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特別寄稿

台湾の民主化、映画の民主化、
『心』の民主化

岡崎孝


山形国際ドキュメンタリー映画祭'97に『陳才根と隣人たち』を出品した呉乙峰監督へのインタビューをもとにした、山形新聞の岡崎孝記者のエッセイを掲載いたします。なお本稿は編集スケジュールの都合により、Documentary Box 11号の英語版には掲載されておりません。ご了承ください。

―編集者


「将来は台湾映画祭を実現したい。単なる“お祭り”じゃなく、映画を作る人たちが集い、創作への意欲を語り合う場として…」。呉乙峰監督は台北のオフィスで、熱っぽく語り始めた。その夢と同じく、台湾のドキュメンタリー映画界全体が今、熱い。彼が創設した全景映像工作室は島を四区域に分け、新たに作家を養成する「訓練」に取り組んでいる。既に北、東、西の三区で終了し、去年九月から始まった「南区」(高雄)が締めくくり。ここから巣立った若い作家たちが実績を積んだ時、台湾映画祭開催が、夢ではなく、現実の課題となりそうだ。

あえて愚問を発した。「訓練」を全面支援しているのは、行政院(政府)だという。「それじゃ、体制に批判的な作品を作ることができないのでは?」。権力の援助を受ける以上、たとえ露骨な干渉がなくても、参加者が自主規制してしまう雰囲気が生じやすい。呉監督は笑った。「何の制約も受けていない。第一、今の台湾には自由がある」。山形国際ドキュメンタリー映画祭'97のプログラム「アジア千波万波」に、彼が出品した『陳才根と隣人たち』(1994-1996)を観れば、確かにその言葉に納得できる。一党独裁時代の「中華民国」なら、メディアが接触することすら難しかったであろう最大のタブー、〈外省人〉の矛盾に真正面から取り組んだ作品だからだ。

歴史的にも地理的にも「隣人たち」であるはずの日本人だが、意外なほど台湾の実情を知らない。歴史の教科書は、「共産党との内戦に敗れた国民党が台湾に撤退した」という断片的事実以降、この島の歴史にほとんど触れようとはしない。台湾通と称する人でさえ、多くは、従来から住む台湾人に対し、国民党とともに大陸から渡ってきた人々を〈外省人〉として“二種類”に区分することを知っている程度。そして、一般的に〈外省人〉と言う場合、蒋介石を頂点に、台湾人を支配し続けた「中華民国」の特権階級をイメージしがちだ。呉監督の作品を観る時、故郷と家族、前向きに生きる希望を奪われた孤独で貧しい老人たちこそが、実は〈外省人〉の多数を占めていることを初めて実感できる。

狭くて手足も伸ばせないような、簡単な間仕切りだけの違法建築群に、登場人物たちは住んでいる。「台湾で新兵の訓練をするためと言われ、やって来た。すぐ帰れると思ったら二度と大陸には戻れなかった」。16歳で抗日戦に参加したという老人は、「撤退」の事実を知らされずこの島に来た。台湾に来てから軍を脱走した人もいる。軍人ではなく、上海と台湾を往復して商売していたある日、「船がもう出ない」と言われ、泣く泣く台湾に残ったケースも。正式な結婚をせず、独り暮らしの老人が多い。「40年もずっと…、戦争で何もかも狂って」「俺一人じゃない。大勢いるんだ」「あきらめた方が楽さ」。出身地だけみれば確かに〈外省人〉だが、特権とはまったく無縁な存在。職を転々として、異郷で生き抜くことに必死だった。呉監督は彼らを台湾の庶民として描き、運命に弄ばれた彼らに温かい視線を送る。

蒋家独裁時代の台湾では、「中華民国」が中国唯一の正当政権という“虚構”に固執するあまり、いつか大陸を奪還する「反攻大陸」のスローガンの下、国民が一枚岩となっているような印象を内外に植えつけようと躍起だった。当時、台湾人と〈外省人〉の間に、その〈外省人〉同士ですら、特権階級と庶民の間に生じていた感情的分裂について、事実を撮影する自由があっただろうか? 李登輝政権の登場以来、総統直接選挙など政治の民主化は、不安定要素を抱えながらも着実に根付き始めた。比例するように文化の民主化、映画の民主化も進む。現状に対する批判、疑問を直接視覚に訴える手段として、有効な手段であるドキュメンタリー映画。その作家養成を、政府が無条件で後押しする時代になったのだ。

しかし、民主化が自動的に優れたドキュメンタリー作品を生み出すと言えるだろうか。『陳才根と隣人たち』に登場する老人たちは、自由にものを言える時代だからといって、最初から撮影に協力的だったわけではない。「過去を忘れたがっていたのは彼ら自身。理解されなくてもいい、放っておいて欲しい、というのが本音だったから。一般の人々も理解したがらない」。呉監督は語る。作品の中で「話してくださいよ。でなきゃ、歴史に空白が生まれる」と説得したが、「いや、だめだ。空白のままにしておこう」と拒絶されるシーンがある。別の老人は「以前の出来事を徐々に思い出して、だんだんハッキリしてきて…。ハッキリしすぎは良くない」とつぶやいた。

特権階級と庶民の違いを頭で理解していても、一般的な台湾人の心には〈外省人〉全体を異質な存在とみてしまう「何か」が潜んでいる。現地で知り合ったある初老の台湾人は温厚な紳士だったが、〈外省人〉の話題になると、「貧しいと言ったって、不法に住んでいながら、年金までもらっているじゃないか!」と急に口調が荒くなった。二二八事件に触れると、「議員や新聞記者、台湾の知識人が皆、反逆者にでっち上げられて殺されてしまった」。まるで昨日のことのように怒りを爆発させた。つい数年前まで、話題にすることさえタブー視されていた事件について、本音を堂々と言えるのも民主化の証明。だが「外省人全員を“悪”と決めつけてはいけない」などと理性的に反論することができない、重苦しい気分に襲われた。

総統府からそれほど遠くない場所に「二二八記念館」がある。事件発生50周年の去年2月、正式に開館した。事件についてあまりにも無知な隣国人のために、少し説明が必要だろう。終戦後、台湾を接収した国民党の腐敗政治が横行していた当時、街頭でヤミタバコを売っていた女性に対する専売局捜査員の暴行事件、当局に抗議した人々への機銃掃射がきっかけに、全島で民衆が蜂起した。各層代表が「二二八事件処理委員会」をつくり、政治改革を含め当局と善後策を協議していたにもかかわらず、その陰で南京の中華民国政府は軍隊派遣を決定、無数の民衆が惨殺された。記念館には、当時の様子を生々しく伝える被害者の遺品などが数多く展示されている。台湾を解放したと称する中華民国政府が、「自国民」を大量虐殺した事件。50年経った今も、台湾に住む人々にとって消し去ることができないトラウマ(心的外傷)となっている。

誤解して欲しくないのだが、〈外省人〉すべてがこの事件に直接の責任を負っているわけでは、もちろんない。しかし、例えば日本の若者が「自分は戦争のころ生まれてないし、日本が植民地時代の朝鮮でひどいことをしたからといって、直接関係ない。過去の歴史について『謝れ』と言われても、自分が罪を犯したわけではない」と言ったとする(数年前、三十代の女性代議士がこんな発言をして、論議を呼んだことがある)。それを聞いた朝鮮・韓国の人々が全員、平常心でいられるだろうか。あるいは、アメリカの若者が広島や長崎を訪れて、「私が原爆を落としたわけじゃないし、まったく責任はない」と主張したとして、たとえその通りだとしても、その場にいた日本人が全員、冷静でいられるだろうか。

二二八記念館で会った台湾の人々は「日本の植民地支配は確かに過酷だったが、公衆衛生の向上など良いこともしてくれた」と好意的に話しかけてきた。だからといって、日本人の口から「日本の植民地支配は良い面もあった」という言葉を聞いた時、彼らが好意的に受け止めてくれるだろうか。

台湾では何十年間も言論統制によって、公然と二二八事件を語る自由はなかった。記念館に案内してくれた女性は「事件の真相は、日本留学中に初めて知った」と教えてくれた。彼女が手渡してくれた記念館の説明文には「悲劇が再び繰り返されないよう、各種族の融和を進め、二度と争うことなく、喜びと悲しみをともにしながら、台湾に立脚した、平和で公正な社会を築いていこうではありませんか」と記している。まったくその通りだし、自由にものが言えるようになった今こそ好機であることは間違いない。だが、独裁体制が崩れた時、抑圧から解放されたエネルギーが暴走し、過去に対する怒りが暴力(最も不幸な「暴力」は内戦)に結び付く恐れがあることは、ユーゴスラビア、旧ソ連の中央アジアを見れば否定できない。

二二八事件というトラウマが残る限り、台湾人と〈外省人〉という次元ではどんな美しい言葉も感情的分裂に終止符を打たないだろう。人間は理性よりも所詮は感情の動物なのだ―と結論づけたくなる「感情」がわき起こってきたが、ふと呉監督の言葉を思い出した。「ドキュメンタリー映画は『人』と『人』の理解」。

彼自身、傍観者ではなく、登場する「人」の一人として老人たちに問いかけている。故郷上海を訪れ、再び台湾に戻った老人を「なぜ大陸に永住しない?」と“挑発”する。「嫌だ! あっちの生活は合わない。台湾から行った人はよそ者の観光客と同じように、何でも高く取られる」「まったく! 台湾にいても外省人、大陸に行っても外省人」。主人公の陳才根も里帰りしたが、「故郷の様子が変わったのと、親戚も分からず、むずかって台湾に帰りたがった」。

大陸で金を損したとか、あまりに人間らしい理由であるとしても、老人たちが大陸で何を実感したのか。故郷は懐かしい―という気持ちだけだったのか。それとも、運命に翻弄されて住まざるをえなかった台湾だが、長い月日を経て、この島で悲しみと喜びを積み重ね、彼ら自身も意識しないうちに台湾の『人』になったということか。

呉監督は「創作回到人民生活現場(創作は人民の生活の場に戻る)」と強調する。撮影のテーマはあくまでも『人』。自分でフィルムを持って、地方の文化センターで上映し、その後は討論会を開く。『陳才根と隣人たち』がこの島の隅々まで上映され、討論会で激論を交わす時、その場にいるのは、台湾人か、〈外省人〉か、いや、台湾に住む同じ『人』たちだろう。

台湾最大のタブーに取り組んだ呉監督だが、決して気負わない。「ドキュメンタリー映画を作ることは、実は難しくない。ビデオの撮影機材を持っていれば誰でもできる。主婦が地元の文化活動やマチづくりの様子を撮影してもいい。体裁よりも内容が大切」。そのポリシーを受け継ぎ、『訓練』を受けた新世代の作家たちから、いつかきっと台湾の『人』を題材とした優れた作品が何本も生まれるだろう。そして、その時こそ台湾映画祭開催の機は熟し、同時に、台湾人、〈外省人〉の壁を乗り越えた「心の民主化」が始まるのかも知れない。

 


岡崎孝(おかざき たかし)


山形新聞編集局整理部主任。山形国際ドキュメンタリー映画祭には、第1回から取材に携わり、ディリーニュースを編集する市民グループ「ネットワーク」の一員でもある。特派員、また個人的に、台北、北京、シンガポールなどを訪問し、中国語圏の政治からサブカルチャーまで幅広く研究している。