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YIDFF 2017 インターナショナル・コンペティション
ニッポン国VS泉南石綿村
原一男 監督インタビュー

ニッポン国民よ! もっと権力者に怒りを!


Q: これまで監督が被写体にしてきた人物とはだいぶ違うと思ったのですが、なぜ、今回アスベストの原告団に密着しようと思ったのですか?

HK: 私は20代のころ、尖った人(たとえば『ゆきゆきて、神軍』の奥崎謙三さん)を撮ると自分の中で決めて映画を制作してきました。逆に普通の人、私の中では「生活者」と定義づけていますが、そういう人は撮らないと決めていたんです。ところが昭和という時代が終わり、平成になって尖った人を探していたのですが、どこを探してもいない。10年以上かかって探しても見つけられませんでした。ではなぜいないのか? それは昭和という時代だから尖った人がいたのだということに気づきました。戦争に負けて、日本の中に民主主義が導入され、それが育っていくプロセスがあったわけですが、そういう時代だから尖った生き方ができていたのだと。尖った生き方を許容する余裕がまだあったんです。ところが平成になると、だんだん権力者がかつての戦争をやっていた時代に戻す、というような、民主主義が育つプロセスに逆行するような流れになり、人々は押さえつけられて余裕がなくなってくる。平成になると、尖るという生き方がもはや許容されないのであると。だから尖った生き方をしている人は見つからないということに気がつきました。そのときに「アスベストを撮ってみませんか?」と言ってくれた人がいて、当初は「やってみるか」と軽い気持ちで撮りはじめました。ところが撮りはじめて、アスベストの人たちは普通の人=生活者であると気がつきました。

Q: アスベストの8年に及ぶ裁判闘争を余すところなく描いており、3時間35分、実に見応えのある内容だったと思うのですが?

HK: 最初は最後まで撮るつもりはなかったんです。途中のいいタイミングで終わって「それでも裁判は続く」という終わり方を考えていました。ところが終われなかったんです。それは尖った人を撮っていたときには激しいシーンが撮れるので、これで何とか作品として成立するなと見当がつけられるのですが、普通の人を撮っていても、山場というシーンは待っても待っても撮れないんです。だから終われなくて最後の最後までおつきあいをしました。

Q: 全編にわたって、ニッポン国の政策の犠牲者となったアスベスト原告団の怒りが滲みでていたと思います。尖った人がいなくなった平成という今の時代に、「生活者」は権力者に対して、どのように「怒り」をぶつけるべきだと思いますか?

HK: 私が今回の作品で一番言いたいことは「ニッポン国民よ、やりたいようにやっている権力者に対し、そのまま受け入れていいのか? 世の中ドンドンおかしくなっていくぞ」ということです。権力者を許している自分たちに責任があり、民主主義というのはひとりひとりが強くなっていかないと、それこそ権力者の思うつぼになってしまう。今、平成という時代になってヤバい時代だからこそ、そう思います。そういったメッセージが今回の作品を通して伝われば、自分の中でこの作品が「完成したな」と実感できると思います。

(構成:大川晃弘)

インタビュアー:大川晃弘、櫻井秀則
写真撮影:沼沢善一郎/ビデオ撮影:加藤孝信/2017-09-23 東京にて