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ヤマガタ・ニューズリール!

圧力下のニューズリール


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 この短いエッセーをミシガン大学の図書館で書いている。30年ほど前、学生のグループがこの図書館の外壁を使って、ニューズリールの映画を定期的に上映した。ここは付近の住宅と「ダイアグ」と呼ばれる大学構内の広場の間にある人通りの多いところで、現在でもこのダイアグで、ほとんどの政治デモ行動が行なわれる。私は最初にこの話を聞いた時、彼らが図書館の外壁をスクリーンとして使ったことに強い衝撃を受けた。スクリーン(壁)は、世界中から集めた知識を蓄積した図書館の内部と、一般常識やそれを形成した政治への異議を唱える束の間の介入で美しく装われた外部との境界となっている。図書館の中にある本は読者に読まれるのを待っていたが、壁に映し出された映像は、道行く人をとらえて彼らの注意を引き、その当時の最も差し迫った問題について、一般に受け入れられているのとは違った解釈を示し、観客に、世の中に出て行って世界を変えるよう促した。

 アラン・シーゲルがサブ・カタログのエッセーで述べているように、ジョナス・メカスがニューズリールの最初の会合をナグラで録音したということは、彼らがニューズリール運動の歴史的重要性を認識していたことを示唆する。しかし、このエピソードが物語る歴史的重みにもかかわらず、ニューズリール関係者とアメリカ以外で同じような活動をしていた者たちが、運動が芽を出し始めたこの時期に、お互いの存在に気づいていたかどうか、それまでの先駆者たちの存在をどの程度知っていたのかは、はっきりしていない。いずれにしても、こうした運動は前例がなくても起こっていただろう。闘いの中にある時、人は手元にある武器の重みと、それを使うことに伴う危険を考える。そして現在に生きながら、未来について考えるのである。このエッセーは、ニューズリールの存在を、より大きな時間と空間の中に位置づけようとする試みだ。

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 まず、ニューズリールは際立って現代的な現象と考えられるべきだ。前世紀は、政治的な紛争と抑圧の例が多く見られる時代だったが、そういう時代は、必ず他と異なる生活スタイルや、新たな組織のあり方を求める闘いを引き起こすものだ。多くの人々が集まり、変わり続ける人々の集団の中で体制への反対を叫び、都市空間の中でプラカードや垂れ幕を掲げて行進する。それは集まり、時として自らの意思によらず消えていくシンボルの、ねじれた形での集合だった。近代においては、体制に反対するこうした意見は、印刷技術、タイプライター、謄写版といった、あらゆる新しいメディアによって記録、配布された。極端な場合には、表立たず、後に残らない伝達方法であるゴシップや落書きなどに頼る人もいた。20世紀には、最も現代的で新しい芸術の形である映画が、反対意見を唱え、新しい生き方を模索し、同じような考えを持った人々に行動を起こさせる新たな方法を提供した。

 映画が発明されてから、このような可能性が実現されるまでに数十年を要した。1920年代後半には、「武器としてのカメラ」というメタファーをモットーに、貧しく抑圧された者たちの代弁者がカメラを手に取った。ソ連の映画作家たち、中でも特にジガ・ヴェルトフと彼のキノキが手本となった。カメラとプロジェクターを載せて田舎を旅した彼らの移動式電車は、その後の数十年、アクティヴィストたちと政府にとってのモデルとなった。しかし、彼らを取り巻く状況は革命後であり、資金も十分にあった。これは決定的な違いである。

 恐らく、ソ連の影響よりも重要だったのは低価格で小型のカメラとプロジェクターが市場に出回ったことだ。これは新たに起こりつつあったレジャー時間の商品化ともいうべき現象の比較的小さな側面だった。少し発想を飛躍させれば、コダックやパテーなどが製造したこれら中産階級のための新しいおもちゃを、体制に異を唱えるためのメガフォンや、広く散らばった名もない同志たちの間に新たなネットワークを編み出す道具として使えた。ニューズリールのような集団は世界中で発生した。発端は恐らく1928年に発足した日本プロレタリア映画同盟(プロキノ)で、まもなくドイツ、韓国、アメリカなどが後に続いた。これら政治色の濃いグループは、政府による弾圧、または人の組織について回る厄介な問題のせいで、わずか数年後に解散するまで、映画を作って配給した。1940年代と1950年代は、この種の集団的な映画製作活動は、ほとんど鳴りを潜めていた。この時期の代表は、政治活動に熱心だった個人の映画監督たちで、多くの中で2人だけ名前をあげるなら、亀井文夫とヨリス・イヴェンスがいた。

 ニューズリールと、1930年代に同じような活動をしていたグループを比べると分かるのは、圧力が必要だということだ。1960年代後半には、世界の多くの場所で革命の可能性と思えるような状況が起こり、これも加わって、再び圧力釜の中のような状況ができていた。こうした波乱の中で、ジョナス・メカスがマンハッタンで少人数のフィルムメーカーを集め、ニューズリールが誕生した。この地域に映画製作の才能が集中していることと、さまざまなオルタナティヴ映画に16mmフィルムが使われ始めたことを考えると、ニューズリールは起こるべくして起こったと言える。

 この最初の会合に、日本のフィルムメーカーが出席したことは特筆に価する。おおえまさのりがニューズリール誕生に立ち会ったことは、政治活動としての映画製作が新たな段階に入ったことを示すものだ。1930年代始めに、アメリカの労働者農業写真同盟が日本のプロキノについて知り得たことといえば、『実験映画』誌に載った、たったひとつの短い記事を通してだけだった。どちらもお互いの作品を配給することはなく、ましてや見てはいなかった。これと対照的にニューズリールは、最初の会合の時から国際的な側面を持っていた。同じようなグループが世界中で自発的に発生したが、当初はお互いの存在を知らなかった。例えばニューヨークのニューズリールは、2年前に東京で小川紳介と学生たちがまったく同じようなグループ「自主上映組織の会」を創設したことなど知るよしもなかった。しかし1930年代とは異なり、輸送と通信技術が大きく進歩していたので、ニューズリールのネットワーク活動はすぐに世界的な規模に発展した。さまざまなグループが機材やプリントの交換を始め、お互いの作品を配給し、世界中の闘争をネットワークでつなぐ働きをした。遠く離れた映画集団による作品は、見る者に強い印象を与え、それはニューズリールの映画を見た日本の高校生による以下の感想にも表れている。

「自国の警察国家のおそろしさを身にしみて感じたのである。ところで日本においてはどうであろうか? 政府は米軍・自衛隊の基地を静寂とうるおいの生活の中に設置し、警察国家の中のもとに政治権力を利用している。当然若者たちは、反抗と反権力の雄叫びをあげ、自由と人間性解放の為にパリ五月に呼応したのである。そしてその炎は、羽田、横須賀、佐世保、三里塚――へと燃え移り、又新たなパリの反乱を再現させるであろう予震はとりとめもなく現在も尚続いているのである。」

 私たちはこれらの映画に対して、これと同じような感情の高まりは感じないかもしれない。しかしニューズリールや、彼らと同じような活動をしている海外の団体は、私たちに幅広く“関係”について考える機会を与えてくれる。それは過去と現在、映画とビデオ、映像メディアとインターネット、オルタナティヴとメインストリーム、政治と美学、制作と受け手、集団と個人――といった関係だ。この秋、山形では考えられるべき議題が多くありそうだ。


阿部マーク・ノーネス

ミシガン大学準教授。YIDFF '91「日米映画戦」、'93「世界先住民映像祭」、'95「電影七変化」のコーディネーターを務める。


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