English
YIDFF 2023 アジア千波万波

ナイト・ウォーク
ソン・グヨン 監督インタビュー

聞き手:阿部宏慈

空間との一体化

阿部宏慈(以下、阿部):『ナイト・ウォーク』は、さりげない佇まいが非常に魅力的で個性的な作品です。眠れない人が夢遊病者のように街を歩いているような雰囲気が漂っていました。色彩のない映像で、夜の街の感覚を映し出し、その上に古典的な詩作品を重ね合わせている。ポップな感じのペインティング、手書きの絵を重ね合わせて、風を受けて揺れる並木、伝統的な家であるとか四阿のような建物など、ときには風の動きまで、ちょっと漫画的な場面もある。しかもサイレントで。そういう画作り、映画作りをしようと思ったきっかけ、その意図を教えていただけると嬉しいのですが。

ソン・グヨン(以下、ソン):前作からずっと継続しているのですが、『午後の景色』(2020、YIDFF 2021)は、多くの場所をリサーチして、特に川、弘済川(ホンジェチョン)から漢江(ハンガン)に流れ出る川など、結構いろんな場所をめぐるなかで撮ったのですが、今回は一箇所に焦点を当てました。ひとつの場所で深い時間を過ごすということをとても意識したのと、そこの場所と時間を自分と一体化させていく。あたかも自分が本当にそこの空間で暮らしている。自分の身体とそこの景色が本当に一体化していく、溶け込んでいくといったようなアプローチをすごく意識しました。夜の時間帯ということに関していうと、やはり夜が持つ独特なバイブというのでしょうか。空間だったりとか、夜中にひとりで佇むその感覚、精神的な感覚と身体的な感覚というのがとても重要だと考えています。

阿部:モノクロという選択はどうだったのですか?

ソン:色彩は正確には白黒ではなくて、ブルーのフィルタをかけています。編集のソフトにはたくさんの色フィルタがあるんですけど、個人的には夜、満月、澄んだ日の夜空の色というのは、自分にとってはブルーというふうに感じたので、そのブルーはなるべく再現したつもりでいます。

阿部:まるで実際に我々が夜になると目が色を感じなくなるのをそのまま見ているような感じがしました。絵は誰がどのように描いたのですか?

ソン:ドローイングは自分が手描きして、それをスキャンしてPhotoshopで加工しています。カメラで撮影したモノのイメージは自分にはとても冷たい感覚、あえていうとあまり人間的ではない感覚があって、今回大事にしたのは人間的な気持ち、フィーリングを反映させたいというところでした。ですから、有機的な形で手を実際に動かして描いたものが自分のなかではポイントになっていると思います。

水墨画的映像

阿部:風の動きや四阿あずまや、川のせせらぎを描いたりするそういうイメージが、まるで文人画とか水墨画みたいな古典的な絵画のイメージを私は持ったんですが。

ソン:インスピレーションを受けたという意味では、東アジアの水墨画の影響をとても受けていると思います。とても詩的な画が景色にあり、テキストがポエムだったりするんですけど、それが同じ空間で共存している世界に自分はインスピレーションを受けています。その詩というのが、なにかの長い詩の抜粋であったり、いろいろなパターンがあると思うんですが、だいたいは景色に対してなにかしら関係している。それにすごく刺激を受けています。西洋と東洋を比較してみたとき、東洋の画家は目の前にある物理的なものをそのまま描くのではなくて、その裏側の精神、内なる世界、あるいはその詩の世界を表現しているんだと思います。ある意味今回の作品の試みは、東アジアのそういった内なる世界を表現することに自分が挑戦しているといえます。

阿部:日本語では「文人画」と言います。アマチュアの文人、詩人やなんかが描いたり詩を書いたりするのですが、詩の文章そのものも自分でお書きになったんですか?

ソン:詩自体は自分が手書きで書いているんですけど、詩作品はハングルに直したデータベースがあって、そこから抜き取って使っています。

阿部:その詩ですが、たとえば金誠一(キム・ソンイル)の作品だったり、あるいは正祖(チョンジョ)の『弘斎全書』なども引用されていますが、李氏朝鮮時代の文人たちの作品を基本にしようと思ったのはどういう理由からなんですか? 

ソン:全部が李氏朝鮮時代の作品ではありません。実際はその前後とかの時代のも使っているんですが、まさにその時代の国王、正祖が文化に対してとても寛容であって、とても文化を大事にしていたルネサンスのような時代だったということがまずひとつ言えると思います。

 はじめは、実は自分で詩を書いていたんですけれども、なかなか自分を撮影した映像と自分の詩がなかなかマッチしないので満足はしてなかったんですね。同時にいろんな参考資料として先ほどの時代の詩とかの本も読んでいました。そういったなかで、中国の「月」をテーマにした昔の詩も読んでいて、自分のなかで感じるものがありました。ある夜、その日は撮影はしていなくて、ひとりで散歩をしていたときに岩に佇んで小川を見ていたら月がそこに映り込んで、いきなり月と小川と自分が、その空間に一体化した感覚があったんです。そのときに、先ほどお話ししたブルーという感覚がまず生まれ、自分のそのときのなんとも言えない情緒的なというか芸術的な感覚というのが、まさに今まで自分が参考で読んでいたその李王朝時代の詩にとても通じると。

阿部:たしかに「月に叢雲」というか、月があってそこに雲がかかっていくような場面が実に見事に捉えられている気がするんです。ああいった詩の感覚というのは、一般の韓国の観客にとっても馴染み深いものなんですか?

ソン:よくわかりません。面白い例でいうと、全州(チョンジュ)で上映したときの観客の反応は実はあまりなかったんです。ところがロッテルダムで上映したときはすごく大きな反響があったので、西洋でもそんな月の景色が、ある意味普遍的なものとも言えるのかもしれないです。

阿部:映画的にいうと、とにかくフィックスでずっと撮っていて、それをつなぎ合わせていくという手法をとっておられるわけです。あえて言えば、それは文人がというよりはやはり映画的な素晴らしさというのを逆に私らは感じたわけです。 場所がひとつのところ、ソウルの郊外の洗剣亭(セコムジョン)でフィックスで撮りながら構成をどのように最終的にエディティングしていったのかというところを教えてもらいたいんですけど。

ソン:まず撮影した期間が5、6か月ぐらいで、いろんなイメージを撮っているんですけど、実は同じ対象をさまざまなアングルから撮っているものが多いんです。なぜなら、今回の映画に関していうと、時間の経過というものが実はまったく重要ではなくて、あそこの空間、ある一夜の出来事としてひとつの決まった時間、決まった空間をなるべく自分は表現したかったんですね。夜がもたらす独特な感覚を内なる表現として、時間、空間、すべてが一体化する。もちろん月とかいくつか時間が経つシーンは入れてはいるんですけど、やはり自分にとって一番重要だったのは、時間ではなくて一体感、その空間ということです。

リズムと編集

阿部:季節が少し変わっていってるんじゃないかなと思いながら、クロノロジカリーに季節を追ってるわけでもないようにも見えます。そのへんは編集の段階で、たとえば場所で決めていったのか。どういうオーダーでそこのところを決めていったのですか?

ソン:今回はそもそも音を使っていないので、何を基準にするかというと、編集のリズムというのがすごく重要だったと思います。ただ、ルールとかパターンみたいなものはまったくなくて、リズムを考えたときに、たとえばまったくフィックスの、何も動いていない画があるとしたら、その次にはなにか動いている画を入れるとか、あとはたとえばミディアムショットで撮っているフレームの画があれば、次はロングショットを入れてとか。要は、詩的で感覚的なリズムをすごく意識して編集したとは言えると思います。あと、カット編集ですね。今回セリフも音もなにもないので、どこでカットする、どこでつなぐということは結構重要だったと思います。そこに対してなにかルールやロジックというのは特になく、あくまでもリズムをすごく意識していました。

阿部:人間が出てこないで、その代わり、たとえば猫なんかが出てくるわけですよ。あれがすごくチャーミングなポイントになったりしているような気がするんですよね。あれは狙ったんですか?

ソン:先ほどの、リズムと言った意味で、動くものとして猫。実は犬も2匹ほど登場しています。

阿部:先ほどまさに聞きたいと思ったのは、この映画は韓国あるいは日本ではまだあんまり上映されていませんが、東洋の観客とそれからヨーロッパあるいはアメリカなどでの上映での観客の反応については、どんなふうにお考えになりますか?

ソン:そうですね。アジアとたとえば西洋の観客の違いについて特に自分がなにか思い当たることはあまりないんですけど、面白いというか、毎回必ず最初の質問というのは、なぜサイレントにしたのかということは結構聞かれます。ですが、アジアとヨーロッパの観客についてなにか大きな違いがあるかというのはあまり感じたことはなくて。自分がすごく緊張しやすいのでQ&Aとか登壇したときに緊張してあんまり覚えていないということもあるかもしれません。

阿部:このような質問されたくないかもしれませんけど、COVIDの影響があって家のなかに閉じこもらざるを得ないという世界的な状況のなかで、そこである種、かつての文化みたいなものを振り返るという側面と、しかしそれを決して単に懐古的なノスタルジアとして描くのではなくて、これは私の感覚で申し訳ないけど、ポップな感じで、今まさにこの時代に生きる人間としてそれを描いているように見えたんですね。そのへんのことについては、もしコメントができるようであればお伺いしたいんですけども。

ソン:言われてみると、まさにコロナのときに撮影をしていたのと、あのときみんながマスクをしていた。それを自分はまったく撮る気はなかったですし、だから夜を選んだのかもしれないです。本当にそこはいま言われて思った感じなんですけども。もしくは潜在的に自分は意識はしてなかったけども、なにかしらコロナの影響があったので、自分の近所の限られた空間に目が行ったというのはあるかもしれないです。

阿部:『ナイト・ウォーク』を初めて観せていただいたときに、私なんかもまさに同じようにコロナでステイホームしている間に古い本を読んだり、あるいは古い映画をヴィデオやDVDで観たりしながら発見していたというその体験と重ね合わせて、すごく共感するところがあったんですよね。

 大変素晴らしい作品をありがとうございます。次のプロジェクトにも動き出しているかと思うんですが、それについても教えていただけると嬉しいです。

ソン:実はですね、山形に来る前にすでに撮影は終えていまして、戻ったら編集を始める予定です。一応長編映画になります。これまでの作品の大きな流れを継続しているという意味では、変わらないんですけども、ただアプローチの仕方は完全に今までと違う方法に挑戦してみたいと思っています。自分とその景色、空間が一体化するといった感覚を今回の作品では出してたんですけど、次作では逆に自己をどこまでなくせるか。カメラを通して見た瞬間にやはり自分というものがそこには入ってしまうんですけど、自分の視点やカメラの視点、人間中心の視点を、どこまで排除できるか。はたしてそれができるのかどうかということも含め、それがテーマとなっています。それをとことん突き詰めていきたいと思っています。それはある意味、先ほどお話しした水墨画ですね。描き手が自分が表現したことを描いているというよりは、そこにある景色や自然自体からイメージが現れてくるというような……。内なる世界と外の世界の境界線をどこまでなくせるかといったことが、おそらく次作の大きなテーマになります。

阿部:非常に難しいテーマでしょうが、大変興味深い企画だと思います。ぜひ楽しみに待ちたいと思います。

採録・構成:阿部宏慈

写真:村上悠輝/ビデオ:佐藤寛朗/通訳:谷本浩之/2023-10-08

阿部宏慈 Abe Koji
山形国際ドキュメンタリー映画祭理事。東北大学文学部卒、同大学院博士後期課程中退。20世紀のフランス文学、特にマルセル・プルーストの研究、ドキュメンタリー映画の理論的研究を専門とする。著書に『プルースト 距離の詩学』(平凡社、1993年)、共訳書にジャック・デリダ『絵画における真理』(法政大学出版局、2012年)など。