郭浄(グオ・ジン)監督(シリーズ『カワガルボ伝奇』より「登山者」「収穫」「ラマ僧に捧げる食膳」「野花谷」)
曽慶新(ヅン・チンシン)監督(『グブ村のキャラバン隊』)
和淵(ホー・ユェン)監督(『息子は家にいない』『金平(ジンピン)県ハニ族の織物』)
映像は伝統と新技術の混合
Q: 雲南の抱える問題と、民族映像を残す意義についてどうお考えですか。
曽慶新(ZQ): 少数民族が多い雲南には、伝統保護と現代化の矛盾という大きな問題が存在します。この問題を考えるにあたって、発展と自己認識という方面から見ることができると思います。雲南でも、発展は一番重要な問題です。伝統文化の保護のために、発展を妨げてしまうようなことはあってはいけない。文化を守るために、ひとつの場所を閉ざされた世界にしてしまい、人々の生活を都市に住む私たちとかけ離れたものにするという保護の仕方で良いのでしょうか。しかし発展することは、少数民族の伝統文化に大きな影響を与えます。それに対して政府も憂慮しているし、私も映像を使って、どうやって伝統文化を守っていくのかを考えています。私は過去に、映像によって文化を守るということに対してすごく狭い視野でした。でも映像には、もっと多くの可能性があると思います。雲南が抱えるこれらの問題はとても大きいもので、私にははっきりとした答えは出せませんが、私たちは映像を通して理解を深め、もっと対話をしていくことが必要なのではないでしょうか。
郭浄(GJ): 僕はまず、自分の経験から述べたいと思います。過去の人々の旅行の方法とは、旅行を通して内面にある何かを追求し、高めていくものだと思います。中国では昔は「旅行」、今は「旅遊」と書き、旅行は歩いて時間を使うことにより、少しずつ、直接的に自然と接触することができます。旅遊は、その場所に行って外面的に刺激を受けるだけのものでしかありません。映像においても、旅行と旅遊があると思います。旅行の映画は、外に刺激を与えるのではなく、自分に働きかけるものです。映像を撮るにあたり、ドキュメンタリーを撮ろうが、劇映画を撮ろうが、撮られた作品が自分の感覚と離れたものだったなら、それは旅遊の映像です。映像はどんな方法で作品を作ろうとしても、自分たちの生きている環境は何も変えることはできません。しかしカメラを使うことによって、自分の内なるものは変えることができるのではないでしょうか。次に、コミュニティプロジェクトから見た雲南の問題についてですが、ある集団の人々が持っている文化に関する問題が、どれだけ重要なのかということを感じました。映画祭では、在日韓国人や朝鮮人などのいろいろな映像を見ましたが、自分たちのアイデンティティの重要性を浮かび上がらせている作品もありました。これはすごく良いことだと思います。
和淵(HY): ふたりが話してきたことの続きですが、伝統文化を保護する考えの中には、無くなってしまうことに対する悲しみという消極的な部分があります。しかし、現代化と伝統文化の喪失が起こっている中で、現代に生きる自分たちが、伝統を受け継ぎ、そして新しく継承していくという積極的な所もあります。たとえば、映像を作ることは、古いものを受け継ぎながらも新しいものを創造していることだと思います。
伝統と新技術を混合することは、今後の私たちの生きていく世界のひとつの希望でしょう。現代化の問題の中で、伝統は必ずしも無くなるものではなく、形を変えて新しく生まれながら続いていくものです。物質文化は変わりやすいように見えますが、内在している感情や思考は文化によって異なり、古くから受け継がれてきたものとして、変わらずに自分たちの中に残っていくのではないでしょうか。
ZQ: 現代化はどっちが良いとか悪いとか、そういった二項対立的なものではありません。映像というものが、可能性として私たちの内面的なものを捉えていくのです。映像を通して、もっと自分や撮られた人の経験、内面を一緒に分かち合うことが一番大切なことだと思います。
Q: 作品についてお聞きしたいのですが。
ZQ: 私は、何を伝えたいか言葉にできないので、映像を撮りました。それが、見ている人に伝わるかどうかはわからないけれど、私が経験した感情を、少なくとも共有できる部分を持っていただけるのではないかと思います。映像を撮って、自分も感激したことを、見ている人にも分け与えることができるなら、それだけで私は満足です。
GJ: 今回撮影した『カワガルボ伝奇』のひとつ目である「登山者」には、雪山に登る前に、今生きている世界と死後の世界を分けている門が出てきます。チベット族の人が門をくぐる時は、別な世界へ行き、死と向き合うことになるので荷物を道端に置いて行くのです。門をくぐって旅行をすることは、聖なるものに近づいていくことですが、死の世界を回り、再び出発した門に帰って来る時、旅行をした人は新しい人間に生まれ変わっています。チベット族の人々にとっては1日の中にも死の循環が起こっているのです。「登山者」は死から始まり、4つめの「野花谷」では自分が出発した門にまた近づいてくる。これは新しく生まれ変わって戻ってくることを表しています。生と死の過程は私にはまだはっきりとつかみ取れていませんが、その流れは作品を通してみることができます。今回作品に登場した、小林さんという登山隊の方の、生と死の道のりを歩いていく姿についていくことで、それを撮ることができました。
HY: 『息子は家にいない』では、ふたりの老人を通してある1日の朝の情景を撮ったのですが、私は朝の短い時間を細かくうつすことで老人ふたりの困難を描きたかったんです。
もうひとつ、『翡翠駅』という作品を撮ったのですが(助監督・撮影・編集を担当)、詩人でもある于堅(ユィ・ジエン)監督がまず現実世界の生活を見て感じたものを私に伝え、私自身が言われた感覚を撮ろうとしたものです。監督自身が撮った部分もあるし、監督が私に、こういうシーンを撮ってくれと要求してきても、それを理解できずに撮ってしまうこともありました。でも監督のものの見方や生活の捉え方は独特で、生活の中のある些細なことから、詩を見つけ出すことができる人です。おそらく生きていく中で、毎日の生活の中に見られるものは、すべてが詩となって感じられるのではないでしょうか。私には詩を見つけ出す能力がないので、彼のそういう能力や才能に嫉妬を覚えます。
Q: 山形映画祭の印象は?
GJ: 山形映画祭が、アジアにおいてなぜこんなに影響があるのかを考えた時に、この映画祭が閉ざされたものではなくて、外に開かれたものであるからだと気付きました。それによって、いろいろな人が観に来たり問題を感じてくれたりするのだと思います。山形映画祭の良い所は、雲南の映画祭を今後開くにあたって学ばなくてはいけない所ですね。
(採録・構成:中島愛)
インタビュアー:中島愛、高山真理映/通訳:伊藤悟
写真撮影:菅原大輔/ビデオ撮影:斎藤健太/ 2005-10-13