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Docbox Books


記録中国:当代中国の新記録運動

呂新雨 著/生活・読書・新知 三聯書店/2003年/中国語
ISBN: 7-108-01849-7
評者:馮艶(フォン・イェン)

 20世紀1980年代は中国の現代史上、理想と現実が交錯する時代である。改革開放の深化と外国の新思潮が入り込むにつれ、それまで抑圧されていた欲望が一気に噴出し、音楽、演劇、映画、絵画など、各種の芸術様式が先を争うように“実験”する精神で、独立、自由、個人的な表現様式を求めて伝統的なイデオロギーの表現様式に反逆しようとした。1980年代の後半期以降は中国のドキュメンタリー史上で重要な意味を持つドキュメンタリー作品が続出した。呉文光(ウー・ウェンガン)の『流浪北京:最後の夢想家たち』、蒋越(ジアン・ユエ)の『彼岸』、時間(シイ・ジェン)の『卒業』、段錦川(ドゥアン・ジンチャン)と張元(チャン・ユアン)の『広場』、康建寧(カン・ジエンニン)の『陰陽』など。これらの作品の共通している所は、下からの視点で中国の社会底辺あるいは主流から離れた周辺に生きる人たちの運命に注目し、形式上ドキュメントする手法で、ロングカット、同期録音、インタビューなどを使用し、それまでに見なれていた解説を柱とする宣伝映画と一線を画した。

 このまるで申し合わせたかのように次々と出現したドキュメンタリーを作る行為に対して、呂新雨(リュイ・シンユィ)は「新記録運動」という言葉で定義をしている――「新記録運動は人文主義精神に基づく配慮、社会低層への注目、下から上への視点を指している。」呂新雨は綿密なフィールド調査を元に、学術と歴史の角度から、「新記録運動」が生まれた時代的背景、新記録運動の先駆者たちの立場、観点と手法、及びその発展の軌跡について1冊の本に描きまとめた。

 『記録中国:当代中国の新記録運動』(以下『記録』と略す)は2部から成っている。上部「対話」は、中国の新記録運動の主要メンバー11人へのインタビューで構成されている。これらのインタビューの中では、記録運動を直接産気づけたのは1980年代の後期の中国における社会変革であり、その初期に作られた作品のほとんどがこの変革の時期を跨がり、その烙印が深く刻まれたことが読み取れる。例えば、その草創期に作られ、多くの人に多大な影響を与えた『流浪北京』の監督である呉文光自身は雲南から北京に“放浪”している人であり、その作品の主人公たちも同じような“放浪者”の詩人、芸術家、画家である。この主流の生活様式に抵抗する生き方を選ぶ1980年代特有な精神現象について、もうひとりの経験者の蒋越は「ひとつのユートピア運動だ」と解読し、彼は自分の作品『彼岸』で、この“ユートピア”を追い求め、夢が破滅していく若者の青春を描いている。新記録運動の先駆者たちはまさにこのユートピアの廃墟から、理想から現実に戻ることを決心し、社会の現実と底辺に生きている人々に目を向けるという精神的な転向を果たしたと言える。

 ここで注目すべき点は、この11人の主要人物の中で、呉文光、蒋越、段錦川は自分たちの重要な作品を作った時には既に体制から離れてはいたが、他の人たちは全て国営テレビ局内の人で、しかも重要なポストにいる。したがって、ここで言われている新記録運動は、大部分はテレビ的な行為である。これはとても重要な特徴である。彼らの特殊な身分背景は時代の潮流と共に当初においては伝統に反逆するきっかけを作り、彼らがマスメディアに占める有利な地形によって、テレビドキュメンタリーは体制内で合法的な地位が確立でき、それを通してドキュメンタリーという表現形式ははじめてより多くの視聴者と対面することができ、ドキュメンタリーが中国で発展させるための広範な庶民的な基礎を作った。

 『記録』の下部は「独語」というタイトルがつけられ、著者が1996年から2002年の間に書いた8つの論文と6つのエッセイで構成されている。ここでは、著者は中国の新記録運動の性質、さらには中国の言語環境の中で「ドキュメンタリー」の概念をどう理解すべきかについて述べている。

 「中国におけるドキュメンタリーという言葉は、ヨーロッパの記録映画と単に理解してはならない。ヨーロッパの映画はその発展する過程でいろんな流派と種類があり、それぞれ違う社会背景がその裏にある。しかし、中国の1980年代の時代背景の中でのドキュメンタリー運動の実践は、ひとつの反逆的な力として存在している。その反逆しようとするものの中には、それまで伝統となっていた様式、つまり規定の方針のもと、まずナレーションを書き上げ、そのナレーションをもとにして撮影をするという基本的な宣伝番組の作り方に対する反逆も含まれている。新記録運動はこの基礎の上に共通の認識が得られ、宣伝番組をその反逆行為の参照対象にしたのである。このような共通の認識(の実現)、共通の手法(の獲得)は、新記録運動をひとつの運動として成り立たせた。」

 『記録』が貴重である点は、マクロ的歴史的な視点から、1980年代以降の中国におけるドキュメンタリーの発展状況について描きまとめることを試みたところにある。作品と表現のスタイルに注目するだけではなく、作り手が何を考え、その思考の根源と時代との関係にも注目している。本書は中国におけるドキュメンタリー運動の興起と発展の足跡を理解し研究するには詳細で確実な備忘録を提供してくれている。しかし同時に、著者が初期の参加者たちの個人的な軌跡とかつて重要な役割を果たしたテレビドキュメンタリーが現在の“視聴率”と“商品化”の波の中で衰退している現象に注目と分析の重点を置き、こだわり過ぎたため、その視野に制限され、新記録運動が1990年代の後期に既に退潮したという結論に至ってしまっている。著者がドキュメンタリーを振興させる希望をテレビ体制の改革に託していることに筆者はいささか失望を感じた。認めなければならないのは、かつて新記録運動の主幹であった人たちの特殊な身分が、逆に彼らの手かせ足かせになり、1990年代以降の彼らの作品作りにおける“失語”状態の原因となった点である。また同時に注目しなければならないのは、1990年代の後期から大量に出現したDVカメラで作られたドキュメンタリーの作品群である。これらの作品は内容と形式上には、まだ未熟なところもあるかも知れないが、しかし、DVカメラの出現は、より多くの人に“独立”と“個人”の立場から表現するチャンスを与えたことは事実である。思想的な転向は、技術の進歩によってはじめて持久的な生命力を持つことになった。ドキュメンタリーの新世代たちは、玉石混交で多元で無秩序であるかも知れないが、彼らは民間に根づく、“国家メディア”から遠く離れた草の根の存在である。この意味から言えば、彼らは本当の意味での新記録運動の後継者であると筆者は思う。希望も思想と同じく、下から生まれるものではないだろうか。

 

馮艶 Feng Yan
ドキュメンタリー作家。長江の三峡流域に住む人々に関するドキュメンタリーを作り続けている。1作目の『長江の夢』はYIDFF '97「アジア千波万波」で上映。現在は2作目『長江辺の女たち』(『長江の夢』の続編)を編集中。


リアルを演出する:ビッグ・ブラザー時代のファクチュアルなテレビ番組
リチャード・キルボーン 著/マンチェスター:マンチェスター大学プレス/2003年/英語
Richard Kilborn, Staging the Real; Factual TV Programming in the Age of Big Brother
Manchester: Manchester University Press, 2003, ISBN: 0-7190-5682-9

評者:山本アン

 衝撃度でその成功が決まるリアリティ・テレビというジャンルを本書では著しく公平に扱っている。過去10年間、ウイルスのように番組表に蔓延してきたリアリティ・テレビについての分析は近年多いが、正統派ドキュメンタリーの将来像を意欲的に描く本著者の研究は際立っている。著者は過去数十年間におけるテレビ番組の変容と命運を共にしてきたドキュメンタリーをイギリス中心に論じる。多くの論者はリアリティ・テレビと正統派ドキュメンタリーを明確に区別するが、著者は“ファクチュアルな(事実を前提とした)テレビ番組”という双方を含む広義語を使って、リアリティ・テレビが生み出した障害と新たな道に光をあてるべくドキュメンタリーの根源的問いに挑む。

 1章と2章は急激に進む商業化、視聴者の細分化、そしてインタラクティブや録画など急増する革新的な技術に目を向けてリアリティ・テレビの驚異的成長の要因を探る。これらの放送環境の変化は正統派ドキュメンタリー製作者には苦境だ。かつて公共放送相手に安定した仕事をしていたドキュメンタリー製作者は、今や大手テレビ局とケーブル、衛星、デジタル・チャンネルなどの後発組放送局とで分割された市場を相手にしなければならない。双方共に高視聴率を追求し、単なるエンターテインメントに終わらせないといった理想を目指すようなリスクを伴う番組よりも、確実に視聴者を満足させる番組を作るよう製作者に圧力をかける。このような市場至上主義においては公共性や批判的な意見を提供するという理由だけではドキュメンタリー放送枠が確保できなくなり、新たに登場したファクチュアルな形式の番組と同じ土俵で放送枠を争うこととなる。

 著者は正統派ドキュメンタリーが適応しなければならないメディア状況を詳細に検討し、リアリティ・テレビ番組が「ファクチュアル・エンターテインメントの斬新な形態を生み出したのか? あるいはエンターテインメントの歯車のひとつではなく文化的啓蒙を担うとされる、正統派ドキュメンタリーの死を宣告したのか?」(51頁)という問いに残りの4章を費やす。“事故と救急”系、メロドラマ的ドキュメンタリー、ゲーム式ドキュメンタリーなど様々に進化する形から、放送局が常に“リアリティという定式”を使って新たなハイブリッド型を際限なく再生産する様が見えてくる。現在噴き上がるファクチュアルなテレビ番組の発展への様々な批判を慎重に吟味して著者自身の洞察を数多く提供する。

 最も鋭い批判の矛先を著者はファクチュアルなテレビ番組の商業化に向ける。新たなファクチュアルな形式が視聴者に“リアリティのすべて”を見せることをウリにする一方で、放映される内容は完全に商品化され日常のリアルな問題からはきれいに切り離され、物事の複雑さは単純明快なドラマに成り下がる。著者は「ドラマの展開に視聴者をくぎ付けにするテクニックの多くは…劇映画やテレビドラマに倣っている。そして同時に製作者はリアルであるというステータスを利用しようとしている」(65-66頁)と述べている。
同様に新しいファクチュアルな形式は、最新技術を利用して最大限のエンターテインメント性を引き出す。ポータブルになった撮影機などは対象者と製作者が未だかつて無いほどの親密さを築くことを可能にするが、搾取的で覗き趣味的な内容になってしまうことが多い。時には製作者が撮影されたくない対象者の権利を侵害したとして警察の手入れや逮捕を記録する際には関係者全員の合意を必要とする決定が米国の最高裁で下されたことに著者は注目する。

 しかし慎重に実証検討して、新しいファクチュアルな形式が必ずしも文化的崩壊を意味しないと著者は示唆する。場合によっては商業化によってドキュメンタリー製作者側に視聴者の見方を意識させ、前世代のドキュメンタリーによく感じられた見下したような空気が変わることもあった。リアリティ・テレビとして大ヒットしたサバイバル番組『ビッグ・ブラザー』をみると、インタラクティブメディア、セットデザイン、と視聴者参加に関する斬新な取り組み方も見受けられる。さらには「ハイブリッド化は弱体化ではなく様々なジャンルを持続可能にし活発化させ、ファクチュアルを前提とする番組によって視聴者は、現在進行形の問題に引きつけられて新たな見方が生まれる可能性がある」(195頁)。モキュメンタリー(擬似ドキュメンタリー)やリアリティ・テレビの虚偽性を茶化すスタイルが人気であることからも、批評家が心配するように視聴者がバカになっているわけではない。本書の表紙に使われている『トゥルーマン・ショー』の一場面は、このような製作者と視聴者とのクリエイティブな相互作用の一例でもある。

 近頃のリアリティ・テレビに対する多くの批判には露骨なプライバシーの侵害とつじつま合わせのリアリティの操作があり、これらの懸念を著者は巧みにドキュメンタリー映画や一般的映画の黎明期から続く議論に引き寄せる。 再現ドラマ、ドラマ装置や覗き見手法の使用は、“正統派ドキュメンタリー”のレパートリーにすでにあって、“そこにいる”実感を出すための手ぶれ映像やフレーム映像などの手法はダイレクト・シネマが最初に開拓した。また、著者はリアリティ・テレビ番組の中で虚偽の映像使用が見つかった数々の事件を通してドキュメンタリーというジャンル自体の誠実さや視聴者の信頼を裏切るという問題を浮かび上がらせる。これらの事件は典型ではなく例外だとする著者は、むしろグリアソンの“現実の創造的処置”と完全な偽物の線引きはどこにあるのかに焦点をあてる。(123-124頁)

 全般的に新しいファクチュアルなテレビ番組に関するあらゆる意見を著者は考慮し、市場の圧力が招く単純化に対しては批判的であると同時に、商品化が革新を促し、様々で、かつハイブリッドな形態を創造しえると評価する。著者の分析で最も有用かつ新鮮な点は、リアリティ・テレビに関する論議と過去1世紀のドキュメンタリーの発展における核心的課題を関連づけた洞察力であろう。本書では新しいファクチュアルなテレビに対して、より広義な意味での正統派ドキュメンタリーに向かった新しい道を開くための壮大な問いの数々に挑んでいる。

――翻訳:若井真木子

 

山本アン Ann Yamamoto
『Documentary Box』編集者。現在、東京大学の博士課程で都市活性化におけるメディアと文化の役割について研究。