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YIDFF 2015 インターナショナル・コンペティション
いつもそこにあるもの
クロエ・アンゲノー 監督インタビュー

日常を探求する眼差し


Q: 広角の固定カメラによるショットで、家事などの日常的な動作が繰り返され、そこにある種の美しさを感じました。

CI: フィックスショットの積み重ねについては、他のやり方というのは考えられませんでした。空間が、ある意味ひとりの登場人物として、彼女たちと同じくらいのレベルで作品のなかに見えてほしかったのです。繰り返される日常の動作というのは、単なる実用的具体的な理由以上に、瞑想的な意味をもっている。つまりその動作が自分のことを見つめ、考える、自分自身の鏡のようになっているのです。その無意識的な動作の繰り返しが、次第に宗教性すら帯びてきて、空間が、たとえばお寺や教会のような、聖なる場として立ちあがってくる。日常の平凡な動作の繰り返しが、その繰り返しによってある種の超越性を獲得するのだと思います。

Q: 引きの構図で物語ることを基本とする中で、アップショットを用いるのはどのような時だったのでしょうか?

CI: この映画は家族についての映画なのですが、家族全体についての映画にしたいとは思いませんでした。

 家族というのは独立的な個人の集まりであると考えているので、ひとりひとりの個性を際立たせたかったのです。また、彼女たちはあの家に5人で生活している以上、物理的にはひとりになることはできません。しかし周囲から隔離されるということは心理的には可能なのです。彼女たちはその時、自分の周りに自分の空間を作り出している。それが伝わったら良いなと思います。

Q: ベッドに寝たきりの祖父は、フレームの中に時折登場しますが、その表情は読みとれず、また家の女性たちは誰も彼について言及しません。彼をどのような存在として描いたのでしょうか?

CI: 彼は進行性の病気のため寝たきりで、病状は次第に悪くなっていきました。しかし、それをひとつひとつ追うことは私たちの表現したいことではありませんでした。ただ、部屋からベッドが消えることで、常に部屋の中に存在していた彼が亡くなったことを知るとき、彼の存在が、ある種の重石として家の中に在ったということが浮かび上がってきます。彼の死後、パトリツィアは歯の矯正をしたり、髪型を変えたりして新しい人生を歩み始めます。

Q: 登場人物たちは皆、カメラの存在を感じさせないくらい自然に振る舞っていましたが、監督と彼女たちの関係はどのようなものだったのでしょうか?

CI: この映画は撮影に6年間かかっており、彼女たちとは撮影以外の時間も長く共に過ごしています。時間をかけて築いた愛情や信頼がありました。

 また狭い空間に5人で住んでいるので、お互いに目の前に人がいてもある程度無視する、距離感をとる習慣があったと思います。共同監督であるガスパルはこのことを次のように表現しました。「ある意味私たちは彼女たちの末っ子で、彼女たちにとっては、その末っ子が部屋の隅でカメラで遊んでいるにすぎない、という感覚だったのかもしれない」。

 お気づきかもしれませんが、この映画は日常を描いているにもかかわらず、食事のシーンがありません。それは食事の時間になると、パトリツィアが「一緒に食べなさい」と、カメラの前に湯気の立った鍋を持って来るので、撮ることができなかったからです。イタリアのお母さんにとって、食事は神聖なるものですから。

(採録・構成:宮田真理子)

インタビュアー:宮田真理子、山根裕之/通訳:藤原敏史
写真撮影:稲垣晴夏/ビデオ撮影:福島奈々/2015-10-12