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たむらまさき 追悼

ニッポン国古屋敷村

A Japanese Village: Furuyashikimura

日本/1982/日本語/カラー/16mm/210分

監督:小川紳介
撮影:田村正毅
現地録音:菊池信之
録音:浅沼幸一
詩:木村迪夫
音楽:関一郎
製作:伏屋博雄
製作会社:小川プロダクション
提供:国際交流基金

山形県上山市の蔵王山中に入った、戸数わずか8軒の古屋敷村とその住人たち。冷害による稲作被害の原因を徹底的な科学調査で究明する前半から、かつて盛んだった炭焼きや徴兵と戦争体験などについて語る老人たちの個人史が展開する後半まで、ひとつの山村を舞台にしたニッポン国の壮大な歴史絵巻が広げられる。YIDFFの創設からその精神的な柱であった小川紳介監督とスタッフが自ら農業を営みながら作った傑作。



田村さんの撮影にはNGはないのです

 はじめて三里塚に行ったのは1970年です。『三里塚の夏』のあとです。八ヶ月の間、実際の闘争はなく、毎日農作業手伝ったり、昆虫や蛇、自然のものを日々撮ったりしていました。現場には、小川(紳介)さんはほとんど来ません。田村さんが撮っている。

 『辺田部落』のときにまた呼ばれたんです。「一週間で終わるから」と。で、そのまま二年くらい合宿しました。『辺田部落』で重要なことは長回しの方法が発見されたことだと思います。田村さんが、自分が撮りたいものが撮れていれば途中でカットすることはないということです。編集の段階でも小川さんはハサミを入れない。使うならまるまる使う。使わないなら全部使わない、という方法論に繋がっていったのです。キャメラのスイッチいれてそのままずーっと人間を、農民を見つめ続ける。助手の僕から見てもスリリングでしたし、エロティックなニュアンスも出てきます。農民たちの話も、どんどん面白くなってくる。田村さんがキャメラを向けると、農民の人たちが逆に演じたりするようなニュアンスも出てくるんです。田村さんの人柄もありますが、合宿所でラッシュを見続けるなかで、そういう方法論にたどりついたんだと思います。

 ある時、涙ながらに鉄塔のことを訴える青年行動隊を撮っているとき、見ると、途中でボケているんです。またヒューッと合うんです。つまり、田村さんも泣いているんです。涙でピントが合っているのかいないのか判らなくなっているんです。でもNGではないんです。田村さんのドキュメンタリーの撮影にはNGはないんです。

川上皓市(撮影監督)
―『映画芸術』2018年夏号(第464号)より―


- 小川紳介

1936年、東京生まれ。岩波映画製作所を経て1964年、フリーになる。監督第1作『青年の海』(1966)や『現認報告書』(1967)などを自主制作。1968年、小川プロダクションを旗揚げし、成田空港建設反対運動を描く「三里塚」シリーズ制作に没頭。農民の側に立って映画を作り続けた。1974年、山形県上山市牧野に移り住み、米作りをしながら農村を見続け、本作と『1000年刻みの日時計 ― 牧野村物語』(1986)を発表。1989年のYIDFF発足の準備委員として奔走、映画祭を成功に導いた。1992年2月7日逝去。



たむらまさき(田村正毅)

映画カメラマン。1939年、青森県生まれ。人形映画(アニメーション)製作所を経てフリーとなり、『日本解放戦線・三里塚の夏』(1968)がデビュー作。小川紳介監督の三里塚、山形での8作品を撮影。他の作品に『竜馬暗殺』(1974、黒木和雄監督)、『さらば愛しき大地』(1981、柳町光男監督)、『ウンタマギルー』(1989、高嶺剛監督)、『Helpless』(1996、青山真治監督)、『EUREKA』(2001、同)、『サッド ヴァケイション』(2007、同)など。諏訪敦彦河瀨直美、鈴木卓爾監督らのデビュー作品の撮影にも参加。YIDFF '95アジア百花繚乱の審査員を務めた。75歳での監督デビュー作『ドライブイン蒲生』(2014)がある。2018年5月死去。