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YIDFF 2023 アジア千波万波

またたく光
アヌパマ・スリーニヴァサン 監督、アニルバン・ダッタ 監督 インタビュー

聞き手:楠瀬かおり

映画の舞台 トラ村の特徴

楠瀬かおり(以下、楠瀬):映画に出てくる村人や子どもたちの表情や行動をみて、とても和やかな人たちだと感じました。舞台となったナガ族の人々が暮らすトラ村は、インドの中ではどれくらいの規模の村なのですか?

アニルバン・ダッタ(以下、アニルバン):インドは、ご存じのように多様性に富んだ国家です。北東部は丘陵地帯なのであまり人が住んでおらず、小さい村々がある地域です。トラ村は上部トラ村と下部トラ村のふたつに分かれ、それぞれ80戸ほどあり、両方併せて150戸、1戸に3〜4人が住んでおり、インドの中では小さい方だと思います。子どもたちは近くの村の学校に通い、その学校の寮に住んでいるので、この村にはあまりおりません。また大人でも、他の地域に出稼ぎに行っている人がいます。 この村はナガ族の村ですが、その中にもいろんな少数民族が住んでいます。私たちが撮影したのはタンクルナガという部族でした。同じ村に他の部族も住んでおり、全て言語が違い、お互い話も通じないくらい違います。共通語としてナガミーズという言語があり、アッサム語とかベンガル語を併せた口語があり、これらを使って話をしています。

楠瀬:映画では、ようやく電気が通ったことが描かれます。トラ村で生活に必要なインフラ整備が遅れてしまったのは、長い国内紛争が原因とのことでしたが、宗教や少数先住民族であることを理由に、差別があることも一因なのでしょうか?

アヌパマ・スリーニヴァサン(以下、アヌパマ):映画の中で、人々が「道路も仕事も電気も無い」と言っていましたが、インド北東部は全域でインフラ整備が遅れています。首都のデリーから遠いことや、民族が異なり、見た目が違うという理由で、インド主流の発展から取り残されています。私たちはたまたま電気の例をとって撮影しましたが、いろんな面で遅れています。しかしそれは、宗教による差別ではありません。インドは1947年に独立し、いろんな州ができ統合されていきましたが、そのころから部族間の対立や緊張状態はあり、ナガ族は独立しようとして紛争が激しくなったり、おさまったりを繰り返してきました。

楠瀬:日本の田舎では過疎が問題になっています。 子どもたちはたくさん村にいるようですが、町へ出た若者たちは、村に戻ってくるのでしょうか?

アヌパマ:町へ出て戻らない人もいれば、村を出ない人もいます。経済的には豊かではありませんが、飢えることは無いからです。インドの他の場所は土地が無い、もしくは土地がやせ飢餓の問題があるところが多いのですが、この村は、土地を開墾し野菜を作れば食料が得られるので、村で結婚し、そのまま生活することができるのです。ですから過疎とは言えません。逆に村の若者が、大学や仕事でムンバイやデリー、バンガロールなどの大都市に出ると、文化も違うし見た目も違うという理由で差別を受けることがあります。そういう意味で彼らは疎外感を感じているというか、いわゆるインドに帰属しない部分があるのですが、一方で教育や雇用の面ではインド政府に依存しているところもあり、非常に複雑で、簡単には解決できない問題を抱えています。

人々の生活を記録する

楠瀬:英語で数字を数えるシーンがあったので、町で教育を受けて戻った人や、戻らずに町で仕事に就く人など、様々な人々がこの村で暮らしているのだなと思いました。

アニルバン:この村の人々はキリスト教徒なので、教会が大きな役割を果たしています。正式な教育を受けていなくても、誰もが聖書を読めるし、英語で数字を数えられます。映画に出てきたジャスミンさんの様に、少しお金がある親は、近くの町の学校の寄宿舎に子どもを入れるのです。5〜6歳で寄宿舎に入れるので、村に残っているのは、それより小さな子どもたちです。映画の中で大きな子どもたちがいたのは、クリスマスの休暇だったり、政変が起き、学校が休みだったりしたからです。子どもたちは必ず教会の日曜学校に行き、日曜日の午前中は必ず礼拝があり、午後にもあります。大人も平日の午前中は仕事をしているので礼拝には行けないのですが、午後や夜に礼拝があります。彼らは讃美歌をよく歌っていました。それほどキリスト教の影響は強いのです。

アヌパマ:彼らの言葉には書き言葉が無いので、聖書のアルファベットを使って、自分たちの言葉を書いているんです。数字も聖書に書いてあるので、聖書を読むことで覚えられるのですね。

楠瀬:電気が通ったらやりたいことを、女性たちが楽しそうに話しているシーンがありました。中には「電気が通っても、テレビを見ずに仕事をするんだ」という人もいましたが。実際に電気が通ったことで、村人の心の変化を感じたようなことはありましたか。

アヌパマ:電気が通って便利になったのは良かったと思いますが、私は一言では言えない、とても複雑なことだとも感じました。彼らにとって暗い所で食事をするのは気が落ち込むことでしたが、電気が通り明るい所で食事ができるようになると、気分も明るく、豊かな暮らしになりました。一方で、最初のころはテレビがある家に皆で集まり見に行っていたのですが、個々の家でテレビを見られるようになると、それまで集団的な行動をしていた人々が個人的な行動を取るようになっていきました。携帯電話が使えるようになり、家族と話をしなくても、ネットワークで繋がるゲームなどをするようになりました。電気が通ってから数年後にあの地域に政変が起こり、その後は行けていないので、今はどうなっているかはわかりません。

楠瀬:映画に出てくるカムランさんという老人が、昔ゲリラとして戦った話をしている時の表情が印象的でした。彼が村人たちと話している時の表情には、安堵感の様なものを感じました。監督は実際に取材をされて、どの様に感じられていましたか?

アニルバン:彼はあまり話をしない人でした。静かで、いつもにこやかに笑っていました。家の前を通ると必ず笑顔で「ご飯食べた?」と聞いてくれました。村の生活は、朝8時半に朝食を食べて、3時におやつ、5時半に夕食を食べますが、いつも私たちの食事を気にかけてくれていて、彼の温かさを感じていました。彼の家の外に小さなイスがあり、いつもそこに座っているのです。家の中にもイスがあり、その2か所が彼のお気に入りの場所でした。彼はいつも「僕とちゃんと話がしたければ、タンクル語を習ってね」と言っていました。

アヌパマ:彼は撮影時点で98歳でしたが、毎日ラジオでニュースを聞いていました。ナガの過去のことをよく覚えていて、読み書きもでき、火をおこして料理も自分で作ります。家族は近くに住んでいるのですが、一人暮らしで自立しており、心身ともにしっかりしていることにとても感心しました。私たちは撮影が終わりクタクタになると、いつも彼の所へ寄るのですが、彼はあまり話をしないので、お互い座って、10分ほど静かな時を一緒に過ごしてから自分たちの家に戻る、という、非常に静かな関係が続きました。

アニルバン:クリスマスに撮影した時、村の人たちへ贈り物を持って行ったのですが、彼にもショールをあげました。そうしたら、とても喜んでくれて、死んだら墓場まで持っていくと言って、家族に棺桶へ入れてくれと言ったそうなのですが、そのような愛情溢れる関係を、彼と私たちは持っていました。

映画で使われた音楽やイラスト

楠瀬:村人が歌う民謡など、映画の中の音楽がとても印象的でした。意識されていたことなど伺えますか?

アヌパマ:歌うことは彼らの文化です。道を歩いている時も歌っているし、工事をしている時も、農作業をしている時も歌っている。歌うことが彼らの日常生活の一部なのです。クリスマスに皆で集まって歌ったり、電気が来てから感謝祭の歌を歌ったり、人が亡くなった時も歌い、歌を歌うことが彼らの生活の中に根づいていることを見せたいと思いました。カムランさんもよく歌っており、彼の歌声を、映画の最後の方に使っています。

アニルバン:音楽はこの映画にとってとても重要な意味を持っており、はっきり見える形でも、深層に働きかけるような形でも、いろいろな意味で使われています。映画の中で、停まっている時間や橋渡しの役割をする表現としても使っていますし、メロディー自体も使えますが、不協和というか邪魔になるものの表現としても使っています。

 今回主に使っているチェロという楽器は、メロディックに弾くこともできますが、弾きかたによっては、ディストピアみたいな世界も表現できるんです。すごく深い音を出したり、ポンポンとひっかいたり、いろんな表現ができるのです。そのチェロを、オランダから来たサスキアという非常に優れたミュージシャンに弾いてもらいました。彼女は西洋音楽でトレーニングを受け、インドに来てからインドの古典音楽も勉強した人なので、チェロを西洋音楽的にも、インドの古典音楽的にも弾くことができました。サスキアは、私たちの美意識をよく理解してくれました。村の人々の生活に根づいている音楽を録音したものを渡して、そこで受けたインスピレーションを彼女なりの解釈で作曲することもしてくれました。あとは、タングルナガの歌手でルーべンマサンガという人がいるんですが、彼はタングルナガの曲で消え去ってしまうものを集めていて、その中から使っている曲もあります。

楠瀬:各章ごとに挟んでいる、壁にチョークで書かれたイラストには、どのような意味があるのですか。

アニルバン:あのイラストは私が描いたものです。映画を撮っている時に、1日2時間ほどしか撮れず、待たなくてはならないことがよくありました。そんな時に、よく何でもないもののスケッチをしていたんです。私の娘が目の前の物を取ってスケッチしているのを見て、何気ないものをスケッチするのがいいなと思ったんです。私の待っている時間の長さの表現として、この映画の句読点に、自分の絵をスキャンして使いました。

楠瀬:共同監督という形ですが、おふたりの役割をそれぞれ伺えますか?

アヌパマ:非常に有機的な関係で、あなたはこれ、私はこれ、ということではなく、それぞれの興味に従っていったら、おのずと役割分担ができてきた、という感じです。撮影はほとんど一緒に行きましたが、私は撮影が好きなのでカメラを主にやりましたが、彼はレンズに興味があって、どのレンズを使おうかという話をよくしていました。音に興味があるのも彼で、録音は全て彼に任せました。ポストプロダクションについても、私は映像の編集を、彼はサウンドを担当した、という感じで、役割が自ずと分かれていきました。しかし常にふたりで話をして、何かを決断をする時は議論をしたり喧嘩をしたりしながら決めていきました。常にお互いに疑問を持ちあったり、バランスを取ったりできるのが、共同で監督することの利点だと思います。どちらかの気分が下がっている時に、もうひとりが「がんばろうよ」と励ますこともできるし、どちらかの気持ちがはやっている時は、もうひとりが冷静に制したりもできるんですね。

アニルバン:非常に撮影期間が長く、1回の撮影で長時間撮影をしているので、毎回一緒、というわけではありませんが、クルーを大きくしたくなかったので、ふたりだけで行くことがよくありました。彼女はとても忍耐強く、現場にある微妙なニュアンスを察することができる人です。編集でも、彼女は村の人々をこう表現した方が良いんじゃないかとか、これは上手く行かなそうだなとか、全体を見ることをやってくれました。なので、例えば彼女がカムラン長老と一緒の時には、僕はジャスミンさんと過ごす、といったことが自然にできたんですよね。互いに相手を信頼し、互いの美意識や哲学的なものを信じていたので、そういうことができたのだと思います。

村人との信頼関係を作る

楠瀬:15年に渡ったプロジェクトとのことですが、映画の実際の撮影期間はどのぐらいだったのでしょうか?

アニルバン:2005年に国連に依頼を受け写真集を作るということで、写真のプロジェクトとしてナガランド州とマニプール州を訪れました。そこで私は、この地域を理解したいと思ったのです。その後、ナガランド州とマニプール州で若いフィルムメーカーとワークショップをして、そこで作った映画を見せる為にその地域の村々を回ったんです。 2015年の末に、あのエリアに電気が来るという発表を聞き、10年も通ってあの地域にいろんな民族がいることや、微妙な政治的な複雑さがあることはわかってきたので、映画としてストーリーを語ってみたいと思いました。ただいきなりカメラを持っていって、撮りにいって終わり、ということはしたくなかった。まず理解をしたかったんです。10年をかけて理解してきたので、今だったら語っても良いかなと思い、2015年からこの映画の為のカメラを入れたんです。

アヌパマ:私たちがこの映画でやりたかったのは、インドのメインランドと阻害されている北東部とのかけ橋を作りたかったんです。この映画を通じて、人間的なつながりを見せたかった。その地域の複雑さがあることはキープしつつも、嫌な感じを残さず、橋渡しとなる映画を作りたいと思ったのが、そもそものこのプロジェクトの始まりです。

楠瀬:撮影中はずっと村人の家に泊まって撮影されていたそうですが、電気も通らないということで、携帯電話も使えず、不便ではありませんでしたか。

アヌパマ:携帯電話は丘に行くと、たまに電波が入りました。あとは町に行く人に、自分の家族にメッセージを渡してほしいと託したりもしました。トイレ用の水も運ばなければいけませんでしたし、自分たちの食べ物も、近くの町で仕入れて持っていきました。ただ私たちにとっては、村の中で村人と同じように暮らし、本当の友達になることが大事だったんです。ただ町の人が撮影しにきて帰っていった、ではダメで、一緒に同じような生活をしていることが信頼関係を作る上で重要でした。

アニルバン:取材した人のひとりが、結婚して子どもができ、家族を連れてデリーまで会いに来てくれたんです。そのことで、映画の為ではなく、自分たちの人生の中での信頼関係を築けたと感じました。それがフィクションとドキュメンタリーの違いです。ドキュメンタリーを作った時に関わった人は、僕たちとずっと関係が続いています。 あと、ドキュメンタリーはインドではまず劇場公開されません。映画祭や無料上映なら見てみようという人はいますが、お金を払って見る人はいないのが現状です。だから山形に来て、インドのドキュメンタリー映画が日本では劇場公開されているという話を聞き、非常に驚いています。

採録・構成:楠瀬かおり

写真・ビデオ:佐藤寛朗/通訳:冨田香里/2023-10-10

楠瀬かおり Kusunose Kaori
東大阪市出身。2005年よりYIDFF「デイリー・ニュース」に参加。2006年から10年間、ビジュアルアーツ大阪で「山ドキュin大阪」を開催。現在は、株式会社大阪映画センターに勤務。色々なジャンルの人たちが集まるクリエイティブユニット「N.U.I.project」のメンバーでもある。