english
YIDFF 2011 公開講座:わたしのテレビジョン 青春編
テレビに挑戦した男・牛山純一
畠山容平 監督、藤本美津子(製作)秦岳志(編集) インタビュー

“伝説のテレビ・ドキュメンタリスト”への挑戦


Q: 完成まで10年かかったと聞きましたが、どんな経緯があったのですか?

藤本美津子(FM): 2000年から、映画美学校のドキュメンタリー・ワークショップで、自由参加の“牛山純一研究”を、佐藤真監督が企画して、私と畠山さんを含む5、6人で続けていました。その後、佐藤さんが亡くなったりいろいろあって、10年経ってしまいましたが、そろそろ完成させないとと思って、山形映画祭を目標に、畠山監督とプロの編集マンの秦さんに入っていただいて、この1年でぎゅっと進行しました。

畠山容平(HY): 佐藤さんは、テレビという公器の中で、作家の存在を主張し、ドキュメンタリーを作り続けた先人、ということで牛山純一に興味を持ったようです。一方で、日本映画監督協会のメイキングも撮られて、メディアについての関心をドキュメンタリーに収めていきたい、という思いがあったと思います。亡くなることでそれがついえた部分があり、両方に関わっていた僕としては、そこを考えたいというのが、この作品を仕上げる大きな動機でした。

Q: 60年代の「ノンフィクション劇場」を話の中心に据える、という作品の方向性は、どのように決まっていったのですか?

HY: 牛山さんの人物像は、同じ現場にいても、語る人それぞれの立場によって、まったく違うんですね。取材するうちに、知ることは知ったという感じはありましたが、映画では意図的に踏み込まなかった部分もあります。おもしろいエピソードでも、僕たちの責任で扱える範囲はどこまでだろうとか、そのなかで、表現として試せるぎりぎりの境界線はどこだろうとか、そういう葛藤や試行錯誤がありました。

秦岳志(HT): 私は畠山さんが牛山さんの何に魅力を感じて、10年も手弁当でやっているのかが知りたいと思い、編集はその接点を見つける作業でした。ふたりでインタビューを聞いていると、畠山さんは、60年代のテレビの作り方がうらやましい、と言うんです。私からみると濃厚すぎて、距離を置いてしまいますが。たぶん、皆さん夢を持ってどんどん前へ、という時代だったと思います。その時代の雰囲気と、牛山さんのやってきたこととはまさにリンクするということで、「ノンフィクション劇場」を中心に、どんどん勢いがついていった上での挫折、というのを作品のキーポイントのひとつにしました。

Q: テレビの未来についての議論を、ラストシーンに持ってきた理由は何ですか?

HT: この映画は、終着点がなかなか見つからなかったんですね。牛山さんが亡くなる前のエピソードを入れて、墓の前で終わろうか、という構想もありました。話し合いの中で、過剰なところを外して、本編とは少し次元の違う話にしたんです。

FM: この映画で描いた牛山さんの思いのようなものを、自分たちがどうやって受け継いでいくか、という話しか、最後に持ってくるものはなかったですね。メイキング風なものを入れるという案もありましたけど、遊んでいるみたいで、絶対に反対したんです。

HY: 僕は最初、あのシーンはいらないと思ったんですけど、何回か見ていくうちに、自分たちも主張しなきゃいかん、と思ったんです。主張して、現代に繋げる部分を出さないと、観ている人には届きづらいかなあと。言いたいことをぶらさずに、自分の中で整理がつかない部分をすべて外した結果、今の形になったのだと思います。

(採録・構成:佐藤寛朗)

インタビュアー:佐藤寛朗、川口肇
写真撮影:川口肇/ビデオ撮影:川口肇/2011-09-30 東京にて