『地の上、地の下』
エミリー・ホン 監督インタビュー
アクティビズムから映画制作へ
――このプロジェクトはどのように始まったのですか?
この映画の制作は、2008年に、私がタイとミャンマーの国境に引っ越したときから始まりました。当時は、人生のうちの長い歳月をそこで過ごすことになろうとは、考えてもみませんでした。2007年の「サフラン革命(ミャンマー反政府デモ)」の際、ニューヨークで学生運動に関わっていましたが、ニューヨーク在住のミャンマー人の友人から、地元の抗議活動に参加しないかと誘われたのです。私はすでに、学生運動のオーガナイザーとして積極的に動き回っていましたので、もちろん友達の誘いに応じ、その後にニューヨークの亡命難民コミュニティと関わるようになりました。大学卒業後、タイ・ミャンマー国境沿いに移り住み、そこで映画に登場する団体のひとつ、カチン開発ネットワークグループの活動家と知り合いました。当時の私は、まだ映像作家ではありませんでしたが。映画の制作を始めたのは、ミャンマーの民主改革期である2016年からです。
――映画を制作するきっかけは、どのように生まれたのですか?
私が人類学の大学院生として、ミャンマーとタイの国境に戻ってきたとき、研究だけではなく映画も撮りたいと考えましたが、具体的にどのような映像にするかは見当がつきませんでした。疑問と発見の渦中にいたのです。転機が訪れたのは、カチン開発ネットワークグループのツァジー氏と話していたときのことでした。ツァ氏は、ロックバンド「BLAST」のミュージックビデオを見せてくれ、このミュージックビデオがいかに「ミッソンダム計画」に対する、地元の人々の抵抗運動に火をつけたのか教えてくれました。熱気とエネルギーに溢れたそのミュージックビデオに魅せられました。
――アクティビストと映画監督、先立つのはどちらですか?
長い間、私は将来の職業として、アートか政治活動のいずれかを選択しなければならないと考えていました。私の母はアーティスト、画家なのです。だから本当にアートの道に進みたいのか、その答えはわかっていました。母の苦労を見てきたからこそ、アーティストとしてキャリアを積み上げることは容易ではないと理解していたからです。私はアクティビストとしての道を選び、それがタイ・ミャンマー国境沿いに拠点を移すきっかけになりました。そこで地元の団体と関わり、その団体に貢献しうるのか確かめたかったのです。その後、人類学のトレーニングを受けたときに初めて、政治とアートを地続きにさせる方法があると気づきました。政治とアートの世界を映画で繋ぐなんて、今となっては当たり前のように思えるでしょう? こうしたふたつの世界を繋ぐ道に、障壁がないとは言えません。誰もが山形国際ドキュメンタリー映画祭で上映できるわけでもありません。しかし、映画は少なくとも、政治的な意図をもって芸術作品の一片を作り上げる機会であり、長時間にわたって真実を伝える手法です。だからこそ、私はシネマ・ヴェリテに興味を抱くのです。私の映画について、民俗誌学的な映像制作だとみなす人もいるでしょう。私の映画は、長期間に及ぶ、コミュニティとの深い共同作業によるものです。ただカメラを持って、初めて出会うコミュニティに入り込むだけの映画作りには興味がありません。納得して映画作りをするまでに、何年もの時間をかけて、コミュニティ内での信頼関係を構築すべきだと考えています。この映画の制作は、長期にわたる共同作業となりましたが、とりわけ外部から来た者が撮影をする上では必要不可欠だったと思います。私はカチン州の出身でも、ミャンマーの出身でもありませんから、このような過程を要したのです。
政治は日常生活の一部であるために、映画全体に政治的な要素が深く埋め込まれているはずです。ゴダールだって、「映画は政治的に作るもの」だって言っていたでしょう? 映画の中の政治的な要素が、必ずしも「大文字の政治」である必要はないと思っています。私は、ひとつの観点だけから物事を映しとるような、プロパガンダ映画には関心がありません。しかし、私の映画には「小文字の政治」が全体に通底しています。つまり、単なる啓発的な映画ではない点が、アートとしての映画だと位置付けられる所以でしょう。
――執筆よりも、映像制作の方が優れている点はなんでしょうか?
今日の上映中に考えていたところでした。こんなにも多くの方々が私の映画を見ているなんて、いまだに現実とは思えません。書籍や論文を執筆する研究者としては、自分の文章を誰かが読んでくれることを期待しますが、一体誰が読者なのか知ることはできません。しかし映画の場合、一度の上映で何百もの人々が鑑賞してくれるのです。素晴らしいことですよ。さらには、上映後に観客と言葉を交わすこともできますね。
それから、人間関係の構築といった側面でも優れています。映画の場合、より多くの協力者を募ることができますし、そうした共同作業のプロセスをより透明に、かつ明瞭にできます。共同作業の中でカットを一緒に確認し、フィードバックも得られます。映画制作と比べると、地元のアクティビストたちに自分の原稿を読んでもらうことははるかに難しいです。書籍を著す場合、調査における協働のプロセスは捨象されることがしばしばあります。論文の場合、たいていは研究者が単独で執筆するので、ただひとりだけが業績を認められるということになってしまいます。
共同制作のプロセス
――撮影チームはどのように集められたのですか?
多くの幸運に恵まれて、自然の流れでメンバーが決まっていきました。最初は資金に限りがあったので、メンバーはそこまで集まりませんでしたし、そして資金もないのに誰かに助けを求めたくありませんでした。そういうわけで、当初はほとんど独力での撮影となりました。機材も持っていましたからね。私は撮影監督でありながら、同時に音声も担当しましたが、理想とは程遠いものでした。インタビューも自分でしていたし。その後しばらく撮影を続けているうちに、単独ではなしえないと気づきました。
撮影チームを組み始めたのはそのときですね。私は3名のカチン州出身の映像作家と作業しましたが、みんなミュージックビデオ以外の撮影経験がほとんどありませんでした。この映画が、メンバーにとって初めてのドキュメンタリーとなったのです。メンバーとの共同作業は、素晴らしい経験となりました。その後、マギー・ルミーアとジャーナンツェンの2名のプロデューサーも加わりました。私たちは信頼関係を築き上げ、それぞれが別の時間に、異なる役割を引き受けました。そして今、強大な「インパクト・チーム」が結成されています。私たちのチームには、影響力のあるプロデューサーや戦略家としての役割を担う、3名のカチン州出身の女性たちがいます。チームのうち何名かは、女性のリーダーシップに関する課題に焦点を当てており、また別の何名かは環境問題に取り組んできた背景があります。私たちはなるべく多くのアジア女性の代表者を入れるように努めました。
――映画監督として、現地の男性中心的な社会システムにどのように対応しましたか?
どの地域であろうと、家父長制は社会的な課題だと思います。ミャンマーに限った話ではないでしょう? しかし以前、ミャンマーで短編映画を2本撮影した際に、私は女性であることで余計に目立ってしまいました。撮影するだけでも目立つでしょう? 撮影者はカメラの後ろにいて、あちらこちらに動く必要がありますね。しかし、被写体となる人々はそれに慣れていないし、快く思わない。現地の人々はすぐに私を怪しく思うだろうと、覚悟をしていました。
もうひとつは、人類学者として言えることですが、私はカチンの女性とは立場が違うのです。もしカチンの女性がこのようなプロジェクトを立ち上げるとしたら、彼女たちはおそらく、まったく異なる障壁に直面するでしょう。外国からきた者として、私はある程度の特権をもっています。ときどき「男性たち」の一員になることだってあるでしょう? ロックバンドと一緒にいるときなんかは特にそうでしたね。私はそうしたアプローチや男性的な精神性を引き受けなくてはいけません。私自身の闘いを選択しなければならない瞬間があるのです。でも、写真や映像に興味をもった若い女性たちをサポートできるのなら、力になりたいです。というのも、時代がこれだけ進んだにもかかわらず、映画業界がいまだに男性優位であることは、私自身よく知っていますからね。
――非常に協働的なプロセスを経て、映画が完成したようですね。これまで、監督としての責任と、メンバーからの要求の間で、緊張が走る場面はありましたか?
心当たりがひとつあります。カチンのロックバンドやNGOのメンバーに、映画作りへの協力を求めていたときのことです。私は、「音楽で協力してくれる方はいますか? ストーリー作りを手伝ってくれる方はいますか?」と声をかけながら、話し合いの進行役をしていました。すると、誰かがこう尋ねてきたのです。「そういえば、監督は誰がやるのですか?」って。もはや監督が誰なのか認識されないほど、私は映画制作が協働的であるよう努めていました。そのときに私は、「共同製作者」と「監督」のバランスをとらなくてはならないのだと思い直しました。みんなにプロジェクトへ参画してもらいたいとしても、自らが監督であることを怖がってはいけません。なぜなら結局、ポストプロダクションの段階になって、監督には他の誰にもない力があると明らかになるのですから。どんなに協働を志向したとしても、最終的には自分が権限を行使する立場にいると自覚しなければならないのです。本を書くときも同様ですね。
かつて、「複数名による映画(“The Multiply Produced Film”)」と題した、初めての映画制作についての記事を書いたことがあります。その映画はアクティビストのみならず、ニューヨークの労働者たちとの共作だったのです。そのときに、どんなに私自身が共同制作者でありたいと願っても、最終的に映画は商品化してしまうと学びました。映画で金儲けをしていようといまいと、その映画が人と人との関係性から疎外されたモノであることに、変わりはありません。人は映画監督が映画製作で財をなしていると思うかもしれません。映画制作のあらゆる段階で、できるだけ多くの対話を重ねて、多くの教訓を得ました。
今、目の前で起こっている事柄に集中する
――あなたの映画では、複雑であったり、ほとんど知られていなかったりする人々や場所を取り上げています。何について説明し、あるいは暗示し、そして捨象するのか、どのように決めていますか?
ドキュメンタリー映画監督なら、誰もが編集の段階で直面することですね。何を説明し、何を説明しないのか。何を文脈として提示し、もしくは提示しないのか。そして、受け手である観客をどれくらい信頼するのか。大多数の人々が知らない場所についての映画だと、より一層難しいです。映画を見てくれる人たちは、ミャンマーやクーデターについて耳にしたことがあるかもしれない。もしかすると知らないかもしれない。では、どのように対処するのか? 私たちは映画の初期カットを何度も作って、多方面の方々から示唆に富んだフィードバックをいただきました。しかしその多くは、「これは、あれは、何について?」とか、「あれこれについて、もっと説明してくれないか」といった内容になりがちでした。人々はより多くの文脈や説明を求めていたのです。こうしたプロセスの中であることを発見しました。それは、作中で説明や文脈を提示すればするほど、観客はより多くを知りたがるということです。
実のところ、私は観客のみなさんに、居心地の悪さを覚えてほしいと思っています。その居心地の悪さは、まだ出会ったことのない人々やコミュニティと深くつながるための、重要なきっかけです。だから映画が終わるまでに、観客のみなさんが映画に登場する人々と深く繋がることで、個人を知ることがコミュニティや政治運動を理解するための基礎になると、気づいてもらいたいです。
――ストーリーはどのように書かれたのでしょうか? 撮影後、あるいは撮影と並行しながら考えたのでしょうか? どのような作品に仕上げるか、事前に大まかなアイデアがあったのでしょうか? それとも、上映してフィードバックを得る中で、ストーリーを再構成していったのでしょうか?
ストーリー作りが、直線的なプロセスだったとは言い難いです。資金調達のための助成金を申請するときには、当然ながら「このようなストーリーにします」と伝える必要があります。しかし現実は、目の前で展開される事柄に立ち会うほかありません。編集チームのソフィー・ブリュネから学んだのは、映像編集は手元にある材料で作業するので、他のどのアートよりも彫刻に似ているということです。撮影した映像を凝視すると次第に映像そのものが自分に語りかけてきます。私たちはシネマ・ヴェリテを作っているのだから、カメラで捉えた場面を軸にストーリを構成していきます。台本を書くのではなく、シーンに合う映像を探す。編集作業を彫刻とするならば、撮り溜めた映像の中から主題となる瞬間を見つけなければなりません。火が灯るシーンはその一例で、私のお気に入りでもあります。撮影の時点で、このシーンが作中に含まれることはわかっていました。
映画の主人公たちが映画制作の過程を知れば知るほど、より力強いストーリーを紡ぐことができます。私はそうやって多くの素晴らしいアイデアを得ました。たとえば、漁の場面を取り上げたこと。最初は漁の様子を撮るなんて考えもしませんでしたが、映画では漁の場面がいくつか登場します。漁期ではない季節の撮影もあったので、魚が映らないといった課題もありました。それでも、みんな漁の様子を見せたがっていましたし、それを私も理解していました。漁という営みは、ダムの建設によって脅かされている、自然と人間の繋がりの一例なのです。だからこそ、その様子を作中で見せる必要がありました。このように、映画制作の多くの部分は、会話や集団的なプロセスを経ています。
――2021年にミャンマーで起きた軍事クーデターは、映画の完成にどのような影響を及ぼしましたか?
私たちは撮影を中断し、クーデター後に撮影を続けるかどうか話し合いました。当時、ミャンマーに拠点を構えていたプロデューサー、ジャーナンツェンとは何度も話し合いを重ねました。「ところで、無事でしたか?」とか。 冒頭の命名式といったシーンは、基本的にリモートで監督していました。命名式に関しては、政治的にデリケートなシーンではありませんが、私がその場にいられませんでした。チャレンジングな撮影でしたね。
――作中のアニメーションも非常に効果的でした。どのように思いついたのでしょうか?
映画のオープニングは、映画制作者たちがもっとも頭を悩ますところです。私は、地図の制作を担っていたアニメーターとアイデアを出し合って、より野心的なアニメーションの挿入を考えはじめました。最終的に、アニメーションのひとコマひとコマに何ヶ月も要したため、より現実的なものにせざるを得ませんでした。私たちは、姉妹だと伝わるふたつの川の物語に焦点を当てようとしました。アニメーションは魔法のようですね。カメラでは捉えられない、想像上の世界だって作り出せるのですから。
――カチンは何十年にも及ぶ戦争を経験し、人々が戦争と共に生きてきた場所です。戦火の渦中にあるコミュニティの物語を捉えつつも、戦争を映画の主題としない今回の映画をどのように捉えていますか?
私たちは、2016年から2021年までの5年間という、ミャンマーの歴史の中でも特異な時期に撮影を行いました。振り返ってみると、その時期のミャンマーは、多くの希望で溢れていたように思います。しかしカチン州では、そうした希望は常に戦争という現実によって抑えられていました。映画の中で、特にアウンサンスーチー氏に関する歌を通じて、そのような状況を伝えています。当時、世界では、スーチー氏をどこか「偉大な指導者」とみなすきらいがありました。しかしカチンの人々はすでに、政治的対立の解決とカチンで続く戦争は、スーチー氏の優先事項ではないと知っていました。そうした事柄は、彼女の関心外だったのです。この映画では、非常に複雑なストーリーを伝えようとしていますが、一度では多くのことを伝えられません。
カチン州の戦争に関する映画はもっと制作されるべきだと思っています。しかし、私たちは今回、戦争にどこまで踏み込んで、どこで踏みとどまるのかを決断しなくてはなりませんでした。編集の過程で、戦争に踏み込めば踏み込むほど人々は混乱し、より多くを知りたがるようになります。結局のところ、私たちの主たるストーリーラインはダム計画と、それに対する抵抗運動だったので、難しい選択を迫られていました。戦争は現実の一部であり、日常生活の一部であり、そこに暮らす人々の一部でもあります。バンドの奏でる音楽は、そのことをより際立たせています。彼らは環境問題だけでなく、戦争や避難生活に関しても多くの詞を書いています。しかし本作では、先ほど述べたような難しい選択を余儀なくされました。私たちは、戦争に関するシーンはわずかな瞬間にとどめ、ストーリーの主題としては見せないようにしました。
いま、この映画についての書籍を執筆している最中ですが、そのことも映画制作の助けになりました。しかし、ある程度はミニマリストになる必要があります。本で表現できることでも、映画では不可能なことはありますし、その逆もまた然りです。私が執筆に取り組んでいる、国境地域の連帯に関する本では、映画とは異なり長いスパンで歴史を論じることもできます。どのような内容が映像に適しているのか、その決め手は「感覚的民族誌(センサリー・エスノグラフィー)」に当てはまるかどうかです。私は、アーンスト・カレルという素晴らしい音響デザイナーと仕事しましたが、このような協働は本の執筆では不可能でしょう。こうした取り組みは、映画だからこそできるものです。作中の風景をよりいきいきとさせるために、私たちは5.1chサラウンドを用いました。これによって、映画でしかなし得ない、感覚的な風景を作り出すことができたのです。音楽を感じられることも、映画の進行に役立ちました。
――観客に基本的な情報を伝えるために、ニュースシーンを挿入していますね。どのように、挿入するニュースの量を決めたのですか?
映画のある部分で、とても長いアーカイブ的なシーンがありました。そのいちシーンで、私たちはすべての歴史を伝えようとしましたが、うまく行きませんでした。その後、素晴らしい編集チームを組みましたが、メンバーの誰一人としてミャンマーを訪れたことはなく、ミャンマーに関する知識もありませんでした。編集メンバーのような外部の視点は、先日したアーカイブのような場面を、より明確にするのに役立ちます。私たちが使える最小限の素材で、なおかつストーリーを進めるのに使える要素は何なのか。こうしたふたつのバランスをとる手助けをしてくれたのが、編集チームでした。私もコミュニティの部外者ではありますが、5年間も撮影を続けていると、映像やストーリーに入り込み過ぎてしまいます。だからこそ、編集メンバーの視点が必要なのです。
――現地の言語的多様性には、どのように対応しましたか?
何年もビルマ語を学んできたにもかかわらず、この映画に取り組んでからはまったく役にたたないくらい、大変でした! 例えば、バンドのメンバーはカチン語を誇りに思っているので、ビルマ語を話したがりませんでした。ビルマ語が私たちの唯一のコミュニケーション手段でしたが、彼らはビルマ語の使用を好みませんでした。状況にもよりますが、インタビューを行う場合、他のメンバーを頼っていました。しかしインタビュー以外は、わからないことや、正確には理解できないままで済ませるしかありません。
しかし、繰り返しにはなりますが、これはシネマ・ヴェリテなのです。私は会話をコントロールしたいわけでもありません。もし私が言語を解していれば、特定の話題をするように会話を促したかもしれません。だからこそ、言語の障壁はさほど大きな問題ではありませんでした。それよりも、編集作業に苦労しましたね。5名の翻訳者がほぼすべての生映像に字幕をつけてくれました。
――次の映画の計画は立てていますか?
すでに、次のプロジェクトのための調査を行っているところです。当初は、この映画の後に、次の映画を撮るエネルギーが残っているかわからないと思っていたのです。今回の作品に取り組んでいて、この映画が自分の赤ん坊のように思えてきたのですが、実際に映画の制作中、実の子どもが生まれました! 映画が先に完成するとばかり思っていましたが、我が子の誕生の方が先でした。それほど、映画制作は長期にわたる旅でした。そういうわけで、まだ次回作に取り組む準備ができていません。本音を言うと、かつて取り組んでいた、ビデオインスタレーションの仕事に戻りたいと思っています。以前に短編映画「私のアートのために(“For My Art”)」を制作しました。それは、「エスノシネ・コレクティブ」のメンバー、ミアサラ・ライとマリアンジェラ・ミハイと共同で監督した、2チャンネルのビデオインスタレーション作品でもあります。こうしたヤンゴンの女性パフォーマンスアーティストとの協働は、最高の経験となりました。
次のプロジェクトの舞台は、私の祖国である韓国です。こちらもビデオインスタレーション作品で、画家である母とのコラボレーションでもあります。それから、母方の先祖のルーツがある村に帰る機会にもなっています。夏に、その村を訪れたところです。「最終的にどんな作品になるんですか」って? いえいえ、まだ始まったばかりですからね。
採録・構成:ラウル・キーク、今村真央
翻訳:早崎智香
写真:佐藤寛朗/ビデオ:加藤孝信/2023-10-10
*インタビューは英語でおこなわれ、本記事は英語から翻訳されたものです。
ラウル・キーク Laur Kiik
東京大学博士研究員 https://www.tc.u-tokyo.ac.jp/members/6477/
今村真央 Imamura Masao
山形大学教授 https://www-hs.yamagata-u.ac.jp/faculty/teacher/db/teacher_52/