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YIDFF 2023 ともにある Cinema with Us 2023

ラジオ下神白 ―あのとき あのまちの音楽から いまここへ―
小森はるか 監督インタビュー

聞き手:川上アチカ

映画制作の成り立ち

川上アチカ(以下、川上):今回は初めて依頼を受けて制作された作品ということで、これまでの小森作品とは違う、撮られる人たちとの距離感みたいなものを感じたりもしました。今までは、自分からこれを問いかけていこうという、小森さん個人と取材対象者との関係性みたいなものを見させてもらっているような感じだったけど、今回は一歩引いた視点でみていると言うか。「ラジオ下神白」の人たちに近いけど、当事者のような感じでもなくて。そのあたり、制作の依頼を受けた時には、どのように判断してやろうと思ったのかな。

小森はるか(以下、小森):依頼を受けた経緯でいうと、アサダワタルさんたちの「ラジオ下神白」という活動は、私が合流する2年前から始まっていて、そのチームの中に、川村庸子さんという私の友達が、テキストで活動の記録を残す編集者として入っていました。彼女が「テキストでは『ラジオ下神白』の取り組みのすべてを伝えるのは難しい。空間とか、人々の表情とか、そういうものを映像で残した方がいい」と考えて、小森さんが撮るのがいいんじゃないかと提案して、呼んでもらったんです。すごくありがたかったですね。現場に入る前に、実際に「ラジオ下神白」のラジオを聞かせてもらったり、住民さん達や団地の状況の説明を受けたりして、既に下神白団地に根付いている取り組みに参加する形で現場に関われるのはとても幸運なことだと思って、私も行きたくなりました。……喋っているうちに、だんだん声が小さくなっていくね。

川上:何でだろう(笑)。

小森:考えていると喋ることを忘れちゃうの。どのくらいの声の大きさでしゃべっていいのか分からなくなっちゃう。

川上:声と言えば、上映のとき、小森さんが「声」にすごく興味を持っている話をしていたけど、声への興味と、人の話を聞くこととは、小森さんの中で繋がっているんですか?

小森:繋がってくると思います。「声」にしても、「聞く」という行為にしても、話している内容だけではない部分で、その人を感じたり、話し方や表情や体の動きも含めて「聞く」行為があると思っていて、そういうものを映像に残せたらいいなという思いが常々ありました。『ラジオ下神白』もそういう現場だったと思っています。

 「ラジオ下神白」は、いわゆる被災地での支援活動やアートプロジェクトというよりは、私が今まで陸前高田で、住民さんとのつき合いの中で大事にしていたような、人と人が一緒にいることや、話を聞くこと、「声」を通じて住民さん同士がまた出会っていくことを大切にしていたので、頼まれたから撮るだけではなく、自分の関心としても繋がるなとも思いました。

 もうひとつ、東日本大震災のあと、福島にずっと行けていなかったのが、私の中で引っかかっていたから。同じ東北ですけど、岩手県の陸前高田を拠点にしたり、その後も宮城県の仙台市にいたりしていたので、原発事故による被害を受けた地域や、住んでいる土地を離れなければいけなかった人達との出会いはあまりなかったんです。もちろん気軽には行けない気持ちもありました。

団地の人々にとっての「歌」

川上:故郷がなくなってしまうこと。場所としてはあっても、帰れない場所としてあるなかで、映画の中で歌われる歌謡曲が、誰もが一緒に歌える「ふるさとの歌」みたいな感じにも聞こえてきます。記録を撮りながら、団地に住んでいる人たちにとっての歌の存在を、どういうふうに捉えていたのかな?

小森:ひとつ思ったのは、ふるさとの思い出でもあるのですが、必ずしもそうではなくていいのかなと。失恋した場所だったり、嫁いだ時に苦労したという話だったり、そういうものと音楽とが結びついてみなさんの話を聞けたり、思い出してくれたりしたことに、意味があったと思っています。それは多分、歌という切り口でないと出てこない。メロディーを聞きながら、その人の話が再生される。みんなが知っている歌謡曲なのに「誰々さん」という個人の思い出と結びついて、一緒に歌えたりするんですね。そんなことは初めて体験したから、なんと言ったら良いかわからないけど、すごいことだと思う。

川上:歌というのは、人に寄り添ってくれるものだと思いながら、同時に一番しんどい時は、歌を歌うことすらできないことが、映画を見るとわかります。下神白団地に住む人が奪われてしまった声や歌を、もう一度取り戻す作業を記録しているようにも見えました。

小森:それは私も実感しました。そんなにも歌うことが好きだった人が忘れているというのは、シーンとしては際立っていないかもしれませんが、とんでもないことだと思いました。人と話さないから歌えなくもなっているという話を聞いて、その人の人生にとってとてつもない、震災後の5、6年間だったと想像できるのです。物理的にも、家から避難しなくちゃいけなくて、レコードとかCDとか音楽を再生する機器を持ってこれなかった状況も理由のひとつだと思います。皆さん、置いてきているんですよね。音楽は、生活にとってとても大事なんだけど、持っていけなかったもの、置いてきたものとしても恐らくあって、震災以降、生活の中で触れる機会が激減してしまった。もう少し生活の中に溶け込んで歌があったのに、それが全くなくなったこと自体が、あまり誰にも気づかれてない原発事故による被害というか。歌や音楽が、そのような奪われたもののひとつとしてあったんだということに気付きました。

川上:6回も引っ越しをされた いみ子さんや、青木さんが「話す人もいないから、声を使うこともなくなった」と話した後に歌っている姿が、とても健康そうにみえました。声を出すことが人に与えるエネルギーを、画面から強く感じました。撮っていて、身体と歌うことの関係性を考えたことはあったのかな?

小森:ありました。歌うだけではなくて、音楽が流れた瞬間に語り始めるとか。直接、歌や音楽によってもたらされるものだけではなくて、歌うことの高揚感や、音楽を聴いたことで体の違うところが刺激されるじゃないけど、そういうふうに語り始める瞬間をたくさん見た気がします。「ラジオ下神白」のメンバーが一緒にいて曲をかけたとき、その曲を好きだから嬉しいとか、聴けて嬉しいとかというのとは異なる反応が、体にはあるんですね。歌にまつわることじゃなくても、何かを思い出されているような場面が多かった気がします。あ、そんな話があったんだ、みたいな。同じ話を何回も聞いているんだけど、「青い山脈」を聴いたら突然、今まで知らなかったエピソードが出てきた、みたいなことが起きる。ちょっとずつ、何かを思い出していくことに繋がっていくんですね。

川上:若い頃に戻っていくというか、自分にとって青春時代が一番の支えになっている感じもあって、またもう一回頑張ろう、みたいな気持ちになるのかもね。

小森:戦後に聞いていた曲だから、その時に踏ん張ってきた気持ちとも重なるのかなって。震災後、復興応援ソングがいっぱいできたりしたけれど、そういうのとは違う、彼女の中の応援ソングだったりするのかもしれないですね。

川上:この『ラジオ下神白』は、観客にとっては、今の状況を知り、何ができるかを考える、広く学びの機会になると思うのですが、記録をすること自体が、当事者の人たちに何かを返していけるものになるようにも思いました。そのあたり、小森さんはどう考えているのかな、と。

小森:『ラジオ下神白』に登場する人たちの何人かは、団地の中で知られてはいるけれど、集会所の集まりの中だけでは見えない部分というか、その人の持つ素晴らしさみたいなのが知られていなかった部分もあったのではないかなと思いました。本当に命をかけて歌っていることに凌駕されるような部分が伝わってほしい、という気持ちが、私にはありました。普段団地の中で見えているその人ではない部分がある、というのは、元いた生活とは切り離されているから、余計に皆さん、その人がどういう人生を歩んできたのかわからない、ということとも関係しているんじゃないかと感じました。この人かっこいい、みたいなリスペクトが、団地の住民さんの中にも起きたらいいなっていうのは、撮影しながら思っていました。

川上:それを伝えるために、団地に住む人たちに向けても上映をしたということ?

小森:はい、最初の上映は、団地の中でした。その後団地を離れた人たちもけっこう映っています。コロナ禍で皆さんに会えなかった期間にこの映画を編集したので、まず完成した報告をしに行かなければというのと、やっぱり団地の人たちにこの映画を観てほしいなという気持ちはとても強かったですね。そうしたらめちゃめちゃ盛り上がって、ずっとみんな喋りながら観ちゃうみたいな。あの人元気かな、とか言いながら一緒に歌ったりとかして、本当に騒がしい上映会だった(笑)。でもそういうふうに映画が届いてほしいなって思っていたから、それが一番最初にできて、ああ、この作品を作った意味があったと思えました。

川上:団地の中の、普段は顔を見せない人も観に来たとかも、あったりしたの?

小森:顔を見せない人は来ていないかもしれないけど、映画に登場しない人も、けっこう観に来てくれました。あの人、こんな歌を好きなのねとか話したりして、めちゃめちゃ楽しそうだったから。登場していた人が拍手を受けて人気者になるっていうか、すごい良かったですね、みたいな声が聞こえてきたのも嬉しかった。

川上:最後の場面は、登場人物が歌うのを観ながら私も一緒に歌っていました。観客も一員になって「一緒に歌いたいな、この人たちと」という気持ちが起きたりして、魔法みたいでしたけどね。エンディングは、それを意識したところもあるのですか。

小森:ぜひ歌ってくれたらいいなと思います。エンディングを収録した時は、コロナになって、一人一人個人宅で撮っていたので、みんなで並んで歌っていないって言うか、合唱ができなくなってから撮った部分でもあるから。あれをもう1回見て、みんなで歌えたら、すごいいいなあと思っていて。

プロジェクト後も、関係を続けるということ

川上:映像の中に出てきた方々は、その後どうされていますか。下神白団地は映画が撮り終わった後は上映会もやって、コロナ自粛期間も終わって、また集まり始めたんですか?

小森:そうですね。私も去年、やっと上映会で久しぶりに訪ねることができました。ほぼ高齢の方が住まれている団地なので、他の高齢者施設と同じくらい、県外の人が団地を訪問するのは絶望的な状況で。アサダさんもつらかったと思うんですが、東京から訪ねられるようになるまでには、かなり時間がかかりました。この映画の上映会がまた会いに行くきっかけになって行くことができたんですね。映画に出てる方で、もう団地に住んでいない方もいるし、亡くなられた方もいます。あといわき市では、2019年に発生した台風19号の被害が大きくて、空いた部屋に台風で被災された人も入居するようになりました。原発事故の被災者だけではない団地になって、コミュニティ自体もすごく変わってきています、今までの雰囲気とはちょっと違いますね。

川上:アサダさんたちは、今でも定期的にラジオ下神白の活動で通っているのですか。

小森:定期的には通っていないです。「ラジオ下神白」は、アーツカウンシル東京の「Art Support Tohoku-Tokyo」事業として行われていたプロジェクトで、2021年度に事業自体は終了となりました。公共事業としての予算は付いていないので、これまでと同じ規模での活動はできていません。今年からは上映委員会を有志メンバーで運営していて、団地を訪問するのとは別の形で活動を継続しているところです。1年に一回でも、そのメンバーと一緒に団地へ通えたらと話しています。ただ、今までのように行きたいけど行けない後ろめたさは、私の中にもありますね。個人的に行けなくもないけど、みんなで訪ねてきたことで関係性ができていた場所で、ひとりで行くのは違うなと思うし、やっぱりふらっと行ける場所ではないですね。

川上:自分も浪曲のドキュメンタリーを作った時に、「もうこれ撮り終わったら来なくなるんですか?」と言われて、「はい、そうですね。このペースでは来なくなりますね。」と返したら「寂しいお仕事ですね。」って言われたことがあって。そういう事は引っかかりますよね。

小森:アチカさんのその話、私にも刺さりました。寂しい仕事なんだって思いましたね。特に「ラジオ下神白」はもうちょっと続いて、撮影もできるのかなという頃にコロナになって、その中でもアサダさんたちは工夫しながら取り組みをずっと続けてきたので、ぷつっと終わったわけではないんですけど、団地に行けないのと、映像をまとめて、それが完成して、もう撮影のために行く必要はなくなってしまった、みたいなことが一気にきちゃったから。寂しいというのもあるし、とてもうしろめたかったです。

川上:関係性を続けられない後ろめたい感じに対して、今後、自分としてはこういうふうにしていきたいというのはありますか? 小森さんが今まで作ってきた作品では、被災者の方々が撮る人が来るのを楽しみにするとか、普段とは違う第三者が入ってきたから話せる話があるとか、そういうことを10年かけて陸前高田でやってきて、生きている限りは関係性が続いていくことを、フィルムメーカーとしてどう考えるのかな、と思って。

小森:人としての繋がりは、ちょっと間が開いっちゃっても、できる限り、続けていくと思う。それは自分もしたいし、作品は今も上映していたりするから、コミュニケーションを取り続ける意味でも、通えなくても何かしらの繋がりをちゃんと持っておくというのはやりたいし、やろうとしています。『阿賀に生きる』(1992、YIDFF 1993)を撮影した小林茂監督が「完成してから最低でも10年はやり取りを続けている」と言われていたことがあって。「10年か……」と最初に思った記憶があって。それが10年じゃなくても、20年30年ってあったらいいと思うけど、そのくらい作った後の時間の方が大事というか。現地に行けない後ろめたさもありつつ、意識をそちらに持つということをしようと思っています。

 『ラジオ下神白』の場合は、個人的にLINEを交換している人とかもほぼいないから、こまめに連絡を取るというのもできなくて、私はただそこに行って撮っちゃった、みたいな感じもあるんですね。でも、アサダさんたちの活動を編集していく中で、一回きりの出会いでも、本当に会って良かったなって思えるものをたくさん見せてもらえたから、開き直るわけじゃないけど、出会えた記憶をお互い持ち続けるみたいなことって、その後に会わなくてもありえるのかなと思って。それにとても自分は救われたっていうか、そのことに気付かせてもらっているようで、今までの作品で感じていた後ろめたさとは違う、それでも良かったという気持ちを一緒に持ちながら完成できたし、そういうふうにお客さんにも見てもらえたらいいなというものにもなりました。

川上:行けないとなった時に、そこに隙間が生まれるわけで、その隙間にまた新しい別のエネルギーが入ってくる可能性もあるし、もしかしたら「ラジオ下神白」の活動も、団地の住人やその地域に住む人たちに、自分たちで続けられるところまで技術を渡せたら、またその次の扉も開くのかなとか勝手に想像したりしました。だから映画の中で「南無南無」ってしていた女の子いるじゃないですか、みのりちゃん。彼女が、もしかしたら、また次の世代のストーリーテラーになるとか。

小森:みのりちゃんは、住民さんのものまねとか、していましたからね(笑)。確かに、隙間は自分で埋めなくてもいい。本当にどうなるかわからないですもんね。私もまた行きたいとか言い始めるかもしれないし、そんな気配は感じます。

採録・構成:川上アチカ

写真・ビデオ:大下由美/2023-10-11

川上アチカ Kawakami Atiqa
横浜生まれ。『Pilgrimage』(2001)、『港家小柳IN-TUNE』(2015)、『鈴の音のする男』(2016)、『河内の語り屋』(2018)などの短編を発表。『絶唱浪曲ストーリー』(2023、YIDFF 23)が初長編となる。アーティスト・レジデンス「山形ドキュメンタリー道場」(2021)に参加。