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日本のドキュメンタリー作家インタビュー No. 23 佐藤真(2/2)

4. 田村正毅のカメラと『SELF AND OTHERS』

ノーネス:面白いと思ったのは、佐藤さんはカメラマンとして田村(正毅)さんと大津(幸四郎)さんを使いましたね。

佐藤:そうなんだよねぇ(笑)。今やっているサイードの映画ででも大津さんと一緒にイスラエルに行ってきましたしね。

ノーネス:そのふたりと一緒に作ることの違いはなんですか? なにか戦略があったんですか?

佐藤:そこに関してはそんなに明快な戦略はないですが。

ノーネス:『SELF AND OTHERS』(2000)を見ると、田村さんは本当に最適なカメラマンと思いました。スチール写真についてのドキュメンタリーなのに、時間と時間の流れを強調する田村さんの撮影を選択した。あれが面白かった。

佐藤:田村さんと一度なにかをやりたいとずっと思っていた。逆に言うと田村さん以外のカメラマンじゃ絶対に映画にならないと思っていました。

ノーネス:どうしてですか?

佐藤:つまり写真というモチーフをどう撮るかということだけでは、あの映画は成り立たないと最初から思っていたんです。牛腸茂雄の不在を、どう撮っていくのかが大問題で、その意味で田村さん以外に考えられなかった。それで、『SELF AND OTHERS』の時はスタッフのほうから映画のスタイルが決まっていくという感じだった。それから録音の菊池さんには、企画の思いつきの段階から相談していました。普通のドキュメンタリーのような人物伝とか評伝とか、写真評論家が出てきてその人について語るのではなくて、まったく違うアプローチの映画ができないか。物音とか声とか気配が映像と微妙にずれていき、その微妙なズレと物音が醸し出すニュアンスが想像力をかき立て、映画のモンタージュの柱になっていくような映画を作りたいという話をしていました。

ノーネス:午腸さんの写真は対象に出会う瞬間を捉えているんですね。でも、映画には人がほとんど出てこないですね、その対立がすごく面白かった。『略称 連続射殺魔』(1969、足立正生)を思い出しました。風景の使い方について、なにか考えがあったのですか? 中心人物が不在なわけですから、人がほとんど出てこなくて、風景のほうに向かっていく。

佐藤:考えたのは牛腸茂雄についての映画ではなくて、牛腸茂雄が見た風景についての映画。だけど牛腸はすでにあの時点で17年前にこの世を去っているわけなので、見た“かも”しれない場所に立って、彼が見れなかった風景を撮る。つまり17年前の風景と今の風景とまったく違いますからね、それを撮ろうと。田村さんも「それは面白いね、じゃあ行ってみようか」と言ってくれて。そこの場所に行くと、僕が考えていた“不在のイメージ”とはぜんぜん違うものに、田村さんはパッと興味を持つんです。例えばその時に吹いていた風とか、雲がこうチョロッときたとか、波がこうサラサラきたとか、それをふうっと撮るわけです。田村さんのカメラはその場にあるなにか気配みたいなものを撮る。何度も現場に行って牛腸茂雄のことを考えてどういうふうに映像化をするか、という演出家の意図とはまったく別なイメージを直感で捉えていく。そこが田村さんのカメラの一番すごいところと思う。田村さんのカメラの骨格を支えている論理はそこにあると思いますね。

 映画の最後に出てくる牛腸茂雄本人の声は、僕が最初の牛腸の実家に行った時の調査で出てきたんです。カセットテープに入っていて。この声を聞いて僕は「これで映画になるかもしれないな」と思いました。声の質と語られている言葉がすごかった。「こんにちは」とか、「1、2、3、4」とかの抽象的言葉と、「この声はどのように聞こえているだろうか」というような虚空にむけた呼びかけまであって、まさに僕は寺山修司が書いた脚本のような気もしたんです。すごく情感的であるし、誰かになにかを謎のまま投げかけているような。でも田村さんは「それは最後まで聞かせないでね」と言っていた。それは僕にもわかったのね。つまり撮影をする時に、その声のイメージに縛られたくない。牛腸茂雄とは私たちスタッフの誰も会ったこともないし、いくつかの写真を見たにしかすぎない。だけどもあの声はその肉体みたいなものを、姿、形くらいまで、こちらに想像させてしまうぐらい、強烈にその存在感をアピールしてくるんですね。目に見えないもの、声とか発語とかのニュアンス、物音が醸し出す気配ということでしょうけど、その人が不在であることでその人の気配がするもの。目に見えるものとしては風だったりとか、波とか、光がこう溢れているとか、そうした現象の中から勝手にこちらが想像するものなのですけれど。そういうことが僕の映画の中で人の存在感というのを考える時にすごく大事になってきているんですよね。『SELF AND OTHERS』以降、『阿賀の記憶』も本当にそう。だからすごく微妙なところで成り立っている映画だなぁと思いますけれども。

ノーネス:音とイメージの対立とか合うところとか、それはドキュメンタリーのひとつの本質ですね。

佐藤:そうそう。だから僕は写真というものにどうしてもこだわってしまうんです。動かない映像というのは、物音や声とかに対してもものすごく開かれているし、動きが欠落することで想像力をものすごく掻き立てられるわけですよ。画が動くということ自体にものすごく力がある。人がまばたくだけでもすごい力があるわけですよ。ところが牛腸茂雄の写真はまばたきもしないでじっとこちらを見つめている。その時間というのは、普通われわれが人と会った時に体験をする時間とはぜんぜん違う。そうした逃げようのない間の悪い時間によって、ものすごく鋭利なあのまなざしがこちら側に突き刺さってくる。これは写真特有の表現でそれを映画に取り込んだ時に、動かないことによって音の力とか、あの声の力がものすごく増して不思議な時間感覚が生まれてくる。それが僕の考えている映画の方向になってきて、ドキュメンタリーの本道からはだんだんずれてきたという感じなんですよね。

ノーネス:大津さんはどうですか?

佐藤:大津さんとは『まひるのほし』(1998)『花子』(2001)とご一緒して今度の『OUT OF PLACE』(2005)で3本目です。大津さんのカメラって不思議なんですが、ラッシュの印象がいつも悪いんですね。クローズアップで寄ったりフォトジェニックに構図に凝ったりしないで、いつも中庸に構えている。なにに対してもいつも全体の雰囲気を新鮮な目で受け止めようとしているのでしょうが、ミドルショットの連続で同じようなショットばかりにラッシュの時に思えてしまう。でも編集で刈り込んでいくと、そのミドルショットが俄然と瑞々しく光ってくるんですね。編集でいじり尽くすまでなかなか大津さんのカメラの本質は掴みきれない。そうした大津さんのカメラの力を痛感したのが、『まひるのほし』でした。

5. 表現の根本を問う『まひるのほし』と『花子』

佐藤:『まひるのほし』はそれまでの自分の仕事と比較すると予算規模がすごく大きくて、だからロケハンでずいぶんあちこちの障害者の施設をまわりましたね。監督の僕としては「障害者なのにこんなにすばらしい芸術活動をしている」というような優れた障害者アートを紹介する映画じゃないものにどうやってするか、ということをずっと悩んでいました。芸術の誕生の現場をどう撮るのかというのとともに、“優れる”っていうことはいったいどういうことなのかということを考える隙間をずっと求めていたんですよね。その時にシゲちゃんの話を聞きました。人間がやむにやまれずにこだわっていくこと、そのことが意味があるとか、仕事になるとか、人や先生からやりなさいって言われたとかではなくて、これをやらないと生きていけないということのなかに、表現の根本があると思う。そのこと自体は無意味なことなんです。でも意味がない無償の行為だからこそ、できたものが作った本人とは離れて、どこかに置かれた時に、まったく無縁の人が感動したりするんだと思うんです。知的障害者の人たちがやっていることはまさに無意味なことなんです。それが“こだわり行動”ってよばれるもので、同じことを繰り返す。シゲちゃんだっておんなじ文字をずっと書き続ける。「止めなさい」と言うのが教育者としては正しいやり方で、医学者としてはこだわり行動をどうやって除去してあげるのか正しいアプローチになるんだと思います。そういう医療的な考え方から言うとシゲちゃんのあの膨大なメモは、明らかにゴミなわけです。しかも美しい世界ではなくて性的な問題を扱っているから余計困るわけです。それは見てはいけないもので、少なくとも人前でしゃべってはいけないものだけども、それをシゲちゃんはやっている。でも僕がそういうことを考えてないかというと僕も考えている。23歳の男の子だったらあの女の子と仲良くなりたいとか、みんな考えている。

ノーネス:典型的ですね。

佐藤:そう。みんなが考えていることだけども、家の中でゴソゴソやっているに過ぎないわけで。だからこそシゲちゃんをまったく知らない人が、あの作品を見て、強烈なインパクトを感じて、我が身を見るように思うこともある。絵というのはちゃんとなにかの形をしてなくちゃいけないとか、人に伝える時には変な文字ではなくて文章にしなくちゃいけないとか、学校とか美術の常識とはまったく埒外の作品なんです。これは実は現代アートがテーマにしていることとすごく似ているわけです。現代アートだってその作家のなにかこだわりがあって、それを常識的な絵画という形式ではなく、むしろそれを破壊した形で、ものそのものとしてとか大きさとか、極端に言えば不在とかゼロとかっていう形で表現をする。そうしたアート作品は、ある一部の人たちには強烈なインパクトがあっても、90パーセントくらいの人は「なんだ、これ」で、まさに作家の自己満足にしか過ぎないのが多い。だけどもその中に、なにかやむにやまれぬ思いがある。『まひるのほし』とか『花子』はその現代アートの作家たちが一番面白がってくれる所がありました。つまり他人事ではないと。『花子』の食べ物アートも、彼女がこだわっているのが食べ物だから困るんです。あれが粘土だったら立派な造形になるわけだし、花だったらフラワーアレンジメントになるわけだけども、残飯だから困るわけですよね。それはやっぱり、「食べ物で遊んじゃいけない」という普通の家庭がもっている常識というのを越えざるを得ない。花子さんの家ではお母さんの知左さんが、それを面白がっていることが僕は面白かったわけですよ。障害者を抱えた家族が周囲から要請される、清く正しくけなげにがんばっていかなくてはいけないという、外から見られるまなざしってあるんですよ。「まあ大変ですね、がんばってますね、応援してますからね。」って。でも本人たちにしてみれば、何をがんばればいいの、ということになる。障害者をめぐる常識みたいなことの、ボーダーを壊したりとか越えたりする契機みたいのが、障害者のこだわり行動を面白がるという行為のなかにあって、こだわり行動は社会的に言えばマイナスで病気なんだけども、それをどこかでボンッと表現行為として人の心を打つこともあるのだというように逆転する。マイナス×マイナスがプラスになるみたいな大逆転がここでは可能なんです。ただ本人たちはそれを表現ともなんとも思ってないし、ただやらざるを得ない。それがある力をもつ。現代アートの作家たちは最初はやらざるを得ない衝動からスタートしたはずのに、そのうち次のコンセプトはどうしようかって(笑)。いろんな計算が働いた瞬間に、表現って一気に堕落するんですよね。ものの見事にカスになってく時があるんですよ。それが現代アートの作家たちのもっているジレンマで、だからこそ純粋におんなじことをやり続けられる人に関して、ある種の憧憬と恐怖を持っているんですよね。

ノーネス:ドキュメンタリーを作ることとよく似ていますね。

佐藤:僕らの映画を作るという行為も、ひょっとしたらそれに近いのかもしれないなと思うとこがあってね。こうやって話していると、自分のテーマが変わってきたとか、なんか発展をして進化しているように見えるけども、実際にいろいろ考えると結局一番面白かったのは、実は最初の『阿賀に生きる』の時で、追い込まれて一番苦しんだのも『阿賀に生きる』の時だけなんですね。それ以降いろいろな理屈をこねているけども、結局おんなじことをやっているに過ぎないんじゃないかなって。作りたい領域はだんだん細分化はして、変に専門化しているけども、肝心の作らざるを得ないというやむにやまれぬ思いからはどんどん遠くなっていく。またひとつ映画を作る度にもうひとつ宿題ができてきて、スタッフの和と分裂があって、また誰かと対話してるうちに次の映画が生まれてきてはいるんですけど。ひょっとしたらどんどん水準が下がっているだけなのかもしれないんだけども(笑)、それでも映画を作り続けなくちゃ生きていけない。これは現代アートの作家とおんなじで、最初の一発目の方が、思いのピークも作品の力もあったような気もしますよね。

6. ドキュメンタリーはスタッフで決まる

ノーネス:『阿賀の記憶』(2004)も不在についての映画ですね―人、土地、物語、唄、建物の不在。この作品は『阿賀に生きる』の続編だけど、写真家を軸にした記憶についてのもので、その点では『SELF AND OTHERS』の続編であるともいえますね。

佐藤:最初は『阿賀の記憶 明治の痕跡』という仮のタイトルでスタートしたんです。明治の痕跡というのは石塚三郎っていう写真家が残した、明治の終わりから大正初期にかけて、新潟の風土を撮ったガラス乾板です。その昔のモノクロの写真をモチーフにして、牛腸茂雄の『SELF AND OTHERS』と同じコンセプトでスタートしました。それでやはり最初に映画を構想する時にまたスタッフが大事になりますよね。正直に言いますが『阿賀の記憶 明治の痕跡』の企画段階で、一番最初に相談に乗ってもらったのは田村さんです。僕はいつも手紙で書くんですが、『SELF AND OTHERS』の時も田村さんに手紙を出しました。田村さんはいつも「無駄話をしましょう」と言うんですね。ただ酒飲むだけなんですけども、そういうすごく長いディスカッションをしながら、なんか出てくるまで熟すのをじっくりと待つ。90パーセントくらいただの酒飲み(笑)なんだけど、その間でいろいろなアイデアが紡いでくるようになる。それで『阿賀の記憶』の時も田村さんに話をしたんですよ。誰とやるかということによって映画が決まるわけだから。

ノーネス:とくにドキュメンタリーはね。

佐藤:そうそう。それで、『阿賀の記憶』は『阿賀に生きる』を一緒にやった小林茂とやるか、田村さんとやるのかでぜんぜん、違う映画になるのは僕はわかっていた。田村さんの答えもすごく明快で、「やっぱりこれは僕じゃないんじゃないかなぁ。誰だかわかっているでしょう」って。僕もわかってるわけですけど、ただ小林茂ともう一度やるのがとってもしんどかったわけね。『阿賀に生きる』で3年間共同生活をして、ずいぶんぶつかってきてケンカもし尽くして、もう1回コンビを組み直すのはすごくしんどい。それに10年間時間が経ってそれぞれ何本か映画を作ってくるうちに、映画のアプローチの仕方に関しても微妙にズレてきたかなぁって思っていた。僕が気配とか物音とか不在とか、そういう淡いことにすごく関心をもってきたとすると、小林茂は身障者の映画とか炭坑とかって、なんかすごくはっきり目に見えるものをずーっと追いかけてきていて。でも田村さんの答えは、もう1回小林茂と向き合いなさいってことですよね。それで小林茂に長い手紙を書いて、ちょうど『阿賀に生きる』の10周年に新潟のシネウインドで、僕らが関わったすべての映画の企画上映みたいのがあって、結局いろんな意味で10年を考える機会になった。ずいぶんいろいろ話をして、やっぱりふたりで組んでやろうということになった。2003年の5月にスタートした矢先に、小林茂が今度脳梗塞で倒れちゃって、僕はイギリスに行って1年日本を離れて、当てにしていたお金もダメになって、予算から仕切り直しして文化庁に企画をもう1回出して、製作体制を作り直すことになった。おととしになるのかな、僕がイギリスから帰ってきて、ダァーッともう1回動き出して、撮影をするってことになったんですね。

ノーネス:面白いのは、『SELF AND OTHERS』は不在についてですよね。また『阿賀の記憶』も、そうでしたね。佐藤さんのアプローチはますます間接的になってきていますね。

佐藤:うん、そうですね。小林茂のカメラは、被写体といつも濃厚な関係を結ぶんですね。実際に撮影現場でも一番大きな声を出して仕切っているのは、カメラマンの方ですから、そうやってその場の空気を自分の側に引き寄せていく。でも、今回は対象が阿賀に生きる人々ではなく、その人々がかつて暮らした場や風土だから、おいそれと関係を結ぶことが出来ない。その辺が久しぶりに小林カメラマンとやってみてお互いにとても刺激的で面白かった。1度病を得て、半身麻痺が残るかもしれないという入院体験を経て、小林さんがカメラマンとして格段に成長を遂げたということはある。しかし、相手が風景であろうが小林さんは果敢に対話を挑んでいくんですね。特に、今回の撮影対象は、ただの風景ではない。僕たちが3年間集団生活を続けてきて、嫌というほど見つめ続けてきた場所ばかりです。だから、思い込みも思い入れも全然違う。そうした小林さんの思いに溢れた濡れたショットを、僕は編集でどうドライに乾かしていけるかを考える。そうしたキャッチボールが、とても新鮮でした。

7. 新作『OUT OF PLACE』について

ノーネス:今やっているサイードのドキュメンタリーはどうですか?

佐藤:2回目のイスラエルロケで意識して風景をずいぶん撮ってきました。難民キャンプもあちこち行ったんですけども、やっぱり、映画の撮影の仕方としては訪ねていってインタビューという形をとらざるを得ない。「いつパレスティナから難民となって追われたのか?」などと話を聞いて、撮ったものを編集していくと、そうとうジャーナリスティックな映画にならざるを得ないわけですよね。でも、サイードの唱えた“二民族一国家”、ひとつの国のなかに二民族が共存していくという考え方は、どこかでものすごく引いた視点でしか成り立たない考え方ですよね。たとえばガザに今ある入植地の撤退のことをどうするのか、ジェニンでの虐殺の責任をどうするのかといった、ひとつひとつの問題から少し引かないと、民族共生を語る場はないわけですよ。そうするとやっぱり、どこかでそういうジャーナリスティックな視点から離れて、ボーダーとか境界というものを浮かび上がらせる必要が出てくる。そのボーダーも目に見えるボーダーと、目に見えない壁がある。目に見える壁は、今イスラエルが作っている分離壁とか、本当に目立ち過ぎるくらいにはっきり見えるんだけど、実際にサイードが、直接的に問題にしてきたのは目に見えないほうの壁だと思うんです。人々のなかに無数に目に見えない壁がある。目に見えない壁を越えるひとつの方法として、たとえば二民族一国家っていう、お互い壁はあるんだけども、その壁を今のようにふたつの国家の国境を引くんではなくて、壁はあるままに共存をしていく。その可能性を提唱したように感じるんですね。そうするとジャーナリスティックな視点でいろんな難民キャンプを旅するような映画ではサイードを語ることにはならないかもしれないと思ってきています。直接的にサイードの記憶を語る人々の証言とか声を、ひとつのベースにはしながら、映画としては今まで考えてきたモチーフと同じように、どこかで間接的に、そしてサイードの“不在”をあぶり出すような映画にしていきたいですね。

8. 批評行為は自分の作品に還ってくる

ノーネス:最後に、佐藤さんのドキュメンタリー作品への批評に関してですが、特に『ドキュメンタリー映画の地平』(2001、凱風社)。あれはかなり野心的な本ですね。この本のなかの作品の分析は、本当に印象的です。書き始めたきっかけはなんですか?

佐藤:あれはまったく書き下ろしで、凱風社の社長の小木さんから「ドキュメンタリーについてのわかりやすい解説の本というのを書いてくれないか」と。最初の企画は、学生にも売りやすい200ページくらいで20本くらいの作品とテーマについて分析があるような本だったわけです。それを依頼されて小川プロの『三里塚・辺田部落』(1973、小川紳介)あたりから書き始めたら、『辺田部落』だけで最初の予定していたページ数の半分くらいになっちゃった(笑)。僕の文章は映画とおんなじで、冗長っていうか、白黒をはっきりできないんですよ。でも社会的なテーマとか人間も、なにか白黒がはっきりしない、グレーゾーンにあるのものだと思うんですよね。絶望的なくらいに矛盾に満ちた姿そのものを提示するのが映画の目的で、それに解説を加えたり分析をしたりして情報に還元するのはテレビ、ジャーナリストの仕事だと僕は思う。映画は還元しようがない、解決しようがないことを描くことが大切で、たとえばなぜ世の中にこんなに戦争が多いのかという問題について、そもそも解答や解決の方法はないわけですよ。どうしようもない矛盾みたいなものがいつもゴロッと横たわっている。それを見ていけば見ていくほど、解決の方法は見えなくなってくる。それをそっくりそのまま提示をするのが映画の目的だ。確かアモス・ギタイもそんなこと言っていたと思います。そういうふうに映画を作ってきた人たちを、作品と歴史を、ちゃんと批判的に検討し直すことが次のステップを踏み出すためにはどうしても必要だという思いがすごくありました。それと、マーク(ノーネス)さんは小川プロの研究をされているから、よくわかると思うんですけども、小川さんのなかでも『辺田部落』は捉えるのが一番難しい。ひょっとしたら小川さん自身もあの作品の本当の力がわからないままボーンと投げ出しちゃって、後の人たちが驚いているだけに過ぎないかもしれないと思うとこもあるんですね。つまりそういう作品の分析の世界に分け入っていった時に、この本は長くなるしかないなぁっと思ったんです。まあ本としての完成度は低いとは思いますけれど。でも、この本を書きながら『SELF AND OTHERS』を考えていました。僕にとって批評行為は最終的には自分の作品に還ってくるものだと思っています。あとがきでも書いたけど、僕は80年代に小川さんと土本さんの両巨頭が築いた自主ドキュメンタリーの大きな山脈の裾野のはずれから、自分なりの映画づくりをスタートした時に、アジアの映画も海外の映画、アメリカもフランスもまったく知らなかった。このふたりの築いた山をどう超えるかということしか頭にない、というすごく狭いところからスタートした。山形映画祭が89年にスタートしたことで、世界にはそれこそ様々な山脈があって、その裾野がアジア、世界までの大いなる広がりがある。少なくとも2年に1遍あの山形に行くことで、すべてのドキュメンタリー映画の領域が日本で初めて一望できるようになったわけですよ。

ノーネス:あまりにも突然にね。

佐藤:そう、突然で、みんな戸惑ったけれども、「なんだ、自分がやってきたことは新しいと思っていたら、みんな既にやられてきたことなんじゃないか」と正しく畏れることが出来たわけです。僕は山形映画祭に関わってきたことや蓄積みたいなことをこの本に書いたつもりです。これだけドキュメンタリーの可能性の裾野は広いわけなのだから。日本でも小川さんと土本さんだけではなくて、ぜんぜん違う世界の広がりを見ないと次の人たちはステップを踏み出せないと僕は感じていた。それを本という形にしてまとめておけば、ひとつの乗り越えるべきテキストとして、次の世代の映画作家たちが批判的にもう1回再検討できる場になるかもしれないと思って書いたんです。そういう本が日本にはそれまでなかったですから。これはやってみて想像以上にしんどかった。しかし本を書く作業のなかで、いろんな映画監督の現場の演出論とか映画論をとても近くで聞いたり読んだりするわけです。その際、僕も監督のひとりとして、映画のアプローチとかカメラマンとの関係とか方法論とかの対話ができるということですよね。そうやって対話をしながら自分なりの結論や見解を文章化していかなければならないので、それはものすごく貴重な体験でしたね。その後自分が映画を作っていくときに肥やしにはなるし、次のステップを踏んでいくためのベース作りの作業になるとともに、あまり当たり前すぎる映画は作れないというプレッシャーにもなりましたね。

ノーネス:また本を書いたりしますか?

佐藤:それはわからない。頼まれたら書くかもしれないけど、やはり僕は本を書くのは本業ではないので、映画を撮ったほうがいいですね。あの時考えた方法論の模索は一応本という形で表現したので、今度は自分の映画の創作過程なかでアプローチや方法論を実験していくということだと思いますね。

(2005年1月8日)

 


阿部マーク・ノーネス Abé Mark Nornes

米国ミシガン大学準教授。YIDFF '91「日米映画戦」、YIDFF '93「世界先住民映像祭」、YIDFF '95「電影七変化」のコーディネートを務める。著書に『日本ドキュメンタリー映画:明治時代から広島へ(仮題)』(米国ミネソタ大学出版)があり、未来社で翻訳が出版される予定。小川プロダクションに関してと字幕についての本も出版される予定。

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