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ジョン・ジョスト

インタビュー

聞き手:アーロン・ジェロー、阿部マーク・ノーネス、藤原敏史


1991年に山形国際ドキュメンタリー映画祭で『プレーントーク&コモンセンス』を上映し、97年に愛娘クララを連れて再来形したジョン・ジョスト監督にインタビューをお願いいたしました。本誌の編集者アーロン・ジェロー、ミシガン大学助教授の阿部マーク・ノーネス、映画研究家の藤原敏史がお話を伺いました。

―編集部


阿部マーク・ノーネス(以下N少し“ニューズリール”についてお話しいただけますか? あなたはシカゴのグループに参加してらしたはずですね。

ジョン・ジョスト(以下Jうん。国中の連中が同じことを始めていた。政治闘争映画の集団製作に若者が集まったんだ。ニューヨークはなにしろアメリカの中でニューヨークといえばああいう場所だから、とても早く展開した。最初は変人の芸術的な連中と政治かぶれを共に収める、大きな傘のような組織でしかなかった。だがね、すぐに政治かぶれは政治かぶれ的な行動に走り、芸術家のほうはうんざりして自分から出て行くか、党の方針に従わないんで追い出されるかどっちかということになった。僕は確かに出発の時点には力になったたけど、1年か半年で抜けている。シカゴにいて、1968年だった。

アーロン・ジェロー(以下Gシカゴにいるには、いい時代だったでしょう。

J:僕はその運動全体に深く関わっていて、組織する事務所なんかと一緒に動いていたが、もし僕がそうしていなければ、バカな警官どもが介入してくるまでもなく、完全な失敗になっていたろうね。そもそも僕は、民主党大会で最初の逮捕者だったんだよ。逮捕されたのは大会の2週間前で、友達と、2人のヒッピーといった具合で夏物の半ズボンにヒゲという風体で、大会のある地域の屠殺場に作ったホワイトハウスの円柱の前でボレックス・カメラをもっていたら、突然警官隊の登場。そしてボコボコにされた。なんの罪状だったんだ?

G:カメラを持っていたから。

J:まあね、それに実際、興味深い経験だったよ。捕まって、それで兵役拒否で刑務所を出てからまだ1年も経ってないことが分かって、僕をまるでクラゲみたいに震えさせてくれたのさ。まず警察の分署に連れて行かれて尋問される。連中は僕らを暗殺者の可能性があると見ていたのさ─半ズボンにカメラとはずいぶんおとなしい暗殺者だ。それからシカゴ・レッド分隊が来て、政治的背景云々について尋問された。そしてFBI、シークレット・サービスだ。友達の方は1晩だけで帰らされた、というのは結局は向うが立証できた罪状は、自動車登録の期限切れだけだったからね。ああした警官連中のトーテムポールに上るのは、どっちかといえばコミカルな経験だったけど、警察がいかに厳重にやろうとしていたかの証拠ではあるんだろうね。

N:あなたは、ニューズリールが政治的であると同時に芸術運動としても可能性があったと思っているのですか?

J:芸術運動とは言っていない。そこには分断があった。友人の半分は芸術っぽい方で、あとの半分は政治っぽい方で、そしてあの時代にさかのぼってもすでに水と油みたいだった。とにかく混ざり合うことは決してなかったし、そのせいで芸術方面 の友達は僕が政治的すぎると言いい、僕の映画の中で政治的なものは好きじゃなかったし、政治方面 の友達は僕がクソ芸術っぽ過ぎると思っていた。そして僕自身は今でも自分はそのはざまの無人地帯にいるような気がしていてね、こっちをやるか、あっちをやるか決めなくてはいけなくて、その両方の共存が許されていないみたいだ。

G:でもそれこそ、格好の位置ではないですか。

J:いや、まあね、だがそれで食って行けると思う?

 まあ話を元に戻すと、もちろんコンベンションのためにはニューヨークの連中がシカゴに来てシカゴの映画を作ることになる。シカゴで僕らは自分たちのオフィスと、ささやかながら配給組織もあり、僕らの映画ははっきり言って連中よりはましだったけれど、しばらくするとシカゴの中でお互いに犬とその尻尾みたいな関係になった。それですぐに、僕はもういいかげんにしろと思ったんだ。

G:シカゴではどんな映画を作っていたのですか?

J:我々のやっていたのはむしろ政治=芸術的な映画で、それをニューズリールの映画として見せていた。我々の映画は政治的な問題を扱っていたし、それも我々の目標ではあったけど、ニューヨークで台頭していたみたいなコチコチの政治性ではなかったんだ。我々はインディペンデント映画作家の集団で、ものごとについての社会的関心を持っていたんだ。

G:上映会はどんな感じでした?

J:うん、上映会はとてもよかった。僕は当時は頭に血の上った方だったからね、暗殺を奨励したりしていたんだ。それも芸術学院でのかなりまじめなスピーチで言ったりしてね、今こそ暗殺者の時代だとか。そこに来ていた女の子が1人、僕の言葉にすっかり感動していて、スピーチの原稿を一部くれと頼んで来た。 でも僕はデモに行くのが嫌いだったし、シカゴにはまったく幻滅していた。軍隊や戦車や鉄条網や銃を持った男たちに囲まれて、しかもこっちの味方といえばただ10代のホルモンを発散する楽しみだけの連中ばかりだなんて、御免だね。僕は大勢のデモ行進なんてものにすっかり嫌気が差してしまったんだ。相手側が1度“真剣に”なったらどう見ても負ける側にいるというパラノイアや、もみくちゃにされること等などをヌキにしても、自分の側の群衆がまったく簡単に誘導できる追随者でしかなく、その半分はもし誰かが台に上って何でもいいから内容はまったく正反対の文句を素敵なリズムで唱え出したら、そのまま併せて歌い始めてしまうような連中だ─なにしろ中身は関係ないんでね。1度その行動の文脈に入ってしまったら、何を言おうが問題にならないんだ。まるで何かロックンロールのショーにでも行った気分さ。すべてがリズムに誘導されていて、そのリズムに収まっている限りは、何だっていいんだ。

N:日本の左翼を批判したがる連中がしばしば今のとまったく同じことを言い、そこでアメリカを例に出して個人主義に基づく政治的主体性の完璧な例として対比させます。

G:なぜニューズリールを離れることになったのです?

J:基本的には、我々のシカゴでやっていたことに対するニューヨーク側の侵入が、やがて我々の「ニューズリール的でない」映画を上映しないという方針に転じたせいだ。僕はそういう重苦しい政党の抗争じみた態度は好きじゃなかったし、そんなことが始まるとすぐに僕の芸術家の側の友人たちも離れて行った。そんなもの相手にしたくないというんでね。

N:それから何をなさったのです?

J:その頃、僕が一緒に住んでいた女性がSDS(Student for Democratic Society)の大物でウェザーマン[70年代の左翼過激グループ]もよく知っていたんで、会話のすぐ直後に我々はカリフォルニアに行った。スタンフォードに居た彼女の知り合いがまた大変な過激派でね、銃を入手していたんだ。そこで彼女も銃を手にし、我々は革命勢力になるはずだった。可愛いらしいベレッタ銃を自分で買いに行き、これで世界を救おうというんだから、できるもんならやってみなって感じだ。だって僕は軍人の家の育ちだぜ、“連中の持ってる”ものがどんなものかはよく分かってるだろう。それでも辺りをうろうろしていたのはベイ・エリアが熱狂的な場所だったからだが、僕自身はその手のことからは一切手を引いていた。

G:それでその頃は映画を作っていたのですか?

J:ああ、映画を作っていたさ。この時期に作ったのは数本、『Primaries: Turning Point』『Lunatic China』、それから『One, Two, Three, Four』で、これは基本的にアメリカの左翼への批判映画だ。連中がどう思ったかは推して知るべしだろう。僕は完全にほうり出された気がしていたよ、なにしろこの運動の中にある分裂症的なもの、皆ひとつの仲間だと口ではいいながら、それぞれにまったく相いれないようなバラバラなことをやっていることを、大っぴらに問題にしてしまったのだからね。後々に人生で重ねて来た経験のなかで分かって来たのは、様々なバラバラのグループの上に統一的な傘を強引にかけて、即座に引き込んで利用しようというのは、政治家一般 に見られる傾向だということだ。その傘下に入った人々それぞれの個々の利益・関心はまったく無視され、政治家は実際には自分がその代表なんてまったくしていないあらゆる人間について、いかにも彼らの代表者であるふりをする。僕は若いころからそんな政治には嫌気が差していたし、だからすぐに身を引いて自分の映画を作ることにしたんだ。

 この3本は一緒に見せられることが前提だったし、本当は『What's to Be Done?(何がなされるべきか?)』という4本目の映画も作るはずだった。だがそこで何がなされるべきなのか自分にはさっぱり分かっていないことに気づいたんだ。まあ僕の敵方の連中にしても何がなされるべきだったのかさっぱり分かっていなかったと思うが。『Lunatic China』は右翼コラムニストのジョセフ・アルソップを用いた。彼は中国で文化大革命中に起こっていたことについて手厳しいコラムを書いていた。僕はこれを、その中国とそう違っていたわけでもない左翼のことと対置するみたいにして、お互いにバランスを取るようにしたんだ。最後の『One, Two, Three, Four』はヒッピーと革命派を対置させる4部構成のものの発展形みたいなものだ。

 『Speaking Directly』(1973)は当時には効果的な映画だった。今現在ではずいぶん当時の時代がかった感じもするが、でも僕はまだいい映画だと思っている。その時代がかった感じというのは、見ていておもしろい風にそうなっているんだ。当時には観客の反応もまったくよかった。いい例だったんだ。確か『Milestones』もほぼ同じころに世に出たのだと思う。『Milestones』も実は同じ問題を扱っているのだが、ただしまったく違った、ずっと有利な視点から作られた映画だった。僕は『Milestones』はまったく気に入らなかったし、これはクレーマーの映画だった。私はその後も自分のささやかなキャリアを続けたわけだ、そのささやかなキャリアがどんなものかは分からないけどね。

藤原敏史(以下Fなぜアメリカを離れたのです? たとえばヨーロッパに移住したのはなぜ?

J:僕は軍隊育ちで、最初の3年間はこの国で育った─占領軍の一員だったのさ。

 うちの一家は北海道に住んでいたのだけど、僕が唯一憶えていることは大雪と、歩道が事実上トンネルになっていたことだ。あまりに雪が積もっているんで上が雪でつながって、まるで雪のトンネルを歩いているみたいだったんだ。

 僕は日本と、イタリア、ドイツで育ったんで、軍隊育ちの子どもとしてびっくりさせられることもしょっちゅうだ。分かるだろう、初めて民間人の学校に行ったら、自分の住んでいる場所から50マイル以上離れたことがないという連中だらけだったのだから。僕にはさっぱり理解できないことだった。もっと若かった頃には、1年間かけてヒッチハイク旅行に行った。金も無く、橋の下に泊まって、みたいなものだ。実は最初の映画を作ったのもその時だ。僕の最初の映画は、さるイタリア人の一家が僕を拾ってくれて、成り行きで3カ月その家に滞在することになったときに、その家の12歳になる女の子のポートレートを作ったんだ。このポートレートを僕は今ではいくらか疑いの目で見ている。何かちょっとエロチック過ぎるものがね、カメラが少女を抱擁するようなやり方にとか、彼女の上にのしかかるような感じとか、そこかしこに現れている気がするんだ。それが当時の自分が考えていたことだとは、とても思えないけれど、それでも今から見返して見ると、カメラの方はその女の子と随分ねんごろになっていたようだ。それからザルツブルクで別の1本を作った。そこでは僕にとって本当の意味で最初のガールフレンドができてね、そこで僕のカメラは彼女の体をなめるようにして、そこに服はなかった。まあ彼女の場合はまだ、年上だったからね。確か30だったかな、僕は19歳でね。

 そうやって1本目と2本目の映画を作って、それからメキシコで1本作った。アメリカに帰るのにメキシコ経由で行ったのでね。アメリカに戻ったときは、僕は徴兵に応じるのを拒否していたので牢屋に入ることは覚悟していた。それに、帰る必要もなかったんだ。生き延びるうまいやり方ぐらい思いついてしかるべきだったんだが、帰ることは道徳的な義務だと思えたのだ。僕はカナダやスウェーデンに行った連中には賛成できなかったんだ。自由の大地、アメリカに戻るのは興味深いことだったよ。ヨーロッパで1年2カ月ルンペン風さすらい生活をした後ではね。それまでに警官のお世話になったのは2回、1度はノルウェーのオスロでひどく酔っ払った直後のこと。僕は橋の下に寝泊まりしていて、その時に僕の仲間のひとりが原っぱのどまんなかでぶっ倒れていたとかで、心配して様子を見に来たんだ。僕は酒瓶を1本空けて、目も見えなくなり、自分のギターを思いっきり踏んずけてしまっていた。友達と来たらあまりにひどい酔い方で、ビクとも動かず、警官は彼が死んでるんじゃないかと心配していた。それで警官が来たわけだ。それからイギリスでは、僕の身分証明書類のことで警官にちょっと面倒をかけられた。

 アメリカに入国したところで、バスが止められた。当時の僕だってヤクというのがどんなものかを知らなかったなんて言う気はないし、吸ったことがなかったとも言わないが、でも自分がヤクの密輸人の風体をしているとはちょっと思えなかったのだが。バスは1時間も止められたままで、僕の手荷物は徹底的に調べられた。それから国境を越えたところで入国管理局がバスを止めてメキシコ人を探し出し、僕は彼らの見るところのアメリカ人らしさに合致しなかったんだ。僕は連中の目にはドイツ人か何か、船から飛び降りた者にでも映ったのだろう。それからバス停では、僕は嫌がらせを受けた。というわけで僕は1年半海外に行っているあいだに、警察と2度ささやかな遭遇─1度は好意的、2度目は悪意の見える─をしたわけで、アメリカに入って4時間もしないうちに警察国家に足を踏み入れた気分になっていたんだ。

N:兵役忌避の人間を皆逮捕したわけではないですよね、見せしめに何人かだけだったのでしょう?

J:いわゆる政治的な理由という奴で兵役を拒否したせいで投獄されたのは、500人だ。エホバの証人やアーミッシュの子どもはこの数には入っていないよ。ヴェトナム戦争期ぜんぶを引っくるめて500人なのだから、たいした数ではないとみなされていた。そして推測では5万人が訴追されているはずなのでね。おそらく我々が粘ったせいで国の方でも徴兵をやめて、それで軍隊が基本的に失業中の少数民族で埋まることになったきっかけになったのだろうね。つまり、今のアメリカ軍を見てごらん、2人に1人は黒人だよ。もし軍隊が必要なら、というのはその考え自体に僕は賛成じゃないけど、もし軍隊が必要なのだとしたら、経済的に不利な立場に置かれて唯一のチャンスが外人部隊に入ることだというような人々で階級を埋めるのは、軍隊を持つに当たっての正しく民主的なやり方だとは僕には思えない。

N:あなたの物語映画製作へのアプローチは、その製作メソッドから言ってとても興味深い、俳優が従わなければならない厳密な脚本を使わず、また俳優でない出演者をたくさん起用する。

J:たまにはそうするかな?

N:そうなんですか?

J:キチッとした脚本のある映画も作ってるよ。

N:それは気がつきませんでした。でも俳優でない人々を使うのは事実でしょう、それがある種のドキュメンタリー的美学にも結び付く。その事は認識してました?

J:当時何を考えていたかはよくわからない。たとえばキチっとした脚本を使ったのは、僕の初期の映画─短編、ごくごく初期の短編ではないけれど、ちゃんと音がある最初の頃─にキチッとした脚本があったのは、何よりも経済的な理由でだった。

 最初に撮ったテイクが、よほど技術的にとんでもないことが起こって全く使いものにならない限り、いつもOKテイクだったんだ。この習慣は以後ずっと続けた、というのは正しく準備さえしておけば、最初のテイクがいいテイクになるはずなんだ。そこで僕はこの、映画を作るのにもっとも確実な方法で、僕の手にできる本当にギリギリ最低限の材料だけで映画を作り続けた。それから、『Speaking Directly』だが、これはフィクションではなくエッセイ映画だ 要するに視覚的に“書かれた”ものだから、すべてが事前に準備されていたわけではない。『AngeCity』でも意図的に即興を使ったごく一部の場面以外は、全部脚本に書かれていた。それから『The Last Chants for a Slow Dance』は、慎重に立てた計画を基に、ほとんどすべてで即興をやった。つまり、5カ所の場面をこれからやるが、この場面ではこういうことが、あの場面ではああいうことが、ということは事前に計画しているんだ。そこには書かれている要素もはっきりあるが、すべてが一種混ざりあった状態にある。書かれたこともあれば、成り行きに任せるよう決めていなかったこともあるというわけだ。

 そこで僕は、即興演出ができることに気がついた。正しく即興さえすれば、脚本を書いたとき以上にテイクを重ねる必要はないんだよ。そして即興の利点も見えて来た─僕が書いて彼らが練習した結果では決して得られない、自分が直接見たものをそのまま写せるのだ。それは結果として僕にとってより魅力的でより興味深いものだった。そこで僕は、即興について極端にオープンになったんだ。でもそれを見た人が、すぐに即興とは見抜けないだろうと思う、なにごともいい加減だったり、コントロールから外れて見えたりはしていないからね。とてもクリーンで、明晰で、極度にコントロールされたものだが、ただし何も紙の上に書いて準備したものがない。最高のシーンの多くはまったく開かれた即興で、最初のテイクだ。この手のことはもう1回やってもめちゃくちゃになるだけだ 最初のテイクには魔法があるんだ。

 だけど『The Bed You Sleep In(1993)』の場合は脚本を書いているか、少なくとも大部分は脚本があった。言葉の部分、脚本の部分は、視覚的な指示は一切なしの幾つかのシーンのダイアローグがあった。視覚的な要素は写真がたくさん、それもそれで何をするか、どう使うかを厳密に考え抜かれたものだった。紙にスケッチだとかだが、それを撮影中にやるようなことは事実上なかった。実際にやったことはより反射的だった。「OK、ここではとても厳密なアイディアがあるから、これにぴったり来そうな何かを探すんだ」という感じだね。ある時期には僕は即興について厳しい意見を持っていたけど、今ではうまく行くものならなんでも好きだ。この場面は厳密に脚本を、この映画では全体をきちんと書いてから、とにかくうまく行くならなんでもね。

 素人を使うのは当時は別にそんな風に考えられていなかったんだよ。素人俳優たちは僕の友達で、映画にタダで出る気があったんだ。それでやってみて、その経験も気に入ったし、結果も気に入った。素人俳優をプロの俳優と対置させたときの結果が気に入ったんだ。

 しばしば、素人俳優は、なにせ目の前に自分のやってることを完璧に知っているプロがいると思ってしまうわけで、不安に感じてしまう。僕はアマチュアがプロ相手にやる作用が好きなんだ、というのは本物のプロというのは本質的に怠け者なものだからね。彼らにはたいてい、演技トリックのズタ袋みたいなものがあって、もし俳優どうしでぶつけると、そのささやかな演技トリックをピンポンみたいに応酬しあうのだけど、僕はそれがあまり好きじゃない。ところが俳優をアマチュアや素人とぶつけると、俳優の方はこれを放ったからこれに呼応した演技テクニックが返ってくるという予測ができなくなる。そこで突然、俳優は考え始めることになり、怠け者であることをやめるしかなくなるんだ。基本的に、自分の前にいるのは狙いの定まらない大砲なんだからね。これがきっかけで俳優の中に起こる変位が、僕は好きなんだ。俳優どうしでやっていたら出て来てしまう、予測可能なものが排除できるのでね。少し彼らを揺さぶって、より真剣に仕事をさせるようにできるんだ。

N:あなたの映画作家としての興味は明らかに物語ることのモードの方に根差していますが、そこから出て来た質問が2つあります。ひとつは、なぜ『Speaking Directly』を作ったのかということ。あなたが他でやっておられることから考えると、一種の中断のように思えるのですが?

J:さあね、もし君が僕の短編を見ていたら、あの映画につながることはたくさん見つかるはずだよ。なんというか、ルーズな、リリカルな、都市や場所についての肖像みたいなものだ。僕が自分で出ている奴にしても、一種の自画像みたいなものだからね。知ってるだろうが、僕がシカゴについての、いささか陰鬱に見えるだろうけど同時にリリカルなスタイルを持ってもいる映画を作ったのは、僕が牢屋に入る直前のことだった。だから僕は、自分の初期作品、あるいは短編は、まったく抽象的なものと、“人がその場にいる”的なもの、それにエッセイか一種のささやかなストーリー映画的なもののあいだで、揺れ動いていたと言えると思う。普通 、ストーリーとエッセイは交差していて、そして『Speaking Directly』はいわばこの全部を合わせた合金的なものだ。もし僕の短編を見て、それから『Speaking Directly』を見てくれれば、自然な進展があってそこにたどり着いたのだと、解ってもらえると思うけどね。

 『Angel City』はロサンゼルスの一種のエッセイ/ドキュメンタリー的なものの中にある物語映画になった。それもあって『The Last Chants for a Slow Dance』はもっとストレートに、実験的物語映画になったんだ─僕は語りの要素の方を重視して、エッセイ的な面はやや後退している。そしてそれから『Chameleon』(1978)、これもまた多かれ少なかれ物語的なもので、続いて『Stagefright』(1981)、これは極めて実験的なエッセイだ。つまりその2つの間を行ったり来たりしているわけで、それはひとつには僕にとってその方がおもしろいからだ。ときどきカードを混ぜ直さなくちゃいけないと思うんだ、そうでないと屈してしまう。僕はいつも、2つか3つのことを同時にやっているし、それは気のもち方の時もあれば、実際に同時進行のプロジェクトを抱えていることもある─映画、絵画、それに何でもいいから自分ができるようになったこと。妻のテレサ(・ヴィラヴェルデ、ポルトガルの映画監督)は僕がこんなにたくさんのことをアクロバット的に扱っていることを理解できないと言う─彼女はどっかり腰を据えて、「これから『X』について1年半考えることにしよう。それだけを」と言うタイプなんだ。僕は正反対だ。僕にはひとつのことに集中するという能力がないんだ。自分で興味をもち続けられるためには、同時にたくさんのことをやってなければならない。さもないと退屈してしまうんだ。

N:もうひとつ質問があるのですが、普通アーティストとして経済的なことを考慮しなければならない人は普通 わりと早くビデオに転じますね。しかしあなたの場合はごく最近になってやっとです。そして私の見る限りでは、あなたは本当にデジタル・ビデオにほれ込んでいるように見えます。ですがその以前に、大勢の人が手にしていたビデオ映像について反発はあったのですか?

J:別に反発は感じなかったし、少なくとも自分でそう思ったことはないね。例えば『プレーントーク&コモンセンス』(1987年、89年山形ドキュメンタリー映画祭で上映)にはザラザラした画質のビデオのマルチ・スクリーンみたいなシークエンスがあるが、それが当時マルチイメージの画像を作るのにもっとも安上がりなやり方だったんだ。僕はVHSカメラを持っていて、アメリカじゅうで撮影する間もそれを担いでいた。正直言うと、結局それではあまり撮影しなかったんだけどね。Hi8は発売されるとほとんど同時に買ったし、まあ当時は人と同じようなことを考えてもいた。ジョージ・クーチャーは完全に撮影カメラだけで編集もやってしまう作品を作ったし、それはHi8カメラではインサート編集だけは使えるからなのだけど、僕もまったく同じアイディアを持ってはいたんだ─アプローチはまったく異なっていたが。彼のアプローチの方が僕が考えていたことよりもずっとおもしろいと思うよ。

N:前回の映画祭では『カルト・オブ・キュービクル』を上映しました。

J:彼の作ってるものは好きだよ。特に『Weather Diary』という奴で、90分ぐらいのものがまるごと撮影カメラだけで作られている。目を見張るほど美しい作品だよ。いつもながら彼らしく、下品だが…

N:トイレとゴジラと足の爪。

J:だが愛らしい作品だし、僕とはまったく異なったメンタリティによってできている。僕の場合は「OK、これでこんなことが出来る」という感覚で、まるで自分で音入りの作品を作り始めたころのやり方をもう1度やっているようなものだった。まず自分のやりたいことを非常に明確に計画する。どこでカット・インし、どこでカット・アウトするか、そのショットの中盤でどこを何秒落とせるかについて、その許容範囲はとても狭いものだった。でも結局僕は何も作らなかった。僕はHi8のカメラを4台持っていたけれど、全部人に上げてしまった。僕が好きな作品を作って来た映画作家で、もう映画を作る金がないというような連中にね。Hi8カメラを渡してそれがいかに素晴らしいかを説教して、実は彼らに試してもらったようなものだ。僕の知る限りこれは成功はしていない。1人だけ成功に近かった人はいたが、彼女のカメラは4カ月前に盗まれてしまったのでね。

 もう何年も使ってくれていて、自分の目を返してくれてありがとうと僕も感謝されていたのだが。彼女はとても貧乏だったのでもう随分なにも撮れないでいたのが、そこで僕がそのカメラをあげたのだ。彼女はある種のいいヴィジョンがあって、ずいぶんといい映像を撮っていたのだが。

 そのカメラを僕が持っていたときには、ほんの少ししか撮影しなかったし、自分でも集中出来ないでいた。自分では、映画製作の経済的重圧に慣れ過ぎてしまっていて、べらぼうに金がかかってないと脳みそが散歩に行ってしまうんだと思い込もうとした。つまりHi8で何も出来ないのは、それで撮影しても金を使う心配がないからなのだと、自分でも信じ込んでいたんだ。

N:それはおもしろい。

J:まあ、だがそれが僕の理屈だったし、当時は本気で信じていたことは100%保証出来る。友人たちにはHi8がいかに素晴らしいか、35ミリにブローアップしてもいい画質でできる─実際、結構いい─と言って宣伝していたんだ。だが自分ではなにもやっていないものだから、自分では一生懸命になれないか個人的には好きになれないんだという理屈を作っていたわけだね。

 そしてDVの登場なのだけど、DVのテープはHi8よりもほんの若干だけ高価だが、大した違いじゃない。そこで突然、「ワオ!」と言い出したわけだ。確かに、Hi8の画質はそこまでよくない。Hi8でも他のビデオ・システムでも、それからDVへの画質の違いはあまりにも大きいんだ。だから人に「あのビデオ作品が」といわれるとちょっとムっと来るね。別にビデオに反発しているわけではなく、ただ「なるほど、新しいデジタル作品を作ったの」と言ってほしいのだ。「ビデオ」と言う表現を避けたいのは、そう言われたときにすぐ、いささかザラザラして画質の悪いVHSとか、芸術ぶった見方、ベータカムや普通のテレビの冷たい感触をすぐ連想してしまうからなんだ。少なくとも僕に言わせれば、デジタル・ビデオはまったくそのようには見えない。すぐに先入観を持たれてしまうから、「ビデオ」という言葉についてまわる雰囲気は嫌いなんだ。

N:でもそれってビデオに反発しているのではありませんか?

J:いや、違うね。ビデオそのものは嫌いじゃない。まあ、率直に言ってしまおうか。ビデオを好きでないのは、画質のせいではない。ビデオ作品全般 について僕が好きになれないところは、要するにその大半がロクでもないものだからなんだ。ビデオは比較的安価だから、経済的な見返りという意味での刑罰がなく、従って作品を作っても無意味な人間でも追い出されることがない。現実はそこまで残酷だ。つまり膨大な量 のくだらないビデオ作品が作られてしまっている。僕は100時間ものくだらないビデオを見てその中で1時間だけいいものがあれば、という忍耐は持ち合わせていないのでね。一方でフィルムの映画では、20時間に1時間ぐらいの割合だ。この比率は相当な違いだよ。その理由のかなりの部分が、ビデオの方が経済的な理由からより手頃だというせいなんだ。つまりいったんそこに居座ってしまえば、かなり長いあいだビデオを作ることが出来るわけだ。そんな例だってすぐ挙げられるよ。たとえばリチャード・リーコックだ。彼にはものを見る目というものがないんだ。ずいぶん以前からHi8を喧伝して来ているけれど、僕に言わせれば問題なのは、彼の友人たちや、まったく平凡極まりない映像を見せられてもおもしろくもなんともないということだ。これはまあ、鉛筆は安価だから、誰もが書くことが出来るようになったというのに近い、民主的な考え方にはなるのだろう。だが誰もが優れた書き手であるわけではない。率直に言って、僕は下手な文章を読むことに興味は持てない。興味があるのは、いい文章を読むことだ。

N:その比率はどうでしょう。悪い映画だってたくさんある。

J:それは賛成だ。だがそれでも、純粋に経済的な理由だけで、20ドルあれば悪いビデオを作ることが出来る。ここで言っているのは、出来の悪い、長編の長さのある映画みたいなものだ。映画ならもし2本か3本悪いのを作った後では、自分の金をつぎ込んでもなんの見返りもないことにうんざりしてしまうだろう。あるいは、「まず1度金をやり、続いて再び金をやったのに、君のほうから出来あがって来たのは、まず最初にクズ、そしてまたもやクズを作った。だからもう金はやらないよ」と言われる。

 僕は長年映画祭をうろついているけど、1970年、1980年、1985年に1990年それぞれの時代の寵児はたいていの場合2、3年は見かけるけれど、その後はすっかり消えてしまう。たぶん1本はおもしろい映画を作って、ただその1発だけだったのだろう。映画祭ではくだらない映画を随分上映している。ある若造が映画祭を1年間ずっと渡り歩き、やがて見かけなくなるのは何やらくだらない映画を作って、誰にも興味を持ってもらえなくなったのだろう。後に控える新しい若造は幾らでもいる。 連中に2度会うことがないのは、彼らに再び映画を作ることができなかったからだ─映画を作る見返りがなかったのだ。映画界にぶら下がり続けられる人間というのは非常に限られていると思う─失敗したときの刑罰ははるかに大きいし、そもそも映画を作ること自体がひどく複雑でやっかいだからだ。

F:フィルムでの撮影は複雑な手間が必要ですが、ビデオはただ録画ボタンを押すだけですからね。

J:その通りだ。フィルムでは、まず生フィルムを買って来て、カメラに装填し、撮影した後は、今度は慎重に現像所まで送り、現像所で何かひどいミスが起こらないことを祈り、今度は現像したフィルムを取りに行く。そして仮にうまく行っていたとしても、そこから先またいろいろと機械仕掛けが必要だ。見返りがなければ、即刑罰だ。ところがビデオでは、君らもご承知に通 り、ボタンを押すだけで簡単に映像と音声を両方手にすることが出来るのだからね。

N:いまクーチャーのことを持ち出してくれたのでとてもうれしかったのですけど、それは彼がHi8を、それが何についてのものなのかを知ったうえで使っている数少ない人物だからです。それは彼の作品を見れば分かる。彼がやることはすべてまったくHi8に固有なもので、他のどんなメディアにも当てはまらないものばかりです。それがとにかく素晴らしい。さて、今Hi8とデジタル・ビデオの違いを明確に示された所で、それではデジタルの何がそんなに特別 なのかをお聞きしたい。特にあなたの使い方だと、どうなのでしょう?

J:ん? 映像と音声の質さ。

N:そんなに単純で。

F:ひとつには映像を操作できる可能性ではないですか。DVはその意味で造形美的なメディアだとも言える。

J:Hi8のカメラにだってささやかなデジタル効果はついているし、もちろんコンピュータに映像を送り込むことも出来る。でもHi8映像の中毒者でもない限り、デジタル・ビデオを買えばずっと高画質の映像を送り込めるというのに、わざわざそんな馬鹿なことをする奴はいない。

 先程話をした論理についてだが、友人たちにHi8がどれだけ素晴らしいかを薦めておきながら、僕自身でHi8テープのちょっとした山を作っても見もしないのは、ひとつには僕が自分自身で撮ったものも含めてクズを見ることに嫌悪を感じるせいだ。映画のクズ、僕は悪い映像なんて見るのは嫌いなんだ。Hi8についての問題の1つは、即座にベータカムのようなよりグレードの高いフォーマットに変換しておかない限り、最初に複製した時点でまずひどい画質の劣化が起こることだ。というわけで、僕自身90分のHi8テープを10本ぐらいは持っているはずなのだが、撮影した直後には見たかも知れないにせよ、以来全く見ていないし、今後見ることもたぶんないだろう。実は前回に山形に来たときにはHi8でささやかなものだけれど、ちょっといいシークエンスをひとつ撮ったのだけどね。ほんの10分の短いスロットだけど、実にいいものだった。

 だが話を技術的なことに戻せば、フィルムの場合だと、常にカメラを持ち歩いて何かとにかく撮ってみるという習慣を、僕はもう何年も前にやめてしまっていた。DVを手に入れたとき、わざわざこう決心したフシがある─「じゃあこのカメラをずっと持ち歩いて、毎日何かを撮影しよう、少なくとも毎日撮影することについては考えよう」カメラを持ち歩いたのも、それが小さくて、持ち歩いたところで面倒でないからだ。それがよかったのは、毎日それが10分だろうが30分だろうがとにかく撮影し、毎晩それを見ては、これはいい、これはいい、だからテープに変換しておこう、という具合で今では30時間から40時間ぶんの素材映像がある。そのテープのどれでも取り出して梱包し、「ちょっとおもしろいものを見てみない」と言って送ることは簡単だ。全部がいいショットだというわけではないよ─保存しているのはその中に何か使えると思えるものがあると思えるショットで、それだけ独立していいという映像ばかりではないんだ。今や僕は何時間もの素材を手にしているわけで、こんなことはHi8では絶対にやらなかった。クズの山の中を当て所もなく行ったり来たりする羽目になるのが関の山だ。僕はクズの山なんて相手にするのはいやだ。家に帰ればすぐに、今進行中の企画はAとBとCとDだから、その素材は今手元にある何本かのテープで、「OK、これはここに使い、これはここだ」とやって、残りのゴミはすぐに処分出来るようでないとね。もし山のような素材の中を通り抜けなければならないなら、せめて見るからにはその山が全部見るだけの価値のあるものでないとね。これが大きな飛躍だった。さらにこれと平行して、ノン・リニア編集を大騒ぎしないでも、経済的に無理なしに使える状況が整って来ていた。以上のことが実現したとたんに、信じがたいほどの自由が生まれたのだ。

 もちろん、もしフィルムだけが唯一許容出来る画質なのだと思い込んでいる人間が『ロンドンスケッチ』を見たら、ほんの時々目につくだけのビデオ的な特性についてとやかく言い出すに違いない。ここで使われているプロジェクターは本来、遥かに大きな会場で使うためのタイプだから、あの部屋には明るすぎた。黒であるべきところが、いささかグレーがかって見える。でもそれはたまたまここの投影システムがそうなっていたからに過ぎない。別の場所か別のプロジェクターだったら、きれいで豊かな黒の質感は出せる。そうした些細なことや、あとは完全にフェティシズムに浸っていてちょっとでも操作線が見えたら我慢できないみたいな人でなければ、あの映像について美学的に言って文句をつけられる根拠なんて、僕には一切思い浮かばないね。

G:今のお話しで興味深いのは、デジタルがHi8より優れているのは、自分が撮影したもの、あるいは世界の中に見たものをうまく分類し、あるいは保存することができるというあなたの意見です。でも一般 的にビデオについて言われているのは膨大な量の素材ができてしまって、その映像の流れのなかでどこで区別 したらいいか分からなくなるということです。ビデオについてのそのような意見についてはどうお考えですか? デジタルを使って見た世界はどんな感じなのでしょうか?

J:僕がDVカメラを使っているときは、基本的にフィルムのカメラを覗いているときと僕の見方は変わらない。唯一の違いは、そこに大きなドルのマークがちらつかないことだね。物事を見てそれをあるフレームとある時間の枠内にどう詰め込めばいいのかについては、多くを学んだと思う。このDVカメラを手に入れてから事物を見ることについて多くを学んだし、何かをしようとするたびに「さて、こいつで5千ドルの出費になるが、果 たしてその価値があるのかな?」と悩む必要なく、やりたいことをやったり、試して見たりできるぶん、自分の視野そのものが広がったと思う。毎日外に出るたびにこの装置を使ってさまざまなものを見ることができて、それもこれは何かのために使わなくてはなんて意識を持たないで済むこと。もしフィルムで撮影していたら、ただ「さて、これはちょっと撮影しておくとおもしろいかも知れないぞ、撮っておこう」なんて言えない。どこで使うかが分かってないと、そんな贅沢はできないと思ってしまうだろうね。

 今では僕はただ撮影することができるし、それは基本的に実験で、それこそがこの取り柄なわけだ。それは僕が撮影しているときに、物の見方について僕を助けてくれることになるし、たとえば例の地下鉄の中での長いショットがそうだ。僕はリスボンについて撮影した素材もたくさん持っていて、それはどこか視覚的におもしろいと思える場所を見つけて、後はそこに座って何かが起こるのを待つというやり方で撮ったものだ。2分間なにも起こらず、カメラを切ろうと思ったところで、ちょっと待って、自分に「もしかしたら何かが起こるかもしれない」と言い聞かせる。その程度の積極性すらないかも知れないよ─ただこの映像が好きだというだけだとか。ただ撮影していて、もし何かおもしろいことが起こればそれでいい。もし何も起こらなければ、その夜家に帰ってから消去すればいいのだし、あるいはただその映像の建築的構成が気に入っていれば、ちょっと断片だけ取っておくこともできる。そして、このような忍耐と、物事をその内部から何かが起こるまでなすがままにさせて置く態度は、フィルムだったら僕は決してやらないだろう。僕の友人のフレデリック・ワイズマンなら出来る。僕には無理だ。彼はそのシリーズ全部に、映画1本に100時間ぶんのフィルムを使えるだけの援助を常に受け続けているからね。

N:それはおもしろい話です。昨日『ロンドンスケッチ』を見ていて、まったく同じことを考えていました。よく『コヤニスカッティ』のような映画が“都会交響楽”的だと見なされていますが、あなたのこうした作品の方にこそ真の“都会交響楽”のエッセンスがあると思うのです。あなたはこの新しいメディアを手にしていて、それと戯れることでそのメディアで何が出来るかを見極めようとしている。そしてその体験を通 して、世界を見るのに新しい見方を発見して行く。

J:僕は『伯林─大都会交響楽』を見ていないよ。

N:本当ですか?

J:それについて読んだことはあるよ、もちろんね。だからその映画とのあいだに何らかの血縁関係はあるのだろうと想像はするがね。たぶん短いクリップか何かは見ていて、まあここを30秒、ここを30秒という感じかな? それでベルリンについての実験的映画なんだ程度のことはだいたい分かる。

N:でもそれ以上のものですよ。この新しい見方について興奮していることが手に取るように伝わってくる。

J:それが僕の言う“実験的”の意味だ。ここに映像を作る機械がある。僕の見たクリップには映画の映像と戯れるような感じがあり、それは僕がここでやっていることにまったく共通 する。

N:でもさらに、新しい見方がある。

J:まあね、だがそれは(機械と)一緒に来るものだよ。道具が新しい目を開かせるんだ。このカメラは確かにそれをやってくれたね。

N:『ロンドンスケッチ』の地下鉄でのショットについてお話になるべきです。何かが起こるのを待つことの、最高の例でしょう。あなたがこのメディアによって実行出来るようになったという忍耐は、観客の側にもかなりの忍耐を要求してますね。

J:ああ。そしてこの場合は、この映像が僕にとって意味を持った理由─つまり、なぜ撮り続けたか─は、自分の映画でピンぼけの映像をほとんど使わないからだ。

 基本的に、最初はまったく平凡なショットで、ただ地下鉄の座席に座る男の反射像が見える。最初は実を言えば─問題は自分でもうまく説明できないことなんだ1、2枚のガラス窓を見ていたのだと思う。確か彼が窓のそばの座席に座り、その反射像が窓に映っているのを見ていたはずだ。それに何か明るいところを通るたびに、彼の向こう側にあるものが透けて見えるだろう─例えば駅につく度に、窓は真っ白になるだろう。彼の映像が実は反射像だと推測するのは、駅について光の中に入り込むたびにその姿が消えるからだ─彼が透明になる、ということは反射像だったはずだ。最初は、彼が実体だと思う。映像の魔術の1つは、その本物だと思っていた人物が駅に入ると蒸発してしまうことだ。これがまあ、日常的な魔法という奴だ。

 この時点で観客はすでに1分半かそこらの間、ただ男が地下鉄に1人で乗っているのを、彼が半分眠っているのか半分起きているのか分からないまま見ていることになる。だがもしそれだけだったら、もうカメラは止めていただろう。この映像にはグラフィックな点で何かが起こっている。カラーのトーンや、あそこは暗かったから[カメラが感度を上げるために解像度を落とす]、粒子が見えるような感覚がある。それから画面を垂直方向にまとめるもの、この金属のポールがあって、完全にピントが外れているので、ただ垂直なバーが走っていて色からそれが何か推測出来るというだけでなのだが、しかも同時に、完全に抽象化されてもいる。列車の動きは、何しろ僕は手持ちで撮影していたので、始終その映像が揺れ動き、それが僕には、ただ美しく思えたんだ。あのショットの多くのものが、僕にとっては美的に言って日本的だと思えるんだ。僕が狂ってるだけなのかも知れないけどね。

N:そうかも知れません。

J:列車が駅に入ってしばらくそこで停車しているのだが、そこに見える暗い線みたいなものが視覚的にまったく日本的に見える。男が座っているだけの、普通 ならただ平凡に見える映像が、このピンぼけの何かによってね。僕が撮影を続けた理由のひとつはそこの視覚的な何かに魅かれたからであって、人物とは関係がなかった。30秒も撮っていると、人物には正直言ってちっとも興味を引かれなくなった。彼自身は興味深い人物だろうが、それはある種ネガティヴな、覗き見的な意味であり、それは僕が撮影を続ける理由ではなかった。僕が撮り続けたのは、そこに視覚的なものがさまざまな層を作り出していたからだ。

 それで撮影を続けることにしたのだが、でも本当に自分との葛藤があったことははっきり憶えている。「これは撮り続けるだけの意味のある、興味をひかれるものだろうか?」決して資金的な意味ではなく、ただ単純に「おもしろいだろうか?」だ。そこで列車のせいでちょっと揺さぶられ始めて、そこにもう1人の人物がいるのが見え、撮影しながら僕はそこに映っているのが何なのかを考え始めた。あれは何だろう? そこに物語を作り出そうと意識したわけではなく、ただ「おや、あそこに誰かがいるぞ」という感じだ。ちょっとズームインしてみて、それでピントはよりぼやけてしまい、グラフィックな質が変化したんだ。ショットの内部でのグラフィックな質が、同じショットとしての継続性を持ちながらも、まるで激しく変わってしまったから、効果の上ではほとんどカットがあるのに近い。もしある一部分と、別の部分を見せただけなら、それが同じショットだとは思わない。唐突な変り方だと思うだろう。

 僕はそうした光景がある種の変化を遂げて行くのを見続けた。僕の普通の作品ではズームはめったに使わないし、たまに使うときには、それは考え抜かれ計算されたものだ。ここで僕が使っていたカメラはズームがスムーズでなく、早すぎてものの動きの中でごまかしてしまうことが出来ない。だがもしこの調子で列車に揺られている最中にズームをしたら、本当にズームだと気づかれることなくうまく隠せるのではないかと考えた。それを実験し始めたちょうどそのときに、このもうひとつの事象が突然始まったのだ。なぜかその女が今では例の男の隣にいる。そこで僕はそこで物語が始まっているのを見た。もちろん、完全に作り物の物語だ─つまり、そこで起こっていたグラフィックな事象の、単純な副産物だ。僕は本気で、降りるはずだった駅より5駅も6駅も乗り過ごしてしまい、いっそう魅了され、驚嘆していた。頭の中では、これが起こっているなんてとても信じられないという声が鳴り続けていた。最後に、男は列車を降り、僕は彼女のほうを見続け、そこでもう何も起こらないことを確認してカメラを止めた。

 これは映画だったら僕が絶対にやっていないことだし、その理由もコストだけでなくいろいろある。第1に、僕がこれをやることを可能にしてくれるカメラがない。400フィートでなく1千2百フィートのマガジンを使うことになっただろうし、そうなると大きなウサギの耳みたいなものがくっついてしまう。それが同時に、この道具で本当に目を開かされたことのひとつでもあった。「この機械によって起こることが許されるものはなにか見てみよう」という感じだ。僕はリスボンですでにかなりの量を撮ってみてはいたけれど、それはまだずっと堅苦しいものだった。このカメラでひとつ本当によかったことは、もう10年ぐらい前から、自分のやることが相当に形式的で、かつ厳密なものになっているので、自分が保守化してるんじゃないかと感じ始めていたんだ。それで「まるで19歳になったみたいに、カメラをただ馬鹿みたいに振り回せないものか」と自問していた。それがひとつは経済的な事情だとは分かっていたけれど、もうひとつの理由は、自分がこの美的なものの小さな箱にすっかり閉じ込められたやさしいおじちゃんになって来ていたからだとも思ったのだ。僕は退屈し始めていたし、自分自身に腹が立って来てもいた。なぜ自分を解放して再び童貞に戻れないのだろうとね。その時にこのカメラを手に入れて突然、文字どおり6カ月間パリにる19歳の若造みたいで、なんの責任もないと感じていたんだ。もしフィルムのカメラを持っていたら、決してセント・ポール寺院を空を背景にあんなふうに引っ繰り返したりはしなかっただろう。

N:テクノ・フェティッシュな人のために、使ったカメラは何でしたか?

J:まるで憶えていないけど、確かこれの大部分はDV700で撮ったはずだが、確かこれはもう生産中止らしい。おもしろいよ。2つのカメラは8割は同じものだ。一方はチップ[CCDのこと。3CCDの方が一般 的に像質が良いとされる。]が3つ、もう一方は1つで、映像は少し前者の方が精確だろう。だがこのチップが1つのほうが相当に安いし、幾つかデジタル効果 がついていて、この映画では全編を通して使っている。ひとつは一種のステップ・モーションで、それが2種類できるのだけど、そのうち一方は1秒ぐらいごとの静止画の連続になるので、これはほとんど使ってない。だけどもう一方は3分の1か4分の1秒だと思う。これで映像が静止画が得られるのだが、一方で遅いシャッタースピードが使えるんだ。ものすごく遅いシャッタースピードにすると動きのあるところでは画像に大きなブレが出来るので、制止すると同時にブレた画像になる。もう一方は静止画像のひとつひとつはかなりクリーンだ。僕はこのどちらも、ある種の状況の中ではおもしろいと思ったから、かなり使っている。大きな助けになっているし、強い表現力があると思う。例えば戦っている男たちの石像を撮ったシークエンスだ。まずこの静止したステップ・モーションを使い、それがやがて鏡の効果 に入っていく。その両方がとてもうまく溶け合っていると思うんだ─グラフィックな何かが変わって行くと同時に、決して場違いな感じはない。まるで成長するような、有機的なプロセスだ。だけどDV700が生産中止になったのはたぶんピント合わせに妙な特徴があって、もしピンボケに合わせると、光学系の何かの問題で被写 体の周りに一種のかさが出来てしまうんだ。メーカーはこれがグロテスクな欠陥だと思ったのだろうが、僕はまるでピンボケで撮影した映像を7時間ぶんぐらい持っているんだよ。

G:そのグロテスクな欠陥のある. . . 。

N:まるで次の映画のタイトルにぴったりだ。

G:『グロテスクな欠陥』。

J:でもその効果は本当に美しいんだよ。それを使ってポルトガル南部の海辺の町を撮影した。これから編集するところだ。

N:ずいぶんたくさんプロジェクトを抱えているようですね?

J:ああ。少なくともあと2つは、「あとはじっくり座って編集する暇さえあれば、必要な素材はすべてそろっている」と思っているものがある。あとは整理して、もしかしたら少し音楽か何かを入れるかも知れないけれど、基本的にはあとは編集だけだ。それからテープの山が3つか4つ、映画になるという気もするのだが、まだ分からない。つまり、素材がたくさんあってね、それが何なのか、何になるのかが、ただ分からないんだ。

N:それから、デジタル・ビデオによる長編劇映画もお考えでしょう?

J:ああ、フィクションの長編だ。もしかしたら、何本も考えているかもしれない。それにパリに6ケ月も暮らせば、いずれパリの肖像みたいなものは間違いなく作るだろうね。

G:いまデジタルでの撮影について少しお話しになりましたけど、編集についてはどうです? よくノン・リニア編集は映画の将来をドラスティックに変革するだろうと言われています。あなたの経験ではいかがでしたか?

J:さてね、僕はまだほんの少ししか編集してないからね。実は僕のもっとも最近完成させた映画はローマで撮影していて、編集はAVIDだった。だけどより伝統的な編集に近いアプローチだったからね。この場合はむしろ、「我々はより伝統的な映画製作のモードを実践しており、たまたまこのノン・リニア編集機材を使っているだけで、理屈だとこっちのほうが編集が早く楽にできる」ということだった。で、実際に早くて楽だった。でも作品そのものは、あのシステムで可能なことを本当に反映してはいないよ。僕はほぼ確実に、あと数カ月のうちに、ああしたデジタル編集システムを1個買うつもりだ。値段が馬鹿みたいに安くなっているからね。

 僕は道具にはたくさんの可能性が受け継がれているものだと考えている。僕は建築に大変興味があり、例えばロイドの建物だ。さて僕の考えでは、CAD/CAM(コンピュータ援用設計、コンピュータ援用生産)の直接の影響として起こった建築の流れがあると考えている。もしコンピュータによって図面を書き発展させることができなかったら、だれもそれに取り組もうとはしなかっただろうと思うんだ。そしてコンピュータは、この視覚的道具には、それ自体の内的な論理があって、その論理を用いた人間は結局ロイドの建物に到達すると思える。あれが伝統的な製図やスケッチから出てくるとは思えない。

 僕はそれと同じことがデジタル・ノン・リニア編集でも起こるだろうと考える。もちろんとんでもない量のひどいクズを見ることにもなるだろう。まるで造形的なやり方なので、大方はほとんど制御不能になってしまって、ただ何でもくっつければいいみたいになるだろう。たぶんしばらくはかかるだろうが、あと10年もすれば物事がどうなされるようになるのか、だいたいの流れは見えて来るかもしれない。だが僕の場合は、あと1年もすれば、それをやり、見せることになるはずだ。僕はこのシステムがとても気に入っていて、それは音声トラックを一緒にかけられるからだ。使っているシステムによっていろいろと操作が出来る。音波の波長をグラフにして見て、それを上げたり下げたりして、たとえばその結果音のフェイドを作れるのだ。一方ではこれは最低限のミキシング機構に過ぎないのだが、しかし他方では、伝統的な編集テーブルよりも百倍もいいのは確かだ。それに他にも使える者はいっぱいある。あとは自分のイコライジングをして、音声フィルターをかけ、その他なんでもやりたいことをすればいいのだ。

 僕が造形的と言うのは、たとえばこの映画の中で、僕が逆転させているショットとかがあるからだ。僕の下品な冗談の部分があって、まず「ギャップに気をつけて」という字が読め、それからピストンの映像に移るのだけど、それが油まみれだったりその他いろいろするものだから、まるでペニスに見える。この動きを逆転させてよりソレらしく見えるようにしたんだ。それから例のセックス広告が映る─コンドームのことだ。また別の例では、スピーカーズ・コーナーの場面だけど、話している人のショットはかなり撮っていたのに、その背景になるショットは短すぎて、その画面のまま映し続けると息をつく暇がなくなってしまう。そこでただ、バックグランドに使うショットの方は85パーセントの速度で再生することにしたんだ。それで十分延ばすことが出来たし、だれも気がつかない。こんなことを、ちょっと親指を動かすだけで出来るし、その情報を処理しているあいだ、5分間娘の面倒も見ていられる。もっと早いコンピュータにすれば2分で処理出来るようになる。

 8年か10年ほど前に、デジタル・サウンド編集システムが出始めたころには、僕はコンピュータに関する限り、デジタル・サウンドは単に映像になったのだと考えた。その映像を手にとって、ひっくり返したり、逆に回しにしても、まったく問題はない。だからずいぶん以前から、最初は普通に見えて始まった物語が、次第に文章のうちの最初の言葉だけが逆さに発音されたり、文章まるごとを逆さにしたりしたらおもしろいだろうな、と考えていた。一語一語だけを追えば、まったく映像に同調して聞こえるのにね。基本的に、英語はロシア語と同様、ひっくり返して発音すると粗雑に聞こえる、しばらくすると、やがて全くコミュニケーションにならない会話なのに、口の動きにはぴったり合っていることになってしまうんだ。この言葉が逆さになってしまうエンディングに持って行くためのなにかいい物語を考えたら、楽しいだろうと思った。

 今現在、僕はひとつの企画を抱えていて、これはHDTVでやりたいと思っている。大叙事詩映画で、ワイドスクリーンだ。もしかしたらフィルムで撮影するかもしれない。カメラによるよ─どれだけ持ち運びが効いて使い勝手がいいかだ。そんな映像をいったんコンピュータに流し込んでしまえば、ハリウッドと同じことができるよ。爆発だとかのクズを合成するとか、まあ僕にはまるで興味のないことだがね。僕の興味は別のところにある。この映画でやりたいことのひとつは、スコットランドでやりたい。スコットランドに行った人は、「スコットランドの自然の大地」と思うのだが、これは実はまったく操作された、人の作った風景なのだ。スコットランド高地に行くと、すべては人工で、完全に人間の手によって作り替えられている。そこで僕のやりたいことは、まず普通の望遠レンズ対広角レンズみたいなショットを幾つか撮る。そして望遠のショットの空をマットで消して、そこに広角で撮った山々の影を合成するんだ。日本や中国の絵画で事物が平面化されている効果にかなり近い。コンピュータならとても自然な、目立たないやり方でこれが出来るんだ─風景のショットがあって、峡谷の底が見えるのだが、その峡谷は部分によっては別のアングルから撮影されて、マット合成されているのだ。同じ峡谷ですべて同じ場所だが、ただ徐々に違ったアングルで見え始めて、最後には文字どおり平面化された風景になる。それこそがスコットランドなのだ─平たく延ばされた風景だ。森林は消え、そこに住んでいた人々は、羊で金を稼ぐ目的のため、そこから追われた。これには物語的なものも一緒につけるのだが、このグラッフィックな質を使いたいのだ。『ロンドンスケッチ』を作っていて、スピーカーズ・コーナーのところを編集しているとき、まったくクリーンな映像を使ってそのある一線を崩し始める、あるいはノッチを1つ動かすだけでまったく正常に見えた映像がゆっくりと崩れ出すことができるのが分かった。これはだれかが発狂して行くような何かを描くのには使えるかもしれない。

 人間の特性と、こうした道具機械の特性のせいで、今後君たちが見るであろうものの大部分は、これをグロテスクに誇張したものばかりだろう─例えばモーフィングだとかだが、しかしもっとデリケートなことだって出来るんだ。

G:どうもありがとうございました。

(訳:藤原敏史)

 


ジョン・ジョスト Jon Jost


1943年生まれ。軍人の父に連れられて米国各地の他、日本、イタリア、ドイツで育つ。1963年大学中退と前後して16mm映画の製作を始める。兵役拒否で2年間服役、釈放と同時に政治運動にも関わり、左翼学生・運動家による自主的ドキュメンタリー映画運動“Newsreel”の創設メンバーに。1973年『Speaking Directly』で長編に進出、『Angel City』(1977)、『Rembrandt Laughing』(1988)などを発表。本映画祭では1989年に『プレーントーク&コモンセンス』(1987)がコンペティション部門出品。1991年にはニューヨーク近代美術館で全作品回顧上映『Jon Jost: American Independent』を開催、その後各地を巡回。現在はヨーロッパを活動の拠点としている。1997年本映画祭で『ロンドンスケッチ』を上映。