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それぞれの「アラブの春」



特別上映

気乗りのしない「アラブの春」

 激動の3年が過ぎようとしている今、「アラブの春」はもはや単純な物語では表現しきれない現象になっている。

 アラブの春は2010年12月に始まった。SNSなどの力で動員された数百万もの人びとが街頭に繰り出し、チュニジア、エジプト、リビアでは、長期の独裁政権があっという間に転覆された(リビアではNATOによる空爆が政権転覆の一助となり、その是非をめぐって意見が分かれた)。西は大西洋に面するモーリタニアから、東はアラビア半島の東の端に位置するバーレーンまで、そして北はイラクから、南はアフリカ大陸の中ほどまで下るスーダンやジブチまで、抗議運動はアラブ世界全体に広がった。近年、南米や東欧諸国で実現した民主化が、アラブ世界でも起こるのではないか。そんな期待が広がった。

 しかし、事態は急速に複雑化していった。そのもっとも顕著な例は、独裁者に対して抗議運動を起こした勢力と、その後に政権を握った勢力の間に大きな溝が存在することだろう。チュニジアとエジプトでは初めて自由選挙が行われ、イスラーム主義を掲げる政党が第一党となった。彼らは活動家たちを疎外し、ただ自らの権威の足固めだけに興味があるように見える。本特集で紹介する『共通の敵』は、そんなチュニジアでの選挙の様子を熱く伝えている。

 エジプトにおけるその後の展開を見れば、アラブの春の不満がまだ続いていることがわかる。エジプトでは軍の将軍たちがクーデターを起こし、選挙で選ばれた大統領を投獄した。多くの革命家たちにとって、これは民主化のプロセスがまたもやハイジャックされたことを意味する。しかしその一方で、軍事クーデターのほうが「まだまし」であり、強欲な新政権を排除するための必要悪だと考える人たちもいる。いずれにせよ、革命初期の特徴だった明確なビジョンは姿を消し、エジプト人の連帯も崩れ去った。映画『選ばれた物語』は、伝統あるエジプトの有力紙「アル=アハラーム」紙の内部が、政情不安の影響を受けて大きく動揺する様子を描いている。

 社会の武装化、宗教対立、部族対立により、アラブ世界では依然として動揺が続いている。さらに、アメリカとロシアといった大国による干渉と、隣国イラン、トルコ、アラブの豊かな産油国の思惑が絡み合い、状況を一層複雑にしている。イエメン、リビア、バーレーン、シリアでは市民の抗議運動が流血の事態になり、特にシリアの状況は悲惨を極めている。

 今や「アラブの春」も、疑問ばかりがつきまとうようになった。誰もが自らのアイデンティティを問い直し、現在と未来に大きな不安を抱いている。この特集で紹介する映画の中には、そんな一般のアラブ人たちの生活や不安を描いている作品もある。この文章のタイトルの元となった『気乗りのしない革命家』は、カイスというイエメン人の観光ガイドを描いた映画だ。彼は国が安定し、旅行者が戻ってきてくれることを願う一方、デモ隊への共感も日々高まっていくという葛藤を抱えている。『良いはずだった明日』に登場するチュニジア人の貧しい女性アイーダは、社会の底辺をさまよいながら、革命後の希望を絶対に捨てないと固く心に誓っている。『悪意なき闘い』では、監督のナディア・エル・ファーニーが、ふたつの闘いを通して、彼女自身の希望と恐怖を体験する旅へと観客をいざなう。ひとつは監督自身の病気との闘いであり、そしてもうひとつは、彼女が考えるアラブ社会の病理、つまり宗教が民主主義と社会の進歩を脅かしている現状との闘いだ。

 社会の出来事と個人の物語は、つねに切っても切れない関係にある。ここに紹介する作品群を通して、観客のみなさんが、私たちの世界の中で複雑な問題を抱えた地域の現状を知り、その生の声に触れられることを願っている。

ナジーブ・エルカシュ(ジャーナリスト)

 


「アラブの春」をめぐって

 2011年4月、チュニジアでの革命を取材するため、私はチュニスにいた。数か月前に起った革命の現場で何が起っていたのかを知るためだ。

 一般的にチュニジアの革命は、SNSによる情報波及力により、多くの人びとが反政府デモに動員され、成功したと言われている。取材では、その中心人物とされた青年に話を聞くことができたが、彼によれば、デモを始めた人たちはもともと労働組合の関係者で、自分たちはそこに便乗しただけだという。そもそもの動機が、インターネットの検閲反対だったという青年の言葉から、革命に対する強い意志は感じられなかった。情報技術に関する知識と、若者が持つ権力や抑圧への反発心が、結果的に彼を革命の中心へと押し上げたのだ。革命の立役者とされることに対する違和感と同時に、起った出来事に対する責任感という複雑な心情を併せ持つ青年。彼から感じられたのは、「アラブの春」という言葉のロマンティックな響きとはまた別の何かだった。

 その何かが、もやもやとした状態のまま心に引っかかり、その正体が知りたくて、私はこの上映プログラムのコーディネーターを引き受けた。そして、プログラムタイトルを『それぞれの「アラブの春」』、英題“Another Side of the ‘Arab Spring’”と名付け、視点の異なる7作品を選んだ。これらの作品からは、「アラブの春」という言葉では言い表しきれない何かが見えてくるはずだと信じて。

 序文でエルカシュ氏が触れた5作品のほか、日本の映像作家・大木裕之の『SSS』と、YIDFF2011のインターナショナル・コンペティション上映作品『何をなすべきか』には、その何かを知るためのヒントが隠されていると思う。

 まず、エジプト・マフルーザの路地裏に暮らす人々を描いた『何をなすべきか』。監督のエマニュエル・ドゥモーリスはインタビューで、貧しさのなかでの人びとの日常的な選択について、次のように述べる。「これは確かに些細なことかもしれません。しかし、自身の環境をどのように変えていくことができるかを、自分で考え、実行に移すということは、一つひとつの行為がたとえどんなささやかなことでも、それはすでに革命的な行為だと言えるのではないかと思います」。監督は、被写体に対するある視点を示しながら、個人のささやかな選択が、やがて社会を変えていく可能性を示唆しているようだ。

 また、大木裕之が『SSS』で表現する、〈(作品の)流れと「アラブの春」がどのように連関を持つか、持たぬかのギリギリの探求〉に、私は自らの妄想を重ね合わせる。アーティストとしての大木が、歴史的“事件”を身体感覚の延長として捉えようとする、そのギリギリの試みは、現在の私たちが感じる現実感覚そのものではないのか、と。そして、世界中で国家や共同体の紐帯が徐々にほころびていくなか、安易な物語に身を委ねることなく、どのようにして個を確立し、社会と繋がっていけるのかと、大木は愚直に問いかけているのではないだろうか。

 「アラブの春」をめぐるこれらの作品は、寄る辺なき今を生きる私たちにとって、重要な問いを投げかけているに違いないのだ。

加藤初代(プログラム・コーディネーター)