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YIDFF 2015 インターナショナル・コンペティション
パラグアイ、記憶の断片
ドミニク・デュボスク 監督インタビュー

物事はそこにあるだけでは現実にならない


Q: パラグアイを再訪されたそうですが、なぜ40年前に、パラグアイで初めての映画を撮られたのですか?

DD: フランスの兵役を逃れるために、民族学教師の職を得てパラグアイに来たのですが、14歳の頃から映画を撮りたいという気持ちは持ち続けていました。その頃、『極北のナヌーク』が好きで、パラグアイの土地の司祭に、ナヌークに出てくるような人物はいないかと聞いたところ、村の大家族を紹介され、魅力的な家族だったので撮影することにしました。

Q: 今回、映画に登場する家族にその時の映画を見せたそうですが、40年前は見せていなかったのですか?

DD: いえ、昔一度見せています。撮影させてもらった人に作品を見せるというのは、ドキュメンタリー作家の義務だと思うからです。あれから40年経ち、当時は小さかった子どもたちも大きくなったので、小さい頃の思い出映像という意味で、もう一度見せました。

Q: 上官からの虐待により、被害を受けたパラグアイ兵士たちの、悲惨な写真に衝撃を受けました。

DD: 実は、この映画の撮影は数人の作家による写真集に出会ったことで、始まったんです。その写真集の、最後のページに連絡先が書いてあったので、連絡を取りました。そして、作品の中に写真を使わせてもらえることになり、撮影を始めました。

 映画内では、パラグアイの映画祭に呼ばれたある男が、そこで撮影をしていたかのように見えるのですが、実は違います。映画祭の時には、私はほとんどなにも撮っていなかったのです。私は、ドキュメンタリーと劇映画の違いはあまりないと考えています。なぜなら、編集という行為が入る時点でフィクションであると言えるからです。ドキュメンタリーは、劇映画よりも表現に自由があり、更にフィクションの要素も持つのです。

Q: ヘルマン・グギアリさんとノゲーラさんの創作作業を撮影したのはなぜですか?

DD: ヘルマンは、長く付き合いのある友人なので、よく訪ねるのです。ノゲーラは、陶芸家というだけではなく、人間的にも興味深い人でした。そして、ラッシュ上映で彼女の作っていた女体を見た時、かつてのアルゼンチンの恋人を思い出しました。ノゲーラの制作作業の映像に、私にとってのもう1つの意味が見出せたのです。この部分がこの映画のフィクションになるところですね。

 私は、ドキュメンタリー作家として、今何が起きているか、常に現実というものをとらえようとしています。そして、物事はただそこにあるだけでは現実とはならず、私がなにか形を与えることで、現実となっている気がするのです。しかし、撮影中はそれがどういう意味になるのかは分かりません。常に最良の形で撮っていれば、なんらかの詩的な意味を持ち、映画の中で使うことができるのです。

 私の映画を表わすのにぴったりだったので、この詩を紹介します。


深み」 ヤニス・リッツォス

彼は繊細な動き、官能的な動きとも言える姿で飛び込むダイバーを見た
更に深く、海底をゆったりと歩く像とその粘土質のペニスを
そして座り込んでいる粘土の女性を見た
女性は待っていた 足を崩していた 赤い、真っ赤な大きい魚がお腹の中にいる
しかしながら、海藻は動いていない、そもそも海藻はない
ただ一枚の硬貨が投げられた
海に深くゆっくり沈む硬貨
そしてちょうど女の口元で留まった

(採録・構成:鈴木萌由)

インタビュアー:鈴木萌由、大丸聖夏乃/通訳:山之内悦子
写真撮影:平井萌菜/ビデオ撮影:楠瀬かおり/2015-10-09