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YIDFF 2023 アジア千波万波

石が語るまで
キム・ギョンマン 監督インタビュー

聞き手:秦岳志

制作のきっかけ

秦岳志(以下、秦):今回この映画『石が語るまで』で扱われている韓国・済州(チェジュ)島の4・3事件については、最近ヤンヨンヒ監督の『スープとイデオロギー』(2021、YIDFF 2021)が話題になったことで、日本では特にドキュメンタリー映画に興味を持つ人達には大変よく知られるようになりました。他にも、少し前に山形ドキュメンタリー道場というワークショップに参加した金善(キム・ソン)監督が、済州島出身の自身の出自と4・3事件を経験した親族の歴史を絡めた作品を制作しています。とはいえ日本では過去あまり知られて来なかった事件でした。ただ考えてみれば4・3事件のあった1948年頃以降、日本でも同様に共産党を主にターゲットとした「レッドパージ」がありましたし、アメリカでもマッカーシズムの嵐が吹き荒れました。そういう流れの中で、済州島の4・3事件というのは特に厳しい形で暴力が発動されてしまった事件と言えるように思うのですが、監督がこのテーマに出会い、映画を制作をすることになった経緯を教えて下さい。

キム・ギョンマン(以下、キム):私も4・3事件を知ったのは30代になってからでした。以前は漠然と「多くの人が死んだ事件がその時期にあった」ということしか知りませんでしたが、歴史を扱うドキュメンタリー映画のリサーチをしていく中で、それが実はとても衝撃的な事件だったということを知りました。私自身はソウル出身なのですが、それでも4・3事件に特に興味を持ったのは、これが済州島に限定された話ではないと思ったからです。

 この時期の韓国の歴史の中には、4・3事件に似た事件が他にもいくつもありました。各地で警察が人々を逮捕し拷問し、多くの方が殺されました。その後の朝鮮戦争でも似たような事件が沢山あり、むしろこのような虐殺事件が無かった場所を探す方が難しいくらいです。1960年代に韓国はベトナム戦争に兵士を送ることになりますが、実はベトナムの地でも韓国軍は4・3事件と同じことを繰り返しています。1980年の光州(クァンジュ)事件でも民衆を鎮圧するために軍の激しい弾圧が行われました。1940年代後半以降、韓国では民衆の闘いが始まる度に国による無慈悲な虐殺が繰り返されてきたのです。そのような過去を一切反省せず、むしろそれをずっと国が正当化してきたため、同じような事件が繰り返されてきました。ですので4・3事件は韓国の現代史における出発点であり、その意味でとても重要な事件です。

 実は4・3事件は日本とも密接な関係があります。最初のシーンで洞窟が出てきますが、これは日本が植民地支配をしていた時代に済州島の人々の強制労働によって作られました。当時の日本は沖縄で行っていた政策と同じことを済州島でも実施したため、このような洞窟や基地が沢山ありました。ですので当時の戦況次第では済州島も沖縄と同じ運命を辿っていた可能性がありました。

 そして日本から解放された後も、韓国は3年間アメリカ軍の軍政下に置かれたという事実は重要です。アメリカ軍の将校が全てを支配し、裁判も全て軍が行いました。国立大学も軍の支配下でした。また日本統治下に支配層だった人々がそのまま警察や軍に登用されました。それは彼らが共産主義的な思想を持った人々を弾圧する技術を持っていたからです。それは村を焼き尽くしたり、人々を虐殺したりと、まさに大日本帝国が満州や朝鮮半島各地で行ってきたのと同じ方式でした。この映画に出てくるパク・ジュンオクさんがいた刑務所は1部屋に100人もの人々が収容されるような拘置所のような所だったのですが、これも日本の植民地時代のやり方そのままでした。当時の韓国政府が行った民衆の管理手法は、日本が行ってきた形そのものだったのです。これはぜひ日本の人たちに知ってほしい事実です。

秦:占領時代だけでなく、日本は解放後にも韓国社会に大きな負の遺産を残してしまっていたということですね。済州島と日本との関係という意味では、済州〜大阪間に当時は直行フェリーが運行されていて、先程沖縄に対するのと同じ政策とおっしゃっていましたが、当時は済州から見ると朝鮮半島より日本、とりわけ大阪が一番行きやすい都会だったと聞いたことがあります。私は大阪在住ですが、大阪の在日コリアンの方の中には元々済州島出身者が多くいたようですし、更に4・3事件後に在日の親戚を頼るような形で密航船に乗って大阪に逃れてきた人たちが大勢いたとも聞いています。

キム:当時は済州からすると釜山(プサン)に行くよりも日本に行く方が楽だったと言われますね。解放前の済州と日本の長い関係は、実は済州島が当時は政治的な側面も含めて、生きていくのにとても厳しい状況だったということが大きな要因としてあります。その結果、人々は安い労働力として日本に行くことになりました。そして当時の日本社会には社会主義的な思想を持った人々が多かったので、彼らは日本でそのような思想に触れる機会を得たのではないかと考えています。戦後彼らは済州島に戻り活動を開始するも、すぐに4・3事件が起き、結局多くの人々が再び済州から脱出したと言われています。

秦:そのような人々の例のひとつがヤンヨンヒ監督の『スープとイデオロギー』に出てくる監督のお母さんなのですよね。そういう意味でもやはり、日本に住む私達はこの事件をなにか「隣の国のある島での昔の物語」ではなく、すぐ隣に住んでいる友人が今も抱えて苦しんでいる問題かもしれないと、自分のこととして捉える必要があると感じます。

キム:その通りだと思います。

韓国での取り組み

秦:同じように「共産主義者」というレッテルを貼られて虐殺が行われた例としてはインドネシアで1965年あたりから起きた虐殺事件があり、これも映画としては『アクト・オブ・キリング』(2012、YIDFF 2013)の公開などで全世界が知るところとなりましたが、インドネシアでは今、若い世代の人々が自分たち自身の歴史として改めて調査や出版がされ、最近でも展覧会や映画が制作中だったりするのですが、韓国では今、4・3事件やその他の多くの虐殺事件についてどのような取り組みがなされているのでしょうか。

キム:インドネシアの動きはとても理想的ですね。韓国では長い間ずっと、4・3事件のことについて話すことは処罰の対象でした。しかしその後時間が経過し、人々の心の中に少し距離が出来たことがプラスに働いた側面があり、韓国の市民社会の中に最近ようやく話すことができる、あの事件を捉え直すことができる機運が培われてきました。自分の経験から考えると、現代の韓国社会が抱える問題を突き詰めて考えていった先で、この4・3事件にたどり着きました。今の世の中の仕組みがおかしいと思ったところが出発点です。ある事実を事実としてきちんと受け取らずに自分の信じたいようにしか物事を捉えない私達の社会に対する違和感を覚えたことがきっかけでした。

 4・3事件については過去から現在まで地道に行われてきた調査・研究の積み重ねがあります。誰も否定できない、認めざるを得ない証拠の掘り起こしが数多く積み重ねられてきました。でも現代の私達の社会がとても幸せなものだったら、なかなか意識を過去へ向けることは出来なかったのではないでしょうか。やはり今の社会で生きることが本当に苦しいという状況が、人々の目を4・3事件に向けるきっかけを作っていると思います。なぜ私たちはこんなに生きづらいのか。

秦:この映画は監督が直接インタビューをするのではなく、証言を聞く活動をする若い人たちがいて、その活動を含めて撮っているという構造を持っていますね。そして聞き手の人たちにも様々な人がいて、話の引き出し方がとても上手い。

キム:この活動は「4.3島民連帯」という団体によるものです。4・3事件当時に収監され受刑者となった人たちの聞き取り調査を行っています。そしてその証言を元に裁判の再審を実現することを目標としています。そのためには裁判所に提出するための映像証拠がとても大切ということで、私に話が来たんです。もともと私も4・3事件についての映画を撮りたいと思い、講演会などを撮影する中で彼らとは知り合いでした。映画にしていくにあたり、誰にインタビューしたら良いか考えあぐねていた時期だったので、とても嬉しい提案でした。

 そして彼らと元受刑者のおばあさん達の証言を聞いていると、もうそこでの聞き取り調査の記録映像を繋げていくだけで人々に4・3事件を充分に感じてもらえる映画になると確信したんです。ですので結局それ以上に自分自身でインタビューをしたりはしませんでした。もうそこでの会話を撮影するだけでパワフルだと思いました。そしてそんな証言の強さと組み合わせる映像として、済州島の自然の溢れる豊かさを撮るというアイデアが浮かびました。

自然と証言のコントラスト

秦:風景のショットがとにかく素晴らしいですよね。美しすぎるぐらい美しく、そして同時に大変厳しい済州の自然の風景と、証言をしているそれぞれのおばあさん自身の、もう実際すぐその場所で毎晩寝てるんじゃないかというぐらいにとてもプライベートな空間とのコントラストが激しくて、それがこの作品が単なる証言映画ではなくひとつのアート作品として成立している大きな要因になっていると思います。

キム:彼女たちの話を聞いていると、それはやはりとても重くて恐ろしく、私自身それは耐え難いものでした。ですので自然を撮るという手法は当初から考えていました。映画を撮りながら、私は「人間の存在」の意味について考えざるを得ませんでした。人はこんなにも残酷になるのかという思いから、人間という存在に対する懐疑心を持ち始めていました。しかしそのような理解を超える人間の残酷さと、自然が持つ暴力性は大きく違うと私は感じました。自然の持つ暴力性はどこか納得できるもの、理解できるものだと感じたんです。ですのでそこの対比を写そうと思いました。

 またそこにある自然そのものが4・3事件の目撃者であるという考えもありました。4・3事件には単に国家による暴力と虐殺という側面だけでなく、人々の抵抗という面も見ることができます。自然にも冬の厳しさもあれば、季節が変われば強い生命力が生まれます。ですので季節感はとても大切に扱いました。実際にも蜂起が起きたのは春でした。焦土化作戦は冬に集中的に行われました。

 また以前は韓国では抵抗運動が多く、そういう抵抗の手段を知っている人たちが大勢いたのですが、最近はそういう経験を持つ人たちがどんどん減っていっていると感じます。日本では韓国より更にずっと前からある現象かもしれませんね。映画の中では済州島の漢拏山(ハルラサン)にある「クサン木」という木を撮っているのですが、この木は昔はもっと沢山あったんです。しかし気候変動によって多くが枯れてしまった。抵抗する力を持つ人たちの生命力みたいなものによって社会はこれまで変化してきたわけですし、文明化の過程の中でそういう人々の力が大切です。人と人の繋がり、包容力というか、社会の中にあるべき寛容さが最近とみに弱まってきていると私は思います。私はそれがとても心配です。韓国だけの問題ではないのではないでしょうか。例えば韓国では昔は「通り魔殺人」というものは存在しませんでした。しかし最近発生するようになってしまいました。原因が何なのかは分からないですが。

秦:日本も同じ状況ですね。しかしこの映画には、そういう辛い厳しい面もありつつも、聞き手のみなさんの存在によっておばあさん達の気持ちが変化し、お互いの心が繋がっていくような瞬間も沢山写っていたと思います。例えば映画中盤でカシリ村アンジャリ出身のおばあさんが出てきますよね。最初娘さんは「きっと何も話さないと思います」みたいに言っているんですが、話し始めたらどんどんと溢れるように記憶が蘇ってくる。過去の記憶が蘇る瞬間をじっと捉え続けるあのシーンには、それまで度々入ってきていた自然の映像が入ってこないんですよね。だからあの場面で観客は証言の内容というより、そこで繰り広げられている奇跡的な瞬間に映画を通じて立ち会うことがしっかり出来るようになっているんです。あのシーンを見た瞬間に、この聞き取りの運動は裁判や政治的な側面だけでなく、過去の記憶を語ることが出来る時間を提供することにより、おばあさん達自身にとってすごく大きな意味がある活動になっているんだと理解しました。裁判の勝敗とかとは別に、こういう活動は当事者の方々にとってとても大切だし、そこに私は大きな希望があると感じました。

 ちなみに証言をしているのが全員女性なのには何か理由があるのでしょうか。

キム:実際にはこれまで20名以上の方の証言を撮影してきました。それぞれが大変重い話で、とても全体をまとめてひとつの作品にするというのは無理だと思いました。そこで分割して作品化することにしたんです。まず最初の作品として、4・3事件について何も知らない人たちが映画を観て知るきっかけを掴んでもらえたらと思い、今回の5人のおばあさんの話を選びました。彼女たちの話はとても生き生きとしていますし、5人の個性がとてもはっきり分かれていて、まず彼女たちを映画に残しておきたいと思いました。

秦:ということはこのシリーズはまだ続くのですか?

キム:まだはっきりとはお伝えできませんが、少なくとももう一編作るのは確かです。

秦:楽しみにしています。1990年代にビョン・ヨンジュ監督の映画『ナヌムの家』(1995、YIDFF 1995)が私が働いていた映画館でロングラン上映されたんですが、ナヌムの家のおばあさん達もとても辛い体験をしてきたのに、というかだからこそなのかもしれませんが、すごく魅力的な方々なんですよね。今回観ていてそれを思い出しました。

キム:私も彼女たちが過去の辛いことに耐えながらも生きてきたことに大変感銘を受けましたし、そこに希望があるという先ほどのお話に心から同意します。

秦:私も辛い経験をされた方々を主人公にした映画を作ることが多いのですが、みなさんとにかく人間性が素晴らしくて。私達は誰かの辛い経験を社会に訴えるために映画を作っているのではなく、人として本当に尊敬に値する人々のその生き様を映画を撮りながら見せてもらい、その過程で辛うじてカメラやマイクが拾うことが出来た瞬間を観客のみなさんにおすそ分けをする、そのために映画を作っているのではないかと感じます。あんなおじいちゃんやおばあちゃんになれたらな、などといつも主人公の生き方を目標にしています。

キム:まあでも実際、辛いことは経験しないに越したことはないですけどね。

採録・構成:秦岳志

写真:村上悠輝/ビデオ:楠瀬かおり/通訳:鈴木南津子/2023-10-07

秦岳志 Hata Takeshi
東京都生まれ。大学在学中より映像制作を始める。その後ドキュメンタリー映画の編集を中心に活動。主な長編映画作品に『OUT OF PLACE』(2005/佐藤真監督)、『風の波紋』(2015/小林茂監督)、『マイ・ラブ 日本篇』(2021/戸田ひかる監督)、『水俣曼荼羅』(2021/原一男監督)など。