english
台湾「全景」の試み
  • 梅の実の味わい
  • 部落の声
  • 天下第一の家
  • 中寮での出会い
  • 三叉坑
  • われわれはみな同じシーンのなかにいる。


     全景映像工作室は1988年に何人かの志を共にする友人たちによって設立されたドキュメンタリー映画を志すグループである。数年の活動を経て、人材育成や普及の重要性について考えるようになったため、1996年に基金会として組織変更を行い、ドキュメンタリー映画の創作、人材育成、広報宣伝という3つの仕事を基金会の目標にした。

     1999年9月28日、台湾に9.21地震が発生してから7日目、全景の12人のスタッフは台北の事務所で緊急会議を開いた。ある者は被災地から戻ったばかりで、ある者は毎日テレビを見守りつつニュース画面を資料として録画する責任を果たしていた。誰の顔も厳粛で、ひとつのことを討論していた。「今日決定するのは、全景が被災地に入って仕事をするか否かということだ」、「この件は非常に重大で、全景の未来にも影響を及ぼすだろう。必ず全員の同意が必要だ」、「被災地の現状は大変混乱している。もし入っていくなら、われわれにできることは何かを明確にしなければならない」……。

     「われわれはぜひとも被災地の記録を残すべきだ、それも長期にわたる記録だ」。ひとりのスタッフが突然、主張した。「これほど大きな災害である以上、将来の復旧過程においても必ず多くの問題が出てくるだろう。これは台湾にとって非常に重要な集団的経験となるに違いない。この数日の混乱した状況を見れば、政府には記録を残すことに心を砕く余裕などないことは理解できる。10年も一緒に仕事をしてきた全景は、グループとしての力を発揮できるのではないか、と私は思う。もし全景が行かないとするならば、私は全景を辞めて被災地に入ってドキュメンタリー映画を撮影するつもりだ、これはもうすでによく考えたことだ」。

     数秒間、空気が凝結したようになり、全員が沈黙していた。皆の心のうちにあった気持ちはすでにひとりによって語られていた。われわれはドキュメンタリー映画を撮るために集まった仲間であり、その年齢は20代から40代まで、かつて幾多の困難を共に経験してきたが、これほど大規模な災害は経験したことがなかった。8万4000軒の家屋が倒壊・破損し、数十万の人が家を失い、台湾の3分の1の広さにあたる農村地区が甚大な被害に見舞われた。台湾の美を象徴する中部の横貫道路も大地震の瞬間に谷底へすべり落ち、台湾の地図の上から消えてしまった。これほどの大事件は、いったい台湾人に向かってなにを言おうとしているのか? 復興の道はどれほど長く、被災民の生活はどのような出来事に出会うのか? なぜかはわからないが、われわれ一人ひとりの心のうちで、「この事件を記録することは重要だ」という思いを共有しているのを感じた。そして誰もが、この日この時、台湾と深く深く結びついているのを感じた。

     これ以外の結論はほとんどありえなかった。その日の夜、すべてのスタッフが家に戻って家族に説明をし、撮影機材、パソコン、通信機器などの整理をはじめ、ボランティアをしてくれる友人に連絡をとった。3日後、全景は南下して被災地に入り、フィールド調査を進め、手を携えていつ終るかわからない生命の旅を始めた。

     いまや、あれから6年の時間が過ぎた。だが、全景が地震を記録する仕事はいまだに終っていない。このたびの山形国際ドキュメンタリー映画祭での上映にあたり、日本の友人たちのご厚情ご協力に感謝したい。われわれは完成した作品を皆さんと一緒に分かち合いたいと思う。

    全景伝播基金会