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審査員
テディ・コー


- ●審査員のことば

 1989年、私は第1回の山形映画祭に招待された。小川紳介が司会を務めた「なぜアジアではドキュメンタリー映画がほとんど作られないのか」というパネル・ディスカッションで話すためだ。

 実はそれよりも前に、私は矢野和之氏と小川プロダクションの伏屋博雄氏に、この同じ質問を投げかけていた。同年4月に開催された香港国際映画祭で、二人が新しいドキュメンタリー映画祭を始めると聞いたときのことだ。彼らとは、マレーシア人映画批評家のスティーヴン・テオの紹介で知り合った。私はフィリピンの短編を紹介するために香港に来ていて、矢野さんと伏屋さんは映画祭の視察に来ていた。その半年後、スティーヴンの薦めもあり、矢野さんが私を第1回山形映画祭に招待し、なかなか制作されにくいアジアのドキュメンタリー映画について語る機会を与えてくれた。他のパネリストは、仕事仲間のニック・ディオカンポ、テオ、韓国人映画監督、そしてマレーシア人プロデューサーなどがいた。キドラット・タヒミックが自作の『僕は怒れる黄色』を上映し、それからパネリストの面々とロックスリーが映画祭の最終日にホテルに集まり、山形宣言に署名した。その宣言のなかで、私たちはみな、それぞれの国に帰ったら自国のドキュメンタリー製作の推進に尽力すると誓いを立てた。そして山形映画祭が第3回を迎えると、「アジア・プログラム」(現・アジア千波万波)という新しいコンペティション部門が誕生した。私としては、香港でのあの質問と、山形でのパネル・ディスカッションへの参加が、この動きに貢献したと信じたい。「アジア〜」は、今では山形の常設部門になり、アジアのドキュメンタリーを発表する重要な場となっている。

 また私は、地元のマニラでも、2010年から13年にかけてドキュメンタリー映画制作のワークショップ運営に参加した。そのワークショップから、ジュエル・マラナンアッジャーニ・アルンパック、ベビー・ルース・ヴィララマといった新しい映画作家が誕生している。また、私の所属するフィリピン国家文化芸術委員会(NCCA)の映画委員会は、これまでに100以上のフィリピン映画に助成金を提供してきた。そのなかには多くのドキュメンタリーも含まれ、後に山形に出品された作品も何本かある。私は、山形宣言での誓いと、そこに記された自分の署名を忘れることはなかった。

 第1回山形映画祭では、たくさんの映画を観て、多くの偉大な映画人と出会うことができた。ヨハン・ファン・デル・コイケンネストール・アルメンドロス、それに映画祭の生みの親の偉大なる小川紳介といった面々だ。彼らはみな、すでにこの世にはいない。しかしあの最初の映画祭と、山形の街は、私のなかで大切な思い出として永遠に生き続けるだろう。山形の蔵王で、熱いお風呂を初めて体験した。入浴料は30円だった。蕎麦というおいしい食べ物を初めて知ったのもあのときだった。人々はみな親切で、特に笑顔あふれる若いボランティアとスタッフの存在は、映画祭の成功に大きく貢献しただろう。ほぼ30年の歳月を経て、またここに戻ってこられたことをとても嬉しく思っている。乾杯!


テディ・コー

1958年にマニラで中国系の両親のもとに生まれ、フィリピン大学で学ぶ。大学に映画のクラスがなかったため、自分で映画を学ぶカリキュラムを作成し、授業をさぼって映画館や劇場に入り浸る。キャリア30年の映画文化人であり、アーキヴィストとして、ナショナルアーティストに選出されたへラルド・デ・レオンなど、偉大なフィリピン人監督の作品を発掘、修復している。またキュレーターとしては、フィリピン文化センターなどで、有名監督だけでなく知られざる監督の作品や、ドキュメンタリー、短編の回顧上映を行っている。シネマラヤ、Qシネマなど、フィリピンの重要なインディペンデント映画祭で選考委員を務め、2004年からは国家文化芸術委員会(NCCA)映画委員会メンバーにもなっている。NCCAは政府機関で、フィリピンの芸術と文化を推進する目的で設立された。2008年、シネマ・レヒヨンを共同で設立。これはフィリピン最大の国内映画イベントであり、毎年全国から作品と作家が集結している。現在、NCCA芸術コミッショナーと映画委員議長を兼任。2017年から19年まで、フィリピン映画誕生100年を祝う行事の陣頭指揮を担っている。