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YIDFF 2023 ともにある Cinema with Us 2023

津島 ―福島は語る・第二章―
土井敏邦 監督インタビュー

聞き手:大下由美

パレスチナから福島へ

大下由美(以下、大下):(福島県浪江町)津島の方々との出会い、撮影し作品を作ろうと思われたきっかけをうかがいたいです。

土井敏邦(以下、土井):僕の仲間たちはチェルノブイリとか追っかけているジャーナリストが多くて、一斉にチームを組んで震災直後から福島へ入ったんです。やはり原発事故で放射能被害のことを真っ先に考えたんでしょう。僕はパレスチナを34年間取材した人間なんですよ。そうやってきた僕が、もう世界的な大事件だけど、なぜ東北へ行かなくちゃいけないんだと、自分の中で理由がわからなくて。僕はみんなが東北へ向かう時に、反対側の沖縄へ向かったんです。沖縄の伊江島は、土地を奪われた農民たちが戦ってきた。つまり「日本の中のパレスチナ」を取材しようと震災前から決めてたんです。ところがね、テレビを見ても新聞を見てももうほとんど東北。とりわけ原発が爆発してからは、もう原発のことも全部ニュースになってくるわけでしょ。僕は行かなくちゃいけないのかな、と思ったんだけど、理由がわからなくて、ものすごくもがいていたんです。

 パレスチナってご存知だと思うけど、イスラエル建国のために、パレスチナ人は土地を奪われたんですよ。被災者は津波で故郷を追われ、家を奪われた人たちでしょ。「土地、故郷を奪われた」という接点だったら、僕でも東北へ行く意味があるんじゃないかと思ったんですね。その時初めて東北へ向かうんです。

 友人の写真家と一緒に陸前高田へ行ったんですが、凄まじくて、本当に唖然としました。もちろん撮影をしました。ただね、違うなということに気付いたんです。なぜかというと、津波の被害というのは「天災」ですよ。つまり自然災害ですよ。でもパレスチナは自然災害じゃないんですよ、“人災”なんです。人為的に人に追われていく。原発事故で故郷を追われるというのはやはり人災です。むしろ福島の方がパレスチナに近いんじゃないかと、4月中旬ぐらいから福島に向かい始めました。

 当時まだ福島に人が残っていたのが飯舘村で、避難指示が出てなかったんですよ。ものすごく線量が高かったんですけどね。だから避難する前の村人たちの生活が見えたんです。例えば、酪農家たちが乳を絞る、絞らないと牛が病気になるわけですよ。しかし線量値が高過ぎて出荷できない。それどうするかっていうと、田んぼに穴を掘って、搾った牛乳を全部捨てていくんですよね。また牛は一部屠殺場へ送ることになり、直面する酪農家たちの悲哀とか、そういうものをずっと撮りました。それで僕の最初の福島の映画は、『飯舘村 第一章 ―故郷を追われる村人たち―』というタイトルです。故郷を追われるということはどういうことか、パレスチナの人たちの姿とダブらせていく。僕の中で福島とパレスチナがいくらか重なった、最初の作品ですね。

 そうはいっても、福島は、やっぱり放射能の問題は切っても切れないですね。それで当時始まったのが除染です。次は除染して本当に人が住めるようになるのか、帰るのか、帰れるのかというテーマにしました。第2弾の映画が『飯舘村 ―放射能と帰村―』です。これは2013年に劇場公開しました。

 その後、何をやろうかって考えていたんですね。2014年に福島原発告訴団が東京で、被害者たちの証言集会をやったんですよ。池袋の大きな会場、公会堂で800人ぐらい入るところがいっぱいになったんですね。ただ聴いていて、この声は800人だけで終わっていいのかと思ったんですよ。これはやっぱり全国の人、あるいは世界の人が聴かなくちゃいけないと思ったんですね。もしやるとすれば、こういう被災者の人たち、放射能被害を受けて農業を、生業を奪われた人、住居を、故郷を奪われた人、そういう人たちの声を集めていく、証言を記録していくことが、いわゆる記録する手段を持った僕の役割かなと思ったんです。

 それから、証言を集める作業を始めたんです。4年がかりでできたのが『福島は語る』という映画です。2018年に発表し、文化庁の文化記録映画の優秀賞をいただきました。これは90人くらいの方のインタビューを撮って、その中から14人の方の声を拾ってできました。劇場公開してすごく好評でした。福島以外の人から、被災者の声をダイレクトに聞いたことないって言われました。やっぱり衝撃だったんだと思います。

「津島」の方々との出会い

土井:津島との出会いは、僕の友人の大森淳郎さんが当時NHKのディレクターをされていて、2016年に『赤宇木(あこうぎ)』というドキュメンタリー番組を作ったんですよ。

大下:津島の集落の名前ですね。

土井:すごく感動したんですよ。その中で主人公であった今野義人さん(集落各地点の放射線量測定の結果を、季節の便りを添えて避難した元住民に送り続けている)、赤宇木の区長さんですけど、この方がすごく魅力的な方で、ぜひこの方に会って話を聴けたらと思いました。津島の映画を作るとか、何も考えてない時ですよ。大森さんを通して紹介してもらって、最初にインタビューしたのが2018年の秋です。映画もそこから始まっているんだけど、義人さんに非常に惹かれていたってことがひとつのきっかけですね。その後、ある人から「津島という訴訟を起こしているところがあるんだけと、団長に会ってみませんか」って言われて会ったのが、伝統文化の第四章で涙を流されていた今野秀則さんです。最初は、津島だけで映画を作ろうと思ってなかったんです。ところが、僕よりも前に、カメラマンふたりが津島を取材してたんですが、「土井ね……津島って違うんだよ」と言うんですよ。「人が違うんだよ」「闘っている弁護士が違うんだよ」と。で、会って話してみるとね、やっぱり違うんですよ。

大下:多くの福島の方と会われていても、それほど違うのでしょうか。

土井:インタビューをしていても、人間のあったかさが違うんだね。なんだろう、やっぱりね、大変な状況の中で、お互い助け合わないと生きていけない環境だったからではないでしょうか。「人間の温もり」です。

 なぜ津島の映画ができたかっていうと、「ネタ本」があるんですよ。津島被害者原告団の弁護士たちが、公判での原告の意見陳述を全部まとめて「原告意見陳述集」という冊子にしたんです。それを読んだ時に、「これはすごい! これに沿ってインタビューすればいいんだ」と思ったんです。約30人の方の証言をずーっと読み込んで、「この人からはいじめの問題、この人は家族崩壊の話が聞ける」と計画が立てられました。取材を本格的に始めたのは2021年です。おそらくあの意見陳述集があったおかげで、映画がこんなに早くできあがったと思います。

 『福島は語る』で約90人にインタビューし、3年か4年かかっているんですね。会って、その方がどういう話をするかわからないわけですよ。だから本当に映画としてこの人を紹介したいと思うのは、ほんのひと握りなんですね。ところが、この津島の場合、もう聞くべき相手が見つかって、聞くべきテーマが決まっている。これはインタビューする人間にとっては本当に効率よくできるんです。だから団長にこういう映画を作りたいんだと相談して、団長が一人ひとりに連絡を取ってくれて。結果約30人にインタビューしました。ひとり2時間、2時間半くらいかな。中には、意見陳述に書いてあること以上を語ってくれる方もいました。今回の映画のメインはおそらく須藤カノさんという、一度子どもたちと心中をしようと考えたけど、津島の人々のおかげで立ち直った方。あの方に出会った時に、「あ、これは映画になる」と確信しました。初対面ですよ。

大下:初対面だったんですか。

土井:初対面(笑)。最初は、顔を出さないでくれって、嫌がられたんです。それを説得して。彼女が語り出すとね……もう本当に貧乏で子どもを必死に育てた、あの話って惹きつけるところがあるでしょう。

 この方を柱にしたらいいと思ったんです。で、2月に初めて、津島の皆さんに集まってもらって、福島でまとまったものの試写会をやったんです。その直前に、突然カノさんから電話があって、「私がこんなことを言うのは恥ずかしいというか、人からどう思われるかわからないから、私のところを全部カットしてほしい」と言ったんです。「えっ!」と衝撃でした。「カノさん、試写会をやって、皆さんから、あなたが言うように『こんな話は』ってなったら切ります。でも、まずは観てもらいましょうよ。」と必死に説得したんですよ。で、渋々OKしてくれました。僕の映像を観ていただいた後に「カノさんからこういうことを言われたんですが皆さんどうですか」って尋ねたら、「カノさん、これは必要だよ」ってみんなで説得して、カノさんは「そうかなぁ、じゃあまぁいいか」ということで(笑)、あのシーンは生き残ったんですね。そういう意味ではカノさんのあの話というのは、僕にとってはとっても大事な証言です。

福島の問題だけではない、日本の歴史を示す普遍的な映画

大下:この映画は、田植え踊りの伝統や、開拓のお話もあって、津島の壮大な記録作品という印象がありました。

土井:実は2月にやった最初の試写会の時は、田植え踊りのシーンがありましたが、開拓についてはなかったんですよ。津島というところは、約300戸あった地区に約400戸が開拓者として入ってきた。だからある意味で開拓の歴史を抜きにあの村は語れない。それは僕の友人、NHKだった大森さんなど映像のプロたちが観て意見を言ってくれて、「やっぱり開拓のことはきちっと伝えないと、後半で語られる開拓の話が響かないんじゃないか」ということで、この最終版には開拓について入れたんです。

大下:そうやって苦労して開拓した土地が、原発事故によって奪われてしまうと……

土井:開拓者はあまりにも貧しく、「開拓者の子どもとは付き合うな」とか、当初はそういう差別があったとは聞きました。でも、今や、頑張ってものすごく成功した人もいたんですよ。やっと貧しさから抜け出したのに、原発事故で全部基盤を奪われていった。

大下:あと、団長・今野秀則さんの「たかだか原告団700人のために、国は膨大な国家予算をつぎ込んで除染をするべきなのかという意見や、経済効率のためにただ帰るだけなら賠償すればいいという意見もあるでしょう」と批判の意見に理解を示しながらも、「被害を見ぬふりして、一部を切り捨てることは人間を切り捨てる思想であり、納得できない」と語る姿が印象的でした。

土井:カノさんの言葉も強いんだけど、実は映画で一番訴えたかったのは、今野秀則さんのあの言葉ですよ。これはすごく普遍性のある言葉で、例えば、日本は高度成長をまっしぐらに進む上で、その犠牲になっていく少数者、典型的な例が水俣ですよ。「ああいう小さな地域で犠牲者がいくらか出るのは仕方がない。つまり大多数の幸福のためには、少数者が犠牲になったって補償すればいいんだ」と。で、今でいうと沖縄ですよ。「日本本土の安全保障のため」に沖縄に全部しわ寄せが来ているでしょ。あたかも当然のように我々は……政府だけじゃないですよ、多くの国民も内心そう思っている、口にしないけど。だから動かないんです。今野さんがおっしゃっていることは、「700人だったら、ちょっと補償すれば済むじゃないか、という発想がおかしいんじゃないか」ということです。ある意味では、この映画のいちばんのキーとなる言葉ですよ。

大下:だから、裁判を起こして闘っているということですものね。

土井:そういうおかしいことに対してNOと言い続ける裁判なんですよ。「補償金で家を建てたらいいでしょう」ということじゃない。故郷を失った喪失感・コミュニティを失うってことは、人間にとってどういうことなのかを、津島の人が切々と語るわけです。「本当に長年かけて作り上げてきたコミュニティを、金であなたは代替できると思っているのか」っていうね。いや、もっと深く言えば、「人間にとって幸せって何ですか?」と言っている。人間にとって大切なものって人とのつながりであり、生まれ育った自然であり、文化であり、そういうことなんだということをこの映画で見せていきたい。そういう意味では、とっても普遍性のある映画なんですよ。「福島・津島」だけの問題じゃなくてね、ある意味では日本の歴史を見るような映画だと僕は思っています。

ドキュメンタリー映画制作のポリシーは「問題を描かない」

土井:僕ね、ドキュメンタリー映画を作るうえで、決めていたことは「問題を描かない」「問題を語らせない」。「原発問題」「放射能の問題」「被曝の問題」とか、それは僕の役割じゃないと思っています。で、『福島は語る』の時も、パレスチナもそうなんですよ。パレスチナ「問題」を描くと、「遠い問題だから」と皆引いて、観ない。ところが、ひとりの人間の生きる姿、“人間”をきちっと描くとね、人間っておかしなもので、実は観ている人が、そこに登場する人の人生なり、生き方なり、考え方を“鏡”にして、自分自身を見ているんですよ。だから人は感動するのですね。

 インタビューしてその人が「原発はこうなんです」って語ったところは全部切っていく。自分の人生を語り始めた時に、僕は「あっ、これは人の心に届く」と思うわけです。それが、僕のいわゆるポリシー、原則なんです。そして人生をたどっていくと、この人にとってコミュニティってこんなに大切だったんだ、というのが、ひとりの人間から見えてくるんですよ。そういう意味では今回のカノさんの「津島で自分を育ててもらった」という言葉は、後ろにコミュニティというのが透けて見えてくるわけです。もうひとつ言えば、「何でこの人たちがこんな目に遭うんだ」と思ってもらうことから、原発問題が見えてくればいい。

 『福島は語る』が、皆さんにあれだけ受け入れられたのは、おそらくあの映画で原発を語らなくて、その一人ひとりが人生を語ったからだと思います。ああいう大きな問題、災難に、出会った人だけのもの。そういう意味では、今回の津島の映画もいい作品だと自信がありました。いや僕の力じゃないんですよ。語ってる人の力、“言葉の力”です。言葉が強いんですよ。それは絶対人の心に届くと。

なぜ証言ドキュメンタリーなのか

土井:何で証言ドキュメンタリーなのですかってよく聞かれるんですね。きっかけになった一冊の本があるんですよ。2015年にノーベル文学賞を受賞したベラルーシの作家、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチが書いた『チェルノブイリの祈り』です。彼女はチェルノブイリ原発事故から10年後に発表しています。

 最初に消防士の奥さんの話が出てくる。夫が消防士で真っ先に爆発現場で消火活動をし、大量の放射能を浴びている。それによって肉体が崩れてくるんですよ。そういう話を、奥さんが淡々と語るんです。それは何を語るかというと、チェルノブイリの原発問題を語っているのではない、夫への愛を語るんですよ。ものすごく感動的な文章ですよ。僕は「証言がこれほど人の心を打つのか」と、衝撃を受けました。

 僕はスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチのような証言を文章で書けない。彼女が文章でやるんだったら、僕は活字でなく映像でやろうと思ったんです。彼女の言葉の選び方って、「どうやって取材しているんだろう」と思うぐらい内面が引き出されているんですよ。人の心に届く言葉を引き出せれば、証言だけ並べても絶対映画として成り立つ、という希望を得ました。それを最初に試したのが『福島は語る』なんです。本当は約5時間の長編映画なんですよ。で、2019年に約3時間の劇場版を公開してすごく好評だったから、次の年は約5時間の完全版をやりましたよ、劇場で。それでもやっぱり観てくれる。ということは、深い言葉を本当に引き出せれば、言葉だけで映画になります。

 津島の映画では、実は言葉と、もうひとつの柱は自然です。津島の自然。

大下:あぁ、やっぱり。様々な風景の挿入がありましたね。

土井:インタビューは2021年でしょ、2022年は1年間、四季の風景を撮るために費やしましたね。津島の風景の美しさを出していくことと、言葉の強さと、両車輪で動けば、映画として成立するかなと考えていました。

なぜ対象から言葉をうまく引き出せるのか

大下:意見陳述集の中からインタビューの人選もある程度できて、許可もすべて団長の今野さんが取られました。皆さんほとんど初対面だったのでしょうか。相手が内に秘めた思いを語られていて、とてもそのように見えないのですが。

土井:津島のインタビューではほとんど初対面ですね。僕がよく聞かれるのは、「どうしてこんな深い心情を引き出せるんですか」って。

 それは、僕自身が悩んでいるからですよ。自分の生き方に自信がない。もう今年(2023年)で70歳ですよ。私は小学生の時から医者になりたくて挫折して、いわゆる人生の低空飛行をしてきた人間です。就職しようとしたら、年齢制限でできない。浪人も3年したし、いわゆるエリートとは真逆の道を歩いてきて、今でも自分の生き方に迷っている。僕自身が傷を、痛みを持ってることが、相手も話しやすいんじゃないかな。僕にもし特性があるとすれば、それだと思う(笑)。挫折の人生を送ってきたことが、インタビュアーとして活きているところがあるのかなと、無駄じゃなかったと。

 だから、ジャーナリストは文章や映像が上手いだけでは、僕は駄目なんじゃないかと思います。自分がどう生きようとしているのか、自分の人生をさらけ出すっていうかな。人生を賭けてやるということが相手に伝わることはとても大事。インタビュアーとして人と向き合う時は、人間同士の真剣勝負だという気持ちです。小手先でインタビューしているのはすぐわかるんですよ。質問の仕方、質問する時の目の色とか、顔色とか。やっぱりインタビューされる人は敏感に感じますからね、相手はどういうつもりで自分と向き合っているのかを。

証言を残し伝えることは自分の役割

土井:この映画『津島 ―福島は語る・第二章―』は、来年(2024年)の3月から劇場公開、東京は3月2日から始まるんですけど、もう既に英語版ができていて、日本だけではなく海外にも伝えていきます。『福島は語る』は、アメリカ在住の日本人の方がボランティアで英訳したいと言ってくれて、その方が広めて、カリフォルニア州立大学の数校やスタンフォード大学から是非と声があり、上映会が実現しました。アメリカ人が字幕で2時間を超える映画を観てくれたことはすごく希望を感じましたね。

 海外に伝えたいことのひとつは、「12年も経って、なぜ福島なのか」。この間、福島原発から処理水を流し始めたけど、「もう福島は終わったことにしよう」とする当局の意図があるし、日本社会全体もそれを容認し始めているんですね。

 その中でジャーナリストとしてやるべきことは何かっていうと、「いや(フクシマは)終わってないんだ。被災者一人ひとりの心が、人生がこれだけ破壊されて破壊されたまま故郷を失い、家族をバラバラにされた人たちがいるんだ」とフクシマを伝えることが、僕の役割かなと思います。

 クラウドファンディングでお金を集めたのですが、今福島のドキュメンタリー映画をもう1本、作る取材を始めています。これから私たちがやるべきこと、やっぱり大きなテーマは、当事者・被災者の声・証言を記録し後世に残すことです。『福島は語る』に登場していただいた方が3人ほど亡くなられました。がんで亡くなる方が多いです。

 私がやるべきことは、文字という手もあるんだけど、やっぱり映像で記録を残すことです。例えばカノさんがしゃべっていることを文字化することはできるでしょう。でも、彼女が福島弁で語るあの声、涙を流すところとかね、やっぱりこれは映像が持っている力ですよ。だから、映画にできなくても、証言は撮り続けていくでしょう。被災者の方は亡くなっていき、記憶も遠ざかっていく。もう時間との勝負です。僕のライフワークのひとつになるかなと思っています。

採録・構成:大下由美

写真:濱中あい/ビデオ:楠瀬かおり/2023-10-06

大下由美 Oshita Yumi
映画美学校ドキュメンタリー・コース研究科修了。YIDFF 2007から毎回ファンとして通っていたが、偶然にも山形県で地域おこし協力隊として映像制作に携わることになり移住。移住後の2019年はボランティアスタッフとして参加し、デイリー・ニュース班で監督インタビューを行った。その経験から2023年もインタビュアーを務めた。