『我が理想の国』
ノウシーン・ハーン 監督インタビュー
効果的に伝わる声に
中根若恵(以下、中根):まずはこの映画のプロジェクトを進めていくことになった経緯についてお話しいただけますか? そもそも最初にカメラを手に取ると決めたきっかけは何だったのでしょうか?
ノウシーン・ハーン(以下、ハーン):ニューデリーのジャミア・ミリア・イスラミア大学はわたしがかつて映画制作を学んだところで、ちょうどそのときイランの写真家アザディ・アフラキの展示を見に母校を訪れていたのですね。展覧会の会場があるホールの外に出たら催涙ガス弾が飛び交っていて、それで自分が学生たちと警察の衝突の渦中にいることに突然気がついたのです。わたしはすぐに携帯電話で撮り始め、この事件そのものにも興味がわきました。市民権法案のことや何に抗議の声があがっているかについてはそんなふうにして知ったのですね。
ジャミアは自分にとっての心の拠り所でした。大学で過ごした2年間があってわたしはアーティストになりましたし、あの場所とはとてもつながりがある。そんな母校に警察が危害を加えているのを見て、本能的にすぐさま自分にできる最大限のことをしてここで何が起きているのかを伝えようと思ったのです。 そのとき優先していたのは、そこで起きているあらゆることをできるかぎり記録して保存すること、そして人びとの声をなんとか映像に残そうとすることでした。現地には多くのメディアがいましたが、そういう人たちはだいたいいつも学生自治会の代表者やトップ、あるいは教員なんかに話を聞きにいくわけです。けれどもそこには数千人もの学生たちがいるわけで、わたしはその全員の声がすごく大事な気がしたのですね。とくに女性たちの声については、それを押しのけて代わりに多くの男性が語るような状況が知らず知らずのうちにできていることがよくありますから。
全国的なテレビ放送局はほとんどが体制側の保有するものでもあるので、向こうがこうしたナラティブを全面的に抑え込もうとしてくることはわかっていました。だからせめて、そこで取り上げられない学生たちの声をみんな残すくらいはしておきたかった。シャヒーンバーグの抗議運動については、わたしもその発生当夜に知りました。この抗議を始めたのは、警察からの暴行を受けた学生たちの保護者や母親たちです。わたしもちょうど、被害を受けたのは自分だったかもしれない、自分ならどうしただろうと思い始めたときだったので、彼女たちとはすぐに気持ちが通じ合いましたね。
3か月間撮影して、手元にはかなりのフッテージがたまっていましたが、そのあとでコロナ感染拡大に伴うロックダウンがありました。ただわたしは幸運なことに、やはりここ山形に来ている先輩の映画作家のアマル・カンワルと出会うことができた。彼のサポートと助言から教わったのは、撮影素材をより客観的に見る方法です。当時はかなり感情が昂っていて怒りが収まらなかったのですが、そんなわたしに彼は、対応はしても反応はしない方法を教えてくれました。それで、撮った直後はまだ感情に火がつきやすいからフッテージはすぐに見ないほうがいいとアドバイスをもらったのです。彼はまた、自分がいま感じている思いのたけを言葉にして書いてみることも勧めてくれました。言われたとおり紙に書き出してみたら、自分のなかであふれそうになるだけだったあらゆる感情が、たちまち外から俯瞰して見ることができるようになりましたね。
いったんそうした考えがまとまり全部のフッテージがそろった時点では、よりジャーナリスティックというか、壁にとまったハエのように口を挟まずその場で起きていることをただ記録する映画にする予定を立てていました。けれども2,3か月が経って気づいたのですが、整理はしたもののその考えは、自分のアイデンティティのこと、友人関係や家族、国を愛する気持ちのこと、自分の宗教コミュニティをどう感じるかなど、どれも語るのがとても難しい事柄だったのですね。なぜ自分は傷ついたと感じていて、なぜ怒りを感じているのか、このトピックにこれほど感情を乱してしまうのはどうしてなのかを認識していくそのプロセスを経たとき、わたしのなかには一群のかなり示唆に富む考えがあったのですが、わたしはそれが、たぶん多くの人が同じ思いで通じているような気がしていて。
この話をわたし自身の個人的な視点から語るのがよいと悟ったのはそのときです。それからこの映画を完成させるのに3年の歳月を費やしました。その過程でより重要だったのは、その声を自分のものとしつつ自らの思考を研ぎ澄まし、よりコンパクトに多くのことを言えるように努めることです。そのプロセスは自費制作のこの映画ではかなりの困難を伴うものでもありました。わたしはどんなものも自己検閲したくはありませんでしたが、効果的に話を伝えるためには、言葉を選ぶそのやり方、自分の置かれた状況の語り方がかなり精確かつ知的でなければならないと気づいたのです。
中根:はじめは目の前の出来事を記録に残すことを優先して映像素材も莫大な量になったとのことでしたが、本作に使うフッテージは撮りためた記録からどのように選ばれたのでしょうか? その取捨選択の基準などがあればお聞かせください。
ハーン:時系列に沿って素材をまとめたら最初に編集したヴァージョンは3時間になってしまったのですが、これはもっと短くしたいと思いました。それがあってまずしたのは撮り始めた当初の気持ちに立ち返ることで、それでこの映画は女性たちの声が重要なんだということを思い出したのです。抗議には男性たちがおおぜいいました。彼らは壇上で演説しているのですが、喧嘩はたえないし、その場の主導権を握ろうとすることばかりずっとしていたのですね。ところが女性たちはなんとも見事なもので、その状況にうまく対処しつつ、この運動が指導者不在のみんなのものでちゃんとあり続けられるようにしていた。インドでは政治に対して誰もがすごく熱心なので、そういうかたちの運動をするのはとても難しいのですけれどね。ただ演説の練習をするだけのために現場に来るような人たちもおおぜいいますし。わたしは入れる予定だった顔触れから男性たちはみんな除外しました。重要と感じた声はいくつか残しましたが、男性がその場で優位に立っているようなフッテージはほとんど取ってしまったのですね。そうしたらたちまち、この映画がわたし自身の物語と深くつながる強固なストーリーをおのずと持ち始めたわけです。その後は抗議運動の話に自分の考えを組み込むことがより簡単にできるようになりました。それまで書き溜めたものをすべてぶちまけ、自分が女性たちに感じていたことを重点的に描くようにして、そこから詳細を詰めていく。どのフッテージを使ったらいいかの優先順位をつけるのに役立ったプロセスとしては、それがひとつありました。
最初の頃は携帯電話の映像を使うことにも躊躇がありました。わたしはふだん撮影を生業にしていますし、フォーカスが合ってなかったり露光が足りていなかったりすることもあるブレブレの映像には納得できませんでしたから。撮影監督の仕事にどれくらい影響が及ぶことになるだろうかと気が気でなかったのです。そしたら、ずっと映画制作に関わってくれている好意的な友人たちから、ひとつひとつのショットの見た目を重視しすぎないでとにかく内容とストーリーを最優先に考えなよと言われまして。しばらくしたらそれは気にならなくなりましたね。わたしが見せたかったのはデリーでの運動の広がりです。もちろん抗議運動はインド全土ばかりか国外にも広がっているわけですが、わたしとしてはデリーでそのとき声を上げていたすべての現場、それら全部を確実に入れておきたかった。他にもたくさん記録はしていたのですけど、自分の入れるナレーションの文章を書き記してみたら、そのおかげで不要なものがいろいろと削りやすくなったのですね。
中根:インド社会を激しく揺るがす大変動を記録したこの映画には、監督がご自身のアイデンティティを見つめ内省したその思考が深く織り込まれています。本作ではジャーナリスティックなアプローチと個人的な話を入れ込むことが、ご自身とインドという国のことを語るにあたって微妙なバランスで見事に両立していると思うのですが、今回の映画に個人的な話を入れるという創作上のご決断について、いま少しお話しいただけますでしょうか?
ハーン:編集を進めていても日々いろんなことが起きていたのですね。新しいニュースは毎日飛び込んできますし、わたしとしても、重要だけれど主要メディアには取り上げられず、人びとのほうでもいろいろためらわれて口にもされないようなことくらいはせめて触れられるように、なるべくそうしたものは入れたいと思っていました。
この映画の編集中、わたしは世界各地の女性たちの運動にまつわる問題も含め、以前よりずいぶん多くのことを耳にしたり読んだりするようになりました。その過程のなかでやろうとしていたのは、自分の思いをより無私なものにし、怒りに集中しがちな視野をもっと広げていくことでした。自分のなかにいろいろためこんでしまって、底意地悪く批判するのが被害を受けている側ゆえに簡単になるときってありますよね。わたしは自分の考えていることについて、毎日内省し、たくさん書いて、たくさん考えることを続けないといけなかったし、そうすることで、名指しして責めることなく意思を伝えることができるような場に自分を留めおかなければならなかったのです。この映画をインドで上映するのは、わたしの政治的見解に賛同しない一部の友人たちにいくら観てほしくても難しいだろうことはわかっていましたから。
なので、これは国際的な観客に向けて見せていくという思いはつねに頭の中にありましたね。だからこそ、この国の政治状況だけでなく女性たちをめぐる状況、それから、これほど多くの女性が抗議のために夜遅くに街頭に出た今回の出来事がどうしてそんなに一大事であるのかがわかるように、文脈をちゃんと伝えなければいけなかった。それでまずこの映画にどんなことが起きたかというと、たとえばBJP(インド人民党)の指導者たちが出てくるニュース映像がたくさんありますよね。それについては仲間から意見をもらったときに気づいたのですが、なにも彼らの言い分にいちいち応答しなくてもいいわけで、ですからこれではこの話の正しい語り方にはならないわけです。わたしはただわたし自身の考えに向き合って応答するしかありませんし、この抗議がどんな意味をもち、それがインドで生きるわたしたちに何をもたらしたかということに向き合わなければと、そう思い始めたのですね。
感染するエンパワメント
中根:本作ではさまざまな世代の女性が強固な政治的信念と感情的な絆でつながるさまを見せていくその手つきにも興味をそそられました。この運動における女性たちの役割についてはどのようにお考えですか? 今回のドキュメンタリーで女性たちの存在に力点を置かれた理由に関しては先ほどもお話がありましたが、この点をさらに詳しくお聞かせいただければ。
ハーン:この運動が女性主導でなく、女性たちが運動の前線に立っていなかったなら、権力層がこれを叩き潰すのももっと簡単だったでしょう。社会ではさまざまな種類の女性に対してすごく重圧がかかっていますから、わたしたち女性には生まれたときからへこたれない強さがあるし、適応力もあれば自然と身につけた規律精神もあるのではないかと思います。
女性たちのあいだには愛情や配慮の気持ちもありますし、誰かを気遣うのを恥ずかしがることもありません。わたしはそういう感情とすぐに通じ合いましたね。抗議会場にいた何人かの母親に声をかけた最初の夜にはこれがとても大切な話だとわたしにはわかっていて、というのも先ほど申し上げたように、そこに来ていたメディア関係者はみんな、すでに有名だったり他の政治運動をやっていたりする活動家や指導的立場の人たちにばかり話を聞いていたのです。メディアが女性たちにしていた質問もどれも男性たちに問うのとはかなり違っていて、女は男ほど知的ではないとあらかじめ決めつけているようなものでした。わたしはそのことにすごく怒りをおぼえて、女性たちに質問することを始めたのです。彼女たちの返答を聞いてちょっと驚いたのですが、みなさんインドの歴史や社会のことをすごくよく知っているし、多忙にもかかわらずすごくいろんなものを読んでいるのですね。家族の世話をしないといけないのに、毎日抗議に行く時間を捻出している。そこでは当番制のような、自然発生的な規律もありました。たとえば、学校に子どもの見送りをする人が10人いたら他の10人が場所とりをするといった仕組みがすべて有機的にかみあってできていく。そのさまは壮観でしたね。もし男性の指導者がいて運動の顔になっていたとしたら、この運動はかなり違う方向に進んでいったと思いますよ。いまお話ししたことはすべて女性主導の運動だからこそできたことだとわたしは考えています。ああした愛の力をもったあれほど多くの女性たちの存在ゆえに、憎悪や敵愾心の不在があった。あそこでは女性たちがよくしてくれて誰でも自分の子どもみたいに扱ってくれるので、みんなすごく包摂されている気になるのです。わたしがインド国内で撮ったことのあるような、男性たちが多い他の抗議現場ではそんなことにはならないでしょう。わたしはカシミールで男性しかいない抗議現場を数回撮りましたが、それはもう環境がまったくの別物なのですね。
わたしとしては、これが市民権法案だけでなく社会構築物としてのジェンダーを問うものだとみんなわかっていたがゆえにこれだけ長く続けられ、影響力をもってインド国内外のこれだけ多くの女性たちとつながることができたのではないかとも思っています。ただ街頭に出るとか、ただ一緒に座り込みをするとか、それ自体が体制側に対してのみならず、言われもせずに決められたルールで女性の役割を枠にはめて囲い込む父権構造への大きな抵抗のようなものなのです。この運動がすごく特別だとわたしが思っている理由もそこにあって、その抵抗の対象になっていたものは、とくにインドのムスリム・コミュニティでは他にもいっぱいあるんですね。こんなにも多くのムスリム女性が夜に外に出てリーダーも置かずに有機的に団結したことは、これまで一度もなかったのではないでしょうか。
中根:作中のナレーションでも、シャヒーンバーグで抗議活動をする女性たちを見て「人びとに深く根づいた規範がいま変わろうとしていた」とおっしゃられていました。女性たちが総じて社会的に脇に追いやられていること、そして抗議運動を進めるなかで彼女たちに自覚が芽生えていくこと、そうした状況が変化してゆく様子を目の当たりにして、監督ご自身はどのように思われたのでしょうか?
ハーン:こうした類いのエンパワメントは周囲に感染していくのです。壇上で演説したり、メディアに向けて話をしたり、討論に出たりする女性を見ることも増え始めました。たとえばシャヒーンバーグの象徴になったビルキス・バノのような女性もいますし、彼女の存在は世界でも有名になりました。思いきりがよくて自分の意見をはっきり言うこういった女性を見ると、自分でも同じことができるんじゃないかと勇気がわいてくるのですね。
自分の肉親のことを言いますと、わたしは知りもしなかったのですが、母はこの抗議についてはどんなこともよく把握していて、ニュースで追いかけていた女性たちのことも全員知っていました。友人たちとそうした議論をしてもいましたし。
サフーラー・ザルガルのように尋問を受けて投獄された女性たちは、学生たちのリーダーも含めておおぜいいます。そのことは、彼女たちがそれだけ重要な存在で、だからこそ苦境に陥っていると国中に知らしめるメッセージになりました。わたしたちにとってそれは大きな希望で、彼女たちを支援していこう、その声を拾い記録に残すのであれ、他の人たちにそのことを話すのであれ、自分にできるどんな手段を使ってでも彼女たちに寄り添おうという励みにもなったのです。今回の上映後も、自分の考えや思いをわたしと共有したいという女性たちがすごくたくさんいました。観客の女性たちが触発されているのが手に取るようにわかる感じだったのですね。まるで連鎖反応みたいにそれが広がるのです。シャヒーンバーグの再来とかそれと似たような女性主導の運動がまた出てくる可能性があるかはいまとなってはわからないのですが、この運動以後にわたしたちのなかで何かが変わったとはたしかに思います。わたしたちが物事を批判的に眺め自分の思いを口に出すようになったのは、それが可能であり強大な力がそこにあると、この運動が教えてくれたからなのです。
メディアにおけるマイノリティ描写
中根:今回の作品には商業映画やニュース映像で描かれる大衆的なメディア表象がいくつか入っています。インドにおける人びとの考え方や物の見方を形作るうえでポピュラー表象はどういった役割を果たしているとお考えですか? またそうしたメディア業界に対して、監督はインディペンデント作家としてのご自身をどのように位置づけていらっしゃるのでしょうか?
ハーン:わたしも以前は撮影助手としてメディア業界のなかで働いていました。大学時代のわたしたちにとって、この業界で働くのはすごく憧れだったのですね。友人たちもみんな卒業後はボンベイに群がっていきましたし。けれどもわたしが女性の撮影技師として経験したのはいろいろとすごく残念なことで、それでフィクション映画の制作プロセスすべてに幻滅してしまったのです。どう言えばいいかわからないのですが、男性の誘いから逃れるのが最優先になってしまって、他のことはみんな二の次だったのですね。わたしはただカメラや照明のことを学びたかっただけなのに、まともに相手にされなかった。若いというのもあって、同じ照明部の人とですら関係を築くのにすごく時間がかかりました。最終的には仲良くなって一緒に仕事をすることができましたが、新しい現場に行くたびにわたしが露出計を使えることをわかってもらうだけで1週間かかるのですよ。毎日毎日認められない力量を自分で証明しなくてはいけなくて、それでこう思い始めたのです。なんでこんなことしなきゃいけないんだろう? あの人たちに認められなければ映画の作り手になれないわけじゃないし、映画を作る場所は世界にここだけじゃない。映画はどこででも作れるし、こんな大きなカメラはわたしには必要ない。ただただ映画を作りたいって気持ちを忘れるくらい心を壊されているんだから、こんな経験はしなくてもいいじゃないか、って。
映画のなかの女性やマイノリティの描かれ方もかなり問題があると思いました。わたしは自分が当時携わった映画はどれひとつして観に行っていません。問題がありすぎて自分には耐えられないだろうことがわかっていましたからね。それから、もっと最近の映画でも同じ問題を抱えたものがあるとどんどん気づくようにもなりました。そういう作品は権威側がこう信じてほしいということにかなり同調しているのですが、映画はそれとは逆のことをするものだとわたしは思います。あとは今回の映画で取り上げている歌曲にも同じ問題がありますね。わたしも子どもの頃は大好きだったのですが、ああした曲は愛国的な映画で使われていたもので、とても人気があるのです。
それに表象の問題はボリウッドや国内メディアでもかなりある。たとえば国営チャンネルで報道を追いかけている人と話したあとでわたしと話をしたら、まったく別の国のことを話していると思うでしょうね。共通するものが何もありませんから。あちらの語ることは何から何までこちらと違うのです。エンタメ作品からですらあらゆる偏見が吹き込まれます。ムスリムは恐ろしい、信用ならないとか、ムスリムの女性はこう、ダリット[被差別カースト]はこう、LGBTQIコミュニティはこうとか、そういうふうに決めつけるようなメッセージをつねづね受け取っているわけです。
商業映画の作り手はこういうお約束には慣れっこなんですね。儲かる映画を作ることがすごく大きな優先事項としてありますし、観客も既知のものや自分の同意する内容のコンテンツを観るのが楽しいわけですから、人びとの耳にしたいことや、元からもっている偏見なりバイアスなりに沿ったものを提供するほうが彼らとしても楽なのです。メディア業界がどんどん問題のあるものになっているとわたしが思うのもそれが理由です。ニュース報道は完全に国の所有にされていますし、いまは「WhatsApp転送メッセージ」なんてものも大量にあって、そこに書かれている誤情報やプロパガンダを、知っている人から送られてきたというだけでわたしの親世代の人たちが信じてしまうのですよ。現政権は、こうしたメッセージや画像、映画や音楽やその他あらゆるソーシャルメディアを通して他者へのさらなる恐怖心をあおり、分極化をすすめるやり方をわかっていると思います。わたしはもはや、あらゆるメディアがそれぞれに各自の動機をもっているように思えて、どう意見を組み立てていけばいいのかわかりません。ふだん映画を作ったり、調査をしたり、こうしたことを考える仕事をしていない人にとってはなおさら混乱する状況になっていて、努めて批判的に考えることをしないかぎり、何が真実かを知るのが難しい状況なのですね。わたしも自分の友人と会話していてですら、何か言われてもその先を考える気がないんだな、もっと深く関わって細かく分析し、批判的でいながらオープンな態度でかわるがわる意見を出しあう気持ちが欠如しているな、と感じることがありますし。
いまはあらゆるものの棲み分けが進んでいっているので、将来的には意思疎通ができるということが、わたしみたいにインディペンデントな場で仕事をする人たちにとってのちょっとした課題になっていくのではないかと考えています。分極化が深まることで、主流派の見解に合わない話をするのがどんどん難しくなっているのですね。その点、人びとに批判的思考を促し、国にコントロールされたメディアの言うことを信じさせないためにも、インディペンデントに活動する映画作家としての役割は今後貴重になっていくのではないでしょうか。
音楽の力
中根:抗議会場で歌われ演奏される楽曲にも惹きつけられるものがありました。本作には人びとが歌い楽器を演奏する場面がさまざまにありますが、これを入れることにしたお考えをお聞かせいただけますか? インドの社会運動における音楽の役割についてお話しくださればありがたいです。
ハーン:音楽はコミュニティを越えたわたしたちの文化において重要な一部分をなしています。インドには口承の伝統があって、音楽が日常生活のなかに組み込まれているのですね。この運動に関わったなかにはアーティストでもある人たちが多くいて、延焼する山火事みたいに広まるあのすごくキャッチ―なスローガンの数々はそういう人たちが作ったのですが、それが音楽を通じて、さらに多くの人びとに届けることができたのです。抗議会場でも多くのパフォーマンスや人気アーティストたちが女性たちとの連帯を示しに来てくれていましたし、そうやって抗議参加者たちを楽しませてくれることでいろんなメディアが大物アーティストの取材に来てくれますから、この問題を取り上げる助けにもなりました。
あれは素敵なコラボレーションでしたね。進んでゆくこの時間のなかでたくさんの詩が書かれ、それがそのまま流行りの歌やミュージックビデオになる。わたしもカシミールでは抗議関連のミュージックビデオをたくさん作りました。音楽には言葉がなくても大きな力があると感じていて、それで自然とミュージシャンにカメラが向いてしまうのだと思います。わたしはそうした瞬間を逃すまいとその場にあった音楽をすべて記録に収めようとしたのですが、結局使ったのは映画に入れて辻褄があっているようなものだけ、つまり話の流れを進めて観客に何が起きているかを伝えてくれるようなものだけになってしまいましたね。そんななか「Hum Dekhenge」という、映画の最後にも流れているあの曲は、この抗議に込められた感情を実によく表しているということでとても評判になりました。わたしはこの歌を聴くたび、というか、いまそれについて話しているだけでも涙が込み上げてきそうになってしまいます。これはインドのことではなく世界中にある抑圧のことを歌ったもので、圧制には忍苦と平静心で、それから信仰対象は何であれその力を信じることで応じよう、という内容なのですね。そうした歌が大人気になったわけですから、やはり音楽はこの運動がグローバルに展開するうえでとても重要だったと思いますよ。この映画で音楽が重要だったとわたしが考えるのもそのためです。
中根:音楽ということで言いますと、本作に参加されている作曲家のクシュ・アシェールさんについてもお聞きしたいのですが、いかがでしょうか?
ハーン:クシュとは数年来の友人で、前にも多くの映画で一緒に仕事をしています。わたしは彼と仕事をすると良い相乗効果があると思っていて、たとえばわたしが異様な場面の説明をすると、彼のほうはそれをテーマにした音楽を作ることができるのですね。彼はふだんドキュメンタリーではなく主にボリウッドで仕事をしているのですが、とても良いミュージシャンで、音楽という芸術形式にすごく打ち込んでいる教育者でもある。彼の仕事に対するひたむきな姿勢やすごく勉強熱心なところにはとても惹かれますね。彼とはいつもそういう点で通じ合うところがあって、アーティストとしてのわたしは彼と一緒に育ったと思っています。コロナのあいだ、彼がボンベイにいてわたしがデリーにいたときに一緒にやった仕事もたくさんあって、全部リモートでしたが、作業するだけでなく、お互いの野望や好みの傾向や夢中になっているもののことを話して一緒に過ごす時間もたっぷりあったので、ぜんぜん大変なことではなかったですね。
この映画を作っているということは彼にはすぐに伝えました。撮ったものを送ってと言われてそうすると、今度はひたすらそれがどういう文脈のものなのかと訊かれまして、というのもわたしがこの映画の制作を始めた頃は、その文脈が彼にとってかなり耳新しいことだったのですね。わたしに何が起きているのかもぜんぜんわかっていなかったのですが、彼はすごく丁寧に話を聞いてくれて、その会話を通して音楽を作り出そうとしていたわけです。一緒にやっているあいだは、わたしが編集していくなかで他の案に変えたりすることが何度かあったせいでなかなか進まないこともかなりありました。でも彼は、異なるヴァージョンが6つか7つあるくらい再編集を繰り返す、しかも音楽制作に出すお金もないわたしに、それを承知の上で3年間ずっと付き添ってくれました。さまざまなアプローチを一緒に試していくうちに度重なる変更が果てしなく続くなかでも、無条件にただただ支えてくれたのです。今回の協力で彼が金銭的に得たものは何もありませんが、それでも3年間これだけ尽くしてくれたわけですから、その献身ぶりには頭が上がりませんし、わたしにとっては大きな支えになりました。最初に彼に文脈を話したことですらも、そのおかげでどんな説明をする必要があるのかが理解できたので、ものすごく助かりましたね。彼はわたしにとっては音楽を作ってくれるだけでなく最初の観客でもあって、編集したものを最初に見るのはいつも彼、しかもそのあとで質問もしてくれるんですよ。とてもためになる、それも音楽のことばかりか、わたし自身のストーリーテリングにも役立つやりとりでしたね。まさしく一緒にこの映画を作ったと言うにふさわしい人で、だからこそ彼には、困難な時期を戦い抜いた二人にとっての晴れ舞台であるこの瞬間に、ここ山形にいてほしかったのです。
記録としての映画
中根:この作品は社会運動におけるドキュメンタリーの力を否応なく示す事例となっていると思うのですが、社会が大きく揺れ動くなかでドキュメンタリーが果たす役割についてはどのようにお考えですか?
ハーン:ドキュメンタリーという形式を用いることはかなり早い段階から決めていました。はじめは問題がかなり逼迫していたので、いまインド政府がこの土地でやっているのはこういうことだと全世界の人びとに知ってもらえるように、BBCかどこかにこの映像を渡すのがいいと考えることもありました。ただ、人民党政権は自分たちのイメージ管理や広報活動がとても巧みだと思いますし、そういうやり口でこれだけの支持と世界からの注目を集めています。それが理由でわたしは制作資金の調達もそこまで頑張らなかったのですが、というのも、わたしはバイアスのかからない状態でいたかったし、スポンサーがいるせいで自分のナラティブに影響が及ぶことも避けたかったのですね。だから自分でなんとかしようと覚悟を決めた。すごく大変だしいまだにたくさん借金を抱えていますが、それでもわたしは平気でした。自分の立場を堅持したいと心底思っていましたし、どんな金銭的圧力ももたないことがわたしにはとても重要だったのです。
スタイルの選択という点では、大学で教わったサイモン・チェンバースという先生がいまして、あるとき映画作家でもある彼が『Cowboys in India』(2009)という自分の作品を見せてくれたのですね。第四の壁をかなり頻繁に破ってカメラの後ろから口を出すタイプの人なのですが、わたしは彼のドキュメンタリーに触発されたので、撮りながら話をして編集でもそれを切らないのは、自分にとってはかなり自然なことでした。
それに自宅でノートPCを開いて映画を観るのと、ドキュメンタリー映画祭に行くのとでは大きな違いがありますよね。映画祭では作り手たちが同じ客席にいて、あとで交流もできる。わたしはそれで人生が変わりました。2020年に南アジア映画祭(フィルム・サウス・アジア)というところに行って、これはネパールのカトマンズで開催されたのですが、わたしの初めての映画祭体験はそこでした。その頃はぜんぜんお金がなくて、この映画の制作を続けるために就職しないといけなかったので、すごくやる気をなくしていたのですね。でも映画祭に行き、そこで上映されている作品や女性の作り手の人たちと出会って話をしたとき、その場の力に当てられてしまって、それでネパールから仕事を辞める連絡をしたのです。その映画祭の会場から会社には戻りませんと上司にメールして、それから帰国してこの映画を6か月で編集したわけですね。なにせ映画祭に4日間参加しただけで俄然やる気がわいていましたから、自分の持てるすべてをそこにつぎ込みました。わたしがその映画祭で経験したことは、自分たちの話していることがある意味でどこにでもある問題だと気づくという意味で効き目があったのです。
中国、パキスタン、イラン、台湾、あるいは香港といったさまざまな場所からここに来た人たちの誰と話していても、ドキュメンタリーを作る意味、何があってもこれを作り続けなければいけない理由、そしてまた社会運動がこのようにして記録されることの重要性に気づかされるのですね。
ドキュメンタリーという表現形態が重要なのは、それを作る人たちの目的がフィクションや報道とかなり違っていて、わたしたちは時間のなかにある空間を作り出し、何年か経ったあとで参照できる「記録」をそこに残そうとしているから、ドキュメンタリーを制作しなかったらアクセスできる機会などまるでないような周縁からの声をそこに「記録」しようとしているからです。そんなわたしたちが一堂に会してお互いの記録している国や社会運動について意見を交わすというのは、そのこと自体がすごく力や希望になるのですね。今日は午前中にミャンマーのドキュメンタリーを観たのですが、そのときもこの映像の数か月後にいるわたしはぜんぜんひとりじゃない、国や生活がどうなっても撮影や編集をして誰かと一緒に作品を作っているわたしみたいな人がこんなにたくさんいるんだって感じました。ドキュメンタリーは作品を制作し、それを観て、それについて話すのがとても重要だとわたしは考えます。社会運動というのは、いまはこうした理由で生き長らえていくのではないかと思うのですね。こうした運動は、ああいった映画を通してそれについて語り続けることができるときにいつまでも続くことができる。この映画を作った目的もそれで、わたしはインドの人びとや世界にシャヒーンバーグのことを絶対忘れてほしくなかったのですね。いまはとくにソーシャルメディアのせいで情報が過剰にあふれているので、いろいろな物事がいともたやすく忘れ去られてしまいます。わたしがこの芸術形式に身を捧げたいと思った理由はそこにあり、つまりわたしは、この運動にそのまま残っていてほしいと思っていたわけです。
採録・構成:中根若恵
翻訳:中村真人
写真:大下由美/ビデオ:加藤孝信/2023-10-10
*インタビューは英語でおこなわれ、本記事は英語から翻訳されたものです。
中根若恵 Wakae Nakane
南カリフォルニア大学映画芸術学科博士後期課程在籍。専門はドキュメンタリー映画、実験映画、ジェンダー論。『Female Authorship and the Documentary Image』(Edinburgh University Press、2018年)、 『Women and Global Documentary』(Bloomsbury、刊行予定)などの論集に日本のドキュメンタリーと女性の作者性に関する論考を寄せている。