっている。そして、完全に西洋的なルポルタージュやドキュメンタリーとの違いということでいえば、内部からの視点と他の映画にしばしば欠けている理解が、彼女の映画には存在している。
3. ヤミナ・ベンギギ
アルジェリアからの移民の両親のもとでパリに生まれたヤミナ・ベンギギは、映画を撮っていく過程で移民たちのコミュニティとの歴史を調和させ、コミュニティ全体のスポークスマンになった。1994年に、彼女はフランスのテレビ局のために『Femmes d'Islam(イスラムの女性)』というシリーズのドキュメンタリー番組を制作した。アジア、アフリカ、エジプトとフランスで撮影されたこのドキュメンタリーでは、日常的なイスラム教の慣習のなかだけでなく、社会や文明によって変わるテクストのさまざまな解釈から生活する幾人かのイスラム教の女性たちの肖像が描かれている。
Canal+のために1997年に制作された160分にもおよぶドキュメンタリー映画『Memoires d'immigrés(移民の記憶)』は、植民地化の時代からのフランスの移民史に向けられた作品である。フランスにおけるマグレブ移民の父や母や子どもたちに話す機会を与えながら、そして、古文書を調べ、数々の証言を過去の映像に混ぜ合わせながら、ベンギギはしばしば無視され、特に歪曲化されたその歴史を再構築した。この素晴らしいドキュメンタリーは、マス・メディアの、そして、移民の歴史の金字塔である。上映後に行われたいくつかの議論が、マグレブ社会のなかでの反響起こした大きな理由になった。作品とともにフランスを廻ったベンギギは、その後国外でもこの作品を上映した。というのも、提起された問題は、ヨーロッパのいたるところで共通するものであったからである。各地で外国人排斥運動が蜂起し、他者や移民、外国人への憎しみと拒絶が現れていたのである。ところで、この移民たちは第二次世界大戦後、ヨーロッパの復興を手助けするために連れて来られたのであった。父親世代が1950年代にやってきて、家族も配偶者もなく、バラックに詰め込まれて生活しながら、建築現場で休みなく働いたのだった。母親はしばしばベールを外し、完全な個人となり、また幼い頃にフランスに連れて来られたり、フランスで生まれた子どもたちは、自分たちの両親以上に、押しつけられた政治の矛盾というものに正面 からぶつからなければならなかった。
最新作『Le jardin parfumé(匂える園)』(2000)では、ベンギギは別の繊細なテーマに取り組んでいる。すなわち、セクシュアリティの問題とイスラムにおける愛についてである。アルジェリア、モロッコ、フランスで彼女はさまざまに世代の異なる男女、少年少女に会いに行き、それぞれの経験を通して、欲望、性と性的魅力について想起してもらった。並はずれた豊かな創造力と恐ろしいほどに失望するような現実との間に存在するずれに光を当てる。13世紀のアラブの著名な書物から取られた映画のタイトルは多くの暗示が含まれ、その中で猥褻な意味があるものの、その慎ましさは、人を、愛という、この秘密めいた香りのする庭へと足を踏み入れることへの警告を発している。
ベンギギの映画は全てフランスのテレビ局の製作という恵まれた条件で作られおり、ヨーロッパ中で放映されている。こうして、非常に整った制作環境のおかげで監督には、多様な調査、十分な準備期間、技術的に非常に優れた設備での映画を撮ることができる。移民出身の他の映画作家たち――オランダで製作され、モロッコで撮影された映画『Dans la maison de mon pere(父の家で)』(1997)を撮ったファティマ・ジュブリ・カゾーニやベルギーで製作され、スペインに住む不法のモロッコ人労働者たちを撮影した非常に美しいドキュメンタリー映画『Quand les hommes pleurent(男たちが泣くとき)』(2000)を撮ったヤスミーヌ・カサリ――のなかにも、同じように最良の製作環境を与えられている者もいる。ここでは、全く異なる3つの状況のなかで生活し、活躍している3人のドキュメンタリー作家たちが遂げた成果について急いでみてきたが、情熱的であるにもかかわらず十分に知られることのないドキュメンタリーの制作が注目され、認識されることに少しでも役に立つことを筆者は願っている。
――訳:土田環
(パリ・アラブ世界研究所映画部部長)
エジプト・ファイユーム生まれ。83年、「60年代エジプト映画における田舎の女性のイメージ」というテーマでパリの社会科学高等研究所で映画研究より博士号を取得。70年代よりアラブ映画などに関する雑誌の創設や執筆を始めるとともに、映画祭の企画運営に携わる。88年、フランス政府とアラブ連盟による共同事業、アラブ世界研究所(IMA)の映画部部長に就任。95年にはIMAから「エジプト映画の百年」(1996年にアート・アンド・エッセイ賞を受賞)、「シャディ・アブデッサラーム――エジプト映画の王」を出版し、翌年文芸シュヴァリエを受勲。また、アラブ世界研究所での活動とともに、国際映画祭のコーディネーターや海外のシネマテークのプログラミング・アドバイザー、公的な映画助成機関の委員なども務めている。2000年6月国際交流基金主催「地中海映画祭」のシンポジウムのため来日。
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