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YIDFF 2023 アジア千波万波

それはとにかくまぶしい
波田野州平 監督インタビュー

聞き手:成田雄太

最初にカメラありき

成田雄太(以下、成田):本作の撮影と制作のプロセスについて改めて簡単に教えていただければと思います。

波田野州平(以下、波田野):最初は映画を作るということではなくて、2020年の4月の頭から毎日カメラを回すということだけを決めていました。その日撮ったカットを夜に選んでタイムラインに乗せて、次の日も同じことを繰り返すというのを30日間続けて、それを会えなくなった友達たちに近況報告のように送るということをして。それが1年続いて、大体1時間ぐらいの1年間の映像が出来上がったという形になりました。

 同時録音はしていなかったのでサイレントの映像を毎月送っていた。これは形になるのかなと思い見返したときに、大幅に削ぎ落としていくことをすれば映画になるかもしれないと思い、映画にしていったというような感じですね。

成田:それはプライベートといいますか、友達に送る用で、最初から1本にまとめるという想定ではなかったわけですね。

波田野:そうですね。最初は本当にただ撮るということだけを決めました。

成田:友達や近しい人に送っていたバージョンもあるということですけれども、それは撮ったものを日付順に繋げたものだったのでしょうか。それとも月ごとに作品のような形で枠付けていたのでしょうか。

波田野:撮った素材全部を使うわけではないですが、撮った日から順番に後ろにつけて、1か月大体5分以内ぐらいのものにして毎月送っていました。

成田:一日にどれくらいカメラを回すかは決めていらっしゃったのでしょうか。

波田野:いや、全く決めてないですね。カメラを常に携帯して持って歩くということは決めていて。カメラを持つと注意深くなるというか、カメラを持っているから見つけられるものがあるという感じが撮りながら分かってきたんですけど。で、「あっ」と思ったらカメラを向けて回すっていうような感じでしたね。

成田:本作はところどころフィルムのような手触りの映像に切り替わりますが、これはフィルターなどで処理されたものなのか、実際にフィルムで撮影されたものなのか、どちらでしょうか。

波田野:実際に8mmフィルムを回してましたね。

成田:8mmとデジタルを併用されたのですね。その使い分けはどういう形で行ったのですか?

波田野:その8mmも本当に身近にあるものだったので。中にフィルムが入った状態でしばらく置いていたものがあって……もう10年ぐらい入っていたのかな? で、久しぶりに回して現像したものが、もう使用期限が切れているようなフィルムだったので現像ムラが出てきたんですけど、それも面白くて。

 何を撮ろうって決めずに始めたので、とにかくカメラがあるというか。カメラも最初に自分の中で「手持ちで撮る」、「4対3の画角で撮る」、「50mmの単焦点のレンズで撮る」、「同録はしない」ということだけは決めていた。それを決めないと、何かを撮りたいということではないので始められなかったというか。

 カメラの形態によって撮れるものは変わってくると思うんですね。8mmだったらデジタルとも違う。物理的に押してる間だけシャッターが回るとか、コマ撮りができるとか。もちろんルックも違うんですけど。僕の「これが撮りたい」とか「こういう思いがある」っていうよりは、カメラがまずあったっていうか。

成田:カメラに対象を選んでもらうみたいな。

波田野:そうですね。たとえば何かつくろう、何か新しいことをしようと思ったときに、新しいテーマを決めるより道具を変えた方が多分全然変わると思うんですよ。先にカメラがあって、自分の中でルールというか、撮り方を決めたっていう感じですね。なので8mmもそのひとつ。絵画でいうと違う線が引けるというか、違う形だったり違う色が乗るみたいな感覚でデジタルとフィルムをそれぞれ使ったという感じですかね。で、何を撮るか分からないから、とにかく後ろに付けていくという形で、全体は見渡せない制作だったんですね、編集も。どうやって終わるかもわからないっていう。

 ですけど全体の素材が揃った後に、もう一回全体を見渡して少し順番を入れ替えたりとか、そういうことをしたのがこの18分のやつですね。

成田:そこをもう少し掘り下げて伺いたいのですけれども、この完成した作品はただ素材を日記的に繋げたというよりは、中盤以降、徐々に編集の緊張が高まってきて、おそらく監督にとってある重大な出来事の瞬間にひとつクライマックスが訪れるという、非常に見事な構成を持っていると思いました。

 そのようなリニアに繋げただけではない作品としての大きな流れというのは、先ほどのお話だと編集する過程で出てきたような印象なのですが、どの段階で構想が見出されたのでしょうか。

波田野:撮っているときに、回転するものが多く映っていたんですよね。カメラ自体も回転したり、子どもが回っていたり、コマが回っていたり。それがこの映画の重なり合っていくイメージのひとつの軸になるなってことに、途中からだんだん気づいてきて。

 で、ルールのもうひとつ、1年間毎日撮る、春から春まで撮るっていうのも、やはり巡るっていうサークルのイメージになるし。もちろん生と死であったり。そんなふうに、この映画は巡るとか回るっていうことが主題として浮き上がってくるんじゃないかなっていうことが、だんだん自分が撮った素材から見えてきたので、最終的に18分にするときにその部分が強調されるように、巡っていくっていうことが浮き上がってくるような構成にしようとは思いました。

音、テキストそして映像

成田:音についてお伺いします。全編に漂う、滴る水のような音が印象的です。水音を全体に配置したのはなぜなのでしょうか?

波田野:これは、締め切りの日に作ったんですよ。

成田:というのを知ってびっくりしたんですけど。

波田野:映像は18分のが出来たんですね。応募の1年前とは言わないけど、結構前に出来たんですよ。で、サイレントで完成しようかなとか思ってたけど、やっぱりテキストだったり、音でもう少し豊かにできる部分があるんじゃないかと思って。でもなんか全然手をつけずにいたんですね。その手をつけてない時間が良かったとも思うんです、時間の熟成作用みたいなのが生まれて。映像を撮って毎日編集していたときの生な感じよりも、違う意味合いを帯びてくるように見えてくるので。

 (作中の)テキストは1年ぐらい空いたのかな? ちょっと思いついたことはメモったりしていたんですけど、いざどうしようか、これいつ完成するんだっていうときに、山形の締め切りをデッドラインにするしかないと思って。締め切り前日、夜ぐらいからテキストをバーって書いて。とりあえず録ろうと思って夜、車の中に入って静かな部屋を作ってテキストを喋って。テキストも最初、結構抑揚のある声で喋ったりしたんですよ。(完成版は)結構トーンが沈んでるじゃないですか、落ち着いた声っていうか。声も抑揚があると映像も全部がフワフワしちゃって、見ていて全然入ってこないなっていう感じがあって。とりあえず声のトーンは落として、あまり感情が……乗ってないっていうわけじゃないですけど、見えないような形で落ち着いた声にして。音をつけたときに、映像が結構早いから音も声もってなると見てる方は情報量が多くなって大変だろうし、入ってこないかなと思って。

 音も、パンデミック中にレコーダーを持っていたので時々ですけど録ってたんですよね。で、乗せたときに、やっぱり最初に無音からちょっとずつ水の滴る音が始まってくるっていうのが一番しっくりきて。映像と声とサウンドにちょっと隙間があるというか、対極にあるような形になってきたので、これは滴る音をまず初めに入れようっていうことから。水の音をたくさん録っていたのもあったんですけど、映像も水がすごい出てくるし、水の音を通低音に使うっていうのは決まりましたね。

成田:本作の音っていうのが非常に面白くて。音をループさせたりとか、ディレイ、リヴァーブをかけたりとか、自然の音や声がだんだんグルーヴしていくっていう面白みがあると思うんです。

 波田野監督はジャド・フェアとテニスコーツに密着した作品を撮られるなど(『エンジョイ・ユア・ライフ』(2012)、音楽にも強い愛情があるように見受けられますが、本作に限らずサウンドトラックを考えるときになにか気をつけたり意識したりしていることはありますか。

波田野:いや、全然まだまだ意識できてないと思いますし、もっともっとできるなとは思うんですけど。

 テキストに対する意識は前からあって。繰り返しになっちゃいますけど、映像に対しての従になるようなテキストではなくて、お互いが独立しながらも影響しあいながら、どちらかがどちらかを補完するだけじゃなくて、独立もしながらっていう、そういうテキストを作りたいなとは思っていて。

 映画がひとつの箇所に緊張感とともに収斂していくってよりかは、どちらかというと拡散……いい意味で。とっ散らかってると言ったら変ですけども、いろんな方向の中心というか、そういうものにしていきたいというのがあるので。そういう意味でテキストは映像との関係を考えながら作るんですけど、サウンドに関してはそこまで……とは思っていたんですけど、今回は1日しかなかったからもう思い切ってバツバツ切ったり。音もずっと入っていたらうるさいなと思ったんで無音の箇所を作ったりとか。スムーズに音をつけるというより、どちらかというと切断面が見えるような……カッティングをバンバンしていって、カットしたテープをどんどん貼っていくじゃないですけど、そういう感覚でサウンドは作っていったって感じですね。

 作っていて、再生したときに驚くような音の配置であったり、選びであったり。スムーズにふわっと乗れるんじゃなくて、どちらかというとビクッとなったりとか、「あ!」ってなったりとか。そういうようなことを考えました。考えたというか、もう結構勢いで。感覚でしたけどね。

成田:この作品は2020年から21年までの1年間の出来事を記録したとのことですが、見る限り、監督はその間に大きな別れと出会いを経験されてるように思います。差し支えがなければ、それぞれの出来事について語っていただくことは可能でしょうか。

波田野:そう思われると思うんですが、実は別れは経験していないんです。というのは、あれは僕が20代の頃に亡くなった祖母のお葬式を8mmで撮っていたんですね。そのフッテージをあそこに持ってきたっていうのが真相です。

成田:実は1年間以外の素材も使っていた!

波田野:そこだけそうです。で、そこに手の影が入るんですけど、そこでパッと映像が消えて、手だけが残る。僕の中では、あそこで死があったというよりかは、かつて僕の周りを去っていった人たちがいて、もう触れられはしないっていうようなことを映画にしたつもりで。

 パンデミックの期間ってすごく死を身近に感じる期間だったと思うんです。毎日毎日誰かが亡くなっていくことで。それを通して自分の大切な人を思い返したりしたっていうことを「記憶がうたえる」という言葉で表現したつもりなんですけども。あそこで死を経験したというより、かつてそういうことがあったことを思い出して、でも今はもう触れられはしないというような。

成田:私はおぼえている』(2021)も、お爺さまの亡くなられたのがひとつのきっかけになったという話しをされています。

波田野:自分は、作るときには、ほとんど死者と対話してるような気がしますね。今日の野田真吉を見ながらも思いましたけど(YIDFF 2023 野田真吉特集)、僕らの社会は生きてる人たちだけで構成されてはいないと思うんですよね。特にお盆なんか顕著で、死者のために生者が動くというか、段取り作ったりっていうことを考えるとね。それをやらなくなってきているところもあると思うんですけど……そういうことはよく思いますね。

これまでの作品、これからの作品

成田:コロナや死は非常に重いものとしてあって、監督の過去の作品もかなり重い題材を扱ったものが多かったと思うんですが、今作はコロナや死を直接的には描かずに、むしろこれまで以上にのんびりとしたユーモラスな雰囲気というか、純粋に音と映像で遊ぶような、いい意味での軽さがあると感じました。このような軽いタッチは意識してやられたのでしょうか。

波田野:非常に生命力の強いひとがそばに現れたっていうのはでかいし、もうひとり現れたっていうのもでかいですね。だけど本当にあの期間、死が身近にあったからこそ、そのコントラストとして自分の中で美しいものが見たいなって無性に思ったんですよね。だから反動はあると思います。軽さは意識したわけではないですけど、作りながら思いついたことをメモって貼っとくんです。「“いい映画だね”よりも“めっちゃおもろかった”と言われたいな」とか、そう思えるものを作ろうとか。

 今回の映画祭のことになっちゃいますけど、本当皆さん切実な映画を作って……マラソンみたいに一日6本とか見るとめっちゃ疲れるんですけど、その中にも何本か軽さとか笑いとか明瞭さみたいなものがある映画があって。深刻とか重くとか強くみたいなものって、ついつい映画はそうしがちだし多いなってすごく感じたんですけど、そうじゃない軽さとか、そういうものが失われているって言ったら変ですけど、あんまりないような気がして。今回見て、なお僕の気持ちはそっちに向きましたね、天邪鬼な考えで。軽みと明瞭さのあるものを作りたいなというのを思って。

 笑いは大事ですよね。生きていく上で一番大事じゃないですか? 僕は笑いと音楽かなって感じがしますけどね。それがあれば結構なんとかなるんじゃないかというふうに思ったりもして。重くすることって、自分にとってはそんなに……それよりかは軽さとかを追求していく方が自分にとってはチャレンジングだったり、困難があったりすると思うので。それを今後はちょっと、なんて思いました。

成田:それを踏まえて、これまでの作品との繋がりについてお伺いしたいと思います。確かに今作はこれまで以上にユーモラスで軽やかではあるんですけれども、一方で、たとえば『影の由来』(2017)における記憶の再構築、『私はおぼえている』における記憶を残すことや受け継がれる死というテーマ、もっと言えば短編作品での光と影の実験のような、これまでの波田野監督の色々なチャレンジや流れも本作には入っているように思いました。監督自身としては、今回の作品は自分のフィルモグラフィーの中でどういう位置づけだと考えられていますか?

波田野:軽さとか笑いとかっていうものが今までよりも入っていると思うし、今後どうなるかは分かんないですけど、そっちに向かいたいなという気持ちはあるので、その1本目になったらいいなぁとは思うけど……あんまりアテにはならないですね、それは。

 さっき言った通り、あの期間だったからなおさらっていうのはあるし。撮っていて途中から……(作中に)『枕草子』が出てくるんですけど、自分はカメラで『枕草子』をやっているのかなみたいな気持ちになってきたんですよね。カメラを通して「いとをかし」の「をかし」を見つけていく。しかも「春はあけぼの」から始まる4月から。再編集したときに、メモした言葉を貼っていった中に、「いとをかし」からだんだん「もののあはれ」の方に作品を持っていこう、みたいなことを思いついて書いたんですよね。自分にとって新しい軽さとか笑いの部分が「をかし」だとしたら、「もののあはれ」みたいな部分っていうのは、多分、今まで自分が持ってきたもの、今までの映画で見つめてきたものなのかなっていうのはちょっと思います。

成田:今回の作品では、普通の日々のものごと、よく知っていたはずの日々の景色が、編集や見せ方であまり見慣れない、見たことないような景色にどんどん変わっていって、そこがとても魅力的です。もっと言えば、この編集のテンポの絶妙さは、おそらく誰が見てもすごいな、面白いなってなると思うんです。

 改めての質問になりますが、編集のリズムについて意識した部分はありますでしょうか。

波田野:ひとつのカットの長さとか、尺は結構感覚で。感覚って言っても、その中での動き……映ってるものの動きとか、カメラ自体の動きとかで、ひとつのカットの長さは成り立っています。

 で、並べてみたときになんか気持ち悪いと思ったら1コマ切るとか、伸ばすとか。でも、そのカットの尺を決める一番の基準になるのは写っているものの動きと撮っているカメラの動きです。本当に光と動きだけを追っかけていた映画なので、それがリズムの軸にはなっています。

成田:最後にちょっとした質問です。被写体となったお子様や奥様などは、撮影することや作品として今回まとめられたことに対してどのような反応をされましたか?

波田野:娘は「これ面白いのかな?」とは言っていましたね。「みんな喜んでくれるのかな?」って。妻は近しい者として見るから客観的には見られなくて。息子が生まれて僕らはいつまで生きられるのかなって、60何歳のこの子を見られるのかなっていう話をしたくだりがあるじゃないですか。「これはちょっと母親としてはウルッとくるわ」みたいなことを言っていたけど。作ってるときは「カメラばっか回さないで家事して」とか「泣き止ませて」とか言われるんですけど、後になるとあの瞬間っていうのはもうないので。刻一刻と過ぎていく今なので。それがああやって残ってるってことには……で、今2人目の方は僕全然撮ってないんですよ。やっぱりあの期間だから撮ったのかなって思うんですけど。2人目も撮ってよとは言われますけど……そういう反応です。

採録・構成:成田雄太

写真:木村菜月/ビデオ:楠瀬かおり/2023-10-09

成田雄太 Narita Yuta
山形ドキュメンタリーフィルムライブラリー勤務。映画史研究。特に戦前の日本映画史を専門とする。論文に「日本映画と声色弁士」(岩本憲児編『日本映画の誕生』日本映画史叢書15、森話社、2011年)、「「Think Good」に立ち会うために」(『ユリイカ 特集=三宅唱』青土社、2022年12月号)など。