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YIDFF 2023 アジア千波万波

ここではないどこか
ミコ・レベレザ 監督インタビュー

聞き手:成田雄太

「調査」のひと区切り

成田雄太(以下、成田):本作は2023年の作品ですが、冒頭に2017年春の試し撮りの映像が置かれています。撮影の期間と完成にいたるまでのプロセスを教えてください。

ミコ・レベレザ(以下、レベレザ):まず、新しいカメラを買ったところからはじまります。そこからテスト的にそのカメラを使いながら撮っていくんですけれども、実はあまり具体的な目的や意図みたいなものはなく、基本的には素材映像を収集していくような感覚だったと思います。私が普段住んでいるところから色々なところに歩いて移動する……たとえば仕事に行くときとか、友達に会いに行くときとかに常にカメラを持って、そういったものを記録していったという感じです。もちろん、そこには自分の家族も含まれますし、今回(映画の中の)の旅行も含まれます。なので、カメラ自体をある意味での生活の一部として捉えて、そこでなにか自分の目に留まったもの、惹かれたものに対してカメラを向けるという感じでした。そこに大きな理由は特にありませんでしたが、色や光など、そういったものに惹かれました。

 この作品は長編としては一応3本目になりますが、実は1本目でもあるんです。なぜかというと、他に2本の長編がありますが(『ノー・データ・プラン』(2018)、『沈黙の情景』(2021))、作りはじめたのはこの映画が最初でしたから。作っている間に先に他の2本がリリースされ、結果的に3本目となりました。このように制作のプロセスはとても長期間に渡って、そこには失敗も本当にたくさんありました。失敗や試行錯誤を重ねながら少しずつ形作ることを4年ほどやってきたのですが、またそこで失敗して満足いかなくて、またもう1年やって、見直したときにまだあまり満足いかなくて……そういったふうに試行錯誤をずっと続けてきたのです。同時にそれを文章としてずっと文字に書き溜めていて、後に小説の形でまとめたのですが、実はそれが本になってこれから出版される予定です。

成田:監督はこれまで監督自身を対象とした作品を撮られてきました。それは今作でも同様であり、様々な場面に過去の作品との繋がりを見つけることができます。監督にとって、今作は独立した一本の作品として考えて作られたのでしょうか。それともこれまでを踏まえたひとつの連作としての繋がりを意識されたのでしょうか。

レベレザ:そうですね。連作というか、継続しているという意味ではそうだと言えると思います。ただ形式に関しては、やはり毎回違うものを試していると思います。あとは前作までも含めて、これまで自分は「調査(investigation)」をずっとしてきたと思います。その中で色んな可能性を探求しながら私自身のスピリチュアル的な旅をずっとしてきました。これまでの作品はある意味、ずっとその「調査」がまだ過程だったと言えるかもしれませんが、今回に関してはいったん一通りあらゆるオプション、あらゆる可能性表現も含め、すべて試した感じが自分の中にあります。ですので、自分のこのテーマにおける制作はこれでいったん落ち着いたというか、区切りがついたと思っています。

『ここではないどこか』の表現について

成田:作品の中で、監督は自分の撮影した映像に対して「まるでカメラは自分の意思とは関係なく操られているようだ」と述べます。そこをはじめとして、撮影された素材とそれを編集する監督との間の距離感が作品に独特の緊張感をもたらす場面がしばしば見られます。実際にこの作品を編集する上で監督が意識されたことがありましたら教えていただきたいと思います。

レベレザ:編集のプロセスについて話しますと、編集がうまくいっているときは(同時に書き留めていた)文章もうまくいっていました。編集と文章を書くという行為が並行して進んでいったのです。その文章は本という形になったんですけれども……この本と映画というものがシンクロしているというか、要は本をめくるような感覚を映像の編集としてすごく意識しました。あとはイメージに対しての文脈みたいな感じで、テキストを映像にインサートをしています。たとえば言及された教会でのあの「取り憑かれたような……」という台詞。そこに関しては、自分自身があそこの映像にあまり満足してないというのが実はあります。なぜかというと、光も弱いし、露出とかテクニカルな部分でもうまくいってない。だけどそういったことも逆に活用してやろうと思いました。

成田:たしかに作中、ところどころにナンバリングされた注釈という形でテキストが字幕で挿入されます。登場する物事の説明だったり、引用だったり、それ以外の言葉の断片だったりと、場面によって異なる複雑なニュアンスを持っているように感じましたが、この注釈はどのような意図で作品に配置したのでしょうか。

レベレザ:あの注釈が入る空間は、私はとても意識をして使っています。どこからテキストを引っ張ってきたかなど、そういったすべてに意味があるからです。ただ、元々編集の初期では画像をフォトブックみたいなイメージで繋げていっていたんですね。で、そこに注釈、ノートとしてそういった情報を入れることで、自分にとってもリマインドにもなるし、今後の編集ガイドとしても活用できるようにもなった。基本的にそういった注釈を入れるようなやり方……要は本ですよね。本でやるような形で映像にも注釈を入れることは、自分は個人的に好きです。あとは余計な情報を入れすぎないために、あまり言い過ぎたりナレーションでなにかを作り出したりするよりは、テキストで最小限に伝えるというところも意識しています。

成田:非常にシリアスなテーマを持つ一方で、この作品は、街の人や子どもたちのちょっとした可笑しみだったり、なかなかうまく演奏できないクラリネットがBGM的に使われていたり、お母さんが911を「セブン‐イレブン」と言い間違えたりと、ところどころに絶妙なユーモアがあり、それがこの作品を重くなりすぎない軽やかなバランスにしていると思います。特にうまくいかないクラリネットのBGMは非常に印象的です。クレジットによるとこれは監督自身の演奏だということですが、この演奏をサウンドトラックとして使おうと思ったのはなぜなのでしょうか。

レベレザ:クラリネットに関して言いますと、制作の過程で、ナレーションがうまくいかなかったりとか、自分が思っているのと違うときにすごくフラストレーションを感じることが多かったんですね。で、そういうときに、元々自分はクラリネットを練習していたんですけど、それが結構ストレスのはけ口になったんです。ストレス、フラストレーションが溜まるとクラリネットを吹いて、ぼやくというか、もう悪い言葉を言ったりとか、全てクラリネットの中に吹き込んで発散させてたという。なので皆さんもちょっと僕の“F”ワードとか聞いたりしたと思うんですけど……そういった言葉も含めて、ああいった感じになりました。あとはまた別の話なんですけど、私の父親はジャズピアノをやっていました。父は人とのコミュニケーションをとるのが得意ではなかったのですが、ピアノの音を通して父の感情とか感性を知ることのできる方法だったのです。

成田:この流れで音楽について伺いたいと思います。本作のエンドクレジットにはオリジナル・サウンドトラックのスコアがクレジットされており、2020年に録音されたとあります。これはこの作品のために録音されたものなのでしょうか。そうであれば録音のときのエピソードなどを教えていただければと思います。

レベレザ:そうですね。まさにこれは本作の目的のために作曲したもので、作曲家はヴィンセント・ユエン・ルイズ(Vincent Yuen Ruiz)という自分の創作仲間で、彼に作曲してもらいました。彼には制作・編集途中の映像素材も送って、やり取りをしながら完成しました。

成田:注釈でクイーンズのヒップホップ・グループ、モブ・ディープのリリックが引用されるなど、音楽の使いかたや言及のされかたも個人的に面白いと思った部分でした。さて、本作は最後に監督の境遇がひとつの映画論と結びつけられることで、監督自身の私小説であるのみならず、映画・映像に対する優れた批評としても機能しているように思います。また監督の以前の発言などを読みますと、ご自身の境遇を映画メディアに例えられることも多くありますが、映画という形式と、監督が追求してきた主題とのリンクについてなにか考えることがおありでしたら教えてください。

レベレザ:基本的に映画という形式を使うことで私自身の考えを処理していると考えます。編集においてはパソコン、コンピューターを使いますが、それも大きいです。デジタルカメラで映した素材をメモリーカードに入れて、それを今度パソコンにコピーして、そこでフォルダ分けしてデータを整理して編集をしていくんですけども、そこの素材っていうのはすべて私自身の記憶(memory)とも言えます。で、それを編集上でシークエンスとして置き換えて並べていく。要は、そういったコンピューターで作業していくこと自体が、私自身の記憶と接続されることなのです。あとは数学的に考えてもいいと思います。数学の方程式においては答えを求めるのがゴールではなくて、解いていく過程、プロセスがとても重要です。それが映画という形式とこの主題が繋がっていくところなのかなと思います。 その過程において様々な選択をしていくのですけども、アメリカにおける私自身の境遇だったり、アイデンティティをもらえてないといった葛藤だったりとかも、その選択とプロセスに入ってきます。また、比較としてちょっとうまくいくか分かりませんが、もしかしたら荷造りということとも近いかもしれません。限られたスーツケースの大きさの中に必要なものを詰め込んでいくときに、すべてを持っていけないのでそこで選択をしていかなければいけない。そういったプロセスとも似ているかもしれません。

成田:作品の中でしばしば二重映しが用いられており、特におじいさんをはじめとした家族と「回遊する泡(migratory bubbles)」の映像が重ねられるのが印象的です。このような演出をされた意図がありましたらお話しいただけますでしょうか。

レベレザ:先ほどの荷造りの話に関連するんですけども、どうフィットさせるかということがまずはあります。元々は別々のふたつの泡のイメージと家族のイメージがあって、それをひとつにまとめようとは思っていました。ランダムに色んなことを試すわけですね、どうやってうまく編集に収められるかみたいな。そのように色んなコンビネーション、色んな方法を試していくなかで、たまになにかすごくポエティックな、もしくは自分がなにかを感じる、そういった瞬間があります。今回あの形で表現したときに、なにかとてもエモーショナルになったり、本当に泣きそうになる、そういった瞬間があったのです。まさにそれがそのときの自分の家族の状況を反映させている、そういったことなのだと思います。 あと、モチーフとしての水の使い方というか、表現としての水……特に水が流れていくモチーフなのですけども、言及された「回遊する泡」については映画の中で表されている通り、それがどこに流れているのか、どこに行くのかという様子は、まさに自分が体験している、アメリカに居られなくなり、アメリカから次にどこに向かうのかという境遇とオーバーラップしていると思います。

これから探究していきたいこと

成田:インタビューの最初の方で、今回でこれまでの追求がひと段落したように思うとおっしゃっていましたが、監督はこれからどのような作品を撮っていきたいと考えていますか。ずっと追い求めてきた「なぜ自分はいつまでも不法(undocumented)なのか」という問いとは別の主題に向かうのか、もしくは、これから本が出版されるというお話しでしたが、別の形でこの主題を追い続けるのか。今後のことをお聞かせいただければと思います。

レベレザ:本のことをまず言いますと、もう今は入稿も全部終わっていて出版を待つだけの状況にあります。それで次のサブジェクトについて言うと、今回の映画でこの取材、このテーマはいったん一区切りついたと思います。今は満足していると同時に疲弊していて、もう結構疲れたというのもありますので、いったんこれで一区切りにして。で、今後作っていくものに関しては、個人的・私的ではないものを逆にちょっと探求していきたいと思っています。

 そうですね、あとは遊び心、遊ぶ感覚みたいなものを持って楽しみたいです。それがどういう表現……エクスペリメンタルになっていくのか、抽象的なものになっていくのか、それとも、より物語的なものになっていくのか……自分の中でオープンに色んなアイデア、色んな表現を試したいと思っています。今の自分の中で重要なポイントとしては、とにかく楽しむということ。あとはそこからインスピレーションを受けるということ。特に自分でなにかを決めたりとか、なにかを探すとかいうのではなく、自由な形で進めていきたいと思っています。

成田:最後に、作品について特に言及しておきたいこと、メッセージなどがあればお願いします。

レベレザ:もうすべて映画に込めたつもりなので、あまりこれ以上皆さんになにか言えることがあるのか分かりませんが、この映画は私にとってとても長い期間、困難な中で作ってきたものです。いったん一区切りしましたが、ただ今思うと、それだけ長期間、時間をかけることも必要だったのかなとも思っています。途中で諦めないことが大事でした。なぜかというと、そのことによって映画という作品として形作られていったというのもありますし、同時に私自身がこの作品を作る過程で成長できたっていうことや、とても多くのことを学べたからです。

採録・構成:成田雄太

写真:梅木重信/ビデオ:加藤孝信/通訳:谷元浩之/2023-10-08

成田雄太 Narita Yuta
山形ドキュメンタリーフィルムライブラリー勤務。映画史研究。特に戦前の日本映画史を専門とする。論文に「日本映画と声色弁士」(岩本憲児編『日本映画の誕生』日本映画史叢書15、森話社、2011年)、「「Think Good」に立ち会うために」(『ユリイカ 特集=三宅唱』青土社、2022年12月号)など。