陳亮丰(チェン・リャンフォン) 監督インタビュー
重要なのは、撮る過程です
Q: 最初の三叉坑部落の歴史を、タイヤル語で語る所が印象的でした。
CL: これは、震災により“移村”を余儀なくされた村の物語です。彼らは50年前にも、三叉坑へ“移村”してきた人たちなんです。彼らが“移動する運命”にあるように感じられました。だから、あの部分を作品を完成させるにあたりオープニングにしたかったんです。私はタイヤル語を話せませんが、あの言葉は老人たちに部落の歴史を取材し、タイヤル語は文字を持たない言葉なので、一度中国語にまとめ、タイヤル語の解る友人がタイヤル語に直し、日本語のカタカナ表記にして、おばあさんに語ってもらいました。
Q: なぜ、三叉坑部落のことを作品にしたいと思われたのですか?
CL: 先住民の多くは高い山に暮らしています。趣味が登山の私は大学時代からそういう人たちと出会っていて、興味がありました。そして、全景に入っての担当が全景の取組みのひとつである「一般の人にドキュメンタリー制作方法を教える」ことでした。それで台湾各地を訪ねてみると、応募者の中にユニークな先住民の人たちが多くいました。実は、震災当日も私は山の上にいて、下山まで状況がわかりませんでした。下山後、すぐに大安渓の人々のことが心配になり、車で向かいました。大安渓には先住民部落が10村あり、その中でも三叉坑村が、一番被災の規模が深刻で、この場所での居住は無理と思いました。そして、全景で「被災地の何を撮るか」の会議の時に、三叉坑は、必ず“移村”などの重要な問題が出てくるはずなので、状況を記録するべきと提案しました。
Q: 最初に建治さんの話が紹介されますが、なぜ彼の物語でなく“移村”の記録にしたのですか?
CL: 一番語らなければいけないのは“移村”の問題だと考えていましたし、彼の考えも同じでした。彼は“移村”することで、先に移村した村のように国からの補助金や人に頼ることは三叉坑村の“毒”になるという考えがあり、自立への努力をしなければいけないと言っていました。移村をテーマにする場合、彼の理想を通して描くことで全体が見えやすくなると考え、そのほうが後世の同じ問題を抱える人のためになると思い、ずっとそのことにこだわり取材していました。
Q: 監督の今後の被災地への取り組みと、それ以外の活動予定は?
CL: 私と建治さんと大安渓労働センターの職員は、「頼らない」という考えを共有していて、映画の中でも出てきましたが、「子どもたちへの読み聞かせ」の活動をしています。また、“移村”の問題を持つ先住民部落へ『三叉坑』を見せに行こうと思っています。建治さんと同じように、都会へ出て、挫折して戻る若者が多くいます。その若者たちに『三叉坑』を見せて、感じることを討論してもらえば、被災先住民部落で自立の考えを共有できると話しています。そして私自身は、『三叉坑』を撮った過程をメモにしていたので、それを本にまとめたいと思っています。
監督するうえで、被写体との関係性などを考え悩みました。ドキュメンタリーに重要なのは、撮る過程だと思いますから、それを記録集にしたいのです。震災5年目の時に、皆を元気づけたくて、粗編集段階の映画を三叉坑村民に見せました。既に更地になった旧三叉坑村で白布を張って見せたのですが、5年間のいろいろな問題でできた村人たちの間のわだかまりが、映画を見て一緒に笑い涙したことで解消し、互いにわかり合うことができたので、本当に良かったです。
(採録・構成:楠瀬かおり)
インタビュアー:楠瀬かおり、桝谷頌子/通訳:吉井孝史
写真撮影:斎藤健太/ビデオ撮影:斎藤健太/ 2005-10-12