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特別招待作品

追悼 前田勝弘


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前田勝弘のこと、『公害原論』のこと

 前田勝弘は柔道3段だった。私は初段でありながら実力2段を自負する腕自慢だったので、前田が弱い3段ならば勝つと思って、彼に相撲を挑んだことがあるが、何度やっても一度も勝てなかった。彼は体も大きく、風貌もそう言われれば強そうに見えないこともなかった。しかし、彼はその見かけや体力によらず心機が細やかで優しい男だった。立ち居振る舞いがごついのに似ず、異常なほど喧嘩が嫌いな男なのであった。

 彼の助監督や制作進行、後にはプロデューサー、幻燈社社長等の映画歴の厚みに比して、彼自身の監督作品が少ないのは、彼のこの優しさによるものではないかと私は思っている。彼は、こと作品に関しては、他人の面倒見ること多く、他人に面倒見られることの少ない映画人であった。

 『公害原論』と『自由光州』はその数少ない彼の監督作品である。中でも『公害原論』は、宇井純(当時東京大学助手、その後沖縄大学教授に転出)の同名の書を下敷きにしたものだが、台本は前田がオリジナルに実地を踏査して書き下ろし、キャメラマンの高岩仁とがっぷりと組んで、北は北海道・旭川から南は九州・水俣まで日本全国の産業公害の爪痕を経めぐって、心ゆくまで撮影して作った、彼の全体重のかかった作品である。

 多分、前田、高岩らの人生のひとつの指標であるようなこの作品に対して、私が今も慙愧に耐えないのは、プロデューサーとしての私の作品に対する処遇である。当時、『医学としての水俣病 三部作』の製作に喘いでいた私は、『公害原論』の面倒見がきわめて悪かった。編集もレンタルの編集室が借りられずに、前田は、高岩さんが見つけてきてくれた本郷の古い仕舞屋にビュワーを持ち込んで、1万5千フィートの16mmフィルムと格闘していた。おそらく、食事も大半はインスタントラーメンなどで済ましていたに違いない。私は、前田と『公害原論』について思うたびに、このことを思っていたたまれない気持ちになる。何よりも何よりも、今は亡き前田勝弘にこのことを謝りたい。

高木隆太郎


前田勝弘

1940年、大阪生まれ。亀井文夫監督の日本ドキュメント・フィルムで助手として働いた後、東陽一監督と出会い、高木隆太郎製作のもと『沖縄列島』(1968)、『やさしいにっぽん人』(1970)、『日本妖怪伝・サトリ』(1973)などに、助監督、脚本、製作などで参加。1977年に幻燈社設立、数々の賞に輝いた『サード』(1977)や『四季・奈津子』(1980)等多くの東陽一作品の他、『はじけ鳳仙花 ― わが筑豊・わが朝鮮』(1984、土本典昭監督)、『ベンポスタ・子ども共和国』(1990、青池憲司監督)などをプロデュースする。監督作としては、今回上映する2作品の他、ナショナル冷蔵庫PR映画『ザ・ビッグ風土記』(1975)、『雪と人と道 ― 国道252号改築工事記録』(1976)。1997年脳硬塞に倒れる。2003年5月2日自室の火災によって死去。

(本映画祭「沖縄特集」において、『沖縄列島』及び『やさしいにっぽん人』を上映)


公害原論1974

Polluted Japan
- 日本/1974/日本語/カラー/16mm/65分

監督:前田勝弘 
撮影:高岩仁、清水良雄
編集:前田勝弘、青池憲司 
製作:米田正篤
製作会社:青林舎 提供:シグロ

日本の公害の歴史と現状。明治はじめの足尾鉱毒事件から、水俣病、イタイイタイ病、四日市ぜんそくなどの公害の現状を、住民や関係者のインタビュー、報道などにより明らかにしていく。



自由光州 ―1980年5月―

Free Kwangju
- 日本/1981/日本語/カラー/16mm/25分

監督:前田勝弘 
撮影:小林達比古 
朗読:伊藤惣一、鄭敬謨 
音楽:高橋悠治 
詩:芝充世 画:富山妙子 
製作:小松原時夫
製作会社:幻燈社、火種プロ 
提供:モンタージュ

韓国、光州における民主化要求のデモに対する軍事政権の弾圧によっておきた光州事件を、富山妙子の絵、高橋悠治の音楽、芝充世の詩などのコラボレーションによって熱く描く、韓国民衆へのレクイエム。



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