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審査員
斉藤綾子


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●審査員のことば

 今年の山形国際ドキュメンタリー映画祭はオンライン開催になった。多くの人がなんとか縮小した形でも対面開催できるのではと期待していただろう。だが、東京オリンピック後の全国での感染爆発が広がっていることを考えれば賢明な選択である。新たな挑戦によってスタッフにとっては大きな試練を引き受けることになったが、今まで山形に来ることができなかった多くの人々にとっては朗報に違いない。

 「コロナ禍」が始まって早1年半。映画業界の打撃は計り知れない。映画製作の現場も大きな転換を強いられていると聞く。今や、映画を劇場で見るよりストリーミングで見るという人が多数派になりつつあり、学生が映画をスマホで見ると聞いて衝撃を受けたのはもはや過去のこと。映画を「視聴する」といういい方さえ、すでに市民権を得ているかのようだ。だが振り返ってみれば、私たちは長い間映画をテレビで見ることに慣れていたし、撮影の機材もどんどん小型化し、スマホで撮影したりすること自体もはや特別ではない。それは国家による暴力行為、自然災害、人災などさまざまな状況下で強いられた選択であることも多い。35ミリや16ミリカメラが、ビデオカメラが、iPadが、スマホが武器となり、目撃者となってきたのだ。

 パンデミックが全世界で猛威を振るう現在、変わりゆく世界で、変わりゆく技術とともに、変わりゆく人々の生活において、映画も変わってゆかざるを得ないのだろう。パンデミックだけでなく、巨大国家、軍隊、過激な原理主義による暴力的統治が激化し、デモで抗議をあげる人々を抑圧し、無力化させている。アルジェリア、チリ、南アフリカ、カンボジア、パレスチナ、ルワンダ、光州、天安門、シリアで起きたことが香港、アフガニスタン、ミャンマーで起きている。大島渚はかつて「敗者は映像を持たない」といったが、フィクションであれノンフィクションであれ、映画は、権力がどれだけ映像を操作しようとも、現実を、歴史を完全に抹消することはできないことを証明してきた。同時に、映像は個という小宇宙からも世界の光と影を描き続けてきた。本映画祭はこうした映像の積み重ねをずっと見届けてきたのである。

 パンデミック下で文化芸術の持つ意味が問われているといわれる。だが、意味はただそこにあるのではない。私たちが見つけるのだ。人々は記録として、語りとして映像を必要としてきたし、これからもそれは絶対に変わらない。ドキュメンタリーは作られ続け、私たちはそれを見続ける。変わりゆく世界でどのように映画を見るべきか。「審査する」のは私ではなく、私自身が「審査される」ことになるだろう。


斉藤綾子

明治学院大学文学部芸術学科教授。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)映画テレビ学部大学院博士課程修了、PhD。専門は映画理論、特にフェミニズム映画理論、精神分析映画理論。ソウル国際女性映画祭審査員。あいち国際女性映画祭コーディネーター。共編書に『映画女優 若尾文子』(みすず書房、2003年)、『男たちの絆、アジア映画』(平凡社、2004)、『映画と身体/性』(森話社、2006年)、『横断する映画と文学』(森話社、2011年)、『可視性と不可視性のはざまで  人種神話を解体する1』(東京大学出版会、2016年)ほか、“The World Viewed by Wang Bing”(『藝術学研究』23号、2013年)、“The Politics of Listening and the Narration of Trauma in Sakai Ko and Hamaguchi Ryusuke's Tohoku Trilogy”(『藝術学研究』26号、2016年)、“Kinuyo and Sumie: When Women Write and Direct” in Tanaka Kinuyo: Nation, Stardom and Female Subjectivity, eds., I. González-López/M. Smith (Edinburgh UP, 2019) など。