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イントロダクション


おもてに出ろ

 20数年前、小さな映画館の営業担当だったとき、どうしたら劇場に足を運んでもらえるのか、上映する作品ごとに広報の工夫をするのが当たり前だった。市民で作った映画館にテレビスポットを打つ資金などなく、赤字が続けばできあがったばかりの小屋はつぶれる。ポスターを貼ってくれる店や民家を回り、様々な団体や職場の事務局にチケットを頼み、映画好きの役場職員や会社員を訪ね、女性客を目当てにスーパーや美容院に出入りし、試写会のスポンサーを探す。時には上映委員会を立上げる。話題を作ってはただで報道してもらう。昼間は町中を歩き回り、夕方、へとへとになって帰って薄暗い劇場の壁にもたれ、観客の入りや反応に一喜一憂する毎日。映画を観てもらうことは半ば肉体労働で、結局は人との交わりなんだと当たり前に思いつつ、幸せを感じていた。そして私は部署替えになり、映画館もない町や村を回って、その地域の人たちと出会いながら上映を企画し、作品を配給する仕事に関わった。そこでは、映画を観ることは多くの住民が関わってはじめて成り立つまさに祭りであり、作品選びや仲間作り、会場設定や宣伝活動などすべてゼロから組み立てて、皆で実動していた。

 その後、映画を観る場の状況は大きく変わった。日本各地の町や村にあった多くの映画館は都市部の豪奢なシネコンに取って代わられ、人より金が動く宣伝で観客を集める。学校はお勉強の場として純化し、「映画教室」などという概念すらなくなって久しい。町々にあった映画サークルはあらかた内輪のビデオ鑑賞愛好会になったし、地域の公民館で青年団や婦人会や親子映画の会なんかが主催していた自主上映も下火になり、労働組合や教職員組合は映画上映に主義主張を乗せて取り組んでいた時代の匂いも発しない。お祭りの神社で、風に揺れるスクリーンに映されていた大魔神はいま何処で荒ぶっているのだろうか。日本の多くの人たちが大人しい消費者となって、家庭や個室で映像を楽しむことが普通になった。日常から出かけて映画と逢引する快楽は、いまや部屋の中に取り込まれ快適生活の一部として日常化した。人が変わってしまった。いや変えられてしまった。そんな気がする。

 311以降、被災地や避難所に出かけて、映画を観てもらう活動を続けてきた。瓦礫の中に残った学校や避難先の山奥の温泉など、行った先は様々。現場に先駆けたボランティアの人たちが状況を伝え、地元や被災者の方々との信頼関係を作ってくれて、我々に映画を運ぶ機会を与えてくれたのだ。

 映写の機材一切を車に積み込んで、何百キロと離れた、生活がやっと成り立ち始めた場所に出かけて、スクリーンや暗幕をはり、電源を確保し、映写や音響機材を組み上げる。なにか似ているな。

 死に触れてなお生きることに舵をとりはじめた人たちと、映画を観る場を共有する。映画が出かけていった先で、これほどまでに喜んでもらえるのかという出会い方、観られ方がそこにはあった。映画が何かを見せているというより、逆に映画が何かを引き出しているように私には映った。映画を観なくても人は死なない。でも色んな映画に出会える人生は楽しいし豊かだ。そして、そんな場は、ほんとは自分たちでいくらでも作ることが出来る。そして映画と共に旅をして、人に出会う事も出来る。映画の足腰を鍛えよう、さあ、おもてに出よう!

 映画との出会いは、いままでも、これからも、一期一会のライブだ。

山形事務局長 高橋卓也

 


連続する

 細長い帯状のフィルムやテープをぐるぐる巻いたものに媒介されて、作者の手元から映写技師に届けられてくるのが映画だったが、昨今のデジタル技術によりディスク状の姿で届くことが多くなってきた。

 映像解像度や便利さはさて置き、データファイルだと映画メディアの特性である「時間の長さ」が目に見えなくなってしまうのはどこか寂しい。時間を、連続した道とか筒のように空間的にイメージするように、時間芸術である映画も連続した連なりとして把握したい。

 私たちの映画祭がこの度1989年からの12回目を迎えるにあたり、映画祭というのも時間芸術かもしれないと感じる。経過してきた時間と次に広がる時間にはさまれた、数コマ。でもデジタルな一瞬の瞬きではなく、今年のプログラムはまた、確実に過去と未来とつながっている。

 1999年に参加した日本と台湾の監督たちの12年間を振り返る企画。トラヴィス・ウィルカーソン、森達也、前田真二郎、平野勝之たち1999年に初めて山形映画祭を体験した監督たちも新作を携えて久しぶりにこの地に帰って来る、干支のひとまわりである。

 今年は故佐藤真さんが企画したプロジェクトが2つ、実りを結び上映される。アジア千波万波の『ソレイユのこどもたち』(奥谷洋一郎)は佐藤さんの東京論からスタートした作品であり、『テレビに挑戦した男・牛山純一』(畠山容平)は佐藤さんが率いた牛山研究会の取材の成果である。監督としての佐藤さんの新作をもう見ることはかなわないが、その存在は現在を貫いて若い作り手の未来へと続いている。

 特集は回顧的なプログラムと思われがちだが、「わたしのテレビジョン」は60〜70年代を見せながら今のテレビ界への挑戦状のようなプログラム内容である。革命の国キューバを中心に置いた「シマ/島」特集は、理想主義の生み出したみずみずしい表現が、今の灰色な現代社会だからこその吸引力を見せつける。「やまがたと映画」の絶えまない発掘取材と調査力は、人間が亡くなっても映画フィルムは残され、記憶の何かが継承されていくことを確認させてくれる。〈昨日〉は確かに〈明日〉へと血の通う長いものでつながっている。

 未来の映画観客とつながる試みとして、今年はいつもにも増して中学生と高校生に積極的に関わってもらう。東北の子どもたちと一緒に映像を作るワークショップも、これから幾年も継続することで未来の映画ファンを育成することになるだろう。そして「ヤマガタ映画批評ワークショップ」はドキュメンタリーについて考え、書き、読む人を増やそうとする新しい事業である。

 スカパーJSAT株式会社の協賛によって新設される「スカパー!IDEHA賞」は、日本のドキュメンタリストたちを支援し、ひとりでの映画作りが多くなっている彼らが刺激を受ける交流の場を創出する仕掛けをもくろんでいる。これも未来へのプレゼントだ。

 いよいよサンティアゴ・アルバレスの『今!』のリズムが聞こえてきた。大震災で多くを失った東北の地で、今年の映画祭がしっかりと時間の連なりと共に人の絆を結び直すことになりますように。

 お力添えいただいた多くの皆さまのおかげで、今回も映画祭が開催できることに感謝申し上げます。

東京事務局ディレクター 藤岡朝子