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YIDFF 2023 特別招待作品

Ryuichi Sakamoto | Opus
空音央 監督インタビュー

聞き手:マーク・ノーネス

「彼のやりたいもの」を共作者として一緒につくる

マーク・ノーネス(以下、ノーネス):まずはお悔やみを申し上げたほうがいいですよね。今日はありがとうございます。なんだか軽々しく立ち入るみたいになってしまうのですが。

空音央(以下、空):かまいませんよ。もう6か月になりますし、インタビューもたくさん受けているので。

ノーネス:撮影をしていくのは大変でした?

空:それほどでも。いろんな人から同じことを訊かれます。もちろん、本人の体調は当時も思わしくなかったのですが、僕らにしても彼がその数か月後に亡くなるなんてことは知る由もありませんでした。このまま現状維持でいけたんじゃないかという感じでしたし。まあ、まだ先はありそうでしたよね。死が必ず来る感じなど本人の周囲にはまるでなく、面倒なことが撮影するなかでいろいろ舞い込むにしても、彼の死が真っ先に念頭にあったというわけでは必ずしもありませんでした。とにかく良い仕事をしようとしていただけでしたね。

ノーネス:ではいま間もないながらも振り返ってみて、今回の映画はおふたりの関係性のなかでどのように位置づけられそうですか?

空:亡くなる前に共作の機会がもてて本当に良かったと思います。そうですね、父が今回の前に出演したドキュメンタリーの『Ryuichi Sakamoto: CODA』(2017)で初めて癌にかかって具合が悪くなってからは、いいコンビが組めていた感じで。このとき監督のスティーブン・ノムラ・シブルは撮るのを中止するつもりでいたんです。ところがそのシブル監督にやめないほうがいいと勧めた人がいて、それが父だった。すごくドラマティックな瞬間だと思いません? 考えてもみてください。ドキュメンタリーを撮っていたらその被写体が癌になる。それはやはり撮るべきでしょう。『CODA』のときは監督がそんなセンシティヴな時期にみだりに立ち入ることはあまりしたくないということで、それで僕がカメラを持って家の中を撮ればいいのではないかという案が出てきたわけです。僕は大学を出たばかりでしたから、要は僕が映画の作り手として父と関わり始めたのはこのときからですね。当時はヴィデオ作品がわずかにあって、それでちょっと撮ってくれないかと僕に声がかかったのでしょう。なにせ父は病気で、見知らぬ撮影隊が大挙して彼の家に押しかけることになるのを制作側も心配していましたからね。関係性についてはそんなところです。

ノーネス:『Opus』の話が出てきた経緯についてもお聞かせください。

空:今回の映画のことは僕らもあたかも共作であるかのようにずっと話していますし、確かにそれはそうなのですが、でもこれは紛れもなく彼のものです。元気があるうちに坂本が自分のやりたいことをやった、というのがこの映画なのですね。本人の病状はどんどん悪化していっていて、ライヴのコンサートをこなせる力ももはやない。どこか遠くに飛行機で出かけて行ってピアノの前に2時間ぶっつづけで座るなんてことは、負担が大きすぎてとても無理でした。ですからこれは彼の発案で、まだやれるうちに最後のコンサートを、ということだった。でもやるなら映画のかたちでやることになるだろう、そうやって1日に3、4曲、計8日間で撮影したものを編集してまとめ、継ぎ目のないひとつのコンサートのようにすることならできるかもしれない、ということで始まったのですね。

ノーネス:曲目のセレクトも当然ながら坂本さんがご自身でなされたわけですよね。

空:その通りです。どうしようかという話は一応して、僕からはヴィジュアル的に一本筋を通すようなものがあればいいかなと思って、一日の時間の流れを光で表現しつつ追うみたいなコンサートにしたらどうかと提案したのですね。つまり初めは暗く、まるで日が昇ってくるかのように明るくなり、それからまた日が下がり夕暮れになって最後には夜に戻る。そしてその先には次の日がある、というような。これは本人も気に入ったみたいで、というのもそのコンセプトは、かねてより彼のなかにあった移りゆく時間の流れに対するこだわりにおおいに反応するものでもあったのですね。まあ、時の移ろいに固執しない人なんていないとは思うのですが。

ノーネス:いやいや、それはもちろん、年を取るにつれてどんどん執着が強くなるのですよ。

空:実は坂本にはこれから世に出る予定の作品がまださらにいくつかありまして、そのひとつがまさに「Time」という題名なのです。高谷史郎さんとともに取り組んでいた一種の演劇パフォーマンス作品ですね。ともあれ、彼は時間という概念のことをかなり気にしていて、それについて深く考えてもいたのです。本人としても、最初のセットリストを作成していくなかで演奏したい曲のおおまかなアイデアは頭にあったとは思います。でもそのあとで一日の時間のような構成にするという僕の提案を聞いて、時間の移りゆきというコンセプトをよりよく表現できるように曲を組み替えたわけですね。実は本人には、こちらにも準備があるのでセットリストはいつもよりもだいぶ早めに決めておいてほしいと頼んでいたんですよ。ふだんの彼なら本番当日まで決めません。本番中でもやることをその場で変更してしまうことで有名だったくらいですしね。それができないなんて今回が初めてだったのではないでしょうか。たぶん撮影の1、2か月前くらいですかね、お願いだから撮影台本がつくれるようにちゃんと手はずを整えてほしいと頼み込んだんです。本人は苦労したと思いますよ。

ノーネス:選曲のことがすごく気になったのは、わたし自身、もう40年近く坂本さんの音楽を愛聴しているからなのですね。

空:なんと。そうなんですね。いやあ、僕より長いじゃないですか!

ノーネス:はい、監督がお生まれになってからの時間よりも長いのではないかと。ところで今回の音楽を聴いたとき、わたし自身が時代とともに、自分の人生を歩むなかで坂本さんの音楽に触れてきた経験とそれが、あまりうまくかみ合わなかったのですね。年代順ではありませんでしたし、それに世紀が転換して以降の作品が優遇されていた。選ばれて再編曲されたものにしてもより柔らかく思索的になっていて、「ソウル・トレイン」[訳注:YMOも出演したことのある米国の有名音楽テレビ番組]で取り上げられる類いのものではありません。また坂本さんは「Merry Christmas, Mr. Lawrence」をラスト直前に配置していますが、彼の手掛けた曲でわたしが最初に出会ったのもこれでした。

空:ええ、みんなが聴きたい曲なんでしょうね。観客に配る飴玉みたいなものです。コンサートでこれを弾いてほしいとみんなからつねに求められていた時期が、かつて彼にはあったわけです。

ノーネス:さぞかし鬱陶しかったでしょうね。でもそれは、坂本さんにとってその経験が本当に重要だったということでもあるのではないですか?

空:かなり鬱陶しく思っていた時期もあったようですが、あるとき彼は自分のお気に入りのミュージシャンがやっているコンサートを聴きに行ったんですよ。とあるフォークシンガーのライヴだったのですが、父が待ち望んでいた曲、そのバンドならコレという曲がそこでは演奏されなかった。最初は本気でむかついていたものの、それからは自分のファンの側の気持ちがわかるようになったというのですね。「Merry Christmas, Mr. Lawrence」が演目の最後に山場として使うことも含め、坂本の演奏レパートリーに復帰したのはそのあとのことです。僕が思うに、これは彼が新たなアプローチに合わせて自分を変えて曲にすべての感情を込められるようにした、ということだったのではないでしょうか。

モノクロの美しさ

ノーネス:坂本さんの最初期の映画音楽ですから、この曲のここでの配置はぴったりに感じられるとわたしも思いました。ところで撮影技法についても質問したいのですが、モノクロにするというのは坂本さんのアイデアだったのですか?

空:それは僕のアイデアですね。

ノーネス:髪の色のせいだったりして(笑)。

空:いやあ、彼が銀髪でなかったら僕もそう選択しなかったかもわかりませんね! 実は仕上げの色調整をしているときも、おお、彼が銀髪で本当に良かったよ、なんて言っていたんですよ。

ノーネス:坂本さんが美しいんですよ。この映画は見事なまでに美しい。

空:ありがとうございます。僕がひとつクリエイティヴな貢献をしたとすれば、それはたぶんこれをモノクロにしたことですね。

ノーネス:監督が称賛されていい部分はそれ以外にもっとありますよ。つまり、とんでもなく才能に恵まれた創作チームを巧みに指揮していらっしゃっていたわけで、その筆頭はもちろんお父上ですが、撮影を務めた人たちもそれぞれ素晴らしい才能の持ち主です。クレジットにAカメ、Bカメ、Cカメとありましたが、これはさまざまな役割のカメラがあった、つまり序列とかそういったものがあった、ということなのでしょうか?

空:そういうわけでもないですね。複数台撮影のときによくある呼び方というだけで、ふつうはAカメが一番格上ですが、今回の場合は実質的な序列はまったくありませんでした。

ノーネス:カメラワークについての事前の取り決めや指示はどれくらいあったのですか?

空:かなりきっちり決めていましたが、即興的に動く余地も十分にありました。どうしたってライヴ・パフォーマンスですからね、予期しないことが起こりうるものなのですよ。最初は撮影のビル・カースタインと僕で、1曲のうちにA、B、Cの各カメラが受け持つおおまかなポイントを考えました。たとえばビルの担当したAカメなら、ひとつの曲の流れを通して3つの決まったポイントをざっと押さえていく。最初のポイントではワイド、それから2つ目としてはドリーを高くして顔を捉え、最後の3つ目はティルトダウンして鍵盤上の手ですね。でもこの非常にざっくりとした構成の範囲内であれば即興的に撮ることはできましたし、ビルも実際そうしています。そしてビルがどう動いても臨機応変に対応し、使われるかもしれない別のアングルをBカメとCカメが捉えることも、とくにAカメのショットがシークエンスを維持していない場合はできましたね。ただ、僕からみんなに伝えたのは、3人ともそうやって撮っているように音楽に対して自然と、感情のおもむくままに反応するのが一番大事ということでした。こうしたことをすべて考慮すると、撮影を任せる相手はかなり信頼のおける人を選ばなければいけなかったのですね。

ノーネス:そうですか。わたしとしては、小田香さんがそこに選ばれているのが気になっていました。彼女のことは日本の若手ドキュメンタリー映画作家のなかでも最良の監督のひとりだと思っているのですが。

空:まったくもっておっしゃる通りです。彼女とは前にも一緒に仕事をしたことがあるんですよ。僕が以前やったもので撮影をお願いしたことがありまして。小田さんがいまや日本屈指の映画作家であるというのは僕も同じ意見です。彼女の手掛けたものを見るとよくわかるのですが、確かな視点があるといいますか、物事にどう目を向けるかとか、カメラを通して見る対象に選ぶ物事のタイプというものが自分のなかにある人なんですね。小田さんのレンズは非常に独特で、彼女の切り取る視覚的な構図にはそうした関心や彼女自身の人格があらわれている。だから僕も、小田さんが坂本や今回の演奏に何を見たいと思うのかを自分でも見てみたいと考えたわけです。

ノーネス:しかも実験的なドキュメンタリーを撮る作家でもありますから、融通が利いてその場で対応しなければいけないCカメとしては完璧な人選です。

空:そうなんですよ。それに、小田さんは別に職業的な撮影技師というわけではありませんよね? ひょっとしたらこれほど大型のカメラを動かしたこともなかったんじゃないですかね。そんな彼女がここに映っているような瞬間を捉え、ただただ自分にとって心から興味のあるショットを撮っていたというのも本当にすごいことですが、その一方で同時に、僕らのチームにはまさしくプロとして自分の腕一本でやってきたカメラマンがいて、彼はきわめて美しく滑らかな動きを捉えて完璧な構図におさめることができたのですね。ビルはいわば画家みたいな人で、まさしくカメラで絵を描くタイプ。なので、とてもいいバランスで撮影の面々がそろった感じでしたね。

ノーネス:では編集についてはどうですか? 大変だったのでは?

空:そんなことはないですよ。川上拓也という優れた映像編集者がいましたからね。川上さんは編集を担当した作品の多くがヤマガタに来ていますし、録音技師としては小田さんとも仕事をしています。僕がお世話になったのは身近な感じの友人グループみたいな人たちだったのですよ。川上さんの感性はすごく信頼していまして、何に目を向ければより興味深いか、どのタイミングでショットを切るかといった優先度に対する鋭い感覚が本当にある人なんですね。それにドキュメンタリーの編集をたくさんしてきた人なので、たとえばちょっとブレているとか技術的に完璧というほどでもないショットでも、その場の状況や感情や何かについてどこか明らかになるようなものがそこにあれば残すということがよくわかっているのです。

コンサートをそのまま琥珀に閉じ込めるドキュメンタリー

ノーネス:昨晩のオープニング上映の挨拶では、本作のことをあくまでも「コンサート映画」であるとおっしゃっていましたね。それで、どうなんでしょう、その考えを観客に強く押し出す感じが、やや予防線を張っているようにも思えたのですが。

空:今回の映画は坂本龍一の最後のコンサートを撮ったドキュメンタリーということになっていて、紹介されるときもそう書かれていますし、なかにはですね、たとえばストーリーがあると期待する人もいると思うんです。これを観て坂本の人生について「学ぶ」ことが何もなかったとがっかりしてしまう人もいるんだってことがわかったのです。

ノーネス:なるほど。その人たちは『ラスト・ワルツ』(1978)が観たかったわけだ。

空:そうなんですよ。インタビューが盛り込まれているとか、まさにそういうのですね。あるいは病と格闘するミュージシャンの舞台裏映像とか。でもそれは今回の映画の意図とは違います。そういう趣旨に応える記事やインタビューならごまんとありますし。

ノーネス:『CODA』もあれば、YouTubeもある!

空:同感です。結局のところ、コンサートをすることが目的だったのですよね。坂本はコンサートがやりたかったわけで、彼がどんな人かはWikipediaを見ればわかります。ライヴのコンサートであれば音楽を聴きますよね。背景の事情やコンテクストをもっと盛り込むかどうかについて話し合うことも少しはありましたが、最終的に僕らとしてはただ音楽を聴かせるだけのもののままでいきたかった。それに、画面上に映る彼の体を見るだけでも「情報」は十分に拾えると思いますよ。

ノーネス:適切なご判断だったと思います。同じコンサート映画の括りでいえば、ちょうどまた劇場でかかっていますが、『ストップ・メイキング・センス』(1984)のような作品の系列ですね。ただ、あれは現在公開されている形態ですと、実際には周年記念ものの映画ですよね。つまり40年前の、解散する数年前のある時期をいま振り返っている――その意味では『ラスト・ワルツ』により近いものになっているわけです。そこで考えたのですが、『Opus』とは、ドキュメンタリーのジャンルのなかでもまだ名前のついていない括りに収まるものなのではないか。つまり、ある人のパフォーマンスをそのまま残すドキュメンタリー、記録して呈示するだけじゃなく、保存して残しておくようなタイプの作品ですね。ラストに「芸術は長く人生は短し」という引用があるおかげで、とくにこういうことを考えましたね。

空:この引用句は、坂本が亡くなったとき、彼のマネジメントをしていたスタッフが声明文を出して本人が好きだった言葉としてこれを紹介したんですね。それは彼の最期のメッセージだった。それで僕らも、この映画のテーマが凝縮されているみたいだということで最後に入れたわけです。

ノーネス:この原典を読まれたことは?

空:ええ、調べてみたら予想とは違っていて。医術のことだとは知りませんでした。

ノーネス:まさにそこなんです。ヒポクラテスの言葉だからですよね。原典ではまず冒頭にこの心つかまれる格言があり、それに続いて、こうしたら体によくないということが何ページにもわたっていろいろと述べられます。ですから「芸術(=医術)は長く人生は短し」は、ひそかに隠れた意味でも『Opus』にぴったりなのですよ。

空:そんな風には考えていなかったのですが、でもそうか、確かにそうですね。

ノーネス:実はこの引用にない残りの部分――病や身体機能の話になる前――も今回の映画向きのものでして、「人生は短く、術の道は長い、時機は逸しやすく、試みには危うさがつきまとい、判断は難しい」と続くのですね。まさしく坂本さんのような芸術家の人生を要約する言葉になっているんですよ。

空:ああ、それは面白いですね。本人も全部まとめて引用したらよかったのに(笑)。

ノーネス:死を間近にした映画作家が自身の生涯に関する何かをそのまま閉じ込めて残しているような「琥珀保存型ドキュメンタリー」とでも呼べるジャンルがあるとして、『Opus』はどうもその傍流に当てはまりそうなのですよ。わたしがここで念頭に置いているのはとりわけ、デレク・ジャーマンの『BLUE ブルー』(1993)や、それからこちらはアニエス・ヴァルダが夫のために完成させたものですが、『ジャック・ドゥミの少年期』(1991)のような映画です。どちらも『Opus』よりは実験的な作風で、ある人物の生涯を言葉や詩やフィクションや音楽からなる水晶体のプリズムを通して省察するものになっていますが、今回の坂本さんについては水晶というよりもむしろ、磨き上げた板ガラスといった趣ですね。すごくダイレクトなつくりで、一点の曇りなき明晰さに徹している。ひたすら忠実に、といいますか。親密な撮り方、林立するマイク、すべてが音楽に生きた坂本さんの人生についての何がしかを、なるべくダイレクトな仕方で捕捉しようとする試みに思えるのですよ。

空:僕の意図としても、そうやってできるだけ余計なものを取り除こうとしていたと思います。

ノーネス:ええ、坂本さんの姿かたちが漆黒の空間のなか、シャープでありながらも光り輝いて浮かび上がりますよね。

空:あれは面白かった。マイクは制作の初期段階ではさらにもっと多い予定だったんです。40本かそれ以上でしたかね。楽曲の音録りに関しては凄腕のエンジニアであるZAKさんに入ってもらったのですが、彼から最初に渡された手描きのマイク配置プランがなんと、ピアノの周囲をマイクでドーム状に囲むという代物だったんですよ。たまらず僕も意見して、残念ですけどこれをやるとなるとカメラを置く場所がないですよと言いました。それで少々すったもんだあったわけですが、当然ながら最良の音を録る必要はありましたからね。でも画のほうだってかなり重要なわけで(笑)。あのときは気まずかったですね。  結局これは坂本サイドの判断に委ねました。アルバム制作のときのようなまっさらな録音にしたいか、それとも映画を作りたい思いのほうが強いのか、ということで。最終的にはこれは、あくまで映画『Opus』のためのセッティングにするという選択になりました。だからZAKさんには、照明を置いてカメラも動かせるようにマイクを減らしてもらえないかと、こちらからお願いしなければならなかったわけですね。問題なく応じてくれましたし、仕事ができる人なので音も素晴らしい仕上がりになりましたけど。

ノーネス:マイクはカメラのために置かれたように見えますが、音のために配置しないとだめなんですね。

空:音のためでしたね。そういえばZAKさんと僕が共通してとくに関心があったのは、録音演奏ではふつう取り除かれてしまう音を捉える、ということでした。息遣いや衣擦れ、爪の当たる音や軋みも全部です。僕らとしてはそれで坂本の身体性が伝わると考えたのですね。また、坂本もZAKさんも音色それ自体よりはその減衰、つまり音が空間全体に拡がってエコーやリバーブを生み出すさまのほうにかなり興味をもっていた。老年期の彼が好んでゆっくり弾くようになったもうひとつの理由はこれですね。ZAKさんにしても、ピアノの一音の響きが共鳴してやがて静寂やノイズになる、そうした非常に微細な遷移を捉えるためにはマイクをどこに置けばよいかについての見極めがとくに上手い人でした。ふたりとも、その合間の時間にこそ豊かな音楽性があると思っていたのです。そこは超高音と超低音の倍音周波が存在する場でもあって、僕にはそれが実に美しく、ほとんど電子音にも聴こえます。実は「Opus」ではこの程度がかなり強いんですよ。

ノーネス:それは映画のこと? それとも最後に演奏される「Opus – the ending」のことですか?

空:曲のほうです。この特定の場所、この特定のピアノで彼の弾く音の組み合わせが、どういうわけかそうした途轍もなく高音域の倍音を生み出している。高周波帯にじっと耳を澄ましてそれを聴くと、本当にオーロラか何かみたいな心地になるのですね。それがとにかく非常に美しい。ある音がその一音だけで自らのハーモニーを生み出すかたちでなかなか消えずに響き続ける。そしてそれは、このマイキングあってこそ聴きとれるものなのです。

ノーネス:確かに、ここでの音と映像を捉える精密さは『Opus』を大半のコンサート映画から分かつものにしていますね。コンサート映画は音は良いにしても、概してヴィジュアル的には粗雑なものになりがちです。デレク・ジャーマンの美しいサウンドトラックは聴いていると思考があらゆる方向に拡散してしまうものですが、本作はそれとも対極にある。ここでは息をのむほど美しく明瞭な音と映像が、坂本さんの身体とそこから生み出される音にピンポイントで焦点を当てています。彼の頭の中の音楽に不思議と触れられる気がするのですよ。たとえば坂本さんが演奏をつっかえて指と頭の連携がとれずにいるという、驚くべき瞬間がありますね。これはどの映画にあっても強烈なんでしょうが、ここではそれが、音と映像の精密さによって実に増幅されていると思うのですね。

空:そうですか。たぶん他のコンサート映画が違うのは観客がいるということで、ですからまあ、それだと他の優先事項に合わせて仕事をしなければいけませんよね。鑑賞体験を台無しにしてしまわないよう観客のことを考慮しないといけないわけで、そのせいで撮影がかなりやりづらくなる可能性はあるでしょう。映画を作る僕らとしては、その意味で今回は恵まれていました。いや、もちろん観客がいるならいるで、そのハコの熱量を含めて別種の感情が撮る側にも生じるとは思いますよ。でも観客がここに誰もいなければカメラは、あるコンサートであるひとりの観客が音楽に引き込まれている、その主観的な経験を表現できると思うんですよね。

ノーネス:ある想像上の観客がいる、と。

空:その通りです。

名づけられないものを翻訳する

ノーネス:これは坂本さんの頭の中の音楽のアイデアを、彼の身体を通して、かつ想像上の観客が受け取るかたちで翻訳する、みたいな話ですよね。実は略歴紹介を読んで気づいたのですが、なんでも監督は、翻訳とドキュメンタリーの関係について考えてもいらっしゃるとか。

空:ええ、実はそうなんですよ。翻訳は映画をたとえるにはなかなか良い比喩なんじゃないかと思うんです。あるインプットないし刺激の集合を能動的に解釈して別のものにするものですし、そこには何らかの構築性がある。やはり僕は主にフィクション映画を作る人間なので、『Opus』の撮影に臨むときもそうした観点からそのことを考えていました。ひとつひとつのショットに対してしっかりとした考えをもち、物語のような構造を想定して撮影に入ったのですね。どう進めるべきかについてのおおまかな撮影台本があらかじめあり、それを詰めていくのに代役でカメラの動きの練習もしましたし、どの曲も複数のテイクを重ねることができました。それらをミックスして編集したわけではないのですが、的確に事を行うための時間が取れたのは贅沢でしたね。こうした贅沢は大半のドキュメンタリー映画の作り手にはありません。的確にするチャンスは一度きりで、その欠陥ゆえによりいっそうダイレクトかつリアルに感じられることもあるわけですが。

ノーネス:いやあ、これまた翻訳みたいだ。ドキュメンタリーの観客が現実世界のある歴史上の瞬間に触れる特権的なアクセス権が自分に与えられていると考えるとすると、それと同じような仕方で翻訳の読者は、書き手の紡ぐ作り物の世界に、あるいは書き手の意図にまでアクセスできていると考える。しかしそこにはいま話されたような、いつもないものとされ、抑圧されてすらいる媒介作用が介在しているわけですね。翻訳者たる監督は、こうした具体的な構築物としての訳文づくりをしておられる。そのなかでいろいろ差し引きしつつ、究極的には新たな経験を生み出しているのです。

空:そう、語り口やアクセシビリティの問題です。僕としては、アクセスはできないとするのが基本的には正しいという立場なんです。

ノーネス:監督は新しくクリエイティヴなものにアクセスしているではないですか。

空:そうですね。この問題についてはペドロ・コスタによる秀逸な比喩があります。彼は映画作家――あるいは映画作家としての自分自身――のことを、手紙を運びつつ別の人に届けるまでそれを読まずにいる郵便配達人に好んでたとえるのですね。僕からすればこれは、いま話しているようなアクセスのことを語っている。手紙の中身にアクセスできなくても他の人に手紙の中身を届けることはできるわけですからね。

ノーネス:どうでしょうね。それでも手紙そのものがあるからそうはいかないという見方もできますよ。手紙はそのままでそこにあり、発送・配達・受取というプロセスは中身に変化をもたらすものではありません。映画では、翻訳でもそうですが、そのなかで新たなテクストを生み出している。創造的な処理と解釈を施し、手を動かしてテクストを作ることを必ずしないといけないのです。

空:それはそうですね。

ノーネス:その過程では、元々あったところから零れ落ちていくもの、そこで新たに生じてくるものがいろいろとある。でも人びとはオリジナルと変わらないものを目の前にしていると考えてしまうわけです。書かれたテクストでも、現実世界の音や映像を写し取ったドキュメンタリーでも、そのことに変わりはありません。

空:ええ。

ノーネス:あるいは『Opus』を視聴する人たちなら、自分はいま坂本龍一の頭の中の音楽にアクセスしていると考える。でもその中間には郵便配達人としての空音央がいて、手紙の書き換えをしているわけなんですよ!

空:そこは音楽では事情が異なるかもしれないところですね。映画と比べると、音楽はそれを生み出す人がそのとき抱いているオリジナルの感情に対してより忠実なところがあるのではないでしょうか。僕は音楽には特別なものがあって、ある人の体内で進行している内的で謎めいたこの事象が、ここにあるような振動や音を通じてすごくダイレクトに表に出てきて伝わることがあると思うのですよ。

ノーネス:興味深いですね。おっしゃりたいことはわかります。でもですよ、『Opus』の音楽を聴けば、そこ――つまり坂本さんの手紙ですね――で起きていることでわたしが取りこぼしているものが絶対いろいろあると思うのです。その頭の中で起きていることが何であれ、それはあらゆる段階でなおも大量の媒介作用を被ります。それに受け取る側には、坂本龍一の曲はすべて知っていて歌詞もすべて読んだことがあり、そこにどうアレンジが加わっているかを逐一気に留めて観る人もいれば、そういうことを全然気にしない人もいますよね。

空:ごもっともです。『Opus』の場合、映像のコンテクスト抜きで音楽を聴くことはできますし、それで坂本の演奏の背後にひそむ感情をある程度つかめている気になることもきっとあるのでしょう。でもそこには彼の顔が映ってもいるのですよ。

ノーネス:そう、顔があるんですよね。

空:たとえば「Merry Christmas, Mr. Lawrence」を弾き終えるところがありますね。彼が曲終わりの和音パートを弾くとカットが切り替わり、その音に耳を澄ませながら演奏する彼の顔が映ります。その音と、このとき彼が見せる非常に奇妙な表情との組み合わせには何かがある。それが何かを言い表すことはできません。苦痛なのかもしれないし、あるいはおいしいものを食べてなんか苦々しい表情をするみたいなときだってありますよね。でもその一方で、我を忘れて恍惚としているようだとも言える。実を言えば僕としては、あの顔と一緒にあの音を聴けば、彼が何を感じているのかについてはかなりのことがわかるし、その感情がダイレクトになんとなく通じると思っているのですね。僕はいつもあのショットを見て、「そういう感じか」ってなるんです。この「そういう感じ」が伝わってくる。そんなダイレクトなかたちでの伝達なわけです。伝達内容は何でもいい。それが何かは僕にはわかりませんから。

 とはいっても、僕らが映画を作ることで間に介在するものはそうと悟られない部分でもかなりある。これは高度に構築されているものなんですね。僕が思うに、翻訳としての映画というこの比喩で重要なのは、よくよく見ていれば自分が彼の頭にアクセスしているわけではないことは結局わかる、という点なのではないでしょうか。僕らがどれだけ目に見えるかたちで見せようとしても――あるいは翻訳者がどれだけ原文に忠実であろうとしても――、受け手が元のテクストを読むことができないなら、それはオリジナルのものにはアクセスしていないということですよね。その人は何かが介在する仕方でのみアクセスしているにすぎないわけです。僕だってこの映画を観るといつも、おいおい、まるで彼の心の動きが感じられるみたいじゃないかって、むずがゆくなりはしますよ。まあ、そういう勘違いではあるんですが。でもやっぱり、本人の顔やその表情の変化にあらわれる心の動きを見ると、それが彼だけのものでしかない完全にアクセス不可能な世界であることはわかるはずなんです。ああした表情は実は謎だらけなんですね。いったい何を思っているのやら、という感じで。それに僕が画面につい釘づけになってしまうのは、他の何よりもこういうところがあるからなのです。でもそれは思うに映画全般に言えることでもあって、映画が面白いのはまさにそこなんですよね。知りたいこと、求めていることには結局、こちらからはアクセスできないのです。

ノーネス:ここではそれはつまるところ音楽なわけで、これがわたしの最後の質問にもつながります。映画のラストのことをお尋ねしないわけにはいかないのですが、というのも、かなり強烈な終わり方だなと思ったのですね。あれはヤマハのディスクラビアを使っていたのですか?

空:この技術の正確な名称はわからないのですが、要するに今回の演奏は撮影用のマイクとは別立てでMIDIでもレコーディングされていたんですね。あれはヤマハのグランドピアノですけど、坂本のものにはこのMIDIデバイスもついていて、鍵盤を叩く強さやスピード、ハンマーの動き具合、ペダルの踏み方などのあらゆるデータがそこに残されていたのです。ものすごく感度がいいものでして。

ノーネス:つまり、この映画はそれ自体が坂本さんの演奏をこれほど見事に記録したものですが、さらに輪をかけてダイレクトというか「純粋」というか、きわめてテクノロジカルな仕方であの演奏が記録されていたわけですか。

空:激しくテクノロジカルですね。理論上は、あのピアノで同じマイクを同じ場所に置いてMIDIデータを再生すれば、そっくりそのまま同じレコーディングができるわけですから。

ノーネス:少し気味が悪い話ですね。

空:かなり気味悪いですよ。それにあのエンディングは予期せぬものでして、そんな風に予備のレコーディングがされていたことは僕らのほうでは気づいていなかったのですね。現場入りしたら坂本たちがMIDIの調整をしていて、それでふと見るとですよ、お化けみたいに鍵盤がひとりでに動いているんです! とっさに「これは撮らなければ」と思いましたね。つまりあれはまったく予定にない、その場の勢いで決まったことだったのです。

ノーネス:完璧な幕引きです。いやあ、わたしなんか思わず泣いてしまいましたよ。

空:(笑)それは良かった!

採録・構成:マーク・ノーネス
翻訳:中村真人

写真:大山彩夏/ビデオ:加藤孝信/2023-10-06
*インタビューは英語で行われ、本記事は英語から翻訳されたものです。

マーク・ノーネス Markus Nornes
ミシガン大学教授。単著に『Japanese Documentary Film: The Meiji Era through Hiroshima』(ミシガン大学出版、2003年)、『Forest of Pressure: Ogawa Shinsuke and Postwar Japanese Documentary』(ミシガン大学出版、2006年)など。共著に『日本映画研究へのガイドブック』(ゆまに書房、2016年)、『日本戦前映画論集――映画理論の再発見』(ゆまに書房、2018年)。共同監督に『ザ・ビッグハウス』(2018/想田和弘監督ほか)。