『鳥が飛び立つとき』
匿名 監督インタビュー
記録からドキュメンタリー映画へ
川本佳苗(以下、川本):どのように映画制作を始めましたか。
監督:もともとは普通の学生でした。学内で映画コンテストがあり、コメディ映画を作って応募しました。それを上映したら、自分の考えていたツボで観客が笑ってくれ、鳥肌がたちました。自分は映画を作るのが向いている、好きなのだと思うようになりました。
川本:今回の作品もそうですが、面白いことが好きなのでしょうか。
監督:コメディーが好きです。切ない、シリアスな事に対してそれがお笑いになると人が動転したりすることが面白いと感じています。
川本:今回の映画の前に作った作品はありますか。
監督:これまでに関わった作品はたくさんあり、未完のものや、SNSで公開しているものも。アクション以外の様々なジャンルのものを作っています。一番気に入っている作品はLGBTの女の子たちのロマンスものです。YouTubeにアップしていますので、映画祭などに出品することはしませんでした。
川本:『鳥が飛ぶ立つとき』は最初は映画にするつもりはなく記録を撮っていたとのことでしたが、どういうきっかけで映画にすることにしたのでしょうか。
監督:クーデターが起きる前は長編映画を作ろうと準備していました。しかし問題が起こり、途方に暮れましたが、何かの役にたつかもしれないとカメラを持って素材を撮り溜めていきました。その溜まっている素材を見つけた友人が「これでドキュメンタリーでも作ったらいいんじゃないの?」と言ってくれました。「だったらお前が脚本を書いたら?」となり、その脚本をもとに私たちは長い時間をかけて手を加えていきました。さらに私と友人で撮影し、それらの素材からこのドキュメンタリーが出来上がりました。
川本:素材を撮り溜めていた期間と制作期間はどれぐらいでしょうか。
監督:撮り溜めていた期間は約7か月です。ドキュメンタリーをつくるために、その素材を日付ごとにもう一度見直していきました。映像のこれは使える、使えないと選んでいき、編集が終わるまでにさらに7か月ぐらいかかりましたので、完成するまでに1年半ぐらいかかりました。
最初は昔見たドキュメンタリーを思い出して、編集をしてみました。それを他のフィルムメーカーに見せたところ、これはドキュメンタリーとは言えないと。もっとたくさんのドキュメンタリーを見るべきだと。そこでかなり多くのドキュメンタリーを見ました。ほとんどは香港のもので「雨傘革命」についてのものでした。特に影響を受け、参考にしたものはインドの『Cowboys in India』(2009)ともうひとつタイトルは忘れましたが、アメリカの女子学生が北朝鮮へ映画を学びに行くというような映画と記憶しています。そのふたつの作品は喜劇と悲劇が合わさっていて、悲しいことなのに、それがいつのまにか楽しいことに変わっていくというようなストーリーの展開でした。
川本:悲劇の中に喜劇があるのは『鳥が飛ぶ立つとき』も同じですね。他にも影響を受けた作品はありますか。
監督:他に参考にした作品はありませんが、作品内のBGMのひとつは(クエンティン・)タランティーノの銃を発砲しているときの音と『Cowboys in India』。使われていた音が両方ともよく似ていたので、結果的にそういうものが反映されたのではないかと。
川本:『鳥が飛ぶ立つとき』を作っているときはどんな想いを込め、また何を大切にしていましたか。
監督:撮影し始めたときは、自分のことを撮影するという考えはありませんでした。それよりもデモに参加している人々や銃を発砲している様子を撮っていました。自分達の方にカメラを向けたシーンは仲間同士ふざけながら撮ったものです。実際に編集しようとなったときに自分が撮影したものや友人が自分を撮影したものを多く入れていくことになりました。最初の頃は仲間がいたので、次は誰を撮ろうかとかやっていたのですが、自分が一番多く映っていたので、自分のシーンが増えました。最初のバージョンにはもっとミャンマーの現状についての様子が含まれていましたが、ミャンマーの情勢から自分達のストーリーを紡ごうという方向に焦点がだんだん変わっていきました。
撮れなかったマジックモーメント
川本:最初は友達の間で遊び感覚でふざけて撮っていたとのことですが、撮影中一番楽しかったこと、大変だったことなど、思い出に残っていることはありますか。
監督:撮影をしている時に一番楽しかった思い出は、その頃仲間たちと共同生活だったので、いろんなものが床に散らかっていました。カバンの中にカメラを入れて体の前に背負って撮影をするために、そこにあったカバンを拾って、穴を開けて使ったら、それは友人のものでした。しかもその友人の彼女がプレゼントした大切なカバンだったので、ものすごく怒られました。その上カメラの穴を大きく開けすぎて半分に破れてしまい、仕方がないので、そのカバンでデモを撮影しました。最初の頃は群衆の中で撮影するのは簡単でしたが、のちにカメラを見せて撮影するというのは難しくなっていきました。カメラを抱えて撮影しているだけで自分のことを信用してくれない。「なんで撮影しているんだ!」と怒鳴られ、いざこざが起こったこともありました。そんなことよりも自分にとって残念だったのは、自分達が楽しい時間、マジックモーメントを撮るのを、カメラを忘れたり、バッテリーがなかったり、SDカードが入っていなかったりで、その瞬間を撮ることができなかったことです。
川本:撮れなかったシーンを具体的に教えてもらえますか。
監督:いっぱいあるのですが、そのうちのひとつは、2021年4月ミャンマーで新年を祝う水かけ祭りが開催されていました。その時に仲間のひとりは水祭りの音楽をかけていました。それを聴いて友人が突然泣き出しました。この私たちの抵抗はいつ終わるのだろうかと絶望的な気持ちになり泣き出してしまったのです。それを撮影しようとしたら、カメラのバッテリーがなくなっているのに気がつきました。なんでバッテリーを充電しておかなかったのかとその友人に言うとお前が撮影するだろうと思ったので、充電をしておかなかったと。もしその瞬間をカメラに収めることができたら、リアリティーのあるドキュメンタリーが作れたのではないかと悔しくて仕方がありません。(笑)
それと、2月3日からこのドキュメンタリーを撮影しようと思って、私の家で友人たちと生活をしていました。2月14日のバレンタインデーに取っておいた中国酒を開けて飲み始めたのですが、そのお酒は強くて少し飲んだだけで酔っ払ってしまいました。その時、このドキュメンタリーの脚本を書いてくれた女の子に仲間のひとりが電話で告白をするというので、私たちは彼をひとりにして電話をかけられるようにしてあげました。いくら待っても彼から反応がありません。そうしているうちにこの女の子が私たちの方に電話をしてきて、彼の様子をみてあげてというので、戻ると彼は酔っ払って寝ていました。告白するシーンも撮ることができませんでした。
辛さを転換して
川本:エンドロールで流れた音楽は自分達で作ったそうですが、タイトルはありますか。
監督:なぜその音楽を使おうと思ったのかというところからお話しします。最初はフリー素材を使っていましたが、溜めているフッテージを見直してみると仲間のひとりが歌っているシーンがありました。それも歌の初めから終わりまできちんと撮影されていました。それは自分たちは楽しく騒いでいた頃の様子を思い出し、懐かしんで歌っているシーンでした。すでに『鳥が飛ぶ立つとき』というタイトルは決めていたのですが、たまたまこの歌詞の中にも「鳥」という言葉がありました。偶然の一致だったのかもしれませんが。そこでこれを最後に使おうと思ったのです。歌は「私たちはどんちゃん騒ぎして酔い潰れて寝てしまう」というタイトルです。
川本:映画は監督自身にとっても大事なものだと思うのですが、映画の他に大切にしているものはありますか。
監督:自分は映画を作っているので、もちろん映画は大切です。ですが、映画以外となると自分の人生というか、自分自身ではないかな。最終的には自分はなんとか生き抜いていかなればならないと考えていますし、もちろん私は映画人なので、映画を撮っている時が一番楽しく落ち着きます。ですが、映画がなくなったとしても自分のこの人生を楽しみながら生きていかなければならないと考えています。
川本:この映画は私の好きなミャンマーが描かれていて、冗談が好きですぐに歌いだすとか、軽い明るい雰囲気が大好きなミャンマー人らしさが描かれていたと思います。監督自身にとってミャンマー人のいいところはどんなところだと思いますか。
監督:ミャンマー人のいいところは人がこう言っても、いやそれは違うというような性格なので、なかなかみなさんと同じ視点で語るのは難しいのかもしれませんが、こんな時代で、切なくて辛いときであっても、それらを転換して楽しんでいこうとするところがミャンマーの人のいいところであるし、自分の映画の中で取られてきた手法とそこは重なるところなのかなあと。
採録・構成:小野聖子
写真・ビデオ:佐藤寛朗/通訳:細川隆憲/2023-10-10
川本佳苗 Kawamoto Kanae
日本学術振興会特別研究員(東京大学東洋文化研究所)。専門は仏教学・宗教人類学。ミャンマーの国際上座部仏教宣教大学を卒業し、在学中はパオ森林寺院で尼僧スナンダとして出家した。その後もタイの公立仏教大学であるマハーチュラロンコン大学で修士号を取得するなど、東南アジアの生きた仏教の姿を研究。