english
映画祭2005情報

アジア千波万波:傾向とつぶやき
ワンダーアジア! Wonder/Wander Asia!


 今回の応募作品群の中から見えてきた〈アジア〉。それは地図上の〈アジア〉を柔軟に、境界を越えてしまっている、越えざるをえない現在の社会/政治/個人史の状況を捉えた姿でした。過去、脈々とつながる〈いま〉とどう向き合うか。個人史と国家史を作家それぞれが映像という手法を使って結び、解き放ち、絡み合わせていく作業が多く見られた今回の応募作品。ただ記録したという形は一方では持続して見られましたが、同時に多種多様な表現方法への渇望も多く見られ、発見も落胆も喜びも体験できました。

 そこで湧き出たキーワードは、ワンダーアジア! それは――疑問に思い、不思議に思う。けげんに思って、怪しみ、あれこれ思いを巡らす。知りたがって、驚いて。さすらい、迷ったり。作品群を通して〈アジア〉の境界を行き交い、彷徨って下さい。

さらなる飛躍、拡大する可能性

 全体に占める応募作品数も多いが、質と量が伴って際立っているという意味で中国作品の勢いは留まるところを知らない。カメラを持ち、腰を据えていればそこに何かが写ってくるということを心から信じているかのように、丁寧に腰を据えて制作されている上映作品はどれも魅力的。作品を支える発表の場も興隆を見せている。今回の映画祭の特集のひとつで、その活動紹介する「雲南映像フォーラム」は、中国内外で評価されている中国ドキュメンタリーを多角的に紹介している画期的な映画祭だ。これまで、北京中心であった映像文化が広大な中国大陸各地で地域の特徴を活かしながら広がっていく可能性を感じさせる。

 アジア千波万波では、今年4月に第2回目を迎えた雲南映像フォーラムで上映された作品は3本ある。雲南のラマ僧とカメラが旅する『風経』、陳炉という陶器の街をスタイリッシュな映像で魅せる『陳炉』、海外映画祭でも上映が続くろう者の恋愛や結婚を巡る群像劇『白塔』。(インターナショナル・コンペティションでは、『水没の前に』がある。)

パーソナル/ドキュメンタリー

 日本ドキュメンタリーの特徴のひとつでもあるパーソナル・ドキュメンタリー作品は今年も数多く見られた。今年の映画祭の特集のひとつ「私映画から見えるもの」スイスと日本の私映画大論争では、その謎が深まる、あるいは解明されるかもしれないので、そちらも乞うご期待。応募作の日本ドキュメンタリーで顕著に見られたのは、無自覚にカメラに向かって告白する様。同様に、いわゆる紛争地域や他のアジア諸国にカメラを持ち込んでレポートするビデオ・ジャーナリズムが「私」映像化している作品も多くみられた。

 在日コリアン二世である監督が、作品作りという対話を通じて家族の絆を新たに築く『Dear Pyongyang』や、母の闘病風景を中心に澄んだカメラで家族を映し出す『チーズ と うじ虫』は、〈私〉の世界を巡る表現に真摯に挑み独自の世界を見せてくれる。

 雲南芸術学院卒業制作として母の故郷を共に訪れ、文革時代を語る母の記憶を受け取っていく『憶え描き』は中国作品の中ではめずらしいパーソナル・ドキュメンタリー。台湾の『25歳、小学2年生』では、監督自身が自己の内面を追いかけ、過去を内省し、癒されていく卒業制作。『イノセント』は、監督自身の叔母の自殺の真相とその周辺にいる人々の眼差しをシンガポールの都市の空気と重ね合わせパーソナル・ドキュメンタリーの新境地を開いた。カメラで何を記憶しようとするのか、再現しようとするのか、ベクトルの違いが面白い。

郷愁とダンディズム

 全体的にテレビ作品の応募が多いのは近年見られる特徴のひとつだが、テレビ局傘下の制作会社に所属する中国やインドの監督たちは、日本のテレビ作品では考えられないほど、自由にしなやかな作品を作っている。上海のまもなく取り壊される家と持ち主の上海ダンディーを描いた『蒋(チアン)氏の家』もそのひとつ。過ぎ去っていく台湾のある時代の季節を移動人形劇のトラック、そして黙々と働く男性たちに想いを馳せる『移りゆくステージ』。民主化との狭間で揺れ動くイラン社会で『大統領ミル・ガンバール』の片田舎のおじいさんはどこか滑稽な悲哀を漂わせ、選挙キャンペーンを素朴に繰り広げる。『果ての島』は、文字通りフィリピンの果ての島を都会出身の若手監督が訪れ、独特のイトバヤット島の映像を作り出した。監督たちのリズムと率直な目線、郷愁と紙一重な悠々と自適なダンディーたちのリズム。

アーカイヴ/ドキュメンタリー

 韓国発『やってはいけません』は、直球型のビデオ・アクティヴィズムではなく韓国軍のアーカイヴを使ってイラク反戦・平和運動を表現する痛快アーカイヴ・ドキュメンタリー。タイ発『忘れないで!』は、ジャングルへと追いやられた共産党系の学生たちと少数民族の時代の違うアーカイヴ映像と音声を交差させ、現代にその存在を甦らせた実験アーカイヴ・ドキュメンタリー。アーカイヴを軽妙に使って現在の社会に訴えかけるセンス !!

〈場所〉

 アジア千波万波唯一のフィルム作品『南方澳海洋紀事』。かつて賑わいをみせた台湾の港の現在の新しい姿、果てしなく広がる海と空、そこに生きる人々を生き生きと描く。『金槌と焔』は、グジャラートにある船解体所を舞台に、アルメニア系イギリス人監督とインド人スタッフが、そこに凝縮される人間の営みを圧倒的な映像美で作り上げた。メディア社会の概念化への試みをビデオアートで表現する『虚構の砦』。フレームの中に存在する、その〈場所〉。

 アジア千波万波で初登場のイスラエル作品『ガーデン』はアラブ系移民の少年たちと信頼関係を築きながら2人のイスラエル人監督が、彼らと共にテルアヴィヴを翔け、ガーデンという場所に象徴される少年2人の現実を親密に映し出す。日本人監督がタイで3年間に渡る取材を続け、HIV患者の家族を見守った『昨日、今日、そして明日へ…』。都会から田舎へ移り、農業生活を始め、困難に向かいながらも爽快な笑顔を見せる若い夫婦、子どもたち、そして共に生活しているかのような監督が制作した『農家に還る』。対話しながら撮影し、寄り添う監督たちそれぞれの〈場所〉。

 本映画祭ではおなじみ、呉乙峰(ウー・イフォン)監督もメンバーの一人である映像制作集団「全景」が1999年の大地震の爪痕を湛然に追った作品群が「大歩向前走 ― 台湾・全景の試み」として特集上映される。6年間の月日をかけて完成させた6作品。こちらも見逃せない〈場所〉だ。

集団的記憶と〈個〉

 アジア千波万波で初めて上映されるシリア作品『壷』は、ピリリと風刺を効かせ、イスラム社会の女性の姿を女性監督が同目線で捉えた短編。パレスティナ系アメリカ人監督が、難民キャンプでパレスティナに還ることを望みながら生活する家族のストーリー、個々人の日常を大切に撮影した『いつまで、いつか…』。個にまなざしを向け、歴史や個人史に名前をつけて記憶していく作業の必要性を痛感させられる。

 『記憶の足音』はビデオとアクティヴィズムの新しい接点を探りながら、ベイルートの街や若者のアイデンティティを模索する。『消えゆく思い出』の監督は、オーストラリアで映像制作を学びながら、シンガポールの近代・工業化に伴って多くの村々が消滅していった歴史と自身の故郷の知られざる歴史をユーモアで明らかにしていく。集団的記憶の消滅/継承/操作……をユニークな手法で実験/表現した野心作。

 ヴェトナム戦争時の加害者としての歴史に対峙する『狂気の瞬間』は、韓国社会の過去・現在と向き合い、それを伝えていく作業としてのドキュメンタリーの形が見てとれる。5年前の刑務所での事件の後、記憶障害になった元政治犯たちとトルコのアンカラ大学の学生らが真正面から向かい合う『忘却』。単なる告発に終わらず、現在の韓国、トルコ社会、ひいては自分自身たちを見つめ、内省した勇気ある作品。

 最も応募数の多かった日本。日本という「国家」の虚像の中で自分自身に挑む意欲がもっともっとでてくることに期待したい。ぜひ山形に来て、多くの作品を見てほしい。

ミューズ1&2、シネマ旭2へ GO!

 さて、ここまでつきあってくださった皆様、ありがとうございました。是非、今年の映画祭でアジアの熱風を感じてください。(従来のミューズ1、2のアジア館に新たにシネマ旭2が加わりました。)

 今回からは、前回までの両プログラム応募方式から、応募時にインターナショナル・コンペティションとアジア千波万波を選択する方式をとりました。その結果、応募総数では、前回より少なくなっていますが、実際はコンペに応募されましたアジア作品やアジア系監督作品なども、選考に加え、今回のアジア千波万波ラインアップにもいくつか入ったことを一言付け加えておきます。

アジア千波万波コーディネーター 濱治佳、若井真木子(ハルマキ)


映画祭2005情報審査員コメントインターナショナル・コンペティション | アジア千波万波 | 日本に生きるということ | 私映画から見えるもの | 雲南映像フォーラム | 「全景」の試み | ニュー・ドックス・ジャパン | その他企画スケジュール会場地図 | チケット | 宿泊・交通情報Q&A