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映画に(反)対して
ギー・ドゥボール特集
  • サドのための絶叫
  • かなり短い時間単位内での何人かの人物の通過について
  • 分離の批判
  • スペクタクルの社会
  • 映画『スペクタクルの社会』に関してこれまでになされた毀誉褒貶相半ばする全評価に対する反駁
  • われわれは夜に彷徨い歩こう、そしてすべてが火で焼き尽くされんことを
  • [1952]

    サドのための絶叫

    Howls for Sade
    Hurlements en faveur de Sade

    フランス/1952/フランス語/モノクロ/ビデオ(原版:35mm)/75分

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    監督、脚本:ギー・ドゥボール
    声:ジル・J・ヴォルマン、ギー・ドゥボール、セルジュ・ベルナ、バルバラ・ローゼンタール、イジドール・イズー
    海外配給:ラブストリームス・アニエスべー・プロダクション
    提供:カルロッタ・フィルム

    レトリスムの実験性に魅せられたドゥボールが、そのアヴァンギャルド的な姿勢を明確に打ち出した第一作。イジドール・イズー、ジル・ヴォルマンといったレトリストたちが声を担当している。ドゥボールは、「サウンド・トラック」と「映像」からなるシナリオを、1952年4月、レトリストの雑誌『イオン』にすでに発表していた。しかし、このシナリオ第1版に基づく「映像」は実際に製作されず、朗読されるテクストを大きく変更したうえで、「映像」を完全に欠き、白と黒の画面から映画を構成することになる。音楽や効果音を省き、沈黙の黒い画面と、イズーやジョイス、新聞や民法典の文章など、多様かつ異質なテクストが5つの声によって朗読される白い画面が交互に続く。 ’52年6月、アヴァンギャル ド・シネクラブの初上映は、観客とシネクラブの主催者側との諍いによって、上映が開始されてすぐに中断を余儀なくされた。


    - ギー・ドゥボール(1931−94)

    1931年、パリ生まれ。高校時代までを南仏で過ごす。19歳の時にカンヌ国際映画祭で上映されたイジドール・イズーの『涎と永遠についての概論』('51)に衝撃を受け、パリでレトリスムの運動に参加。シュルレアリスムの停滞と体制内化に反発し、文学と絵画の既存の枠組みを否定しようとしたレトリスムの影響の下に、'52年、最初の映画作品『サドのための絶叫』を発表。映像や音楽を、構成する要素にいたるまで解体することを目指す。

     神秘主義的傾向を強めていくレトリスト左派に対して次第に距離をとり、ジル・ヴォルマンとレトリスト・インターナショナル(LI)を結成した後、'57年、北欧を中心に無意識の自由な表現を目指す前衛芸術運動を展開していたコブラ(CoBrA)の創始者アスガー・ヨルンらとシチュアシオニスト・インターナショナル(SI)を結成('72年に解散)。

     資本主義社会における大量消費を「スペクタクル」とみなして徹底 的に批判し、社会の諸領域にまたがる政治的実践を通じて、「スペクタクル」の対極にある「状況(シチュアシオン)」を構築しようとするドゥボールの試みは、 68年5月革命を予言したともいえる著書『スペクタクルの社会』('67)に理論的に結実する。また、その活動は、映画制作、執筆にとどまらず、既存の広告、地図、小説、コミック雑誌の「転用」のみで成り立つ画文集や、アリス・ベッケル・ホーと共同で考案した戦争ゲームなど、境界横断的なさまざまな芸術表現に及ぶ。

     '84年、映画製作の資金提供者だったジェラール・ルボヴィッシの暗殺への関与を疑われたことに抗議して、自作の映画すべての上映を禁じ、オーヴェルニュ山中の小村シャンポーに移る。アルコール性神経炎に苦しみ、あらゆる治療を拒否して、'94年、自宅にて自らの命を絶つ。