270分の必然性
佐藤真(SM): 僕も、エドワード・サイードの映画を撮るために、パレスティナに行ったのですが、あのような場所で、この映画に描かれているような様々な人たちと出会うことは、とても難しいことだと思います。そして、この映画では、イスラエル側の監督の視点と、パレスティナ側の監督の視点が、交錯しているように感じました。こうした映画は、長い時間をかけて旅をして制作されたようにも、短期間で撮影されたようにも見えるのですが、実際にはどのくらいの期間で撮られたのでしょうか?
ミシェル・クレフィ(MK): 6週間で撮りました。メンバーは私たちふたりと、カメラマン、音声、助手の計5人でした。最終的に、100時間のラッシュを持ち帰りました。その 100時間のうち、約4割が車の中などから撮った風景です。というのも、観る側に私たちが旅していることを物理的、肉体的に実感して欲しかったのです。つまり私たちは「時間」や「距離」を撮影したのです。
SM: 出会っていく人たちの中に、おふたりが別々の視点を持ちながら、今のイスラエルのイデオロギー国家というか、虚構の国の在り方というのをこじあけている映画だと思ったのですが、どこまでが偶然出会った人々で、どの辺までが事前にリサーチして出会った人たちなのでしょうか?
エイアル・シヴァン(ES): まずお断りしたいのは、これは、ふたりの別々の視点を強調して作った映画ではありません。私たちは、地理的、歴史的にあの地域に対して、新しいアプローチをしようと考えていたのです。それが「ルート」という対象に結びついたのです。確かに、私たちは地図を基に、現在イスラエルだけれどもかつてパレスティナの村があったことを知った上で、各場所を訪れました。ですが、そこで撮影した人たちは偶然の出会いが生んだものです。
MK: たとえば、エドワード・サイードに関する映画を作る時には、彼の書物を読んだり、関わった人々にインタビューすることを監督が決定するというように、映画監督が持つ、何かしらの形式や方法というのはあるでしょう。私たちの場合は、現在を通じて歴史を語るという目標のもとに、道で出会った人たちを撮ってきました。こういったやり方は、最初から決めていたことです。
SM: 独自の視点を持った映画作家が、100時間の素材を編集する際、おそらくふたりの中には闘いがあって、それが、この作品に緊張感を生み出しているのではないかと思うのですが。
MK: 当初は1時間半ぐらいの作品にしようと考えていましたが、それは不可能でした。というのも、1時間半という枠では、どうしても主観的なものに引きずられてしまいがちだからです。そもそもこの地域は、様々な民族の主観が対立し合うがゆえに傷ついているのだから、主観的アプローチでない別の態度で臨もうとしました。国や統合されたイデオロギーを見るのでなく、むしろそのイデオロギーを解体するために、それらの主観性を解体しなけれならないと思い、個々の具体的なものを撮ることに努めたわけです。私たちの主観性をなるべく排して、あくまで素材そのものを生かし、4時間半のドキュメントとして仕上げたのです。ですから、アラブ人、イスラエル人のどちらか一方を特権的に扱うのでなく、生の現実そのものを示していくことを強調したかったのです。
ES: 僕はミシェルと少し違い、完全に利害・関心を捨てて記録することに徹するというのではなく、いい意味での好奇心というのがありました。登場する人物には、誰しもミステリアスな部分があって、それを見ていきたいと思っていました。独裁的な主題がまずあって、映画というスペクタクルがあるのではなく、4時間半座って、どんな人たちがいるのか眺めてみることにもまた、楽しみがあるのではないでしょうか。
(採録・構成:橋浦太一)
通訳:カトリーヌ・カドゥ、鵜飼哲
写真撮影:川口肇/ビデオ撮影:橋浦太一/ 2005-10-12