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YIDFF 2013 ともにある Cinema with Us 2013
波伝谷に生きる人びと ―第1部―
我妻和樹 監督インタビュー

映像を撮る覚悟


Q: 映画を観て、最初の津波のシーンが音だけだったのが印象に残りました。また、監督と波伝谷(はでんや)の方々の距離がとても近いと感じました。監督は、震災直後には波伝谷に戻れなかったということでしたが、それはなぜですか?

AK: 波伝谷の人たちがみんな流されてしまったのではないか、自分が行って一体どうなるんだろうと思ったので、震災直後には戻れませんでした。こんなときに自分は撮りたくない。最初の津波のシーンが音だけだったのも、自分が津波から逃げるとき、カメラをバッグに入れっぱなしのまま廻していたからです。映像作家としては撮りに行かなければいけない。でも、車に入れっぱなしだった機材も車ごとすべて流され、手元のビデオカメラの残量は、5分間分だけでした。映像作家として失格だとは思いますが、これだけしか残ってないなら撮らなくてもいいと思ったのです。波伝谷に戻ったのはしばらく経ってからでした。

Q: 震災前と震災後の波伝谷の人たちとの関係の変化を教えてください。

AK: 震災前は自分の腹の中を相手に見せないまま撮影していましたから、撮られている波伝谷の人たちは僕が何をしたいのかわからないままでした。けれど、その同じ姿勢で震災後の大変な状況を撮りに行けば、足手まといになるだけです。だから、震災後は自分が何をしたいのかまずみんなに伝えようと思いました。否定されてもいい、媚びないで、撮らせてもらおう。映画を作りたい、あなたたちを撮りたいという強い気持ちと覚悟を伝えながら撮影しました。

Q: 波伝谷での試写会はどうでしたか?

AK: 2011年12月の6時間版の試写会のとき、自分では最高の映画ができたと思いました。ですが、震災後の波伝谷では、映画としてではなく思い出として波伝谷を見たいという思いを抱く人が多くいました。また、作品には自分の思いを込めなくてはいけませんが、そうすると、こだわりが強くなり、説明が多くなったり、余計な部分が多くなったりして、その後の編集はなかなかうまくいきませんでした。いったん自分自身のこだわりから離れて、映像そのものの魅力で形にしてみたのが56分版です。2012年12月、仮設の集会所で計6回の試写会をしました。すると、2回目の試写会で不思議なことが起こったんです。映画の中に漁業の話をする小山忠一さんが出てきますが、彼は津波で亡くなっていて、1年3カ月後くらいにようやく見つかったんです。彼の娘さんが、もう一度映画を見たいからと言ってひとり残りました。それでもう一度再生したら、忠一さんがカメラに向かって正面で話す場面から再生されたんです。いくらディスクを入れ直して頭から再生しようとしても、そこから始まるんです。娘さんと一対一の状況で、「自分はここにいるよ」と言っているようでした。“人は映画の中で生き続ける”ということ、また、映画っていうものは映像で語るものだ、とはよく言われていることですが、それを忠一さんの奇跡で実感しました。

 そして、被災地の人々の生き方を、波伝谷を通してちゃんと描かなければいけない、だから56分版では終われないと感じ、そこに自分の思いをすべて詰め込んだのが、今回上映された128分版です。

(採録・構成:久保田菜穂)

インタビュアー:久保田菜穂、楠瀬かおり
写真撮影:鈴木規子/ビデオ撮影:鈴木規子/2013-10-14