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YIDFF 2023 アジア千波万波

確かめたい春の出会い
タイムール・ブーロス 監督インタビュー

聞き手:川口隆夫

――お元気ですか。今日は雨になりました。

 雨を見ることができて本当によかった。

――そのことをお聞きしたいと思っていました。今日の雨はいかがですか。

 特に素晴らしいですね。というのも山形に着いてからずっといい天気で、思ったより暖かかった。それがようやく昨日からちょっと変わってきた。昨夜外に出て立っていたら雨が降り出して、その中を少し歩いたんですが、とても楽しかった。

――それはよかった。『Sound of Weariness』(2021)という作品でも雨の音について語っていらっしゃいます。

 ええ、そうですね。この映画の撮影でインタビューをしたある人も雨の音について話していました。ただそのシーンは最終的にはカットしてしまったんですけど。でも僕も雨の音が好きです。なんというか、聞いてると落ち着きますよね。またそれとは対照的に、稲妻の音について語るシーンもありました。

――ああ、稲妻。

 つまり雷(かみなり)ですよね。雨の音と一緒に雷も聞こえて、それもまた心に沁み入りました。

――ところでその『Sound of Weariness』という作品は、まだ拝見していないんですが、インタビューを読み、写真も拝見しました。カメラをコインランドリーの洗濯機の中に入れて、その中からガラスの扉を通して見える外の様子を捉えていました。あなたはその近くにいてマイクを持っている。これはとても面白いアイディアだと思いました。

 あの映画はベルギーのブリュッセルで撮りました。

――修士課程のプログラムで行かれた旅のことですね。

 そうです。2年間にわたるプログラムでした。

――2年間も。

 修士プログラムの一環で、詳細は省きますが、映画祭の企画のような感じもありました。まず、リスボンから始まって、ブリュッセル、ブタペスト、そしてリスボンと廻りました。

――リスボンからブタペストへ行って、それからブリュッセルへ行かれたんですよね?

 はい、その後またリスボンに戻りました。ずいぶん詳しいんですね(笑)。その通りです。その旅の終わりのリスボンで今回の『確かめたい春の出会い』を撮ったんです

――ずいぶん長い旅でしたね。

 2年前のことで、僕の人生の中でとても重要なときだった。とても特別な旅でした。

――僕もリスボンは何度か行ったことがあります。最初は1989年、それから98年、2009年、2012年、そして直近は2016年でした。

 ずいぶん行ってますね。

――僕はダンスをやっていて、ツアーで廻るんです。

 なるほど。パフォーマンスアーティストで、しかも批評家でもある?

――批評家ではありません。だから人にインタビューをするというのも、不慣れです。

 僕も得意ではないです。

――ざっくばらんなおしゃべりという感じでいきましょう。

 それがいいですね。

――リスボンはお好きですか?

 最初はうまく馴染めなかったですね。その後2都市を廻ってまた戻った。初めて訪れる町だったので少し戸惑いました。同時に僕の国で経済危機が始まった年でもありました。以前から大変だったんですが、正式な危機の始まりとされた年です。

 ちょうどプライベートでもいろいろあって、最初はリスボンに溶け込める感じがしなかったんですが、最後に戻ったときには親しみが感じられるようになりました。とても光に溢れた街だなという印象でした。

――光に溢れた……

 明るくて太陽がまぶしくて、心の落ち着く街。

――哀愁もありますよね。ある種、古風な雰囲気の街です。僕の大好きな街です。あの雰囲気の手触りをはっきり覚えていますが、ヨーロッパの他の都市にはありません。リスボンは特別です。あの特別な手触りが、あなたの映画にもありました。日程が合わず、劇場での上映を見ることができす、残念です。ごめんなさい。

 いえいえ、問題ありませんよ。他の作品までチェックしていただいて、とても嬉しいです、感謝します。

――あなたが映画の中に捉えたその手触り、光で僕はリスボンのことを懐かしく思い出しました。なんというか、ゆっくり、というか、「ゆっくり」というのが適当な表現かどうかわかりませんが、とても柔らかな……

 そうですね、「激しさ」というのとは違いますね。

――確かにそうです。

 リスボンは時間の流れの中で止まっているようにも感じられます。それでも世界とのある関係を保っている。他の人にも同じように感じられたかどうかはわかりませんが、僕には、他のパラレルな現実と少し距離を取ることのできるチャンスだと思ったんです。

 2度目にリスボンにやってきたとき、この映画もそのときに撮ったんですが、他のパラレルな現実と、つまりレバノンの危機、父の病気、そしてコロナ、そういった現実からリスボンは少し離れたところにあるような気がしました。映画ではリスボンの持つそうした他のパラレルな現実との距離を捉えてみたいと思ったのです。

 また、このリスボンの無時間性は、この映画のテーマである「不確かさ」を考えてみる上で、ぴったりの街だとも。「不確かさ」、そう思いました。

――リスボンに着いてから映画のテーマやシーンのアイディアを思いついたのですか?

 即座に思いついたわけではありません。「不確かさ」というのは僕がずっと以前から関心を持ち、取り組んできたテーマです。でもそこに着いてみると、もともとはその言葉から始まったのでないということに気がついたんです。この映画は、実はもう少し前に話の発端があります。実はリスボンに着くより前から始まりました。この映画にはフィクションの要素もあります。

――映画のタイトルはそのときに?

 『Encounters on an Uncertain Spring(確かめたい春の出会い)』、実は父の病気の知らせを聞いたのは、ブリュッセルにいたときでした。緊急に薬を見つける必要がありました。薬を探しているとき、なんというか、急に気力が湧いてきたんです。矛盾していますが、この薬を見つけなければいけないということが、僕に元気を与えてくれた気がしたのです。それはリスボンまで続きました。リズボンに着いたら、「Uncertain 不確かさ」という言葉、それについて映画を撮るというアイディアは、この薬を見つけるというミッションに関係しているとわかりました。

 ただその後、薬を探すということだけの映画ではないことに気がつきました。そのほかにも何かあるかもしれない。それはいったい何が僕に元気をくれるのかとういことと関係しているのです。

 ブリュッセルで薬を探し始めたとき、どうして僕は突然元気が出てきたのか。人は何かやらなければいけないことがあるとき、急に物事が確かなことに思えてくる、迷いがなくなるというか。生きていて何かとても深刻なことが起きたとき、他のことはもうどうでもよくなると感じたりします。この問題と比べたら、他のことは逆に不思議と安心する……

 誰かが亡くなると、それはもちろん悲しいけれど、それと同時に、その他のことはかまわなくなる。思い切り悲しんでいいんだと思えれば、それで少しほっとする。当時、僕はこうしたフィーリングを言葉にすることがまだできていませんでした。

 でも、その後、ブリュッセルとリスボンの僕の部屋の壁にポストイットを貼り始めました。その部屋には窓がなくて洞窟のような感じでした。ポストイットにはそれまで感じていなかった、いろんな事柄を書き込みました。それから、その時自分の身の回りで起こっていたことをなんとか理解しよう努めました、それは僕にとっていいことでした。

 父のことがあり、同時にレバノンも大変な情勢でした。それに加えてコロナも。それで、そうした状況は何かの周りを回っている同心円のようだと思いました。この映画の中心にあるのはどんなことなのだろうと考えました。

 その後です、「不確かさ」という言葉に行き着いたのは。そうしてこのプロジェクトは「不確かさ」を探し求める旅となりました。薬は不確かさということに対する隠喩的な解毒剤となりました。つまり、この映画では同時にふたつのことが起こるのです。

――薬が見つかったという知らせは、滞在の終わりに来たのですか?

 いえ、もっと前です。実は僕の姉が見つけてくれました。僕には見つけられませんでした。というのは、ポルトガルの医療制度のせいで、その薬を手に入れることができなかったのです。でも僕の滞在が終わる前に姉が見つけてくれました。実はかなり早い時点で。それほど急を要していましたから。映画の中の話の流れは実際と少し違います。フィクション的な要素が入っています。

 この薬の話というのは、もちろん本当の話ではあるんですが、もうひとつ別のテーマを導き出すための口実、あるいはマクガフィンみたいなものだと言えるでしょう。薬のことはとても重要なトピックだったんですが、映画は「不確かさ」といういテーマの周りを回る同心円として展開していきました。そこから、この構成を支えるどんな「出会い」があるだろうかと考え始めたのです。

――そこで出会いを求めて街を歩き始めたのですね。

 そうです。

――出会うのがとても上手ですね。映画にはたくさんの出会いがありました。とても美しい出会いが。もちろんそれらは全部、1日のうちに出会ったわけではないですよね。

 いいえ。出会いにはいろんなやり方がありました。こんな出会いが欲しいなとあらかじめ準備をして出かけることもありました。もちろん、その時には映画のメインテーマはわかっていました。「不確かさ」のいろんな形を描くこと。かなり初期段階から、不確かさのスピリチュアルな側面を捉えたいというのと、それとは反対にとても具体的な、はっきりとした出会いも求めていました。それから、より形而上的な出会い。いろんな出会いがありました。ときには仕掛けも必要でした。つまり、それらの出会いが全部1日だけで出会えたのではないということです。

 僕自身が演じる影のようなキャラクターを登場させるアイディアを考えていました。あてもなくふらふらさまよい歩く人。その途上で人や出来事に出会う。夢遊病のようにさまよい歩く人。このキャラクターの存在は重要で、不確かさと関係があるんです。

――どこにたどり着くかわからないままに歩いた?

 決まったルートというのを最初から設定していたわけではありません。

――歩くままに決まっていった?

 はい。とは言え、当然、そうばかりではないです。映画の演出として、ときには出来事を恣意的に起こさなくちゃならないんです。でも、すべて作り事というわけではない。そして、できるだけ不確かな部分、少なくともコントロールしない部分を残そうとしました。計画にはなかったこと、偶然の瞬間が起こるように。

――何がいちばん予期しなかった出会いでしたか?

 そうですね、神父さんとのくだりが僕的にはいちばん面白かったです。このプロジェクトのパートナーのニコやルカも同じ意見です。最初に教会を突然訪ねていったときには、もちろん 入れませんでした。でも2度目に行ったときには入ることができました。あの鐘を誰が鳴らしているのかが知りたかったんですが、実は無人の鐘楼でした。人をイメージして会いに行くと、誰もいなかった……

――マジックみたいですね。

 本当にそんな感じがしました。でもとてもがっかりしました。

 びっくりしたし、おかしくもあったんです、それで、映画監督としてこれはとてもいい面白いレッスンになりました。映画の中のキャラクターとして、計画になかったことを受け入れながら演じました。コントロールできないことを受け入れるというのは大切なことですよね。

 これは僕のこれまでの作品の中でもっともコントロールされていない作品となりました。有機的に撮ったとも言える。脚本は撮影を進めていく中で書きました。この映画はそういうふうに作られる必要があったと思います。不完全なところもあって、その弱さや脆さを含んでこのフォルムがあるんだと思います。

 しかし、それを受け入れるのは簡単ではありませんでした。映画監督として、また映画の役者として、そして映画作りを学ぶ学生としての自分にとって。役者は予測できないことにも対処しなくてはいけない。未知のこと、コントロールできないこととうまく付き合っていくのが大事なんです。

 あ、すみません、これもう話しましたよね。喋りすぎだったら止めてくださいね。

――僕もリスボンにいたときにLGBTの人権を求めるデモに参加したのを思い出しました。丘の上の公園でスタートしたんですよ。

 丘の上の芝生のあるところ? どこだかわかりますが、この映画のデモは違いました。

――デモ行進がどこで行われたのかなと考えていました。
――映画の中であなたはいろんな場所に行きますよね、でも、それがリスボンの中のどの場所なのか、あまりはっきりとは見せません。観光地的な特徴を見せることを避けようとしたのですか。

 はい、そういうのもありました。先ほどもこの映画を撮るのにリスボンはぴったりだったと言いましたが、同時に、それは他のどの土地でも起こりうることだと思います。この映画を撮りたいと最初に思ったのは、ブリュッセルにいたときでした。だからブリュッセルで撮ることもできたんです。あるいは他の都市でも。

 もちろん、リスボンにはあの特徴的な、癒されるような雰囲気がありますが、僕の関心はむしろそこで起こる具体的な事実にありました。出会いそのものは必ずしもその土地柄とかを反映していなくてもいい。デモ行進はより政治的な場面ですよね。

 あなたのさきほどの質問ですが、デモはアラメダ大通りの公園だったと思います。その街のそのときの状況には関心がありましたが、リスボン特有のものとして見せようとしたわけではありません。デモ行進に出かけていったのは単なる偶然ではなく、僕の左寄りの政治的信条によるもので、それは映画にも表れています。

 スピーディで忙しい都市の生活様式、ネオリベラルなライフスタイルとは逆行するものです。僕が演じている人物は、ゆっくり時間をかけて人や出来事と出会います。現実では誰もそんな時間はない。

 神父さんと出会うのはそれほど難しくはなかったけれど、わざわざ会いに行ってばかばかしい質問をいっぱいして、そういった他愛もないことが僕は好きです。普段の生活ではそんな余裕も時間もないようなことを、この人物がする空間を作りたいという欲望があったのです。

 そういった小さな喜びがあって、この映画にはどこか快楽主義的な側面があります。日常生活の中の小さな喜びといったものを描こうとしました。僕たちはもっとこうした時間を持つべきだと思います。

――たとえば、昼寝をしましたよね。

 そうです。昼寝のような非生産的なこと。

――シエスタですね。監督はいつもシエスタしてますか。

 ええ、します。父も。あなたは毎日昼寝しますか。

――ちょっとした昼寝ならします。

 どのくらいの時間?

――最近はちょっと体調が悪くて、小1時間くらい。でも普段は30分くらいでしょうか。

 そうですね、30分くらいがちょうどいい。シエスタは映画のひとつの側面。コーヒー工場のオーナーとの話や漁師さんたちもまたもうひとつ別の側面を成しています。

 漁師さんたちは労働者階級で、工場長のヘレナはブルジョワですね。両者は違います。またデモに参加していた人も。僕は映画の中でこの労働というものも描かれるべきだと思いました。不確かさの周りを星座のように巡るさまざまなこと。僕は労働が語られるといいなと思いました。

――お父様の話も思い浮かびました。お父様とは仲がいいのですか。

 はい、性格はかなり違うんですが、とても仲がいいです。

――50代ですか、それとも……

 66歳かな、いや68かも。僕は26歳です。

 父と僕は共通する点もありますが、性格はずいぶん違うと思います。

 ただ、ふたりとも楽観的です。父が僕よりもっと楽観的ですね。違った人生を歩んでいますが、その違いについてはふたりとも了承しています。ただ、もっとも違うところは、この映画でも描こうとしていますが、もっと深いところというか、言ってみれば信仰、あるいは楽観主義なんだと思います。

 それがこの映画の出発点です。父は不確かさにうまく対処できるのですが、僕はこの映画を撮った時点ではそれができませんでした。

――お父さんの具合は……

 おかげさまで元気です。

――よかった。薬が効いているんですね。

 はい。

――それは何よりです。

 病気がわかってからずっと父の前向きな態度にとても驚ろきました。

――まだ仕事を?

 はい、68歳でまだ働いています。これはちょっと興味深いですね。今まで結びつかなかったんですが、労働の話をしていて、今度は定年を過ぎた僕の両親の話をしている。両親がどこか他の国で暮らしていたら、年金をもらうことができるのに。

 僕は今、レバノンの両親の家で暮らしています。

――レバノンの先日のニュースを聞きました。ご両親や友人は大丈夫ですか。

 はい、大丈夫です。ありがとう。ハマスによる爆撃ですよね。

――僕もまだ詳しくは知らないのですが。

 いえいえ、でも気にしてくれてありがとう。

――最後になりましたが、この映画は柔らかい不思議な光と優しい手触りに包まれていたと思います。僕はそれが大好きでした。ありがとうございました。

 ありがとう。雨降りのおしゃべり、とても楽しかったです。

採録・構成:川口隆夫

写真撮影:阿部泰征/ビデオ撮影:楠瀬かおり/2023-10-09

川口隆夫 Kawaguchi Takao
ダンサー・パフォーマー。1996年ダムタイプに参加。2000年よりソロ活動開始。異分野アーティストとのコラボにより「演劇でもダンスでもない、まさにパフォーマンスとしか言いようのない(朝日新聞)」ソロ作品群を発表。近年は『大野一雄について』(2013)など舞踏を参照したパフォーマンスを展開している。同作は2019年の山形国際ドキュメンタリー映画祭でも上演。